2015.
08.23
Sun
建築年 : 江戸中期以降、  何度か増改築あり
住 所 : 静岡県 熱海市 泉191
設計施工: 不 明
交 通 : JR湯河原駅~(不動滝・奥湯河原行きバス)泉入口バス停~徒歩3分位
T E L : 0465-62-2354

福泉寺
 湯河原にある、謎多き青谷山福泉寺。
本堂と庫裡は茅葺き屋根の古い建物ですが、窓はサッシになっています。 ちょうど、奥様が本堂の窓拭きをしていらしたので、中を拝見させていただきました。
福泉寺・内部
 明治43年のガイドブックによると、この寺は保善院の末寺で、曹洞宗、本尊は釈迦、開基は養心信公。 開山した帰雲禅師は大永元年(1521)伊豆田中にて第を結び、大永7年から報恩におりましたが、晩年に保善院に帰ると竹葉軒に住まい、天文7年(1538)他界。 明和元年(1764 頃)9代目の時に竹葉軒が焼失し、明和8年(1771)2月に再建されたと書かれています。(※1)
 近年では、大正8年頃に庫裡の改築(※2)が行われ、本堂は平成19年に屋根改修工事(部材交換・全面葺き替え等)、平成25年以降に窓をサッシに改修。 土台や外壁などから、それ以前にも増改築が施されている事がわかります。
福泉寺・煙抜き
 昔は庫裡がなく、本堂内の右手の部屋を生活空間とし、囲炉裏が切ってあったという。
今は囲炉裏がなくなり、天井の煙抜きの穴が残る。
福泉寺・欄間
 欄間には「施主 湯河原温泉場 諸節(建具店)利一」と書かれている。
腕の良い職人が湯河原にいたようで、旅館の建具を手掛けていたのだろう。
福泉寺・広縁
広縁には古い部材が残っている。
福泉寺3
正面は改修された部分が多い。
福泉寺・彫刻
龍の彫刻。 創建当初のものかは不明。
福泉寺2
本堂左部分は増築?
福泉寺・庫裡
本堂の脇にある庫裡は、今でも生活されているので見学はできない。

福泉寺・首大仏1
 境内には『首大仏』と呼ばれる陶製の釈迦像の頭部があり、寺の解説書には、尾張藩・2代藩主の徳川光友が、出生時に亡くなった母の供養のために陳元贇に依頼し、瀬戸赤津村大仏山の土で製作したものと書かれています。
 戦中~戦後に寄進された首大仏ですが、これだけ大きなものを焼ける窯元も少ないですし、湯河原まで運ぶ時に話題となったでしょうが、その記録も残っていません。 陶土の成分を調べれば生産地は確定できるかもしれませんが、どこにあったのかは謎のまま。 文献など発見される事を期待します。
福泉寺・首大仏2
螺髪は所々補修されている。

【参考文献】
(※1) 「湯河原温泉療養誌」 著:牛山幽泉 1910 
(※2) 室伏厚子氏所蔵文書「163.青谷山福泉寺庫裡改築工事記念の写真(1919.5.4)」 
     神奈川県資料

【2014年10月 訪問】


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2014.
11.28
Fri
住 所 : 静岡県 熱海市 昭和町4-2
見 学 : 9:00~17:00(入館は16:30迄) 大人510円
      水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始は休館
交 通 : JR熱海駅~「起雲閣前」or「天神町」バス停すぐ
TEL : 0557-86-3101
             ※詳しくはコチラ⇒【起雲閣
起雲閣2
 船会社を経営していた内田信也が、母の静養所として大正8年に建てた別荘です。
大正14年から東武鉄道社長・根津嘉一郎の所有となった後、昭和22年から平成11年まで旅館『起雲閣』として、志賀直哉・太宰治・谷崎潤一郎という文豪も訪れた宿で、平成12年に熱海市が購入し一般公開されています。 それぞれの棟が廊下で繋がり、一部の部屋は市民のための貸室になっています。
起雲閣・孔雀
孔雀: 大正7年(1918)着工、大正8年(1919)竣工。
当初は麒麟の隣(喫茶室付近)にあったもので、昭和28年(1953)音楽サロン付近に、昭和56年(1981)現在地にと2回移築。
ここで、舟橋聖一が「芸者小夏」「雪夫人絵図」を、武田泰淳が「貴族の階段」を執筆したと云われている。
起雲閣・麒麟
麒麟(きりん): 大正7年(1918)着工、大正8年(1919)竣工
加賀の青漆喰壁は、金沢の白雲楼の主人・桜井兵五郎が塗らせたもの
起雲閣・大鳳
大鳳(たいほう): 2階にある大鳳の間は太宰治が宿泊したと伝わる。
起雲閣の解説版では、この部屋で昭和23年(1948/3/18~)山崎富栄と共に滞在したと記載されている。 また、太宰治『人間失格』の奥野健男による解説では、はしがきと第一・第二手記は、起雲閣(1948/3/10~3/31)で執筆したとなっている。
起雲閣からの情報です。
【人間失格】をすでに取り壊された起雲閣別館(熱海市林ガ丘町)で、はしがきと第一・第二手記の執筆をされたと伺っております。 起雲閣へは昭和23年3月18日から2泊宿泊しております。

