2017.
05.29
Mon
建築年:明治中期、何度か改修有り
所在地:千葉県市川市国府台2丁目
交 通:JR市川/松戸駅前~和洋女子大学前バス停~徒歩約3分
公 開:年1回位(千葉県が所有し、赤レンガをいかす会が主催)
  ※詳しくはこちら⇒【赤レンガをいかす会
国府台旧陸軍武器庫1
 千葉県市川市にも赤煉瓦の建物が残っています。
近年まで旧陸軍の施設を千葉県血清製造所が使用し、各種ワクチンを研究・製造、人々の健康を守りました。
国府台旧陸軍武器庫・外壁
左:床下通気口                右:窓と庇
国府台旧陸軍武器庫・平面図
現況図(展示パネルより)
国府台旧陸軍武器庫・1F1
1F :研究所が昭和29年に冷蔵室に改装し、その後も壁天井など改修されている
国府台旧陸軍武器庫・扉1
冷蔵室の扉
国府台旧陸軍武器庫・冷蔵室扉
冷蔵庫の扉は木製だが古さは感じない
国府台旧陸軍武器庫・1F2
1F冷暗室(改装済み)
国府台旧陸軍武器庫・1F扉2
1F冷暗室の木製扉(こちらは古そう)
国府台旧陸軍武器庫・1F4
左:1階冷暗室の出入口          右:階段
国府台旧陸軍武器庫・階段
階段
国府台旧陸軍武器庫・2F
2階
国府台旧陸軍武器庫・窓1

国府台旧陸軍武器庫・窓2
窓枠
国府台旧陸軍武器庫・窓3
窓枠
国府台旧陸軍武器庫・天井
天井
国府台旧陸軍武器庫・天井2
天井の仕切り壁が紙貼り?
国府台旧陸軍武器庫・金具
壁に残る掛け釘
国府台旧陸軍武器庫・掛け杭
用途不明のフック
国府台・貯水槽
里見公園分園に残る貯水槽:かつて高台のため井戸を掘るのが大変だと云われていたので、ポンプで水を引いたのだろうか?


 明治8年、かつての国府台城跡地に大学を設置する事になり、政府は近隣一帯の土地を購入しますが、交通不便・高台のため井戸を掘るのが大変という理由で計画が頓挫。
代わりに陸軍の下士官を養成する教導団学校が、馬場先門外から移転する事になりました。 明治19年に完成した施設には、フランスの病院を視察して建設した病棟と看護術の学舎も併設されます。
その後、教導団学校は明治32年に廃止されて陸軍の施設に。 国府台衛生病院は国府台陸軍病院と改称され、戦後は国立 国府台病院となりました。
 この赤煉瓦の建物がある場所は陸軍時代、独立工兵第25連隊(工兵隊)の本拠地となり、石油を掘るため国内各地に隊員が派遣され、測量や撮影などを行ったとの事で、一部の将校も石油を掘る技術を学びに来るほど専門的な部隊であったようです。
 この地は終戦後に千葉県血清製造所が土地建物を使用しましたが、実はこの血清製造所の設立も陸軍に関係があります。
昭和19年から東京の陸軍軍医学校が各地(京都・金沢・新潟・山形・千葉)に疎開し、千葉では中山競馬場に中山出張所を開設。 免疫馬を使ったワクチンの製造を再開します。
 終戦後の昭和20年11月に国立病院へ移管されると、衛生資材は全国の研究所へ無償譲渡。 同年12月からGHQが施設を接収しますが、昭和21年2月に返還されています。
昭和21年4月から千葉県血清製造所として開設し、9月から国府台へ移転開始。 寒天・肉エキス・免疫馬を1ヶ月以上かけてトラックで運び、国府台の旧陸軍施設を厩舎と宿舎に使用。 12/24に開所式が行われました。
その当時、敷地内には木造と煉瓦造の旧陸軍施設が数棟あり、主な建物の用途(旧陸軍工兵隊→千葉県血清製造所)は…
・材料工場(木造平屋)→免疫馬の厩舎・トラックの車庫
・発動機実習棟(木造平屋)→医務室・宿舎・採血所・破傷風室など
・火力式発動機棟(煉瓦平屋)→ワクチン培養室・作業室
・写真室・充電実習棟(煉瓦2F)→事務室・所長室・研究室・講堂
◎武器庫(煉瓦2F)→昭和29年に破傷風室に改造し1F冷蔵庫・2F書類庫
・精密機械工場(木造平屋)→分注・包装室
 千葉県血清製造所は建物を増改築しながら各種ワクチンの研究・製造を行い、昭和24年に千葉県血清研究所に改称。 国へ何度も提出していた土地建物払い下げ申請が昭和38年に一括許可され、昭和41年に製造棟、昭和42年に事務・研究棟を新築。※どちらもRC造5F+B2F建て
殆どの建物は解体され建て替えられましたが、唯一この赤煉瓦(武器庫)の建物だけが残りました。
 千葉県血清研究所は、とても有能な天然痘ワクチン「LC16m8」を開発しますが、天然痘自体が撲滅されワクチンも世に出回わらず、平成14年(2002)血清研究所が閉鎖。 同年10月に千葉県衛生研究所が業務を引き継ぎますが、この地はそれ以降ほとんど使用されていません。
しかし、この建物の保存を願う『赤レンガをいかす会』主催により年1回、赤煉瓦の建物が公開されており、年々 見学者が増加しているようです。
国府台旧陸軍武器庫2
【参考文献】
「市川市史. 第3巻 (近代)」市川市史編纂委員会 1975 市川市  
「市川市国府台における砲兵隊・工兵隊の記録」武井順一著 1997
「千葉血清五十年史」千葉県血清研究所 1997

