2017.
04.30
Sun
建築年:昭和3年(1928)竣工
設計施工:設計は藤井厚二、施工は酒徳金之助
所在地:京都府乙訓郡大山崎町
交 通:JR山崎駅 or、阪急大山崎駅~徒歩約10分(上り坂)
見 学:水・金・日曜日の時間限定で予約受付(人数制限あり)
 ※詳しくはコチラ⇒【聴竹居
聴竹居・サンルーム
藤井厚二の自邸・聴竹居では、藤井夫妻+子供3人+女中1人(計6人)が暮らしました。
細かいところまで工夫された空間と、当時の最先端である住宅設備を見てみましょう。
聴竹居・居間
居間:天井は杉柾板+鳥の子紙貼 
聴竹居・客間
客間:床面を広く、床の間を深く見せるため、落し掛けの位置より床の間の奥行を狭くしている。
部屋の片隅に蓄音機も設置
聴竹居・読書室
読書室:藤井と娘2人の机があるが、藤井は閑室にいる事が多かった
聴竹居・食堂
食堂:自邸2~3軒目の食卓は畳坐+椅子の併用、それ以降は椅子+ベンチに変わっている
聴竹居・流し
台所の流しと生ゴミのダストシュート  ※外部の様子はコチラを参照⇒【聴竹居①
聴竹居・冷蔵庫
電気冷蔵庫(右の写真はスイッチ)
上部に載っているモーターは、スイスのエッシャー・ヴィス社(Escher Wyss & Co.)製で、戦艦のタービンも作っていたメーカー
聴竹居・分電盤
分電盤:全室に電灯とコンセント、浴室にはシャワー用貯湯式電気湯沸し器を設置
ところが戦時中は電気もそれほど使えず、座敷3帖の上り框に襖を入れて火鉢を使っていたとの事
聴竹居・浴室
左:浴室           右:シャワーは貯湯式電気湯沸し器
聴竹居・便器
高島製陶の便器:大正4年(1915)9月に瀬戸で高島製陶が設立され、衛生陶器などを製造。
千葉の化研病院恩賜館にも同じメーカーの便器が現存している。
高島製陶にて徴用された人の話(※1)によると、戦時中に高島製陶は軍需工場となり、B5の紙より少し大きめの薄い磁器板を生産。
それは隔膜という物で、ロケット部品に関係があったという。
聴竹居・換気
上:居間座敷下の導気口         下:サンルームの天井排気口
木陰のある箇所に外気取入口を設け、導気口を通して室内に涼風を取り入れていた。
台所や廊下などにも天井排気口がある。


 現在、藤井厚二の設計の住宅で見学可能なのは、聴竹居(この建物)・後山山荘(鞆の浦・旧くろがねや別荘)・八木邸(寝屋川)となっており、藤井厚二の住宅志向を感じる事ができます。

【参考文献】
「床の間」藤井厚二 著 1934 田中平安堂
「聴竹居 実測図集」竹中工務店設計部 2001 彰国社
「聴竹居に住む : モダニストの夢」 高橋功 著 2004 産経新聞ニュースサービス
「聴竹居 : 藤井厚二の木造モダニズム建築」松隈章 著 2015 平凡社
※1)瀬戸地下軍需工場・戦時下の証言「海綿鉄について」加藤琢也 → 瀬戸地下軍需工場跡を保存する会HP