起雲閣・大鳳の床の間
大鳳の床の間には落とし掛けはない
起雲閣・大鳳の障子桟
大鳳の付書院の障子はサビ竹の組子 
起雲閣・玉姫
玉姫: 根津嘉一郎により昭和7年(1932)完成
起雲閣・玉姫天井
玉姫の天井には、当時の金唐革紙が残る
起雲閣・玉姫サンルーム
玉姫のサンルーム
起雲閣・サンルーム床
サンルームの床と腰壁               サンルームの扉
起雲閣・照明
玉姫の照明
起雲閣・玉渓
玉渓(ぎょくけい): 昭和7年(1932)竣工 
起雲閣・玉渓
玉渓の暖炉の、古材を使った丸柱の由緒は不明。 ベンチの座板が開閉し収納となっている。
起雲閣・金剛
金剛(こんごう): 根津嘉一郎により昭和4年(1929)完成。 何度か改装され、1989年の改築で浴室の位置と向きが変更。 ドアノブや蝶番は当初の物。
起雲閣・金剛2
金剛の浴室: 道路拡張のため1989年に移築。ステンドグラスや湯出口は当初の物。
起雲閣・金剛 窓&床
金剛の暖炉脇のステンドグラス                 床タイル
起雲閣・根津の大石
梅園付近からソリとコロを使って運ばれた、根津の大石(カグラ石)
※展示パネルより
起雲閣・廊下
渡り廊下も凝った造りとなっている
起雲閣1
~起雲閣の所有者たち~
内田信也(うちだのぶなり, 通称のぶや1880/12/6-1971/1/7)
 三井物産神戸支店 船舶部主任を経て、内田汽船(1914)を創業。 中古船の売買で利益を得て、大正6年には内田商事・帝国窯業㈱・内田造船所と3つの会社を創業します。
 そして母親のために熱海の地を購入し、大正7年(1918)宅地造成・別荘着工。 大正9年に隣の土地も買い足しています。 その他にも神戸病院や一橋高等商業学校への寄付、水戸高等学校に創設資金を提供。 恐慌を予見し、大正12年までに窯業と造船所を整理しますが、所有船が相次いで沈没し、この熱海の別荘も手放したようです。 その頃すでに政界に進出していた内田は、のちに鉄道大臣・農商務大臣・農林大臣に就任しています。 

 その後、東武鉄道社長であった根津嘉一郎(ねづかいちろう 1860-1940/1/4)が、大正14年(1925)にこの別荘を購入し、昭和2年に温泉を掘り当てます。 そして昭和4年(1929.3.31)金剛・浴室棟が、昭和7年(1932)玉姫・玉渓の棟が完成。 さらに昭和15年(1940)温室が完成。 その温室は駐車場の隅にありましたが、昭和39年(1964)に解体されています。 この別邸は昭和19年(1944)に手放されました。
 ちなみに根津嘉一郎は、武蔵大学(旧・武蔵高等学校1922)の創設者でもあり、東京の自邸(茶室のみ現存)に根津美術館が開設され、収集した美術品が展示されています。

