2017.
04.02
Sun
建築年:明治18年(1885)竣工、昭和46年(1971)曳家・復原
設 計:牛田方造(土木課掛)
所在地:福島県南会津郡南会津町田島字丸山甲4681-1
交 通:会津鉄道・会津田島駅~徒歩約10分
開 館:9時~16時、有料
休 館:火曜日(祝日の場合は翌日休)、年末年始
TEL:0241-62-3848
    ※詳しくはコチラ⇒【旧南会津郡役所
旧南会津郡役所1
 会津の擬洋風建築で知られる建物。 時代により用途・名称も変わり、南会津郡役所→福島県の支所→現在地に曳家されて奥会津地方歴史民俗資料館→平成6年度に資料館が移転し、現在は『旧南会津郡役所』となっています。
 明治12年(1879)郡区町村編制法により会津が南北に分断されて南会津郡が誕生。 それまで田島陣屋(1790年竣工,現:南会津町役場の地)を役所としていましたが老朽化のため新築する事になり、建設費のうち福島県からは3千円、残りは地元が負担する事になったために戸長が寄付金を集め、お金のない住民も工事を手伝う等して建設されました。
設計・目論見書は土木課掛の牛田方造で、本館の施工は古川源治と貝瀬鉄吉が請負いました。 明治18年(1885)5/15着工、8/15竣工、8/23落成、9/5開庁。 設計案では望楼付きの3階建であったようですが、設計変更して現在の姿になっています。 竣工時の屋根はトタン葺きでコールタールが塗られていました。
 さらに大正3年(1914)改修工事が実施され、外壁に下見板が貼られています。 そして田島合同庁舎新築のため昭和46年(1971)現在地に曳家され、復原工事が実施されました。
旧南会津郡役所・玄関
玄関
旧南会津郡役所・会議室
2階 会議室
旧南会津郡役所・ベランダ
2階ベランダ 窓と柱
秋田に旧 日新館(宣教師館)というよく似た建物がある
旧南会津郡役所・階段1
階段
旧南会津郡役所・階段2
急勾配の階段は当時としては当たり前
旧南会津郡役所・事務室
1階 事務室
旧南会津郡役所・郡長室
1階 郡長室
旧南会津郡役所・回廊1
回廊
旧南会津郡役所・回廊2
回廊:洋と和の雰囲気が混在する
旧南会津郡役所・中庭
中庭
旧南会津郡役所・出入口中
左:人民出入口              右:官史出入口
表玄関は郡長や貴賓客(議員も?)出入口で、この他に事務室・人民控室にも出入口がある
旧南会津郡役所・出入口外
左:人民出入口(手前は人民控室の出入口)    右:官史出入口
旧南会津郡役所・古写真2
移築前の写真  ※展示パネルより
旧南会津郡役所・古写真1
※展示パネルより
旧南会津郡役所・古写真3
左:竣工当時の間取り
右:昭和46年(1971)曳家の写真  ※展示パネルより
旧南会津郡役所・曳家
昭和46年(1971)曳家の写真  ※展示パネルより
旧南会津郡役所2
現在の様子
六地蔵尊
隣りにある六地蔵尊:6名の南山義民を供養するため、南山義民地蔵尊建立会により平成7年に再建された。
 幕府が享保7年(1722)百姓一揆の首謀者とする6名をさらし首にした。 その顛末を分かりやすく解説した絵本があり、館内にも展示されている。
当時この地は南山という地域で幕府直轄地(御領・幕領)であり、田島陣屋で受理されなかった年貢軽減や廻米・米納の強制中止を求める直訴状を以て、百姓の代表者が江戸へ提出。 幕府は6名を一揆の首謀者として打ち首に処し、領地を会津藩への預け支配に切り替える事で百姓の願いを一部受け入れたという。
そして文久3年(1863)会津藩へ京都守護職の手当てとして南山5万5千石が与えられた。