【2015年月10月 訪問】


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2017.
04.16
Sun
建築年:昭和3年(1928)竣工
設計施工:設計は藤井厚二、施工は酒徳金之助
所在地:京都府乙訓郡大山崎町
交 通:JR山崎駅 or、阪急大山崎駅~徒歩約10分(上り坂)
見 学:水・金・日曜日の時間限定で予約受付(人数制限あり)
  ※詳しくはコチラ⇒【聴竹居
聴竹居
 大山崎の高台に佇むこの建物は、住宅の改善に取り組んだ藤井厚二の5軒目の自邸です。
それまで平屋と2階建てに住んだ結果、藤井は平屋が最適と判断し、それに適する敷地として現在地を選びました。
実は伊東恒治(大阪船場の青山ビル設計者)も大山崎に住んでいました。 昭和3年の文献(※1)には、伊東恒治は京都帝国大学営繕課嘱託、住所は乙訓郡大山崎山崎駅上と記載されおり、その頃の藤井は京都帝国大学の教授。 近所としての親交もあったのでしょうか。
聴竹居・玄関
聴竹居・玄関 (細かい工夫がなされているので現地で確認してほしい)
外壁はクリーム色の漆喰、腰積みはRC造に靑龍石粒の洗い出し仕上げ。
当初の屋根は野地板(軒・ケラバ等を除く)を二重にした銅板葺きで、屋根裏の通風口の上だけ瓦葺き。 屋根は現在、着色鉄板葺きとなっている。
聴竹居・勝手口
勝手口と風呂釜
小さな戸を開ければ風呂の湯加減をチェックできる。 洗濯に使う残り湯も運べて便利。
聴竹居・ゴミ箱
台所前にある生ゴミのダストシュートBOXは、洗い水も少々流すため下水管を設置。 床下通気口もかなり大きい。
※室内の様子はコチラ⇒【聴竹居②
聴竹居・閑室
本屋の隣にある閑室(かんしつ:昭和3年) ※非公開 
書斎・接客用で、建物の角に2枚の玄関戸を設置した珍しい設計。 
藤井によると『閑室』とは、茶道の古い伝統にこだわらず和敬静寂を楽しみ、閑寂を旨とする室の意味との事。
聴竹居・下閑室
敷地内にある下閑室(茶室):昭和5年頃 ※非公開 
茶席・接客用として利用。 1畳台目中板敷きの茶室・座敷・板の間・立ち流しの水屋・便所などがある。
当初は腰掛待合(写真に写るベンチ)の前に小さな滝と浅い池があり、小川となって下の家に流れていたという。
座敷の床の間は少々変わっており、細長い地袋付きの棚に陶磁器や生花などを配列し、地袋の襖を開いて膝を入れて座り、間近に鑑賞できるよう工夫されている。 
聴竹居・彫刻
左:聴竹居の霊獣石像              右:伝道院の霊獣石像
竹中工務店が施工した伝道院(1912.伊東忠太設計)と同じ彫刻が庭の片隅にあるが、その由来は不明。

【藤井厚二の自邸】
1軒目…大正6年(1917)神戸市葺合区熊内で、2階建ての典型的な間取りで母と暮らす。
2軒目…大正9年(1920)大山崎町竜光の平屋建て。 その頃に高台の土地を取得し、後に防火水槽を兼ねた25mプールやテニスコート(戦時中に芋畑に変更)も完成。
3軒目…大正11年(1922)大山崎町の2階建て。 譲渡後、昭和36年の第二室戸台風で鉄板屋根が飛ばされ仮屋根で凌いでいたが、昭和30年代に解体。
4軒目…大正13年(1924)大山崎町の平屋建てで、屋根はセメント瓦葺き。 家族は住まなかったというが、解体部材は保管されているらしい。
5軒目…昭和3年(1928)平屋建ての聴竹居。 その他に閑室・下閑室・大工小屋・陶芸窯などがあった。