 昭和22年(1947)からは、金沢の白雲楼ホテル経営者であった櫻井兵五郎(さくらいひょうごろう 1880/8/8-1951/2/11)の所有となり、旅館「起雲閣」を開業。 櫻井は、国務大臣・北陸毎日新聞社長・日本タイプライター㈱(現・キャノンNTC)常務取締役などに就任しており、昭和5年(1930)の著書『日本の情勢と産業合理化』によると、東京の大崎町字谷山に住まいがあったようです。

 その後の経営者が、起雲閣に宴会場(1981)、初霜・春風・有明・鶯・千鳥・雲雀(1990)を新築するも、熱海の観光客は減る一方で、平成11年(1999)廃業して競売に出されました。 林ガ丘町にあった起雲閣別館も、昭和60年(1985)に売却され、すでに解体しています。
起雲閣別館
起雲閣別館                     ※展示パネルより

 国の登録有形文化財であった金沢の白雲楼ホテル(1932-1999)も残念ながら解体されてしまいました。
この様に文化財に登録されても、様々な理由により消えていった建物は少なくはありません。 
※詳しくはコチラ⇒【文化庁HP

 この起雲閣は幸運にも熱海市により保存され、旧中山晋平邸杉本苑子旧宅・旧日向別邸などと共に、新たな観光客を惹きつけています。


【参考文献】
「風雲児 内田信也」 1935 イハラキ時事社編輯局

【2013年3月 訪問】


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2012.
12.16
Sun
建築年:昭和62年(1987年)
所在地:熱海市梅園町9-46
構 造:鉄筋コンクリート造 一部2階建て
設 計:熱海市 建設部 建築住宅課
見 学:9:00~16:30、 有料
休 館:祝日除く月曜  
TEL:0557-81-9211
交 通:JR熱海駅~バス15分「梅園」or「澤田政廣記念美術館前」下車、or JR来宮駅~徒歩15分

    ※詳しくはコチラ→【澤田政廣記念美術館】 
澤田政廣記念美術館1
中山晋平記念館がある熱海梅園の前に『初川』が流れ、対岸には人工の滝があり、吊り橋を渡ると澤田政廣記念美術館があります。
その建物は岩の様にデコボコしており、廻りを小川に囲まれ、大木の丸太が置かれています。
とても奇抜なこの建物は、谷村美術館(村野藤吾)のイメージが反映され、熱海市の職員による設計と、職人により一風変わった空間に仕上がっています。
澤田政廣記念美術館3
 外壁はモルタルの擬岩仕上げであり、躯体の上にSBR系ポリマーセメントモルタルを吹付け、乾かないうちにベースネットを張り、ゼロスランプモルタルを乾式工法で吹き付けています。
 内壁はナイロンパイルを静電植毛して仕上げています。 躯体の上にSBR系ポリマーセメントモルタルの乾燥後、軽量骨材(発泡スチロール系)入りプラスターを吹付けた後、接着剤を塗布し、供給機とコンプレッサーを使ってベージュ色のナイロンパイル(14デニール・3mm)を飛ばして、高電圧発生機で静電植毛しています。 パイルには吸音と保温効果があり、調湿と埃の対策が出来れば、クロス張りにして住宅にも利用できるでしょう。
25年経った現在、階段の手摺部分などに植毛の剥離と、全体的に埃でくすんだ印象があるものの、澤田政廣の作品と共に異空間を体感出来ます。
澤田政廣記念美術館4
玄関ホールにあるステンドグラスの光天井は、澤田政廣によるデザイン。 『飛天』1987
澤田政廣記念美術館2
右:『曼珠沙華(マンジュシャゲ)』1959  
   アモーガ・パーシャ(不空羂索観音)か?  追記参照 ※下記の「続きを読む」 
左:通路の天井が一番、幻想的かもしれない。
澤田政廣記念美術館5

 澤田政廣(さわだ せいこう)は、明治27年(1894)熱海で廻船業を営む澤田家の三男として生まれ、『寅吉』と命名されます。 19歳で旧制中学校を中退し、木彫家・山本瑞雲に師事。 大正10年(1921)に第3回帝展に入選。 雅号を『寅』とした昭和2年から3年連続で特選を受賞。 昭和10年には太平洋美術学校の講師となります。 その後、日展でも受賞し、昭和31年(1956)雅号を『政廣』に。
晩年に、東本願寺 難波別院の蓮如上人像、見延山久遠寺 祖師堂の日蓮上人像、奈良薬師寺 西塔の尊像仏などを手掛け、昭和54年に文化勲章を受章。 昭和63年(1988)病により93年の生涯を終えました。

