2017.
07.24
Mon
所在地:新潟県柏崎市大字新道5212-4
公 開:9時~17時、 有料
休館日:月曜・12月~3月 
アクセス:JR信越線柏崎駅~ 北越後観光バス野田行き約30分~駐在所前バス停~約3分
TEL:0257-20-7120
  ※詳しくはこちら⇒【飯塚邸
飯塚邸
 柏崎の大地主・飯塚家の本家の屋敷であり、江戸時代末期に建てられた主屋を中心に増改築を重ね、大正時代の新座敷棟2階が昭和天皇の行在所となりました。
飯塚邸・庭園
昭和天皇が『秋幸苑』と名付けられた庭園
飯塚邸2
庭園側に式台がある
飯塚邸・式台
式台:昭和天皇はこちらを使用されたのだろうか
飯塚邸・玄関
表玄関も立派
飯塚邸・表座敷
主屋の座敷
飯塚邸・奥茶室
奥茶室(小間の茶室は別にある)
飯塚邸・茶室棟
左:奥茶室の前にある石は佐渡の赤石か?
右:奥茶室の便所
飯塚邸・茶の間
主屋の茶の間
飯塚邸・2階
昭和22年(1889.10.10‐10.11)昭和天皇の行在所となった新座敷棟2F
飯塚邸・2F御座所
家具も当時の物が残る
飯塚邸・2F古写真
当時の写真                    ※展示パネルより
飯塚邸・2F化粧の間
新座敷棟2F化粧の間
飯塚邸・2F書斎
新座敷棟2F書斎
飯塚邸・2F部材
新座敷棟2Fの天井材と床材
飯塚邸・新座敷1F
新座敷棟1F
飯塚邸・浴室
洗面所と浴室
飯塚邸・電燈昇降器
蔵に展示されていた大島式電燈昇降器


 柏崎の名士であった飯塚彌一郎(1852‐1923)は柏崎銀行の頭取、日本石油などの役員を務め、弟は山田順一(衆議院議員)と渋谷善作(長岡商工会議所会頭・県会議員)、親戚に関矢孫左衛門/忠靖(森林運動家・衆議院議員)や内藤久寛(日本石油社長・衆議院議員)がおります。
 内藤久寛の著書(※1)によると、彌一郎は父を早く亡くし家督を継いで色々苦労した人で、親戚に対しても親切に世話してくれたとの事。
彌一郎の長男が病死し、次男である知信が飯塚家の本家を継いだと書かれています。
 その飯塚知信は明治25年に生まれ、早稲田大学卒業。 高田村長や貴族院議員となり、東京牛込榎町に別邸もあったようです。
また柏崎農業高等学校のために所有地を県へ寄付するなど、数々の公的援助もしました。
飯塚邸・庭石
【参考文献】
「中支皇軍慰問行」1940 越後タイムス社
「刈羽郡案内」関甲子次郎 著 1976 柏崎市立図書館
※1「春風秋雨録」内藤久寛 著 1957 春風秋雨録頒布会

【2016年8月 訪問】


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2017.
07.09
Sun
建築年:明治後期
設計施工:設計者は不明、棟梁は14代 伊藤佐久ニ
所在地:岡谷市御倉町2-20 
見 学:9:00 ~16:30(12/1~2/末は16:00まで) 有料
休館日:水曜日・祝日の翌日・年末年始
TEL:0266-22-2330
アクセス:JR岡谷駅~徒歩約 5分
  ※詳しくはこちら⇒【岡谷市HP
旧林家住宅
 製糸場・鉄砲店を営んでいた初代・林国蔵(1846-1916)の本邸で、約10年の歳月を掛けて完成したと云われています。
林家が東京へ本居を移した後この建物は別荘となっており、普段は管理人だけが常駐していました。
昭和62年に所有者の(イチヤマカ)一山カ林合名会社から土地売却の申し出を受け、平成元年に岡谷市が買収(建物・調度類は寄贈)、修復工事が行われ、平成6年から一般公開されています。
旧林家住宅・蔵