【2015年11月 訪問】


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2016.
07.26
Tue
建築年: 明治8年(1875)  何度か改築・解体移築あり
設 計: 設計は内匠寮
構 造: 木造平屋建て
住 所: 千葉県市川市国府台 6-1-14 化学療法研究所付属病院内
交 通: 北総鉄道「矢切駅」~徒歩約3分または、JR市川駅・松戸駅・京成国府台駅~バス停「矢切駅」下車
見 学: 通常非公開
恩賜館
 この建物は、英照皇太后(明治天皇の嫡母)のために造営された青山御所の『御中殿』の一部であったもので、明治26年に麹町一番町(現:千鳥ヶ淵戦没者墓苑地)の内大臣官舎の和館として移築後、昭和11年に解体保管されていました。 昭和13年にその部材が化学療法研究所創設にあたり下賜され、昭和14年(1939/10/7)竣工、「恩賜館」と名付けられました。 さらに結核治療のための附属病院も開設され、その際にも下賜金を賜っています。 移築時には玄関新設、入側や10帖間・6帖間を改築し、便所の位置を変更して、流し台を新設。 平成元年に屋根の瓦葺きを銅板葺に改修し、畳替えを実施。 新病棟建設のため平成19年に現在地へ曳家されており、今年2016年10月以降には補修工事が実施される予定との事です。
恩賜館・玄関ホール
玄関ホール:研究所へ移築した際に新設
恩賜館・照明
照明:研究所へ移築した際に新設(左:玄関ホール、右:玄関外)
恩賜館・次の間
15帖の次の間
恩賜館・15帖間
15帖の大広間:大正時代に床の間脇の出入口の襖を違い棚に改築
恩賜館・15帖間天井
大広間の格天井
恩賜館・釘隠し
釘隠し(御中殿の物ではないとの事)
恩賜館・襖金具
襖の金具
恩賜館・中
大広間から玄関方向を見る
恩賜館・12帖間
次の間 横の12帖間:研究所へ移築した際、10帖間+押入れ→12帖間に改築
恩賜館・6帖間
大広間 横の6帖間:研究所へ移築した際に板の間に改装(御中殿時代は8帖間)
恩賜館・流し台
6帖間の奥にある流し台:研究所へ移築した際に新設
恩賜館・入側
入側:研究所へ移築した際に畳敷きを板敷きに変更、外側の板敷きの広縁を削除。(電灯も新設?)
恩賜館・便所1
便所:研究所へ移築した際に位置を変更(小便器の由緒は不明)
恩賜館・便所2
大便器:研究所へ移築した際に設置された高島製陶の物
恩賜館・手洗い所
手洗器(タン壺?):名古屋製陶所か?
化研病院
化学療法研究所附属病院:現在は呼吸器・消化器分野を主体に様々な診療科やリハビリセンターを設置。
現代的な、気胸・頭痛・ピロリ菌・胸やけなどの専門外来もあります。 ※詳しくはコチラ⇒【化研病院