〔参考文献:月刊 建築仕上技術1988年2月号〕

【2012年5月 訪問】


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2012.
12.09
Sun
所在地:熱海市梅園町8-1
構 造:木造 2階建て
見 学:10:00~15:30  休 館:木曜・年末  
料 金:無料      TEL:0557-85-1933
交 通:JR熱海駅~バス15分「梅園」or「澤田政廣記念美術館前」下車
    JR来宮駅~徒歩10分

中山晋平邸
 西熱海別荘地にある『彩苑』(※詳しくはコチラ→杉本苑子 旧宅)から坂道を下っていくと、地元の人もあまり使ってないような階段があり、そこを降りていくと下の道に着きます。 林で隠れていますが、道の脇は急な崖になっているようで、下の方から川のせせらぎが聞こえてきます。
 しばらく歩くと、突然、韓国庭園が現れ驚きますが、そこを通り抜けていくと、熱海梅園に辿り着きます。 この辺りに来ると『初川』も流れを見せ、対岸には何と滝が!
実は人工の滝で、吊り橋を渡ると澤田政廣記念美術館もあります。

 この建物は、昭和10年(1935)作曲家の中山晋平が、熱海市西山町に別荘として建てたもので、昭和19年(1944)戦時中に妻・嘉子(新橋喜代三)と共に疎開し、昭和27年に65歳で亡くなるまで住んでいた邸宅を、移築しています。
 現在は、中山晋平記念館として資料を展示しております。
中山晋平ピアノ
 中山晋平が愛用していたピアノ。「シャボン玉とんだ~♪」 「雨雨ふれふれ~♪」 「かあさん お肩をたたきましょう~♪」 子供の頃に歌った童謡が、このピアノで生まれた。
 小学校の音楽教師の経験により、子供の心を捉える曲作りが出来たのだろう。
中山晋平邸・1階和室
左:1階の座敷は、書院造り            右:1階の広縁の床板が杢目となっている
中山晋平邸・茶の間
1階の茶の間。 妻・嘉子(新橋喜代三)も火鉢の前に座ったのだろう。 
中山晋平邸・廊下
2階廊下の明り取りは、数寄屋建築でありながら、吉田五十八の様なモダンな仕上げ。
設計者は不明。
中山晋平邸・2階和室
2階の座敷。 1階の座敷より格を下げて、竹の落とし掛けを使用。

 中山晋平は明治20年3月22日、長野県新野村(現・中野市大字新野)名主の家に生まれました。
その後、小学校で代用教員として働いておりましたが、上京して島村抱月の書生となります。
 明治45年に東京音楽学校ピアノ科卒業。 東京の小学校で音楽教師をしながら、作曲活動を開始。 大正3年(1914)「カチューシャの唄」を作曲し、芸術座の松井須磨子が歌って大ヒット。
大正6年に小学校教師の江南敏子と結婚します。
 その後、野口雨情作詞による「シャボン玉」 「あの町この町」、北原白秋作詞の「砂山」 「アメフリ」、「てるてる坊主(浅原鏡村 作詞)」や「肩たたき(西条八十 作詞)」等、今でも歌い継がれている童謡を作曲。
 昭和3年(1928)に日本ビクターと専属契約を結び、「東京音頭」 「熱海節」等の新民謡や、歌謡曲も数多く手掛けています。
 のちに、日本音楽文化協会・日本音楽著作権協会の理事長に就任。
昭和27年12月30日、病により65歳で亡くなりました。

 妻・中山嘉子は、鹿児島でも評判の芸者で、それは美しい女性でした。
中山晋平とは昭和6年(1931)に出会い、晋平の勧めで上京して「小原良節」「よさこい節」を日本ビクターでレコーディング。同年に新橋芸者となり、昭和7年に新橋喜代三(しんばし きよぞう)という芸名で、ポリドールの専属歌手となります。
 昭和11年(1936)晋平の妻・敏子が病のため45歳で亡くなり、翌年に中山晋平と結婚、引退します。
 この熱海の邸宅で晋平と共に暮らし、晋平の死後、日本ビクターの歌手として復帰しましたが、熱海での暮らしを続けました。
 昭和38年(1963)3月23日に病により59歳で他界。