旧林家住宅・蔵2
外蔵: 繭の貯蔵用として明治26年頃建造。 殆どの部材がカツラを使っているため桂倉とも呼ばれている。 
旧林家住宅・洋館1
洋館:昭和3年に敷地の隣にあった旧イチヤママル製糸所(ヤマトモ岡谷製糸)が火事になって洋館屋根が類焼し、瓦屋根→金属屋根に改修。 外壁の色が一部違うのは平成の修復工事によるもの。
旧林家住宅・洋館装飾1
外壁はセメン漆喰
旧林家住宅・洋館装飾2
乙女チックな装飾
旧林家住宅・主屋座敷
主屋の表玄関隣りにある座敷
旧林家住宅・主屋上座敷
主屋の上座敷
旧林家住宅・彫刻
上座敷の彫刻は松本の彫師・清水虎吉(好古斎)作
旧林家住宅・台所
台所
旧林家住宅・呼び鈴
提灯箱と呼び鈴
旧林家住宅・仏壇
仏壇
旧林家住宅・仏壇彫刻
仏壇の彫刻も清水虎吉(好古斎)作
旧林家住宅・装飾
左:広縁にある欄間              右:便所の建具の引手
旧林家住宅・離れ1F上座敷
離れ1F上座敷
旧林家住宅・離れ2F座敷
離れの2F座敷は天井・壁・襖が金唐革紙貼り(一部補修されているが当時の物)
旧林家住宅・茶室
洋館の内部にある水屋と茶室
旧林家住宅・茶室横座敷
茶室横の座敷
旧林家住宅・家具1
洋館の調度類
旧林家住宅・家具2

旧林家住宅・洋館内部1

旧林家住宅・漆喰彫刻
洋館の漆喰彫刻


 林国蔵は弘化3年(1846)倉太郎の長男として生まれ、家業の製糸所を継承します。 
林家は倉太郎の代に坐繰製糸を成し、明治9年に岡谷に天竜製糸所(後の一山カ製糸場)を開設。 生糸の統一を計るため片倉と林で開明社を創業し、共同揚返所を設けます。 明治19年(1886)倉太郎が亡くなると国蔵が製糸所を受け継ぎ、開明社にも参画。 社長は片倉や林と一年交代で務め、諏訪薪炭㈱設立、郵便局設置・中央線の開通を薦めました。
 林国蔵は明治24年頃から東京に進出し、鉄砲商・川口亀吉の死別により免許を継承して明治26年(1893)「川口屋林銃砲火薬店」を創業。 店舗も馬喰町から本銀町へ移転して事業を拡大、全国で1・2位を争う業者となります。
製糸業でも岡谷の屋敷の隣にイチヤママル/一山○製糸所、深谷のイチマル/一○製糸所(開国館)と工場を増やし、その他にも炭田や津川鉱山を買収、有志と共に諏訪索道㈱や諏訪薪炭㈱を設立しています。
しかし、明治40年恐慌が原因で岡谷の2つの製糸場を手放し、大正5年(1916)国蔵が他界するとその翌年、深谷の一○製糸所(開国館)も買収されました。
 一方で川口屋林銃砲火薬店は、2代目・林国蔵(宮澤豊助:旧藩士の家の出)が事業を継承。 一時ダイナマイト等も取り扱っていましたが、現在は㈱川口屋となり、コンサートグッズでお馴染みのルミカライトや発炎筒・塗料などの販売の他、法面緑化・展示会ブース工事なども行っているようです。
 ちなみに深谷の開国館に関する明治44年の文献によると、深谷停車場の南側にある池は開国館が製糸用に用いるため明治43年に開掘し、堤上に桜の木を移植したとなっており、現在の下台池公園と思われます。
旧林家住宅・蔵4
【参考文献】
「日本製糸業の大勢 : 成功経歴」岩崎徂堂  1906 博学館
「深谷案内」大谷高重良 1911
「深谷案内」高田晴司  1923 深谷案内編纂会
「旧イチヤマカ林家住宅:シルクと金唐紙の館」信濃建築史研究室 2001 岡谷市教育委員会
「日本橋紳士録」1929 日本橋紳士録編纂所
㈱川口屋⇒ 【H P】  

