2017.
06.13
Tue
建築年:昭和7年(1932)
構 造:1階はRC造、2階は木造
所在地:東京都日野市日野本町7-12 仲田公園内
交 通:多摩モノレール甲州街道駅~徒歩約12分 or、JR日野駅~徒歩15分
公 開:年1回位(日野市が所有、日野市産業まつり等で公開)
日野桑園第一蚕室・南面
 こちらは桑や蚕の品種改良・生育研究などをしていた国立の蚕業試験場分室の建物でした。
現在は日野市所有で通常非公開ですが、仲田の森遺産発見プロジェクト等により、調査や見学会(不定期)が実施されてきました。
現在は年1回程度、11月に行われる日野市産業まつりで1階のみ公開されています。
日野桑園第一蚕室・北面
北面は窓が大きく、庇が長い
日野桑園第一蚕室・軒天
軒天に残る屋根裏換気口?
日野桑園第一蚕室
玄関
日野桑園第一蚕室・事務室
事務室
日野桑園第一蚕室・廊下
蚕室の両側にある廊下
日野桑園第一蚕室・蚕室
蚕室
日野桑園第一蚕室・炉
蚕室を暖める炉は埋薪法(薪の上に籾殻)を採用。 後に電熱線→室内ヒーター(夏は水冷)→温風機に変更
日野桑園第一蚕室・ラジエーター
ラジエーター式ヒーター(夏は水冷)
日野桑園第一蚕室・天井
蚕室天井:開口部は換気と物の出し入れ用
2階は一時、上簇(回転まぶし)の時に使用したが、それ以降は物置だった
日野桑園第一蚕室・作業室
作業室(2F大広間の物置は非公開)
日野桑園第一蚕室・作業室2
作業室:左手に火起場と桑貯蔵室、右手は蚕室
日野桑園第一蚕室・火起場
火起場にあるボイラーで湯を沸かし、蚕室のヒーターに使用
日野桑園第一蚕室・配置図
展示されていた配置図:第6蚕室(通称・かっぱハウス)は2011年に解体
日野桑園第一蚕室・図面
当初の配置図と第一蚕室1F平面図 ※展示パネルより
1Fは事務室・蚕室・作業室・桑貯蔵室・火起場(ボイラー室)
2Fは倉庫、東西方向はバルコニーになっていた(現在、西側に屋根がかかる)
日野桑園第一蚕室・庁舎跡
庁舎(竣工1936頃)の基礎跡
仲田公園・湧き水
西門付近にある湧き水:現在はポンプUPしているようで水の勢いが良い。 飲用水ではないが地元の方がペットボトルで水を汲んでいた。
精進場
近くにある精進場跡:用水の合流地点はかつて池の様になっており、参拝者が霊山へ登る前に体を清めた場所だという
日野本陣
日野宿本陣:かつて八王子千人同心が暮らしていた日野には、春日隊・新選組に関する資料館が点在する


 東京の高円寺にあった農林省『蚕業試験場』が、昭和3年頃(1928)この地に研究部門の分室と第一桑園を設置。 敷地内には調査室や寄宿舎があり、近隣には第二桑園(石田)・第三桑園(谷戸上)がある広大な試験場でした。
日野地域は地下水が高く、高温多湿・干ばつ・9月に長雨と、桑の育成にはやや不利でしたが、土壌改良と消毒効果で徐々に好転します。
 高円寺の本場『蚕業試験場』は、明治 44 年(1911)農商務省『原蚕種製造所』として設立。 大正3年(1914)農林省『蚕業試験場』になり、昭和12年『蚕糸試験場』と改称。 昭和 55年に筑波へ移転するのにともない、この日野桑園も閉鎖されました。 そして、高円寺の跡地は蚕糸の森公園となり、日野の跡地は仲田公園・仲田小学校・ふれあいホール・スポーツ公園となりました。
 かつての蚕業研究は盛んで、国立・県立・私立による蚕糸試験場と飼育所が全国各地にありました。 しかし、昭和32年からの『なべ底不況』で市場価格が暴落し、政府が生糸買い上げを行った結果、在庫を抱えて桑園の減反へと政策が変更されます。
これにより昭和33年(1958.10.1)国立の蚕糸試験場は大幅な組織改革が行われました。
◇4支場は改称(福島→東北、松本→中部、綾部→関西、熊本→九州)
◇明石支場は廃止
◇その他の支場と飼育所も廃止だが、全部又は一部の施設を利用(新庄支場→新庄原蚕種製造所、前橋支場→養蚕部、武豊支場→本場附属武豊試験地、宮崎支場→宮崎原蚕種製造所、四国飼育所→関西支場四国試験地、山川飼育所→九州支場山川試験地、小淵沢飼育所→小淵沢原蚕種製造所)
 その後も業務変更/廃止/改称/移管が実施されるなか、日野桑園は蚕糸試験場の分室として残っていましたが、昭和 55年に本場が筑波へ移転するのにともない日野桑園も閉鎖されました。
ちなみに現在、日野桑園第一蚕室以外に公開されている国立蚕糸試験場の建物は、「前橋市蚕糸記念館」として敷島公園バラ園内に移築復元された前橋支場本館(明治44年竣工)と、「原蚕の杜」の中に現存する新庄支場の建造物一群(昭和9~12年竣工)となっています。
桑