 この建物は日本ビクター㈱の所有となり、のちに熱海市に寄贈され、中山晋平記念館として、移築公開されています。
◎詳しくはコチラをご覧下さい。→【中山晋平記念館

【2012年7月 訪問】


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2012.
11.18
Sun
所在地:静岡県熱海市西熱海町二丁目12-3
開 館:年末年始を除く土日のみ公開。 10:00 ~ 16:00 ※日曜日のみ公開
料 金:無 料
電 話:0557-85-7377
交 通:JR熱海駅~バス約15分~西熱海別荘地前バス停~徒歩15分
彩苑
 熱海駅からバスに乗ると、曲がりくねった細い坂道を登っていきます。
そして西熱海別荘地前バス停を降りました。 山の中に作られた住宅地で、戸建の住宅が建ち並んでいます。 大通りを歩く人もなく、本当にこの道で合っているのか不安になる程。
やっと、曲がり角に「彩苑」の道案内があり、ようやく一安心。  しかし、最後の分岐路には案内板がなく通り過ぎてしまい、畑仕事をしていた人に尋ねて辿り着く事ができました。 タクシーの方が無難かもしれません。
 そこは知人宅の様な雰囲気がある家で、長い道のりを歩いた訪問者を、シルバー人材の方が出迎え、お茶を振る舞って下さいました。 ※詳しくはコチラ→【彩苑
彩苑2
 この建物は、昭和52年(1977)に杉本苑子さんの別荘として建てられ、昭和55年から平成7年まで本居として使用。 ここで数多くの作品が生まれました。
 後に、別の地に本居を構えたため熱海市に管理を委託し、この建物は人々が華やかに集まる場所 『彩苑』 と名付けられ、平成8年から一般公開されております。
 熱海は一昔前まで、慰安や新婚旅行で訪れた温泉地として繁栄しました。
しかし、国内外へ安く旅行ができるようになってから、昔の賑やかさがなくなっています。
一方で、温暖な気候と温泉、海と山がある風光明媚な地に文化人や実業家が別邸を構えた事から、保養地としての一面もありました。
近年になり、手放された別邸の一部が熱海市に寄贈され、その建物が観光地として新たな魅力を生み、若い世代の人を呼び込む観光資源となっています。
彩苑-玄関ホール
 玄関ホールは天井が高く、開放的な空間。
左:玄関ホール左手に階段・居間・水廻りと続く。
  廊下の上には収納があり、階段の途中にその入口がある。
右:玄関ホール右手は応接室になっている。上部の襖は収納ではなく欄間の様なもの。
  本来は下にも襖が有り、暑い時期は上部の襖を開けて、通気ができるようになっている。
彩苑7
1階の座敷は、食事や団欒などの居間として利用していた。
彩苑1
2階の一部は展示室になり、熱海ゆかりの文化人の資料を展示。
彩苑8
2階の寝室。
彩苑5
 スタッフの方に言って、1階の台所を拝見させて頂いた。
右の写真は、台所の脇にある書生やお手伝いさん用の小部屋。
彩苑6
洗面脱衣所と浴室。
タイル貼りの浴槽は掃除が大変だが、好みの大きさや深さに出来るのが利点。

 杉本苑子さんは、大正14年(1925)東京・牛込区(現・新宿区)の薬局の家に生まれます。
昭和24年に文化学院文学部を卒業すると、2年後に「サンデー毎日」の懸賞に応募。
『申楽新記(のちの「華の碑文」)』が佳作に、翌年には『燐の譜』が大衆文芸賞に入選します。
 その後、昭和35年まで吉川英治氏に師事し、書庫の整理や年表作成する傍ら、習作を書き続けます。
 のちに、昭和61年(1986)『穢土荘厳』が第25回女流文学賞に、昭和37年(1962)『孤愁の岸』が第48回直木賞を受賞。 『冥府回廊、マダム貞奴』が、昭和60年(1985)にNHK大河ドラマ『春の濤』として放映されました。 そして、平成14年(2002)に文化勲章を受章。
 小説家として有名ですが、幼い頃に児童劇団に入り、舞台やラジオに出演。 学生の頃は世阿弥の研究をしていた事から、歌舞伎や舞台として上演できる作品も多いようです。

【2012年5月 訪問】


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