2017.
01.08
Sun
建築年:昭和9年(1934)竣工、改修は何度かあり
設計施工:設計は岡田建築事務所、  施工は清水組など
構 造:RC造+木造など、3階建て+地階
開 館:9時~22時(受付は19時30分迄)
所在地:滋賀県大津市柳が崎5-35
交 通:JR「大津京駅」 or、 京阪「近江神宮前駅」~徒歩約15分
TEL:077-511-4187
    ※詳しくはコチラ⇒【びわ湖大津館
旧琵琶湖ホテル5
 かつて、皇室や各国の要人が宿泊した琵琶湖の高級ホテル。 平成10年(1998)浜大津への移転に伴って建物の保存運動が高まり、大津市が耐震改修保存工事を行い、平成14年(2002)から『びわ湖大津館』として開館しました。
旧琵琶湖ホテル・正面玄関
正面玄関
 本館の実施設計を担当した岡田捷五郎は、明治27年(1894.11.24)東京生まれ、大正9(1920)東京美術学校卒業。
滝川工務店に入社しますが、大正9年12月から一年ほど徴兵された後、兄・岡田信一郎の設計事務所に入所。
昭和2年(1927)から東京美術学校建築科講師となり、昭和18年(1943)教授となりました。 
昭和7年(1932)兄の信一郎が亡くなると岡田建築事務所を引き継ぎ、この琵琶湖ホテルの設計を担当しています。
琵琶湖ホテル新館(1953,木造)設計者の小河吉之助もかつて所員(1937独立)であり、この本館の設計業務にも関わっていたようです。
旧琵琶湖ホテル・唐破風
玄関の唐破風と大屋根の小屋組は木造
旧琵琶湖ホテル・鬼瓦
かつての鬼瓦
旧琵琶湖ホテル・1Fホール
1階ホール
琵琶湖ホテル・階段手摺
地下への階段手摺
旧琵琶湖ホテル・キーBOX
フロントのキーボックス
旧琵琶湖ホテル・両替所
両替所跡
旧琵琶湖ホテル・大食堂
大食堂『桃山の間』  ※使用中でなければフロントに言うと見学可能 
 オーケストラボックスを設け、ダンスホールとして利用できるようになっているが、実際に使用されたかは不明。
図面を見る限り、右手の空調ガラリがオーケストラボックスの出入口であったと思われる。
旧琵琶湖ホテル・貴賓室
3F貴賓室は現在は特別展示室になっている
旧琵琶湖ホテル・トイレ
かつての客室はトイレに改装
旧琵琶湖ホテル・屋上庭園
バルコニー(屋上庭園)
木造の欄干は塗装色も復元しているが、床のクリンカータイルは現存していない。
旧琵琶湖ホテル2