【参考文献】
蚕糸研究68「蚕糸試験場日野桑園における飼育成績17年間の推移」原田忠次 著 1968 農林水産省蚕糸試験場
「農林水産省における蚕糸試験研究の歴史-Ⅷ.蚕糸試験場(昭和12年)」北村實彬・野崎稔 著 2004 農業生物資源研究所 
「旧蚕糸試験場日野桑園第一蚕室(桑ハウス)保存活用に向けた復原調査報告書-改訂版-」2015 仲田の森遺産発見プロジェクト

【2015年11月 訪問】


スポンサーサイト
comment 0 trackback 0
2017.
05.29
Mon
建築年:明治中期、何度か改修有り
所在地:千葉県市川市国府台2丁目
交 通:JR市川/松戸駅前~和洋女子大学前バス停~徒歩約3分
公 開:年1回位(千葉県が所有し、赤レンガをいかす会が主催)
  ※詳しくはこちら⇒【赤レンガをいかす会
国府台旧陸軍武器庫1
 千葉県市川市にも赤煉瓦の建物が残っています。
近年まで旧陸軍の施設を千葉県血清製造所が使用し、各種ワクチンを研究・製造、人々の健康を守りました。
国府台旧陸軍武器庫・外壁
左:床下通気口                右:窓と庇
国府台旧陸軍武器庫・平面図
現況図(展示パネルより)
国府台旧陸軍武器庫・1F1
1F :研究所が昭和29年に冷蔵室に改装し、その後も壁天井など改修されている
国府台旧陸軍武器庫・扉1
冷蔵室の扉
国府台旧陸軍武器庫・冷蔵室扉
冷蔵庫の扉は木製だが古さは感じない
国府台旧陸軍武器庫・1F2
1F冷暗室(改装済み)
国府台旧陸軍武器庫・1F扉2
1F冷暗室の木製扉(こちらは古そう)
国府台旧陸軍武器庫・1F4
左:1階冷暗室の出入口          右:階段
国府台旧陸軍武器庫・階段
階段
国府台旧陸軍武器庫・2F
2階
国府台旧陸軍武器庫・窓1

国府台旧陸軍武器庫・窓2
窓枠
国府台旧陸軍武器庫・窓3
窓枠
国府台旧陸軍武器庫・天井
天井
国府台旧陸軍武器庫・天井2
天井の仕切り壁が紙貼り?
国府台旧陸軍武器庫・金具
壁に残る掛け釘
国府台旧陸軍武器庫・掛け杭
用途不明のフック
国府台・貯水槽
里見公園分園に残る貯水槽:かつて高台のため井戸を掘るのが大変だと云われていたので、ポンプで水を引いたのだろうか?