 明治6年(1873/5/5)皇居・西ノ丸御殿が延焼すると、明治宮殿が完成するまで赤坂離宮が仮皇居となります。 赤坂離宮の地は紀州藩江戸屋敷跡を徳川家が献上した場所で、追加で献上された隣地に英照皇太后(明治天皇の嫡母)が移徙され、明治7年(1874/1/28)『青山御所』と定められました。 青山御所にあった御中殿は明治16年の大規模な改築を経て、明治25年に建替えのため解体保管されました。 明治30年(1897.1.11)英照皇太后が崩御されると、翌年に青山御所→『青山離宮』と改称され、東宮御所造営のため仮御所が設置されます。 一方の赤坂離宮については、明治20年に東宮御所日本館(花御殿)の平面計画が行われ、明治31年の現況配置図には既に完成した花御殿や別殿が載っています。
 明治38年の時点では、南半苑が青山離宮、北半苑が赤坂離宮で、中央には池と僊錦閣・寒香亭・洗心亭・衆芳亭・御茶屋・馬見所・養蚕場・茶畑・菊畑・蔬菜畑などがあったようです。 青山離宮には、東宮殿下(後の大正天皇)御座所・妃殿下御座所・御中殿(2代目)・表謁見所・御学問所・能舞台・地震殿などがありました。  赤坂離宮については記載がないですが、その頃は東宮御所(現・迎賓館)が建設中であり、解体された花御殿や別殿の一部が他へ移築されています。(花御殿→田母沢御用邸、別殿→明治記念館) 
 明治天皇が崩御された後、青山離宮は照憲皇太后(大正天皇の嫡母)の御在所となって、大正2年に再び『青山御所』となりました。
広大な青山御所の中でも皇太后の御座所は木造2階建の建物で、2階15帖を居間、1階4室を拝謁の間・読書室・化粧室・食事室としていたようです。 明治天皇崩御の後、営繕は程々にせよとの照憲皇太后のお言葉で、御座所の畳替え・壁の塗り替えだけに留め、大正2年7月に沼津の御用邸から青山御所へ移徙されました。大正3年(1914.4.9)沼津御用邸で静養中の皇太后が重体になり、4月10日に馬車で御用邸を出て、御召列車を使って新橋駅経由で、11日未明に青山御所へ戻り崩御されました。 青山御所は昭和15年『青山御殿』と改称。 昭和20年(1945/5/25)東京大空襲で焼失しています。
 昭和11年に赤坂離宮内に建設された東宮仮御所(一部2階建て1936.12.17竣工、設計.権藤要吉)は昭和18年まで明仁親王(今上天皇)の御在所でしたが同じく焼失。 しかし明治42年(1909)に完成した東宮御所は戦災を免れ、迎賓館として健在です。
また、赤坂離宮の花御殿にあった別殿(会食所など)は、現在は明治記念館に移築されています。
 明治25年に解体保管されていた御中殿(初代)は、明治26年に麹町一番町(現:千鳥ヶ淵戦没者墓苑地)内大臣官舎の和館一部として移築復元(1893.4.17竣工)。 木造2階建ての洋館と渡り廊下でつながる平屋建てでした。 これらの建物は御用済みの各地の建物を転用したもので、建設の際には洋館:高島嘉兵衛門、和館:大倉喜八郎が施工を請負いました。 敷地内に土蔵・職員官舎・厩舎などがあるこの官舎は、4棟ある番町官舎の内、明治43年から『番町一号官舎』と呼ばれています。 この屋敷には内大臣・徳大寺實則(明治天皇の元・侍従長)が大正元年まで居住。
その後、宮内大臣官舎となり、和館は昭和11年に解体され保存、その部材が昭和13年に千葉の化学療法研究所へと下賜。
 昭和20年3月の東京大空襲で現地に残っていた建物は焼失しましたが、残された恩賜館に番町一号官舎(御中殿)の片影を見る事ができます。