【参考文献】
「福島史学研究17号」1970-11 福島県史学会

【2015年5月 訪問】



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2017.
03.23
Thu
所在地:福島県会津若松市花春町8-1
公 開:8:30~17:00(入園は16:30迄)無休、有料
交 通:会津若松駅~まちなか周遊バス「御薬園入口」or「御薬園」バス停~徒歩約3分
電 話:0242-27-2472
  ※詳しくはコチラ⇒【御薬園】
重陽閣2
重陽閣:昭和3年(1928)竣工、昭和48年(1973)移築
元は東山温泉の新滝別館であった建物で、妃殿下が婚儀の前に家族と宿泊している。 誕生日が重陽の節句であった事から、秩父宮勢津子妃殿下が命名された。
施錠されていたが管理所に申し込むと鍵が開けられ、ボランティアガイドさんが案内して下さった。 この訪問後、屋根瓦補修工事が実施されたとの事。
重要閣3
玄関
重陽閣・懸魚
破風の懸魚(玄関屋根)
重陽閣・展示室
1F展示室:秩父宮勢津子妃殿下に関する資料を展示
婚儀(1928/9/28)に先立ち、昭和3年7月に会津を訪問し、藩祖・保科正之を祭る土津神社と松平家墓前に奉告している。
重陽閣・1階座敷
1F座敷
重陽閣・1階
左:照明も一部古い物が残る         
右:配膳室の子扉は、給仕以外の者を入れずに料理だけを受け渡せる
重陽閣・便所1
1F便所
重陽閣・便所2
1F便所の手洗い器と個室:タイルや衛生設備は移築の際に替えたようだ
重陽閣・便所欄間
便所個室の飾り屋根と欄間
重陽閣・便所天井
便所の天井
重陽閣・階段
階段の曲線がスゴイ
重陽閣・2階広縁
2階広縁と天井
重陽閣・2階広間
2階大広間
重陽閣・2階建具
建具
重陽閣・2階次の間
2階次の間
新滝別館・古写真
今回は偶然にも新滝(現:くつろぎ宿)に宿泊し、ロビーに展示されていた絵葉書を撮影
新滝別館
当時の新滝別館は3階建てであった事が解る
新滝・風呂
藩公の湯と云われる、湯舟から自噴する新滝の掛け流し温泉。 この温泉目当てで今回この宿を選んだ。
 ※詳しくはこちら⇒【新滝
 

 勢津子妃殿下は松平恒雄の長女・節子として育ちましたが、皇太后と同じ名前であった事から婚儀前に『勢津子』へ改名しています。
伊勢の勢と会津の津から取ったもので、幾つかの候補から皇太后が選んだ名前との事。
勢津子妃殿下は後年この様に著書に書いています。 ~皇室に上がることでこれほどまでに会津の人々が喜ぶのであれば、どのような苦労があっても耐えて、皇太后さまのお心にかなうよう努力せねばならぬと決意を新たにいたしたことでした。9月17日には、節子の名を勢津子と改めております。皇太后さまのお名前が「節子」であらせられますので、畏れ多いということで改名することになりました~
京都守護職として天皇の信頼を得ていた松平容保。 その孫であった松平節子が皇室に嫁入りした事で、賊軍のレッテルを貼られ肩身の狭い思いをしていた会津の人々が救われました。
 
※御薬園のその他の建物についてはコチラ⇒【御薬園①

【参考文献】
「銀のボンボニエール」秩父宮勢津子 著 1991 主婦の友社

【2015年5月 訪問】

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2017.
03.05
Sun
所在地:福島県会津若松市花春町8-1
公 開:8:30~17:00(入園は16:30迄)無休、有料
交 通:会津若松駅~まちなか周遊バス「御薬園入口」or「御薬園」バス停~徒歩約3分
電 話:0242-27-2472
   ※詳しくはコチラ⇒【御薬園
御薬園
 この地はかつて霊泉が湧く大名の別荘地で、薬草や朝鮮人参の栽培をした事から『御薬園』と呼ばれるようになりました。
その昔、鶴の舞い降りる泉の水で病人を介抱したという翁がおり、この地にその翁を祀って朝日神社とし、泉は鶴ヶ清水と名付けられました。
室町時代、この霊地に葦名盛久が別荘を建てますが、戦乱を経て荒廃、保科家(後に松平家)が復興させました。 庭園は目黒浄定が作庭を手掛けて修復し、元禄9年頃に御茶屋御殿や楽寿亭も完成しています。
 会津戦争後は西軍の治療所となり、新政府の管理下で一時、松平家の幽閉所や若松県知事公舎となっていたようです。 その後、有志の寄付により買い戻されて松平家に返還。 昭和28年から一般公開されています。
御薬園・楽寿亭
楽寿亭:元禄9年(1696)頃に完成し、松平正容が命名したと伝わる。 八畳一間で北側には戊辰戦争の刀傷が残る。
昔の絵図には亀島の反り橋がなく、舟を使ったと推定される。
御薬園・楽寿亭内1
楽寿亭  ※入室不可
御薬園・楽寿亭内2
 楽寿亭の小屋組・床組みの一部は転用材が使われており、安永年間に再建された可能性がある。
また2回改造された形跡(床脇の壁→開口部とし外側に縁を廻す→壁に戻す)もある。
昭和に入って修復工事も実施され、昭和29年度では、茅葺き替えや小屋組みの補強、壁の塗り替え、三和土の直しなど実施。
昭和60年度では、礎石沈下や軸部傾斜の修正(柱・小屋組み・軒廻り・野地板・壁小舞は解体せず)茅の葺き替え・壁の塗り替え等が実施された。
御薬園・御茶屋御殿
御茶屋御殿:元禄9年(1696)頃に完成。 会津戦争後は西軍の治療所や松平家の幽閉所、若松県知事公舎となる。 その後、有志の寄付により新政府から買い戻され、松平家に返還。 明治15年北側に2階建を増築し、日光東照宮宮司を退任した松平容保一家が明治20年まで住んでいた。
御薬園・御茶屋御殿 上の間
御茶屋御殿・上の間
御薬園・御茶屋御殿内
左:御茶屋御殿の1階次の間        右:柱に残る会津戦争の刀傷
御薬園・御茶屋御殿修理
 東日本大震災復旧を兼ねて明治期増築箇所の保存修理工事が平成26年から一年以上かけて実施された。
昭和30年度にも茅葺き替えや広縁廻りの屋根修理工事が実施されているが、近いうちに江戸期の箇所も保存修理工事が予定されている。
ちなみに以前の調査で、御茶屋御殿も一部に転用材を使用して建設された事が判明している。 
御薬園・御茶屋御殿図面
御茶屋御殿の平面図              ※工事パネルより
重陽閣1
重陽閣     ※重陽閣について詳しくはこちら⇒【御薬園②
 右端にチラリと見える黒幕は朝鮮人参用の日除けで、重陽閣の前には現在も薬草園が設けられています。
当時の会津藩は朝鮮人参の栽培について許可制をとり、人参役所に申請した農家へ鑑定方を派遣して地形地質などを調査。 許可を得た農地は3畝歩限りとし、交付した種子を役人の前で蒔く、という審査が厳しいものでした。 その当時、全国的に朝鮮人参栽培が試みられ、秋田・会津・尾張・松江・熊本・薩摩が栽培に成功。 その中でも会津・松江は中国へと輸出するまでに至りました。