 多数の観光客が琵琶湖を訪れると予想し、昭和3年に国際ホテル計画が発表され、滋賀県が建設地を柳ヶ崎に定めて大津市に買収業務を委託、新会社設立も計画されます。 しかし地価高騰の為、滋賀県は面積を縮小して土地を買収し、大津市の所有地(無償貸与)と合わせて建設地としました。
さらに別館(ダンスホール)の建設が中止され、大蔵省の低金利融資も減額されてしまいます。 これにより県は電気・暖房・衛生設備費用も捻出できず、それらの工事費用とエレベーター・造園工事は会社負担となりました。 
名称は『仮称)国際観光ホテル』→昭和8年12月『琵琶湖ホテル』となり、昭和9年に会社が設立されると、取締役会長に藤井善助(藤井彦四郎の兄)が就任。
昭和9年に建物が竣工(10/25)、県との賃貸契約(10/26)、宿屋営業許可(10/27)、開業竣工式(10/27)と慌ただしくOPENしました。 
開業時の間取りは…1F:読書室・ラウンジ・宴会場(食堂)・酒場・理髪室・美容室など、 2F:客室・小宴会場、 3F:客室
その他に館内には、売店・ビリヤード場・卓球場・囲碁将棋室、外部にテニスコート、庭園には夏季限定で食堂を設置。
開業当時の定食は、朝1円50銭,昼2円,夜2円50銭、アフタヌーンティーセット75銭、という価格で提供されました。
 昭和10年に起きた水害と天候不順でしばらく営業不振に陥りましたが、その後は軍需景気で利用者が増大。
しかし戦況が厳しくなると景気も悪化し、金属類回収令でエレベーター接収、労務調整令でホテルスタッフは女性に交代しています。
 終戦を迎えると、建物は国と県が借り上げて進駐軍に提供。 昭和20年(1945/9/30)から琵琶湖ホテルは進駐軍専用宿舎となり、重役と経理は外へ出され、進駐軍が管理しました。
物資調達・改修工事も日本の終戦処理費で賄われ、水道殺菌設備や網戸の設置、キッチンや食品庫をタイル貼に改修。
さらにホテルの地下にバールーム・理髪室などが開店し、ベビーゴルフ場・25mプールも順次完成しました。
食材は主に缶詰で、肉は京都の公認肉屋から、野菜は肥しを使わない専用農園(タキイ種苗経営)から仕入れていたとの事。
 昭和27年(1952)接収が解除されると、半額の請負金で7月から米軍と直接契約。 建物は既に県より無償譲渡されており、改修品を買い取り、新館(木造2F+BF,小河吉之助建築事務所)が翌年(1953/10/29)に竣工。 昭和32年に米軍との契約が解除されると、12月1日から一般向けの営業を再開します。
御大典のため建設された京都の都ホテル第4・5号館と、什器備品の譲渡を受けて移築し、昭和35年(1960/8/1)木造+鉄骨造2階建て、2棟の旅館『びわこ』がOPEN。
さらに翌年には大浴場と客室を有する建物(RC造5F+BF)が竣工し、新館は移築して座敷に改修して『西別館』になります。
そして昭和44年にはRC造の東側を増築(RC造5F+BF)。 ※のちに本館以外は全て解体。
昭和天皇の行啓先と決まると、昭和48年~49年まで本館全室のバスルームと什器備品の交換、キッチン改良、電気設備工事が行われました。
 皇太子(今上天皇)も何度か宿泊された琵琶湖の高級ホテルでしたが、平成10年(1998/8/24)琵琶湖ホテルの浜大津への移転に伴い閉館。
翌年に滋賀県と大津市が買い上げ、大津市が耐震改修保存工事を行い、平成14年(2002/4/27)『びわ湖大津館』が開館しました。

【参考文献】
「琵琶湖ホテル五十年のあゆみ」琵琶湖ホテル 1984
琵琶湖ホテルのリーフレット(開業当時)
「大津市指定有形文化財旧琵琶湖ホテル本館修理工事報告書」大津市・大津市教育委員会 2002

【2015年10月 訪問】


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2016.
12.24
Sat
建築年:昭和3年(1928)竣工
設計施工:設計はヴォーリズ建築事務所、 施工は石倉工務店
構 造:木造2階建て+塔屋
所在地:滋賀県大津市末広町6-6
交 通: JR大津駅~徒歩約3分、or 京阪電鉄 上栄町駅~徒歩約7分
TEL:077-522-3634
    ※詳しくはコチラ⇒【大津教会
大津教会
大津祭りの喧騒を忘れさせるほど静かな教会。
訪ねてみると奥様がいらっしゃり、建物内を案内して下さいました。
大津教会・玄関
この建物は昭和3年(1928)大津同胞教会の『大津同胞会館』として竣工。
昭和21年(1946)2つの教会が合併し『日本基督教団 大津教会』会堂となりました。
大津教会・玄関装飾
表玄関の装飾
大津教会2
昭和32~33年に会堂内部の改築、外装・屋根の修復を実施。
昭和35年には幼稚園の改築も行われ、それ以降もサッシ・設備などの改修が施されている。
大津教会・玄関ホール
玄関ホール
大津教会・礼拝室
礼拝堂
大津教会・礼拝室2
礼拝堂後方
大津教会・ベンチ
修理して大事に使われているベンチ
大津教会・天井扇
古そうな天井扇
大津教会・1階回廊
左:幼稚園との境
右:礼拝堂裏の通路…現在は壁になっているが、当初は礼拝堂と幼稚園は戸で仕切られ、全て取り払うと幼稚園ホールと一体となり広い舞台になったという、まるで劇場の様な造り。 多目的に使えるよう、当初は『大津同胞会館』と名付けられた。
大津教会・旧外壁
上:下から見上げた内玄関のアーチ(穴は照明の跡)
下:内玄関に残る当初の外壁仕上げ
大津教会・2階回廊1
2階回廊
大津教会・2階回廊2
2階回廊
大津教会・塔屋