【参考文献】
「恩賜館 建物について」浅羽英男・石垣裕子 著 
「皇室建築:内匠寮の人と作品」鈴木博之 監修 2005 建築画報社
「照憲皇太后史」上田景二 編 1914
「東京案内・上」東京市 1907 
「赤坂仮皇居・青山御所配置平面図2」 内匠寮
「赤坂離宮・花御殿御殿平面図」 1898 内匠寮

【2016年7月 訪問】



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2015.
01.18
Sun
建築年 : 明治23年(1890)竣工、 平成11年復原
設計施工: 棟梁・西村市右衛門 ほか
見 学: 10:00~16:30(入館は16:00迄)有料、 休館は月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始
所在地 : 千葉県 佐倉市 鏑木町 274
交 通: 京成佐倉駅~徒歩15分、JR佐倉駅~徒歩20分、「厚生園」バス停~徒歩5分
TEL : 043-483-2390
       ※詳しくはコチラ⇒【旧堀田邸
旧堀田邸
 この屋敷は、旧 佐倉藩主・堀田正倫が明治23年に建てたもので、昭和26年から佐倉厚生園(現・佐倉厚生園病院)の所有となっていましたが、その一部を県と市が購入し、平成11年から一般公開。 「坂の上の雲(2010)」、「JIN-仁(2011)」等のドラマや映画のロケ地にもなっています。
現在は書斎棟と居間棟2F・門番所は非公開ですが、年に数回、特別公開されます。
旧堀田邸・2階
 堀田正倫は、明治4年の廃藩置県により佐倉藩知事を免職後、東京(本所・麻布・深川)に住んでおりましたが、明治20年に華族の旧領地への移住が許され、この土地2万坪を購入。 棟梁・西村市左右衛門(本所区緑町)を筆頭に東京の職人により明治23年に主屋が竣工。 この庭も本郷の前田侯爵家の日本庭園(現・東京大学。懐徳館庭園1890)を作庭した、染井の職人・伊藤彦右衛門が手掛けました。
その後も工事が行われ、明治27年に別邸として完了。 明治29年に堀田正倫が転籍して本邸となり、堀田農事試験場も併設しました。
 昭和に入ると堀田家が転居し、併設されていた農事試験場も閉鎖となった後ここは貸地となり、昭和17年(1942)から日産の厚生施設『佐倉日産厚生園』が開設され、軽度の結核療養所になりました。 昭和21年からは一般患者も受け入れ『佐倉厚生園』と改称。 昭和26年(1951)に佐倉厚生園は堀田家より土地建物を購入し、庭園を無料で一般公開、旧堀田邸は各団体に貸し出されました。
そして佐倉厚生園病院と老人ホームゆうゆうの里が新しく建設された後、旧堀田邸の敷地の一部を千葉県と佐倉市が購入し、平成11年から一般公開しています。
 ちなみに佐倉厚生園には吉村順三の設計によるサナトリウム(1953)があったようですが、佐倉厚生園に問い合わせたところ、その図面や写真はすぐには見つからないとの事。 そこで自分なりに捜してみると新建築43号(※1)に『佐倉厚生園住宅(1951年69㎡木造平屋建て,居間8帖,寝室6帖,3帖×2)』の平面図を発見。「普通の木造真壁の家である。採光通風がよく考えられ、また平面のローテーションにより住みやすい住宅となっている。」というコメントが添えられていました。 おそらく幹部か医師の住宅と思われますが、それも残念ながら現存していません。
旧堀田邸・玄関
玄関: 訪問時はイベントのパネルが展示されていた
旧堀田邸・中の口・金物
玄関脇にある『中の口』の帽子掛け
旧堀田邸・客座敷
客座敷
旧堀田邸・居間
居間2部屋は後に洋間へ改装
旧堀田邸・御寝之間
御寝之間は二重床になっているという。 床下からの冷気対策と防犯を兼ね備えたものか?
旧堀田邸・寝の間天袋引手
御寝之間の物入れは更紗の布張り
旧堀田邸・役女詰所
左側に居間、奥に御寝之間がある。
この部屋は役女詰所とあるが、長押もあり格式のある部屋。
旧堀田邸・2F上の間
2階 上の間: 床柱は唐松   (通常は非公開)
旧堀田邸・2F上の間・引手
2階 上の間(通常は非公開)     左:襖の引手、 右:床脇の戸棚の引手
旧堀田邸・居間と2F引手
左:1階居間の床脇地袋の引手     右:2階次の間の襖の引手
旧堀田邸・書斎棟
渡り廊下の先に書斎棟(通常非公開)がある
旧堀田邸・書斎上の間
書斎棟・上の間 (通常非公開)
書斎上の間・床脇棚
書斎棟・上の間の飾り棚 (通常非公開)
旧堀田邸・書斎上の間棚
左:仏像を安置していた様な壁龕       右:床脇の飾り棚 (通常非公開)
旧堀田邸・書斎上の間・地袋
壁龕の地袋には竹ひご網代編み (通常非公開)
旧堀田邸・書斎引手
左:襖(芭蕉布)の引手             右:違い棚上の物入れの引手
旧堀田邸・書斎天井
書斎棟・上の間の天井は更紗張り  (通常非公開)
旧堀田邸・書斎雪隠2
書斎棟の小便器と水屋   (通常非公開) 
旧堀田邸・書斎雪隠
書斎棟(通常非公開)の大便器と作者名・橋本三治郎
旧堀田邸・浴室
左:復元された湯殿           右:化粧の間は現在は茶室に改装
 湯殿は明治44年に農事試験場を視察に訪れた東宮殿下(大正天皇)のために増築された。
湯船はなく掛け湯による入浴だという。 後に仏間の次の間を浴室に改修したが元の状態に復元された。
旧堀田邸・萱門
上:茅門 その奥に茶室があった
下:堀田正倫の揮毫による「孤山餘韻」の扁額が掛かる
旧堀田邸・蔵
土蔵