【参考文献】
「名勝会津松平氏庭園(楽寿亭)修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会 1985
「人蔘史. 第四巻」今村鞆 著 朝鮮総督府専売局 1939

【2015年5月 訪問】


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2017.
02.19
Sun
取手の長禅寺三世堂に続いて、会津の珍しい御堂を紹介します。
御三階
御三階(ごさんがい) 
建築年:江戸後期、 何度か移築・改修有り
所在地:福島県会津若松市七日町4‐20
公 開:通常非公開
交 通:会津鉄道・七日町駅 or 七日町駅前バス停、下車すぐ
御三階・東面
江戸時代に鶴ヶ城本丸に建造された櫓で、明治3年に阿弥陀寺に移築し本堂として使用された。
道路沿いにあったが、昭和49年に本堂新築のため現在地に移築している。
御三階・裏と西
左:裏側              右:西側
御三階・唐破風
向拝には本丸御殿の唐破風が付けられている
御三階・1階
平成27年(2015/4/2~6/30)1階のみ公開された時の様子 ※入場不可
九代 会津藩主・松平容保の肖像画:秩父宮勢津子妃殿下は容保の孫(松平節子)
御三階・解説板1
鶴ヶ城本丸の配置図   〔展示パネルより〕
御三階・解説板3
平面図    〔展示パネルより〕
御三階・解説板2
断面図    〔展示パネルより〕
2階~3階の間に這いつくばるほど天井の低い部屋が存在し、3階は梯子階段がないと上がれない。
阿弥陀寺
阿弥陀寺:慶長8年(1603)良然により開山。 戊辰戦争の遺骸1300余りが埋葬されている。


円通三匝堂(さざえ堂)
建築年:江戸後期、 何度か修復有り
所在地:福島県会津若松市一箕町八幡弁天下1404
公 開:8:15~日没、無休、有料
交 通:会津若松駅~まちなか周遊バス~「飯盛山下」下車、徒歩5分
TEL:0242-22-3163   ※詳しくはコチラ⇒【会津さざえ堂
さざえ堂
 会津の観光名所である『さざえ堂』の正式名は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」という観音堂で、寛政8年(1796)飯盛山の正宗寺境内に建立したと伝わる。
さざえ堂2
 さざえ堂形式の堂宇は幾つかあるが、この円通三匝堂はスロープと六角形の平面から、よりサザエに近い形状をしている。
昭和28年(1953)補強材・金具締め等により傾斜修正された。
さざえ堂・向拝
向拝の屋根
さざえ堂・内部1
入口:さざえ堂を建立した正宗寺・郁堂和尚の像が祀られる
かつて西国三十三観音像が安置され、二重螺旋スロープによって上り下りの順路が交わる事なくお参りできたが、明治の神仏分離令によって正宗寺は廃寺され、三十三観音像は取り外された。
さざえ堂・内部2
左:上り               右:疲れた人は下りへ抜ける事ができる
さざえ堂・心柱
塔の中心は柱6本で支えている
さざえ堂・内部3
頂上は太鼓橋の様
さざえ堂・宝珠
石の宝珠:平成6年(1994.2.22)突風で剥がれた展望休憩所のトタン屋根が飛来し、宝珠石250kgが落下、大屋根に穴が開いた。
当初の屋根はコケラ葺きであったが、昭和7年その上に重ねて銅板が葺かれ、昭和47年から3年かけて屋根の大修理(垂木・野地板・銅板)、平成6年に宝珠石落下の補修工事が実施されている。