 藤井厚二は明治21年(1888)広島県福山の富豪で、造り酒屋「くろがねや」藤井家の次男として生まれ、大正2年(1913)東京帝国大学工科大学を卒業後、竹中工務店に入社。
大正7年(1918)千家尊福男爵の娘・壽子と結婚。 翌年に退社して欧米視察へ出掛け、帰国後に京都帝大の講師となり、大正15年(1926)教授になります。
竹中工務店時代には朝日新聞大阪本社(1916)・村山社長宅和館(1918)等を担当。 独立後は大覚寺心経殿(1925)・八木邸(1930)等の設計を手掛け、住宅研究に勤しみ、昭和13年(1938)他界。 自らデザインした墓(二尊院墓地)に葬られました。
大覚寺・心経殿
藤井厚二が設計した大覚寺心経殿:大正14年(1925)RC造
殿内には薬師如来立像と、天皇が書かれた般若心経の写経が納められており、60年に一度開封されるとの事。
次回は2018.10.1~開封で、嵯峨天皇が写経した年から1200年目に当たる。 
(建物内部や仏像が公開されるかは不明)  ※詳しくはこちら⇒【大覚寺

【参考文献】
「床の間」藤井厚二 著 1934 田中平安堂
「聴竹居 実測図集」竹中工務店設計部 2001 彰国社
「聴竹居 藤井厚二の木造モダニズム建築」松隈章 著 2015 平凡社
※1)「昭和3年 建築年鑑」1928 建築世界社

【2015年10月 訪問】


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2016.
12.16
Fri
建築年 : 大正3年(1914)
構 造 : 煉瓦造石貼り、2階建て
設 計 : 吉武 長一
所在地 : 京都市下京区東中筋通七条上ル文覚町402
交 通 : JR京都駅(バス乗り場方面)~徒歩10分
営 業 : 10:00~23:00(カフェは準備中)   TEL:075-342-0753

 ※詳しくはコチラ⇒【きょうと和み館
村井銀行七条支店
 かつての村井銀行七条支店であった建物は、団体レストラン『きょうと和み館』として営業中で、訪問時には1~2階全てに外国の団体客が昼食を取っており、1階カフェも個人客は受け入れておりませんでした。 
村井銀行七条支店・階段
 村井銀行とは、2代目・村井吉兵衛(1864~1926)が、専売法による煙草事業の売却金を資本として、明治37年に創設した銀行です。 大正2年(1913)東京日本橋に本店を新築して移転。
 しかし金融恐慌で破綻し、昭和3年(1928)昭和銀行に買収されました。 その銀行も1944年に安田銀行へ吸収合併。 この建物は、東邦生命保険(1947.12~1999.6)や、レストランSECOND HOUSE西洞院店(~2011.4.3)として使用されていました。
 他の村井銀行の建物では、祇園支店カーラ・ラガッツァ)、五条支店(1924→現:京都中央信用金庫東五条支店)が現存し、同じく吉武長一が設計したものです。 その他にも、安藤記念教会(東京1917)や、村井彌吉や村井貞之助の邸宅(現存せず)も手掛けていたようです。 吉武長一はペンシルバニア・テクニカルカレッジに留学し、教会も幾つか手掛けている事から、洗礼を受けたのではないかと思われます。
 ちなみに村井彌吉(婿養子)は、三島彌太郎子爵の弟で、美男子であったといわれ、東京帝国大学法学部を卒業し、28歳で吉兵衛の一人娘・久子と結婚。(※1) 村井銀行の総務を経て、後に村井炭鉱㈴社長となり、弥生炭鉱の他、築豊・常盤にも関わっていたようです。(※2)
 吉武長一の設計(清水組施工)による、東京永田町2丁目の村井彌吉の住まいは、1912年7月に着工・1913年5月竣工。 木造2階建て+地階、羽目板張りの外壁に、妻部分はチューダー様式。 1階は大広間・応接室・書斎・食堂・パーラー・台所・執事室。 2階は殆どが和室で、客間・居間・ビリヤード室・浴室・女中部屋など。 地階は使用人の浴室・物置との事。
 一方の村井貞之助(初代吉兵衛の次女・光子の夫)下渋谷の邸宅は、大正5年の設計図によると殆どが和室で外観も和風というものでした。(※3)
 なお、京都の村井吉兵衛の邸宅は『長楽館(設計J.M.ガーディナー,1909)』として円山公園に現存し、東京・永田町(現:日比谷高校の地)にあった山王荘の一部(1919頃)は、比叡山延暦寺の大書院として昭和3年に滋賀へ移築されました。 これは本格的な書院造りとなっています。(※非公開) なお、倉庫は永田町にそのまま残され、日比谷高校資料館として使用されています。
村井銀行七条支店・窓
裏手の窓に残る鉄扉。 防犯・防火のためシャッターなど設置する銀行は多いが、他の窓は?
村井銀行七条支店・金庫
1階に残る金庫の跡で、現在は厨房になっている。 この金庫にマンホール扉はないのか?
 ※マンホール扉についてはコチラ⇒【旧 三井銀行下関支店
村井銀行本店入口
東京の日本橋御幸ビル(現・三菱東京UFJ銀行日本橋中央支店)に、村井銀行本店の通用口だけが保存されている。
村井銀行出入口
左: 村井銀行七条支店の通用口        右: 村井銀行本店の通用口
摂津十三日講詰所
村井銀行七条支店の裏手にある、摂津十三日講の詰所(西本願寺の門徒組織の一つ)
近隣には、仏具店や西本願寺に関連する建物も多い。
山田たばこ店
山田たばこ店〕 京都市下京区花屋町通下松屋町
大宮通りから花屋町通りに入った所の、長屋の一角にあるタバコ店。 建物は大正~昭和前期と思われる。 土壁の代わりに外壁にタイルを使用。
山田たばこ店2
以前は、煙草以外にシャツやネクタイも販売していたようだ。
山田たばこ店3
左: 雨戸がシャッター代わり         右: 石製の敷居でタバコケースは新しい