 堀田正倫(まさとも)は正睦の四男として、嘉永4年12月に江戸小川町の藩邸で生まれました。 明治に入ると、徳川家存続の嘆願をした事で軟禁されますが、官軍に就いた佐倉藩兵の功績により謹慎を解かれ、佐倉藩知事(1869-1871)となります。 解任後は政府の命により東京本所の屋敷に移り、明治17年(1884)に伯爵となりますが、深川佐賀町の私邸(麻布の私邸は1872年に国へ上納し、代替地として水戸藩屋敷跡3500坪を取得したもの)が焼失し、佐倉の別邸へ移住。 殖産興業と教育に力を注ぐ事になり、明治30年4月に巨額の資金を投じて農事試験場を創設。 農作物の試作や家畜の飼育改良を開始しました。 
 大阪朝日新聞〔※3〕の記事によると、改良農法を提案しても農民達は信じず、まったく成果が上がらなかったので、収穫高が在来法より減少した場合は不足額を試験場が負担するという賠償試作制度を設けたところ、それに応ずる農民が続出し、結果的に大幅な増収になったとの事。
この功績などにより明治35年に紫白綬有功賞、第5回勧業博覧会で1等賞を受賞。 明治36年に第2圃場、翌年に第3縁圃場を増設して果樹園を開き、明治40年以降は養鶏の改良に力を注いだようです。
記事の中には、立花伯爵・松平康荘侯爵・加納子爵のほか、堀田正倫の後妻・伴子の父である、萬里小路道房伯爵の事が載っている事から、農業を通じて2人の縁が生まれたのかもしれません。
 その後、千葉県立の農事試験場が開設され、堀田農事試験場は大正11年に種芸部を廃止し、大正15年には園芸部・養鶏部も無くなり閉鎖となりました。
そして堀田正倫は、明治44年1月に他界し、菩提寺である甚大寺に埋葬。 生前の正倫は大日本私立衛生会佐倉支部設立にも力添えしていたようで、この地を佐倉厚生園に賃貸したのも正倫の遺志を継いだ堀田家ならではといえるでしょう。
 また、堀田正倫は教育にも力を注ぎ、佐倉中学校(現・佐倉高等学校)に株券10万円を寄付し、校舎の建設・奨学金制度に充てられました。
ちなみに校舎は『佐倉高等学校記念館(1910久野節設計)』として現存していますが、内部は管理棟として使用のため一般公開されておりません。
旧堀田邸・解説板
                       解説板より