 明治8年、かつての国府台城跡地に大学を設置する事になり、政府は近隣一帯の土地を購入しますが、交通不便・高台のため井戸を掘るのが大変という理由で計画が頓挫。
代わりに陸軍の下士官を養成する教導団学校が、馬場先門外から移転する事になりました。 明治19年に完成した施設には、フランスの病院を視察して建設した病棟と看護術の学舎も併設されます。
その後、教導団学校は明治32年に廃止されて陸軍の施設に。 国府台衛生病院は国府台陸軍病院と改称され、戦後は国立 国府台病院となりました。
 この赤煉瓦の建物がある場所は陸軍時代、独立工兵第25連隊(工兵隊)の本拠地となり、石油を掘るため国内各地に隊員が派遣され、測量や撮影などを行ったとの事で、一部の将校も石油を掘る技術を学びに来るほど専門的な部隊であったようです。
 この地は終戦後に千葉県血清製造所が土地建物を使用しましたが、実はこの血清製造所の設立も陸軍に関係があります。
昭和19年から東京の陸軍軍医学校が各地(京都・金沢・新潟・山形・千葉)に疎開し、千葉では中山競馬場に中山出張所を開設。 免疫馬を使ったワクチンの製造を再開します。
 終戦後の昭和20年11月に国立病院へ移管されると、衛生資材は全国の研究所へ無償譲渡。 同年12月からGHQが施設を接収しますが、昭和21年2月に返還されています。
昭和21年4月から千葉県血清製造所として開設し、9月から国府台へ移転開始。 寒天・肉エキス・免疫馬を1ヶ月以上かけてトラックで運び、国府台の旧陸軍施設を厩舎と宿舎に使用。 12/24に開所式が行われました。
その当時、敷地内には木造と煉瓦造の旧陸軍施設が数棟あり、主な建物の用途(旧陸軍工兵隊→千葉県血清製造所)は…
・材料工場(木造平屋)→免疫馬の厩舎・トラックの車庫
・発動機実習棟(木造平屋)→医務室・宿舎・採血所・破傷風室など
・火力式発動機棟(煉瓦平屋)→ワクチン培養室・作業室
・写真室・充電実習棟(煉瓦2F)→事務室・所長室・研究室・講堂
◎武器庫(煉瓦2F)→昭和29年に破傷風室に改造し1F冷蔵庫・2F書類庫
・精密機械工場(木造平屋)→分注・包装室
 千葉県血清製造所は建物を増改築しながら各種ワクチンの研究・製造を行い、昭和24年に千葉県血清研究所に改称。 国へ何度も提出していた土地建物払い下げ申請が昭和38年に一括許可され、昭和41年に製造棟、昭和42年に事務・研究棟を新築。※どちらもRC造5F+B2F建て
殆どの建物は解体され建て替えられましたが、唯一この赤煉瓦(武器庫)の建物だけが残りました。
 千葉県血清研究所は、とても有能な天然痘ワクチン「LC16m8」を開発しますが、天然痘自体が撲滅されワクチンも世に出回わらず、平成14年(2002)血清研究所が閉鎖。 同年10月に千葉県衛生研究所が業務を引き継ぎますが、この地はそれ以降ほとんど使用されていません。
しかし、この建物の保存を願う『赤レンガをいかす会』主催により年1回、赤煉瓦の建物が公開されており、年々 見学者が増加しているようです。
国府台旧陸軍武器庫2
【参考文献】
「市川市史. 第3巻 (近代)」市川市史編纂委員会 1975 市川市  
「市川市国府台における砲兵隊・工兵隊の記録」武井順一著 1997
「千葉血清五十年史」千葉県血清研究所 1997