【参考文献】
銀行図書館HP⇒【銀行変遷史データベース
(※1) 実業の日本 14(17) 1911/08, 17(3) 1914/02   実業之日本社
(※2) 金星4(12) 「我国現下の石炭界」村井彌吉 著   1916/12 金星社
(※3) 建築工芸叢誌. 第2期 (2) 1914/03, (23) 1916/09  建築工芸協会

【2014年9月 訪問】

【追記】
 旧村井銀行祇園支店(東山区四条通大和大路東入祇園町南側573-5)は、イタリアンレストラン『カーラ・ラガッツァ』となっていましたが、2015年10月に建物の前を通ったので覗いてみたところ、もぬけの殻となっており閉店していました。 室内は改装されており、銀行の金庫が残っているかは不明。 その後12月に違う店がOPENしたようです。

旧村井銀行祇園支店
2015年10月 撮影

●村井吉兵衛が東京に進出した頃、近所のガーディナー宅に娘・久子と、姪の加壽榮(義弟・貞之助の娘)を1年程寄寓させていたという。
 【参考文献】 たばこ史研究124号「村井吉兵衛と日比谷高校」中村由紀子 著 2013
●岡田信一郎設計の村井貞之助の逗子別邸(木造平屋)は、後に娘の加壽榮の所有となった。 既に解体されていると思われるが、国会図書館に図面が残る。


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2015.
05.11
Mon
建築年 : 大正11年頃(1922)
構 造 : 鉄筋コンクリート造、3階+地階
設 計 : 愛仁建築事務所、  改修はNEO建築設計室
所在地 : 京都市 下京区 七条通新町西入 夷之町721
交 通 : JR京都駅(バス乗り場方面)~徒歩8分