【参考文献】
  「旧堀田邸保存整備工事報告書」 2002 佐倉市教育委員会 
  「旧堀田邸・庭園・古文書とわが病院~佐倉厚生園」
    日本病院会雑誌1993年11月号 日産厚生会理事長・佐倉厚生園園長・遠山正道 著
  「房総の偉人」 (1925多田屋支店) 林寿裕 著
  「佐倉市史」
※1  新建築43(1) 1968年1月号 「特集:吉村順三と住宅」 新建築社
※2 「華族の農業」(大阪朝日新聞1914.1.7~1.16)神戸大学附属図書館 蔵

【2014年4月 訪問】


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2015.
01.04
Sun
見  学 :9:00~17:00(入館は16:30迄)有料、 休館は月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始
所在地 :千葉県 佐倉市 宮小路町57
交  通 :JR佐倉駅~徒歩15分or、京成佐倉駅~徒歩20分or、宮小路町バス停~5分
T E L :043-486-2947
      ※詳しくはコチラ⇒【武家屋敷
佐倉・薬師坂
 武家屋敷と旧堀田邸、佐倉順天堂記念館を廻るため、JR佐倉駅前の観光情報センターで貸自転車を借りる事にしました。 職員に坂道があるか尋ねると、どちらも高台にあるため急坂か、延々と続く緩い坂になるとの事。 そこで短い急坂(薬師坂)のある武家屋敷から廻る事にしました。
言葉通りのその坂は、自転車を降りて登るほどの急勾配。 たとえ敵が攻めて来ても勢いが落ちるような坂です。 その薬師坂を上がると平らな道となり、生垣に囲まれた武家屋敷に辿り着きます。
佐倉武家屋敷
 この辺りは佐倉藩の上中級武士の屋敷があった所で『鏑木小路』と呼ばれ、屋敷の前に土手を築いてイヌマキ等の生垣を作り、背後に常緑樹や果樹を植えていました。 明治以降は一時、陸軍歩兵第二連隊の将校達が住んでいたようです。
現在は3軒の建物が公開されており、解体調査のうえ現地保存された旧但馬家の隣に、旧河原家と旧武居家が移築復原されています。
佐倉武家屋敷・解説
鏑木小路の一角にある解説版
高台にある城を川と堀で囲い、背後を武家屋敷と寺社にする事で守りを固めた。
この辺りの井戸は深くて水を汲むのが大変で、昔は「佐倉へ嫁やるな」と言われたという。
佐倉城大絵図
佐倉城大絵図 (展示パネルより)
堀外、左下の辺りが鏑木小路
旧河原家1
旧河原家住宅(18C後期~19C前期)…300石ほどの武士の住まい
佐倉で現存する最古の武家屋敷と云われ、昭和62年(1987)佐倉市に寄贈、平成元年3月から解体調査・移築工事開始。 式台・次の間・中の間・縁側が復原され、翌年(1990.6.30)から一般公開。 年4回の特別公開があり、室内に上がる事ができる。
旧河原家・座敷
旧河原家の座敷 
藩令(下記参照)によると佐倉藩では300石以上で漆喰壁が許されたが、千石未満は長押が禁止されたという。 旧河原家は天保の御制前に建てられたと想定し、この部屋には長押を復元しているもよう。 座敷・居間は近江表畳へり付、その他は七嶋表畳へり無しの仕様。
旧河原家・男部屋と居間
左:土間の脇にある男部屋             右:旧河原家の居間
旧河原家・刀箪笥
刀箪笥などが展示されている
旧河原家・茶の間
旧河原家の土間・台所・茶の間
旧但馬家
旧但馬家住宅(19C前期)…150石ほど
最初の住人は誠心流槍術師範の井口家で、岡田家を経て明治8年(1875)に但馬家の所有となった。
平成2年12月から解体調査・復原工事開始、平成4年(1992.5.1)から一般公開。
藩令(下記参照)により、座敷は近江表畳へり付、その他は七嶋表畳へり無しの仕様。
旧但馬家・座敷
旧但馬家の座敷:旧河原家よりも立派に見える
旧武居家
旧武居家住宅(19C中期)…90石ほどの武士の住まい
文政~天保頃には依田家、天保7-11年頃には服部家、安政6年には田島家が使用。
藩令(下記参照)により、座敷は七嶋表畳ヘリ付、その他は七嶋表畳ヘリ無し。
復原工事完了後、平成9年(1997.7.19)一般公開。 
旧武居家・土間
旧武居家の土間と台所
 この建物の解体発掘の際に、上下に口を合わせた素焼きの浅鉢が出土。 その場所は式台の箱段下から2組、土間の隅から7組で、胞衣(えな)納器と推測されています。
かつての日本では産後すぐ洗い清めた胎盤を土器や桶に納め、屋外や出入口の下などに埋め、(地域によっては屋根裏に吊るし)神祭式を行う家もあったようです。 明治~大正初期の家相本には胞衣納めとして、両親にとっての吉方位に埋める(日当り・通気の悪い所は避ける)と記されています。 また、ある地域では息のない赤子を救うため胞衣を火にかけたという事から、分身=身代わりであったのかもしれません。
 明治中期以降に各地で条例が出され、胞衣は専門業者で処理するようになりました。 千葉県では明治33年(1900.5.2)胞衣及産穢物取締規則が公布され、家や井戸・湧水から9.2m以上離れた地に埋めるか、それ以外の場所では91㎝以上の深さに埋める事となり、処理業者も免許制となったようです。
武家屋敷パンフ
天保御制(1833)により定められた佐倉藩の上中級武士宅の建築制限(既存建物は改修・増築の際に対象となった)
※写真はパンフレットより引用