 同胞教会は、アメリカで発祥したプロテスタントの教会で、明治28年に日本へ伝来し、明治38年(1905)大津同胞教会が組織されました。
当初は借家を会堂とし、初代牧師はシカゴ大学神学部を卒業して膳所教会を創設した矢部喜好が兼牧。 
さらに大津同胞教会は、大正7年(1918)愛光幼稚園を創設し、大正11年(1922)には夜間学校も開設されました。
 愛光幼稚園(大津愛光学園)の初代園長・ベネ・ニップは日本同胞教会を総括していたエドガー・ニップの夫人で、5つの幼稚園(膳所教会聖愛幼稚園・草津教会信愛幼稚園・馬場同胞幼稚園・瀬田同胞教会昭愛幼稚園)の園長を兼任し、資金・物資支援を母国へ向けて募っていました。
 ところが戦争になると、近隣に住んでいたニップ夫妻は自由な外出も許されず、昭和16年に帰国。 この建物の窓に投石、保育室に人糞といった嫌がらせが続きます。 しかし地元の主婦にとって幼稚園は必須だったようで、休園していたのは僅かな期間でした。
 同じく、アメリカ発祥のプロテスタントの日本組合教会は、明治19年 (1886) 新島襄らを中心とする会衆派が集結した教会で、明治23年(1890)大津に設立された日本組合大津基督教会では、昭和3年と7年にヴォ―リズが特別伝道応援牧師として活動しています。
また、崇貞学園(北京)・桜美林学園(東京)を創設した清水安三が17歳の時(1908年)に受洗。 後に伝道師となって中国に渡り、戦争になると北京を守るため日中両軍の司令官に直談判しました。
 この日本組合大津基督教会(白玉町,1919.9.24献堂式)は昭和15年から伝道所へ格下げとなり、昭和17年~21年まで県の土建統制事務所に貸与された後、しばらくして解体されたようです。 
 昭和16年(1941)プロテスタントの教会が集結して日本基督教団が設立されると、2つの教会はそれぞれ『大津南教会(同胞教会)』、『大津教会(組合教会)』と改称していましたが、両教会は昭和21年(1946.7.18)一旦解散して合併し『日本基督教団 大津教会』となりました。