富士ラビット1
 京都のタクシーでお馴染みのヤサカグループ。 この建物は、創業者・粂田幸次郎が起業した日光社の旧社屋です。
現在は富士ラビットビルとして、1階の貸店舗は『なか卯』が営業、3階は住居となっているようです。
2階の『 CAFÉ Rabbit 』という喫茶店では、月1回の夜にクラシックライブコンサートが行われています。(毎月第三金曜日 20:30-21:30、チャージ¥1000 +Drink代)
Cafe Rabbit … 11:00~18:00 営業 ㊡土休日 (TEL)075-361-6241 ※ライブについてはコチラ⇒【Rabbit Live
富士ラビット3
 戦後は、富士ラビットスクーター㈱ という、ラビットスクーター販売特約店が使用し、その名は全国ラビット販売特約店のリストに載る。
ラビットスクーターとは、アメリカ軍のスクーター『パウエル』を手本に、富士産業㈱が昭和22年から販売開始した2輪車(S-1型)。 昭和43年のS-211A型を最後に生産が終了した。(※3)
ちなみに、富士産業㈱の前身は中島飛行機㈱で、戦闘機を製造していた会社だった。
富士ラビット4
1922年~2002年2月まで使用したという事だろうか?
富士ラビット2
建物の側面と背面。 『カフェ・ラビット』の入口はこちら。
富士ラビット5
正面にある照明
富士ラビット・欄間
1階店舗内から見たステンドグラス。 上: 左手の欄間、 中:中央の欄間、 下:右手の欄間


 大正5年(1916)粂田幸次郎が、京阪伏見桃山~明治天皇御陵間で路線バス事業を開始。 翌年、営業用自動車鑑札第1号・第2号を取得、京都初のハイヤーを営業します。(※1)
そして日光社を創業し、大正7年9月から自動車付属品やフォード自動車の輸入販売を開始。 昭和13年に株式会社 日光社を設立し、戦時中は自動車修理に専念。 
現在の株式会社 日光社は、フォード、フォルクスワーゲンの販売特約店として、東九条に本社を構えています。(※2)
 一方の「日光社自動車部」となっていたハイヤー部門は、昭和8年(1933)京都合同自動車 株式会社となり、現在はヤサカグループ(基幹:彌榮自動車 株式会社)として様々な事業を展開しています。(※1)
 この建物を手掛けた愛仁建築事務所の担当者については不明ですが、昭和30年~40年代の近畿建築士会会報に事務所名が出ており、所長・坂尻一郎の作品として、京都学園(現:京都光楠学園)宇多野学舎寄宿舎・中坊邸・山本邸があります。 坂尻一郎は茶室も手掛けていたようで、「茶道の四季. 冬の巻」(六月社1957)という雑誌に、「誰にも出来る簡単な茶席の作り方」という記事も載せています。 また、ヤサカグループの社章をデザインしたのも坂尻一郎でした。
富士ラビット・欄間2
 七条通りには飲食店が少なく、グルメサイトに出る店はどこも込んでいるので、近隣を一回りした後、なか卯に戻って昼食を取りました。
洒落た建物に入ったなか卯での鴨葱つけ蕎麦、乙な体験となりました。

【参考文献】 ※クリックすると、各HPへ飛びます。
    NEO建築設計室
※1) ヤサカグループ HP 
※2) 株式会社日光社 HP 
※3) ラビットハウス HP (ラビットスクーター愛好会) 