 堀の方向にある『ひよどり坂』等、趣のある道は徒歩が良いですが、旧堀田邸と佐倉順天堂記念館は坂道は少ないものの多少の距離があるため、自転車での移動は正解であったようです。

【参考文献】
佐倉武家屋敷解説シート
「胞衣にみる産と育への配慮:禁制産育書における子どもと母の関係」(神戸大学レポジトリ2010)島野裕子 著
「家運発達子孫長久家相方鑒大奇書」 1919 松浦国美 著

【2014年4月 訪問】


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2012.
11.25
Sun
建築年:昭和30年(1955年) 
所在地:千葉県 市川市 市川4-1-5  TEL:047-373-1003
構 造:木 造 (国の登録有形文化財)
設 計:ヴォーリズ建築事務所
交 通:京成本線・国府台駅~徒歩5分、JR総武線・市川駅~徒歩15分

市川教会
 ヴォーリズ建築事務所の設計による建物が、真間川の傍にひっそりと建っております。 ※ヴォーリズについてはコチラを参照→【記事
市川市は東京の隣にあり、物価も安くアクセスも便利で住む人が増え、現在は巨大な街となっています。
北部にある市川や八幡は、旧石器時代の遺跡や貝塚が発見されるほど遥か昔から人が住んでいた地域で、明治以降は富豪が別邸を構え、永井荷風や北原白秋などの文化人が多く住んでいました。
南部は昔は海だった場所で、海抜が下がってから人が住むようになり「行徳」と呼ばれ、採れた魚介類や塩などを川を使って江戸へと運び、佐倉街道沿いは成田山参りの宿場町として栄えました。
この教会は北部に位置し、建物前にある真間川は、万葉集にも詠われた手児奈伝説の「真間の入江」跡と云われております。
市川教会・塔屋外部
 ルーテル教会は、1517年にマルチン・ルターが、「聖書のみ、恵のみ、信仰のみ」と、ローマ・カトリック教会に対し、正しい福音信仰に立ち戻る事を訴えてドイツで誕生。 後に、北欧・アメリカにも広がり、全世界に存在するようになりました。
日本では、アメリカのルーテル教会から1892年に最初の宣教師が送られ、翌年に宣教師シエラーとピーリーにより九州の佐賀で礼拝したのが、ルター派の伝道の始まりと云われています。
市川教会・内部
 昭和30年に建てられたルーテル市川教会が2011年の震災による被害を受け、教会と信徒から依頼を受けて、補修と耐震補強が行われる事になりました。 設計監理は伝統技法研究会が担当し、僅かな予算による工事が計画されました。 
 その後、自治体から補助金が一部支給される事となり、2011年に工事を開始。 2012年10月に工事は完了し、先日、完成後の教会内で伝統技法研究会の研修会が開催されました。
 設計を担当した伊郷氏・衣袋氏によると、主な構造材を残して床を解体、2011年11月から杭工事を始めたのですが、川沿いの地盤の為、50cm土を掘ると水が出てくる状態だったそうです。 今回の耐震補強は、基礎はアンダーピニング工法で沈下を防ぎ、筒状の物を全面に並べて配筋で挟み、ベタ基礎としています。 さらに、既存柱に鉄骨を合わせてバットラスの様に仕上げたり、階段廻りに鉄骨の補強柱を入れています。