【参考文献】
「日本基督教団大津教会史」日本基督教団大津教会 1969 
「清水安三と北京崇貞学園」李紅衛 著 2009 不二出版

【2015年10月 訪問】


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2016.
12.04
Sun
 祭りの合間に大津を一回りしようと、いつもの様に貸自転車を借りる事にしました。 
注意点としては、➀JR大津駅前レンタカー店は自転車の台数が少なく出払ってしまう場合あり ➁琵琶湖へ向けて緩やかな下り坂になっているため帰路がきつい、という事でしょうか。 自転車は町中を巡るには最適ですし、さらに旧琵琶湖ホテルまで足を延ばしてみました。
石田家住宅洋館1
石田家住宅洋館(石田歯科医院):大津市中央1-7-33 
昭和12年(1937) 木造2階建て
石田家住宅洋館2
 地元の棟梁・木村政吉が、主屋の和館共々手掛けたと云われる。
昭和10年版の「大津商工人名録(大津商工会議所)」によれば、誤字かもしれないが「木村柾吉・建築請負業・上大門町」となっている。
1階の内部は改装し、現在も歯科医院として使用。
北川家住宅主屋
北川家住宅主屋:大津市京町1-403
 江戸末期の町家の構造を残しつつ、明治・大正・昭和と増改築を重ねている現役の住宅。
大津祭りで2階は特等席。 曳山の人形を間近に見られ、厄除チマキもたくさん投げ込まれる。
隣りの家の台は、祭り囃子の人々が曳山に乗り込むための物。
島林書店1
島林書店:大津市中央2-1−1, 昭和初期,木造2階建て
島林書店2
 島林書店は、かつて『南強堂』という屋号で、江戸~明治時代まで店主は代々、出版人『島林専二郎(専次郎)』を名乗り、「滋賀県官民実用便覧(明治25年)」等にその名が出てくる。 また、昭和10年版の大津商工会議所の文献によると、書籍以外に煙草・楽器・食料品も扱っていた。
大津聖マリア教会2
大津聖マリア教会:大津市京町1-2-21,昭和6年(1931),木造一部3階建て
 明治時代から大津で伝道を始め、時代により名称を変えてきた日本聖公会の教会の一つ。
現在の礼拝堂は昭和6年(1931)落成し、1階は幼稚園・2階は礼拝堂に使用されていた。
近年、耐震補強改修・エレベーター新設工事を実施(2012.1.31~2014.11.7)
教会のホームページで工事の様子が詳しく紹介されている。
大津聖マリア教会・ベンチ
外観など改修されているが、建具や窓の装飾、ベンチ等は古い物が残る。
大津聖マリア教会・1F
1階は大津祭りでカフェとして開放されていた 
大津聖マリア教会・建具1
上:玄関ホールのステントグラス       下:1階大広間の欄間
神陵ヨットクラブ艇庫1
旧 三高水上部艇庫:大津市観音寺1丁目,大正元年(1912),煉瓦造+木造
旧琵琶湖ホテルに向けて自転車で延々と走っている時に見つけた古そうな建物。
後に調べてみると、三高・校友会の一つ、水上部の艇庫(ボートの倉庫)と判明。
神陵ヨットクラブ艇庫2
 第三高等学校(通称・三高)は明治時代、日本に8校しかなかった官立の旧制高等学校(ナンバースクール)の一つで京都にあったが、昭和25年に廃校となり、現在この艇庫は三高OBにより設立された神陵ヨットクラブが管理している。 また、三高水上部にいた小口太郎の作詞「琵琶湖周航の歌」の歌碑もこの近くにある。
 論文※1)によると、明治25年に三高の壬辰会(後の嶽水会)水上運動部が発足し、明治33年(1889.10.14)対岸に艇庫が建設され、大正元年(1912.10.27)現在の艇庫が完成して、前の艇庫は京都第一中学校へ譲渡。 近年に補修工事(2002~2003.5)が実施され、柱・梁・クイーンポストトラスの交換、屋根の葺替え、道路側の扉の交換がなされたとの事。
※1)「旧第三高等学校端艇部(現神陵ヨットクラブ)艇庫について」 宮本慎宏,石田潤一郎,西澤英和
大津公会堂1
旧大津公会堂:大津市浜大津1-4-1,昭和9年,RC造3階建て+地階
大津公会堂・ホール
 大津公会堂→大津公民館(1947~)→大津市社会教育会館(1985~)と、時代により名称を変えてきた。
近年、耐震補強工事(2009.3~2010.4)が行われ、エレベーター新設、空調・照明設備も交換されており、館内にはレストランも入る。 
大津公会堂・内部
上:階段の手摺は人研ぎ           下:竣工記念の扁額
大津公会堂3

【2015年10月 訪問】


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2012.
09.01
Sat
建築年: 昭和6年(1931年) 
所在地: 〒523-0851 近江八幡市市井町177  
構 造: 木造 
設 計: ヴォーリズ建築事務所
見 学: 13~16:00(月水金)、10~15:00(火木)、13~16:00(土休日) 料金は無料
     平日10~16:00、土休日13~16:00、 料金は有料   詳しくはコチラ⇒【ハイド記念館
    「ハイド記念館」のみ一般公開。 ☎0748-26-6683(ヴォーリズ精神継承委員会)    
     ※その他の建物見学にはヴォーリズ学園の許可が必要です。
休 館: 夏季・年末年始・その他    
交 通: JR琵琶湖線・近江八幡駅~近江鉄道バス~「学園前」バス停下車

近江兄弟社学園2
 この建物は、昭和6年にアルバート・アレキサンダー・ハイド(メンソレータムの創業者)の夫人からの寄付により竣工しました。
そして、2003年3月まで「清友園」幼稚園として使用された後、現在は「ハイド記念館」として一般公開されております。
建物はヴォーリズ学園・市井校地の中にあり、私立校の施設の一部となっています。
旧清友園01
旧清友園の玄関:車寄せの様に立派で、数組の親子が来ても雨に濡れない心配り。
外壁下部は板張り、上部はモルタル塗りスタッコ仕上げ、屋根は瓦葺き。
旧清友園06
園児向けに、低くて扉のないロッカーが1階廊下に並ぶ。
旧清友園10
遊戯室:暖炉上の写真は、若き日のヴォーリズ(一柳)夫妻。
旧清友園11

近江兄弟社学園4
旧礼拝堂(現・教育会館)もヴォーリズ事務所が設計。(昭和6年竣工)
このホールで昭和12年(1937)にヘレン・ケラーが講演している。
近江兄弟社学園11
旧礼拝堂(現・教育会館)の裏側
近江兄弟社学園6
旧礼拝堂(現・教育会館)は現在は講堂として活用。 学生が使用している為、見学には許可が必要。
近江兄弟社学園7