【2016年7月 訪問】


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2017.
06.27
Tue
建築年:昭和11年(1936)
構 造:鉄筋コンクリート造2階建、一部地下あり
設計施工:設計は三苫繁實(長野県営繕課)、施工は岡谷組
所在地:長野県岡谷市幸町8-1(岡谷市役所前)
アクセス:JR岡谷駅~徒歩約20分

旧岡谷市役所
 2016/7/2に市制施行80周年の記念事業として旧岡谷市役所庁舎が1日だけ公開されました。
通常は一般公開されておらず、現在は(公財)おかや文化振興事業団の事務所となっています。
旧岡谷市役所2
 昭和11年に平野村が岡谷市になる事となり、製糸家・尾澤福太郎が私財を投じて市庁舎を建設して市に寄付。
昭和10年6月着工、昭和11年3月に竣工、落成式が5/23に行われています。
そして昭和62年まで市役所、平成27年まで消防庁舎(岡谷消防署)として使用されました。
旧岡谷市役所・玄関タイル
玄関タイル
旧岡谷市役所・1F
左:公衆溜り                右:カウンターは増設されている
旧岡谷市役所・事務室
事務室裏手
旧岡谷市役所・便所/電話室
左:便所                    右:電話室
旧岡谷市役所・1F村長室
1F村長室(畳敷きに改修)
旧岡谷市役所・1F食堂
1F食堂
旧岡谷市役所・1F宿直室
1F宿直室
旧岡谷市役所・1F宿直室床の間
1F宿直室:立派な床の間付き
旧岡谷市役所・階段①
階段➀
旧岡谷市役所・平面図1F
1F平面図 (パンフレットより)
旧岡谷市役所・平面図2F
2F平面図 (パンフレットより)
旧岡谷市役所・2F議場
2F議場
旧岡谷市役所・古写真
議場の古写真  ※展示パネルより
旧岡谷市役所・2F議場の枠
左:議壇はなくなっている              右:丸窓
旧岡谷市役所・映写室
左:映写室                    右:屋根は鉄骨組
旧岡谷市役所・2F議場控室
左:議場控室(どの部屋も天井が高い)扉の奥は議場であったが部屋に改造している
右:腰壁の板   
旧岡谷市役所・2F貴賓室
2F貴賓室
旧岡谷市役所・2F議員室①
2F議員室①
旧岡谷市役所・2F議員室②
2F議員室②:床の間があるが畳敷きではなかった
旧岡谷市役所・2F委員室①
2F委員室①:こちらも畳敷きではなかった
旧岡谷市役所・階段②
階段➁
旧岡谷市役所・左玄関
左玄関の扉とホール
旧岡谷市役所・外壁
スクラッチタイルとボイラー用の煙突
タイルは信州・高遠町の丸千組(高遠焼)の物だという
旧岡谷市役所・外壁2


 尾澤福太郎は万延元年(1860)岡谷村で金左衛門の長男として生まれ、家業の尾澤組(カクキ)を経営。 大正12年に㈱尾澤組となった会社が、さらに片倉製糸紡績会社と合併して常務取締役に就任しました。
尾澤家は金蔵の代に坐繰製糸を成し、金左衛門が明治9年に坐繰を廃して工場を建設。 生糸の統一を計るため片倉と林で開明社を創業し、共同揚返所を設けます。 社長は片倉や林と一年交代制で務め、諏訪薪炭㈱設立、郵便局設置・中央線の開通を薦めました。
 品性高尚な母に育てられたという若い頃の福太郎については、「其豊頬愉顔なる福象は眉の間に、温良謹厚にして至誠至孝なる天然の美質は妙に其慈惰を表し、真を写して人を動かしむ。恰も鼠を捕る猫は爪を隠すと、翁に代わりて掌司す。」と表現され、弟の琢郎や亮一と共に事業を継承していたようです。(※1)
尾澤福太郎の銅像クリーニング
尾澤福太郎の銅像(岡谷出身の彫刻家・武井直也作)が武蔵野美術大学によってクリーニングされていた
マル千小口店
岡谷駅へ向かう途中にある立派な蔵を持つ店 
かつてマル千小口(岡谷市幸町6-27)という店であったようで、窯業/金属業となっている。
スクラッチタイルは使われていないが、これも丸千組と何か関係があるのだろうか?