【2015年11月 訪問】


comment 0 trackback 0
2017.
05.14
Sun
建築年:昭和8年(1933)、何度か改修有り
設計施工:不明
所在地:神奈川県藤沢市鵠沼橘1-14-7
交 通:JR藤沢駅~徒歩約8分
見 学:市民専用のため通常非公開。 イベント時のみ公開
  ※所有はこちら⇒【藤沢市
旧後藤医院
 この建物は2008年から藤沢市が借り受け、「鵠沼橘市民の家」としてOPEN。 2013年に所有者から藤沢市へ寄付されました。
後藤医院鵠沼分院は、東京の後藤医院の長男・秀兵が昭和8年(1933)開業。 その後、高齢になったため閉院し、昭和46年(1971)院長が他界した後は親族が別荘として使用していました。
旧後藤医院・玄関
玄関
旧後藤医院・待合室2
玄関内部
旧後藤医院・待合室1
待合室
旧後藤医院・排気口
待合室にある天井排気口(右:戸を開ける紐)
旧後藤医院・薬局
受付・薬局の内部
旧後藤医院・検査所
待合室の奥にある検査所
左:棚の上にはガス栓         右:謎の小部屋(パイプはスチーム暖房の配管)
旧後藤医院・旧診察室
診察室は和室に改装
旧後藤医院・応接室
応接間
旧後藤医院・居間
居間も改装済み
旧後藤医院・廊下1
十字路になった廊下は天井が高く、交差点にも天井排気口がある
右:居間後方の廊下 (この建物は外部との出入口が計4ケ所)
旧後藤医院・平面図
旧平面図を元に描いたと思われる図面(地内排水管改良工事 H11)
旧後藤医院・トイレ
もう一方の十字路の奥にあるトイレは様式に変更済み
旧後藤医院・台所建具
台所:勝手口扉の窓は開くことができる
旧後藤医院・窓
窓は二重になっており窓の上下に通気口
旧後藤医院・掃き出し窓
窓下の通気口を兼ねた掃き出し口(ほうきの掃除用)の戸は上開き・横開きがある
旧後藤医院・窓1
外部は上げ下げ窓で内部は引違窓になっており、2枚のガラス窓の間には通気口とロールカーテン
旧後藤医院・痰壺
左:当初からの物と思われる水洗式痰壺で縁から水が流れる     右:東洋陶器(現:TOTO)のマーク
かつては所かまわず痰を吐く人が多く、公共空間に痰壺が設置される事が多かった。
旧後藤医院・設備
左:ラジエーター式スチーム暖房  
右:廊下の床板一部は点検用に外せるようになっている。 排水溝? それとも床下換気用の導気溝?
旧後藤医院2

 院長・後藤秀兵は、解説板によると明治21年(1888.3.18) 後藤瞭平の長男として生まれ、東京帝国大学医学部卒業後、実家の医院で経験を積み、昭和8年(1933)藤沢で開業、昭和30年代後半から閉院、昭和46年(1971.9.23)他界となっています。 
 東京の後藤医院長で父親の後藤瞭平は明治元年(1868)群馬県高山村で生まれ、慈恵医学校卒業後に、母校の附属病院及び日本郵船の船医として勤務(※1)、明治35年4月に小石川区駕籠町113番地にて『後藤医院』を開業していますが、昭和20年3月に戦争で建物が焼失しています。
 さらに調べてみると同一人物かは不明ですが、後藤秀兵(群馬出身)なる人物がいて、東京帝国大学医学部を大正10年に卒業(※2)しており、衛生室の研究員をしていたようです。 その頃に住宅について衛生面から幾つか雑誌に記事を書いています。
 三越の記事(※3)を要約すると… 実験上、空中の細菌濃度は床面付近が一番であるから、床面に座る・眠る、汗などで汚れた畳に両手をついて礼をする事は、病原菌の体内侵入にしばしば好機会を与える事になる。 日本住宅の欠点としては、不完全採光・室内温度調節困難・湿気対策の不備・換気不足・天井裏の清掃不能・太陽輻射熱に対する無抵抗・不便な雨戸・家屋内の音波及などである。 改善策としては伸縮着脱可能な庇や、熱伝導率の低い天井床材、熱容量の小さい壁で造作し、外気導入口・高い窓や二重窓・ドイツ式暖炉などを設け、床下の空気を上昇管によって屋外に排出する…と提唱しています。
この記事を書いた後藤秀兵は、後藤医院鵠沼分院の医院長であると確定できませんが、この建物には大きな天井排気口が数か所、二重窓やスチーム暖房など、この提唱に通じる特徴を備えています。
 同じ時代に京都帝大教授で建築家・藤井厚二も住宅改善に取り組み、自邸を5軒建て検証していました。 最後の自邸である聴竹居にも外気導入口・天井排気口が設けられ、通気を重視しています。 これらの造作は夏の暑さを凌ぐ効果がありますが、後藤医院鵠沼分院では結核などの感染予防を兼ねた物なのかもしれません。

【参考文献】
(※1)「日本医籍録. 昭和17年版」 医事時論社
(※2)「東京帝国大学一覧. 大正10年~11年」 東京帝国大学
(※3)三越23-4「衞生と日本家屋」後藤秀兵 著 1933 三越