【2014年9月 訪問】


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2015.
05.03
Sun
見 学 : しょうざん庭園(北庭)は通年公開 (※庭園内の建物は非公開)
      9:00~17:00  年中無休 500円
所在地 : 京都市 北区 衣笠鏡石町47
交 通 : 市バス「北木ノ畑町」バス停~徒歩3分~裏門から入場
T E L : 075-491-5101 
 ※詳しくはコチラ⇒【しょうざんリゾート京都
千寿閣・庭
 この地は『しょうざん』の創業者・松山政雄が、着物の展示場を兼ねた観光施設として計画。
その完成を見ずに、松山政雄は亡くなっています。
 現在は高級プールやボーリング場、結婚式場が併設され、『しょうざんリゾート京都』と呼ばれています。 この『しょうざん』の名は松山を音読みしたもので、『羊』のマークは、開発したウール着物から由来します。
 バス+徒歩で来た場合は、裏門から駐車場を抜け、ボーリング場の横の総合案内場でリーフレットをもらった方が良いでしょう。 さらに宴会場の廊下を通り抜け、ホテルの庭園の様に整備された山道を歩いていくと、北庭に辿り着きます。
千寿閣1
北庭へ向かう途中にある千寿閣。 予約制で本格的な京料理をいただけるようだ。
千寿閣・彫刻
千寿閣の玄関にある、合戦の様子を刻んだ欄間。 
御土居
 京都に僅かに残る御土居の址で、石垣は後に設置。 御土居(おどい)とは土塁の一種であり、敵の攻撃から洛中を守る為に、豊臣秀吉が天正19年(1591)築造したもの。
この御土居がある鷹ヶ峯一帯は辺土であり、江戸初期1615年、本阿弥光悦が徳川家康から約9万坪を拝領し、光悦一族と共に職人達が移り住み、「光悦村」と呼ばれていた。 1681年に本阿弥家はこの地を返還。 本阿弥家の位牌堂跡に光悦寺が建立され、そこには光悦の墓が残る。
しょうざん・渓涼床
渓涼床(5月上旬~9月下旬)
紙屋川別館湧泉閣
紙屋川別館湧泉閣: 京料理のランチもあるようだが、訪問時は貸切りで入れなかった。
紙屋川別館湧泉閣2
紙屋川別館湧泉閣: 一部を移築したものらしいが、窓の形から峰玉亭(非公開)と同じ棟梁が手掛けたと思われる。 峰玉亭の平面計画は松山政雄によるものだが、移築前のこの建物も?
 ※峰玉亭についてはコチラ⇒【しょうざん庭園①
玉庵
玉庵 (茶室)    ※非公開
酒樽茶室1
酒樽茶室①: 醤油樽だったという説も有り。 現在は使用していないとの事。   ※非公開
酒樽茶室2
酒樽茶室②   ※非公開
聴松庵1
聴松庵: 裏千家 玄々斎(11世家元1877没)の設計による茶室で、大徳寺にあったものを明治以降に何度か移築、と解説板にある。  ※非公開
聴松庵・古写真
 聴松庵の以前の所有者について調べたところ、「聴松庵主人伝」(※1)という本があった。
その中の写真(上記)を見ると、京都の製陶業・松風嘉定(3代目)の邸宅にあった茶室と、この聴松庵の屋根の形が似ている。(扁額は違う物)
 松風嘉定(3代目)は洛陶会の会長として、東山の大茶会(1921/11/19-11/22)を開催した人物であるが、聴松庵の由来はこの本に書かれていなかった。 しょうざんにも確認したが、知っている者がいなくなってしまったとの事で確証は得られなかった。
聴松庵・楓?
松風嘉定邸・聴松庵の前にあった楓の切り株の可能性あり。 その楓は、日の丘峠(山科)にある小川の畔から、夜中に民家の軒や辻便所を取り払いながら、松風邸に運搬したもので、それは綺麗に紅葉したという。
聴松庵・腰掛待合
聴松庵の腰掛待合と砂雪隠(形式だけが残り使用出来ない便所。)
しょうざん・主屋
名もなき素晴らしい建物は、かつての松山家の住まい。  ※非公開
しょうざん・主屋裏
建物の裏手を見ると、崖沿いに建てられており、眺めの良い地下室がある。
しょうざん・園内
橋を渡ってしばらく林の中を歩くと小さな滝があり、石仏が祀られている
わかどり・旧松峰家
南門の近くにある、鳥料理『わかどり』の店は、明治の材木商・松峰家の邸宅を移築したもの。
わかどりランチ
わかどりのミニ御膳: これに唐揚げとデザートが付く。 その他の丼物は手頃なランチ価格。

【参考文献】
※1 「聴松庵主人伝」1930 藤岡幸二 著 (神奈川県立川崎図書館所蔵)

【2014年9月 訪問】


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