【参考文献】
諏訪総合設計㈱HP「正博の建建諤々」(2003耐震診断)
(※1)「日本製糸業の大勢 : 成功経歴」岩崎徂堂 編 1906 博学館

【2016年7月 訪問】


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2017.
06.13
Tue
建築年:昭和7年(1932)
構 造:1階はRC造、2階は木造
所在地:東京都日野市日野本町7-12 仲田公園内
交 通:多摩モノレール甲州街道駅~徒歩約12分 or、JR日野駅~徒歩15分
公 開:年1回位(日野市が所有、日野市産業まつり等で公開)
日野桑園第一蚕室・南面
 こちらは桑や蚕の品種改良・生育研究などをしていた国立の蚕業試験場分室の建物でした。
現在は日野市所有で通常非公開ですが、仲田の森遺産発見プロジェクト等により、調査や見学会(不定期)が実施されてきました。
現在は年1回程度、11月に行われる日野市産業まつりで1階のみ公開されています。
日野桑園第一蚕室・北面
北面は窓が大きく、庇が長い
日野桑園第一蚕室・軒天
軒天に残る屋根裏換気口?
日野桑園第一蚕室
玄関
日野桑園第一蚕室・事務室
事務室
日野桑園第一蚕室・廊下
蚕室の両側にある廊下
日野桑園第一蚕室・蚕室
蚕室
日野桑園第一蚕室・炉
蚕室を暖める炉は埋薪法(薪の上に籾殻)を採用。 後に電熱線→室内ヒーター(夏は水冷)→温風機に変更
日野桑園第一蚕室・ラジエーター
ラジエーター式ヒーター(夏は水冷)
日野桑園第一蚕室・天井
蚕室天井:開口部は換気と物の出し入れ用
2階は一時、上簇(回転まぶし)の時に使用したが、それ以降は物置だった
日野桑園第一蚕室・作業室
作業室(2F大広間の物置は非公開)
日野桑園第一蚕室・作業室2
作業室:左手に火起場と桑貯蔵室、右手は蚕室
日野桑園第一蚕室・火起場
火起場にあるボイラーで湯を沸かし、蚕室のヒーターに使用
日野桑園第一蚕室・配置図
展示されていた配置図:第6蚕室(通称・かっぱハウス)は2011年に解体
日野桑園第一蚕室・図面
当初の配置図と第一蚕室1F平面図 ※展示パネルより
1Fは事務室・蚕室・作業室・桑貯蔵室・火起場(ボイラー室)
2Fは倉庫、東西方向はバルコニーになっていた(現在、西側に屋根がかかる)
日野桑園第一蚕室・庁舎跡
庁舎(竣工1936頃)の基礎跡
仲田公園・湧き水
西門付近にある湧き水:現在はポンプUPしているようで水の勢いが良い。 飲用水ではないが地元の方がペットボトルで水を汲んでいた。
精進場
近くにある精進場跡:用水の合流地点はかつて池の様になっており、参拝者が霊山へ登る前に体を清めた場所だという
日野本陣
日野宿本陣:かつて八王子千人同心が暮らしていた日野には、春日隊・新選組に関する資料館が点在する