【2015年5月 訪問】


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2012.
10.14
Sun
建築年:煉瓦蔵は明治38年、店舗は昭和6年  
所在地:福島県喜多方市字3丁目4786
構 造:レンガ造、木造 2~3階建て (国指定登録有形文化財)
施 工:田中 又一 ほか
見 学:10時~16時。 TEL:0241-22-0010
交 通:JR喜多方駅~徒歩10分位

若喜商店
 市役所通りの角に建つ若喜商店は、宝暦5年(1755)創業。 現在の当主は11代目。
明治38年の煉瓦蔵と昭和6年の店舗の他に、蔵など数棟が現存。
 一部の蔵は、駄菓子と和雑貨などを販売する「昭和館」や、赤べこや合格ダルマの絵付け体験(予約制)ができるスペースに改装されております。
 ※詳しくはコチラ→【若喜商店
 そして、煉瓦造の二階蔵は客用の座敷として、隣の三階蔵は道具類を保管。
木造の醸造所では、現在も味噌や醤油を製造しております。
 蔵座敷は通常、ガラス越しの見学となっていますが、今回は大女将さんの御好意により、特別に1階の「縞柿の間」を拝見させて頂きました。
若喜商店・蔵座敷
2階蔵の内部が、客用の蔵座敷となる。
若喜商店・床の間
1階は「縞柿の間」と呼ばれ、柱・長押など全てが柿材を使用。
若喜商店・戸棚
飾り棚の地袋の中まで柿材。 3つの引手がある下枠は、底の浅い抽斗となっている。
若喜商店・天井
天井板も柿材。高級品をこれほど使用した例はない。
若喜商店・敷居
敷居まで柿材。 ゴルフクラブのヘッドに使われる程の硬さで、敷居には向いている。
若喜商店・物入れ
絵の後ろは、物入れになっている。
若喜商店・絞り機
醸造所にあるプレス機。 布にもろみを包み、醤油を絞り出す。
下に積んである布の全てが、一度にプレスできる。
若喜味噌

 喜多方では、明治13年(1880)に、170戸300棟を焼失する大火が発生し、土蔵が焼け残った事から、人々は建物の防火性に着目します。
 その当時、日本各地に洋風建築が建てられ、煉瓦造の建物は近代化の象徴でした。
すでに銀座では、明治5年の大火の後、明治6年に煉瓦街が完成しており、煉瓦造は防犯・防火性に優れ、当時の最新技術として、蔵にも最適と考えられました。
 さらに、明治29年(1896)に、郡山~若松~新津を結ぶ、岩越鉄道(現・JR磐越西線)の建設が開始。鉄道のトンネル建設に、大量の煉瓦が必要となりました。

 そして、瓦職人・樋口市郎は、三津谷集落のそばに登り窯を構え、煉瓦の需要を見込み、釉薬煉瓦を開発し生産を開始します。
新潟・亀田出身の樋口は、明治23年に27歳でこの地に移住してから、生産に適した良い場所を見つけるまで、この若喜商店に住込みで働いたと云われております。
 さらに、煉瓦職人として清水組の仕事をしていた田中又一が、その技術を持ち帰った事から、この喜多方の街にも煉瓦造の建物が建てられるようになりました。

 その後、岩越鉄道は明治31年(1898)に郡山駅~中山宿駅が開通し、翌年には若松駅、明治37年(1904)には喜多方駅まで開通しました。
 そして、若喜商店の煉瓦蔵は、この2人の職人により明治38年に完成したのです。
※詳しくはコチラ→【若菜家
若喜商店・出窓
 一方、昭和6年の店舗は、喜多方出身の本間嘉平の設計と云われております。
 本間嘉平は、昭和38年(1963)に大成建設の社長となり、昭和42年に日建連の初代会長に就任しています。
 この店舗は、戦時中の物資統制により一時的に閉鎖し、戦後も富士銀行・喜多方支店がしばらく使用していました。
若喜商店・大女将
今回、特別に案内して下さった大女将・冠木 恒さん。
感謝しております。ありがとうございました。

【2012年8月 撮影】


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