 腐朽のひどかった箇所は、煙突下部・トイレや神父の小部屋、細長い窓の床下周辺。 窓の下にある水切りが、3方枠の内側で切れていたためか、窓枠を伝わった雨水が壁の内部にまわり、土台等が腐ってボロボロになっていたそうです。
 また、堂内の腰壁(ラワンベニヤ)や漆喰壁は新しくなりましたが、聖壇の腰壁は既存のまま。 天井仕上げのテックス(軟質繊維板)は当時の物で、白くなった所は色付けして補修。 照明は竣工当初から蛍光灯でしたが、LEDに変更。 屋根は赤茶色の瓦葺きでしたが、今回は予算の都合上、カラー鉄板葺きとなっています。
 その他は大きな腐朽もなく、床材などはそのまま使っており、完成後の床を見ても基礎を造り直したとは思えない程。 よって当初との違いは、外部に関しては、外壁の仕上げと色・バットレスの追加・煙突の撤去・鉄板葺き屋根などでしょう。
 今回、限られた予算で始められた耐震補強工事のため忠実な復原はできなかったようですが、今後の補修工事により当初の様子に戻していく事も可能でしょう。 神父と信徒により守れられた、生きている教会建築といえるかもしれません。
市川教会・模型
構造模型:赤い柱は新設の鉄骨材。
市川教会・玄関
玄関扉は当時の物。 右の写真は撤去された外壁の一部で、御影石風の左官仕上げだった。
市川教会・内部改修
左:雨漏りで腐朽していた、聖壇脇にある神父用の小部屋。 ステンドグラスは新設。
右:階段廻りに補強の鉄骨材を入れ、狭くなるので隠さずそのまま見せている。
市川教会・バラ窓
2階にあるスチール製の丸窓。いつ頃か不明だが部屋が造られ、この窓が隠れてしまっている。
窓の内側にベニヤの飾り枠を取り付け、窓枠と同様のグレーの色を塗っていた。
市川教会・塔屋
アメリカから送られた鐘。 日曜礼拝の前に、下の部屋から紐を引っ張り、鐘を鳴らす。
梯子しかないため、神父さんは塔屋に登る事は殆どないという。
直径50cm程の小さな鐘でも、その音は物凄い。 通常は鐘の下の床は蓋をしているので、階下には余り響かない。
市川教会・屋根裏
塔屋の屋根裏:一部、新規の部材に替えられている。
市川教会・窓
塔屋の窓も新しくなった。 細かい切れ目を入れ円形にした窓枠が珍しい。
市川教会・現物
撤去された部材の一部。2階丸窓の額縁は茶色で、右端の様なクリーム色の壁面もあった。
市川教会・内部2
 神父さんによると、教会が建てられる以前、西洋人が住んでいた洋館があり、その洋館を曳き家して裏手に移動したそうです。(その洋館は近年に解体)
そして井戸に蓋をし、その上に現在の教会が建てられましたが、今回の改修で床下全てにコンクリートが打たれ、井戸は塞がれました。
堂内の後方にある地下室は防空壕を兼ねた物置として掘られたようですが、余りにも湿気が多く、現在は何も使っていないそうです。

第5土曜日にはミニコンサートが開催されており、一般の方も鑑賞が出来ます。 ◎詳しくはコチラをご覧下さい。→【日本福音ルーテル市川教会
※見学のマナーとして、神聖な場所である内陣には、むやみに立ち入らないようにしましょう。
また、どの教会にも献金箱が置いてありますので、献金を心掛けましょう。

【2012年11月 撮影】

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