 東京の高円寺にあった農林省『蚕業試験場』が、昭和3年頃(1928)この地に研究部門の分室と第一桑園を設置。 敷地内には調査室や寄宿舎があり、近隣には第二桑園(石田)・第三桑園(谷戸上)がある広大な試験場でした。
日野地域は地下水が高く、高温多湿・干ばつ・9月に長雨と、桑の育成にはやや不利でしたが、土壌改良と消毒効果で徐々に好転します。
 高円寺の本場『蚕業試験場』は、明治 44 年(1911)農商務省『原蚕種製造所』として設立。 大正3年(1914)農林省『蚕業試験場』になり、昭和12年『蚕糸試験場』と改称。 昭和 55年に筑波へ移転するのにともない、この日野桑園も閉鎖されました。 そして、高円寺の跡地は蚕糸の森公園となり、日野の跡地は仲田公園・仲田小学校・ふれあいホール・スポーツ公園となりました。
 かつての蚕業研究は盛んで、国立・県立・私立による蚕糸試験場と飼育所が全国各地にありました。 しかし、昭和32年からの『なべ底不況』で市場価格が暴落し、政府が生糸買い上げを行った結果、在庫を抱えて桑園の減反へと政策が変更されます。
これにより昭和33年(1958.10.1)国立の蚕糸試験場は大幅な組織改革が行われました。
◇4支場は改称(福島→東北、松本→中部、綾部→関西、熊本→九州)
◇明石支場は廃止
◇その他の支場と飼育所も廃止だが、全部又は一部の施設を利用(新庄支場→新庄原蚕種製造所、前橋支場→養蚕部、武豊支場→本場附属武豊試験地、宮崎支場→宮崎原蚕種製造所、四国飼育所→関西支場四国試験地、山川飼育所→九州支場山川試験地、小淵沢飼育所→小淵沢原蚕種製造所)
◇岡谷製糸試験所は整備強化を図る(元は日本蚕糸統制㈱の検査所であり、解散したため昭和22年に農林省へ移管)
 その後も業務変更/廃止/改称/移管が実施されるなか、日野桑園は蚕糸試験場の分室として残っていましたが、昭和 55年に本場が筑波へ移転するのにともない日野桑園も閉鎖されました。
ちなみに現在、日野桑園第一蚕室以外に公開されている国立蚕糸試験場の建物は、「前橋市蚕糸記念館」として敷島公園バラ園内に移築復元された前橋支場本館(明治44年竣工)と、「原蚕の杜」の中に現存する新庄支場の建造物一群(昭和9~12年竣工)となっています。
※岡谷製糸試験所の跡地は岡谷蚕糸博物館となり、工場では実際に稼動している製糸機械などを見学できます。
桑

【参考文献】
蚕糸研究68「蚕糸試験場日野桑園における飼育成績17年間の推移」原田忠次 著 1968 農林水産省蚕糸試験場
「農林水産省における蚕糸試験研究の歴史-Ⅷ.蚕糸試験場(昭和12年)」北村實彬・野崎稔 著 2004 農業生物資源研究所 
「旧蚕糸試験場日野桑園第一蚕室(桑ハウス)保存活用に向けた復原調査報告書-改訂版-」2015 仲田の森遺産発見プロジェクト

【2015年11月 訪問】


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2017.
05.29
Mon
建築年:明治中期、何度か改修有り
所在地:千葉県市川市国府台2丁目
交 通:JR市川/松戸駅前~和洋女子大学前バス停~徒歩約3分
公 開:年1回位(千葉県が所有し、赤レンガをいかす会が主催)
  ※詳しくはこちら⇒【赤レンガをいかす会
国府台旧陸軍武器庫1
 千葉県市川市にも赤煉瓦の建物が残っています。
近年まで旧陸軍の施設を千葉県血清製造所が使用し、各種ワクチンを研究・製造、人々の健康を守りました。
国府台旧陸軍武器庫・外壁
左:床下通気口                右:窓と庇
国府台旧陸軍武器庫・平面図
現況図(展示パネルより)
国府台旧陸軍武器庫・1F1
1F :研究所が昭和29年に冷蔵室に改装し、その後も壁天井など改修されている
国府台旧陸軍武器庫・扉1
冷蔵室の扉
国府台旧陸軍武器庫・冷蔵室扉
冷蔵庫の扉は木製だが古さは感じない
国府台旧陸軍武器庫・1F2
1F冷暗室(改装済み)
国府台旧陸軍武器庫・1F扉2
1F冷暗室の木製扉(こちらは古そう)
国府台旧陸軍武器庫・1F4
左:1階冷暗室の出入口          右:階段
国府台旧陸軍武器庫・階段
階段
国府台旧陸軍武器庫・2F
2階
国府台旧陸軍武器庫・窓1

国府台旧陸軍武器庫・窓2
窓枠
国府台旧陸軍武器庫・窓3
窓枠
国府台旧陸軍武器庫・天井
天井
国府台旧陸軍武器庫・天井2
天井の仕切り壁が紙貼り?
国府台旧陸軍武器庫・金具
壁に残る掛け釘
国府台旧陸軍武器庫・掛け杭
用途不明のフック
国府台・貯水槽
里見公園分園に残る貯水槽:かつて高台のため井戸を掘るのが大変だと云われていたので、ポンプで水を引いたのだろうか?