近江兄弟社学園15
教育会館の裏手に、小学校「グロリア館」も現存。 こちらは昭和31年(1956)竣工。
 ※詳しくはコチラ⇒【ヴォーリズ学園

 清友園を創設した一柳 満喜子は、播磨小野藩主11代で子爵・一柳末徳の三女として明治17年(1884)に生まれ、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で津田梅子に学び、神戸女学院卒業後にアメリカのブリンマーカレッジに留学し、キリスト教の洗礼を受けた後、帰国して女子英学塾(現・津田塾大学)で教員となります。
 そして、実兄の住まいの設計をヴォーリズが担当した際に、キリスト教徒である満喜子が通訳となった事で親しくなり、大正8年(1919)に2人は結婚します。
ちなみに実兄の廣岡恵三は、廣岡浅子の娘婿であり、大同生命保険や大阪電気軌道(現・近鉄)の社長となり、大同生命旧本社ビル(1925-1990)も、ヴォーリズ事務所が設計しております。 また、廣岡浅子(※詳しくはコチラ⇒ 旧成瀬仁蔵住宅 )も洗礼を受けており、大正8年に亡くなるまで日本YMCAの委員を務めていましたので、ヴォーリズとも交流があったのでしょう。 
 結婚の翌年に、妻の満喜子が池田町でプレイグラウンド(保育所)を開設。 大正11年(1922)に「清友園」幼稚園として認可されます。
その後は、小中高一貫のキリスト系の私立校として拡大。 一柳 満喜子は、ヴォーリズを看取って5年後の昭和44年(1969)に亡くなりました。

教育会館側の門から100m程の所にヴォーリズ夫妻が住んでいた住宅があり、現在は「ヴォーリズ記念館」として予約制で一般公開されております。  ※詳しくはコチラ→【旧ヴォーリズ邸

【2009年10月 訪問】


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2012.
08.12
Sun
旧近江ミッションWハウス2
 この建物は、2世帯住宅として大正9年(1920)に竣工しました。その後は、社員のための住居「近江ミッションダブルハウス」として使われ、現在も住宅として現役です。(内部は非公開)
旧近江ミッションWハウス5
 ヴォーリズの両親は、敬虔なクリスチャンでした。父ジョンは簿記の仕事をしながら、日曜学校の図書係として働き、日曜学校の教師であったジュリアと出会い、二人は結婚します。
 その後、息子のウィリアムが日本で近江YMCAを設立し、事業でも活躍している話を聞いて、大正3年に両親が来日。60歳前後の両親がわざわざ日本にやって来た理由は、宣教師になることが夢であった、母ジュリアの影響もあるでしょう。池田町に建てた新居でヴォーリズ一家の暮らしが始まります。
 大正8年(1919)W・M・ヴォーリズは一柳満喜子と結婚。おそらくこの住宅は、両親と二人の住まいとして設計されたと思われますが、池田町の邸宅で二人だけの新婚生活を送ったようです。
そしてこの建物は、ヴォーリズの両親とヴォーリズ建築事務所の外国人技師の住まいとなりました。
 来日後、父ジョンはヴォーリズ合名会社で経理として働いておりましたが、大正14年に亡くなり、葬式は八幡教会で執り行われました。
母ジュリアも、日本の女性達に料理等を教えていたようですが、戦時中は息子夫妻と共に軽井沢に疎開し、終戦後まもなく亡くなったようです。
 終戦後、昭和天皇が戦犯にならぬようW・M・ヴォーリズが奔走し、天皇からお礼の言葉があったそうで、母ジュリアが亡くなった事に対しても、お悔やみの一言があったと思われます。
 その後、W・M・ヴォーリズ夫妻と両親は、恒春園(近江兄弟社霊園)に葬られ、訪れる人も少なくありません。
旧近江ミッションWハウス4
閉鎖的な玄関ポーチに窓を設置し、通気と明るさを確保している。
旧近江ミッションWハウス1
瓦も当時の物と思われる。
旧近江ミッションWハウス5
裏手に和館が増築されている。
旧近江ミッションWハウス7
通用門の脇に、猫の出入口が・・・。板でふさがっているため、竣工時の物かは判断できない。
旧岩瀬医院
 こちらは、近江八幡市永原町にある「旧岩瀬医院」昭和8年(1933)。隣の和館と渡り廊下でつながっており、その和館もヴォーリズ建築事務所の作品だという。
 現在は村田家の住まいとなっており、医院の建物は使用されていない。

【2009年10月 撮影】


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