【2015年11月 訪問】


comment 0 trackback 0
2017.
04.30
Sun
建築年:昭和3年(1928)竣工
設計施工:設計は藤井厚二、施工は酒徳金之助
所在地:京都府乙訓郡大山崎町
交 通:JR山崎駅 or、阪急大山崎駅~徒歩約10分(上り坂)
見 学:水・金・日曜日の時間限定で予約受付(人数制限あり)
 ※詳しくはコチラ⇒【聴竹居
聴竹居・サンルーム
藤井厚二の自邸・聴竹居では、藤井夫妻+子供3人+女中1人(計6人)が暮らしました。
細かいところまで工夫された空間と、当時の最先端である住宅設備を見てみましょう。
聴竹居・居間
居間:天井は杉柾板+鳥の子紙貼 
聴竹居・客間
客間:床面を広く、床の間を深く見せるため、落し掛けの位置より床の間の奥行を狭くしている。
部屋の片隅に蓄音機も設置
聴竹居・読書室
読書室:藤井と娘2人の机があるが、藤井は閑室にいる事が多かった
聴竹居・食堂
食堂:自邸2~3軒目の食卓は畳坐+椅子の併用、それ以降は椅子+ベンチに変わっている
聴竹居・流し
台所の流しと生ゴミのダストシュート  ※外部の様子はコチラを参照⇒【聴竹居①
聴竹居・冷蔵庫
電気冷蔵庫(右の写真はスイッチ)
上部に載っているモーターは、スイスのエッシャー・ヴィス社(Escher Wyss & Co.)製で、戦艦のタービンも作っていたメーカー
聴竹居・分電盤
分電盤:全室に電灯とコンセント、浴室にはシャワー用貯湯式電気湯沸し器を設置
ところが戦時中は電気もそれほど使えず、座敷3帖の上り框に襖を入れて火鉢を使っていたとの事
聴竹居・浴室
左:浴室           右:シャワーは貯湯式電気湯沸し器
聴竹居・便器
高島製陶の便器:大正4年(1915)9月に瀬戸で高島製陶が設立され、衛生陶器などを製造。
千葉の化研病院恩賜館にも同じメーカーの便器が現存している。
高島製陶にて徴用された人の話(※1)によると、戦時中に高島製陶は軍需工場となり、B5の紙より少し大きめの薄い磁器板を生産。
それは隔膜という物で、ロケット部品に関係があったという。
聴竹居・換気
上:居間座敷下の導気口         下:サンルームの天井排気口
木陰のある箇所に外気取入口を設け、導気口を通して室内に涼風を取り入れていた。
台所や廊下などにも天井排気口がある。


 現在、藤井厚二の設計の住宅で見学可能なのは、聴竹居(この建物)・後山山荘(鞆の浦・旧くろがねや別荘)・八木邸(寝屋川)となっており、藤井厚二の住宅志向を感じる事ができます。

【参考文献】
「床の間」藤井厚二 著 1934 田中平安堂
「聴竹居 実測図集」竹中工務店設計部 2001 彰国社
「聴竹居に住む : モダニストの夢」 高橋功 著 2004 産経新聞ニュースサービス
「聴竹居 : 藤井厚二の木造モダニズム建築」松隈章 著 2015 平凡社
※1)瀬戸地下軍需工場・戦時下の証言「海綿鉄について」加藤琢也 → 瀬戸地下軍需工場跡を保存する会HP