 明治8年、かつての国府台城跡地に大学を設置する事になり、政府は近隣一帯の土地を購入しますが、交通不便・高台のため井戸を掘るのが大変という理由で計画が頓挫。
代わりに陸軍の下士官を養成する教導団学校が、馬場先門外から移転する事になりました。 明治19年に完成した施設には、フランスの病院を視察して建設した病棟と看護術の学舎も併設されます。
その後、教導団学校は明治32年に廃止されて陸軍の施設に。 国府台衛生病院は国府台陸軍病院と改称され、戦後は国立 国府台病院となりました。
 この赤煉瓦の建物がある場所は陸軍時代、独立工兵第25連隊(工兵隊)の本拠地となり、石油を掘るため国内各地に隊員が派遣され、測量や撮影などを行ったとの事で、一部の将校も石油を掘る技術を学びに来るほど専門的な部隊であったようです。
 この地は終戦後に千葉県血清製造所が土地建物を使用しましたが、実はこの血清製造所の設立も陸軍に関係があります。
昭和19年から東京の陸軍軍医学校が各地(京都・金沢・新潟・山形・千葉)に疎開し、千葉では中山競馬場に中山出張所を開設。 免疫馬を使ったワクチンの製造を再開します。
 終戦後の昭和20年11月に国立病院へ移管されると、衛生資材は全国の研究所へ無償譲渡。 同年12月からGHQが施設を接収しますが、昭和21年2月に返還されています。
昭和21年4月から千葉県血清製造所として開設し、9月から国府台へ移転開始。 寒天・肉エキス・免疫馬を1ヶ月以上かけてトラックで運び、国府台の旧陸軍施設を厩舎と宿舎に使用。 12/24に開所式が行われました。
その当時、敷地内には木造と煉瓦造の旧陸軍施設が数棟あり、主な建物の用途(旧陸軍工兵隊→千葉県血清製造所)は…
・材料工場(木造平屋)→免疫馬の厩舎・トラックの車庫
・発動機実習棟(木造平屋)→医務室・宿舎・採血所・破傷風室など
・火力式発動機棟(煉瓦平屋)→ワクチン培養室・作業室
・写真室・充電実習棟(煉瓦2F)→事務室・所長室・研究室・講堂
◎武器庫(煉瓦2F)→昭和29年に破傷風室に改造し1F冷蔵庫・2F書類庫
・精密機械工場(木造平屋)→分注・包装室
 千葉県血清製造所は建物を増改築しながら各種ワクチンの研究・製造を行い、昭和24年に千葉県血清研究所に改称。 国へ何度も提出していた土地建物払い下げ申請が昭和38年に一括許可され、昭和41年に製造棟、昭和42年に事務・研究棟を新築。※どちらもRC造5F+B2F建て
殆どの建物は解体され建て替えられましたが、唯一この赤煉瓦(武器庫)の建物だけが残りました。
 千葉県血清研究所は、とても有能な天然痘ワクチン「LC16m8」を開発しますが、天然痘自体が撲滅されワクチンも世に出回わらず、平成14年(2002)血清研究所が閉鎖。 同年10月に千葉県衛生研究所が業務を引き継ぎますが、この地はそれ以降ほとんど使用されていません。
しかし、この建物の保存を願う『赤レンガをいかす会』主催により年1回、赤煉瓦の建物が公開されており、年々 見学者が増加しているようです。
国府台旧陸軍武器庫2
【参考文献】
「市川市史. 第3巻 (近代)」市川市史編纂委員会 1975 市川市  
「市川市国府台における砲兵隊・工兵隊の記録」武井順一著 1997
「千葉血清五十年史」千葉県血清研究所 1997

【2015年11月 訪問】


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