【2015年月10月 訪問】


comment 2 trackback 0
2017.
04.16
Sun
建築年:昭和3年(1928)竣工
設計施工:設計は藤井厚二、施工は酒徳金之助
所在地:京都府乙訓郡大山崎町
交 通:JR山崎駅 or、阪急大山崎駅~徒歩約10分(上り坂)
見 学:水・金・日曜日の時間限定で予約受付(人数制限あり)
  ※詳しくはコチラ⇒【聴竹居
聴竹居
 大山崎の高台に佇むこの建物は、住宅の改善に取り組んだ藤井厚二の5軒目の自邸です。
それまで平屋と2階建てに住んだ結果、藤井は平屋が最適と判断し、それに適する敷地として現在地を選びました。
実は伊東恒治(大阪船場の青山ビル設計者)も大山崎に住んでいました。 昭和3年の文献(※1)には、伊東恒治は京都帝国大学営繕課嘱託、住所は乙訓郡大山崎山崎駅上と記載されおり、その頃の藤井は京都帝国大学の教授。 近所としての親交もあったのでしょうか。
聴竹居・玄関
聴竹居・玄関 (細かい工夫がなされているので現地で確認してほしい)
外壁はクリーム色の漆喰、腰積みはRC造に靑龍石粒の洗い出し仕上げ。
当初の屋根は野地板(軒・ケラバ等を除く)を二重にした銅板葺きで、屋根裏の通風口の上だけ瓦葺き。 屋根は現在、着色鉄板葺きとなっている。
聴竹居・勝手口
勝手口と風呂釜
小さな戸を開ければ風呂の湯加減をチェックできる。 洗濯に使う残り湯も運べて便利。
聴竹居・ゴミ箱
台所前にある生ゴミのダストシュートBOXは、洗い水も少々流すため下水管を設置。 床下通気口もかなり大きい。
※室内の様子はコチラ⇒【聴竹居②
聴竹居・閑室
本屋の隣にある閑室(かんしつ:昭和3年) ※非公開 
書斎・接客用で、建物の角に2枚の玄関戸を設置した珍しい設計。 
藤井によると『閑室』とは、茶道の古い伝統にこだわらず和敬静寂を楽しみ、閑寂を旨とする室の意味との事。
聴竹居・下閑室
敷地内にある下閑室(茶室):昭和5年頃 ※非公開 
茶席・接客用として利用。 1畳台目中板敷きの茶室・座敷・板の間・立ち流しの水屋・便所などがある。
当初は腰掛待合(写真に写るベンチ)の前に小さな滝と浅い池があり、小川となって下の家に流れていたという。
座敷の床の間は少々変わっており、細長い地袋付きの棚に陶磁器や生花などを配列し、地袋の襖を開いて膝を入れて座り、間近に鑑賞できるよう工夫されている。 
聴竹居・彫刻
左:聴竹居の霊獣石像              右:伝道院の霊獣石像
竹中工務店が施工した伝道院(1912.伊東忠太設計)と同じ彫刻が庭の片隅にあるが、その由来は不明。

【藤井厚二の自邸】
1軒目…大正6年(1917)神戸市葺合区熊内で、2階建ての典型的な間取りで母と暮らす。
2軒目…大正9年(1920)大山崎町竜光の平屋建て。 その頃に高台の土地を取得し、後に防火水槽を兼ねた25mプールやテニスコート(戦時中に芋畑に変更)も完成。
3軒目…大正11年(1922)大山崎町の2階建て。 譲渡後、昭和36年の第二室戸台風で鉄板屋根が飛ばされ仮屋根で凌いでいたが、昭和30年代に解体。
4軒目…大正13年(1924)大山崎町の平屋建てで、屋根はセメント瓦葺き。 家族は住まなかったというが、解体部材は保管されているらしい。
5軒目…昭和3年(1928)平屋建ての聴竹居。 その他に閑室・下閑室・大工小屋・陶芸窯などがあった。

 藤井厚二は明治21年(1888)広島県福山の富豪で、造り酒屋「くろがねや」藤井家の次男として生まれ、大正2年(1913)東京帝国大学工科大学を卒業後、竹中工務店に入社。
大正7年(1918)千家尊福男爵の娘・壽子と結婚。 翌年に退社して欧米視察へ出掛け、帰国後に京都帝大の講師となり、大正15年(1926)教授になります。
竹中工務店時代には朝日新聞大阪本社(1916)・村山社長宅和館(1918)等を担当。 独立後は大覚寺心経殿(1925)・八木邸(1930)等の設計を手掛け、住宅研究に勤しみ、昭和13年(1938)他界。 自らデザインした墓(二尊院墓地)に葬られました。
大覚寺・心経殿
藤井厚二が設計した大覚寺心経殿:大正14年(1925)RC造
殿内には薬師如来立像と、天皇が書かれた般若心経の写経が納められており、60年に一度開封されるとの事。
次回は2018.10.1~開封で、嵯峨天皇が写経した年から1200年目に当たる。 
(建物内部や仏像が公開されるかは不明)  ※詳しくはこちら⇒【大覚寺

【参考文献】
「床の間」藤井厚二 著 1934 田中平安堂
「聴竹居 実測図集」竹中工務店設計部 2001 彰国社
「聴竹居 藤井厚二の木造モダニズム建築」松隈章 著 2015 平凡社
※1)「昭和3年 建築年鑑」1928 建築世界社

【2015年10月 訪問】


comment 0 trackback 0
back-to-top