2017.
09.03
Sun
建築年:昭和13年(1938)、増改築有り
設計施工:清水組
所在地:東京都世田谷区瀬田4-41-21
見 学:9:30~16:30、無料
休館日:月曜日(祝日の場合は次の平日)、年末年始
アクセス:東急コーチ「玉川病院」バス停~徒歩約2分 or 東急電鉄・二子玉川駅~徒歩約20分
TEL:03-3709-5471
   ※詳しくはコチラ⇒【旧小坂家住宅
旧小坂家住宅
 二子玉川の山手にある瀬田付近は、明治以降になると実業家や文化人が別邸を設けました。 
静嘉堂文庫美術館や岡本民家園の近くにあるこの家は、小坂順造の別邸として建てられたもので、渋谷にあった本邸が昭和20年の戦災で焼失したため居宅となり、小坂順造は昭和35年(1960.10.16)この家で亡くなっています。
旧小坂家住宅・玄関天井
玄関の天井:主な部材は奥多摩の名主の家から移設したものと云われる
昭和12年(1937)7月に起工、10月2日上棟、昭和13年9月竣工
旧小坂家住宅・玄関
左:土間のある玄関         右:電話室
旧小坂家住宅・茶室
左:玄関脇にある茶室        右:広縁にある水屋は戸棚式
旧小坂家住宅・書斎1
書斎:暖炉上には仏像が置かれていた
旧小坂家住宅・書斎3
書斎の空調ガラリ(ラジエーター式ヒーター)
旧小坂家住宅・照明
左:書斎の照明                  右:書斎の壁紙
旧小坂家住宅・居間
居間(次の間が茶の間)
旧小坂家住宅・台所
台所の食器棚(流し台は新設)
左手に勝手口があり、その脇に地下(ボイラー室)の扉がある
昭和28年(1953)台所は増改築された
旧小坂家住宅・呼び鈴
呼び鈴
旧小坂家住宅・洗面脱衣室
洗面脱衣室
旧小坂家住宅・浴室便所
左:浴室               右:便所
旧小坂家住宅・廊下
左:内蔵               右:階段(2Fは令息室※非公開)
旧小坂家住宅・更衣室
更衣室(ウォ-クインクローゼット):鏡台は長女・百合子の嫁入り道具
旧小坂家住宅・寝室1
主寝室:昭和29(1954)暖炉を琉球産トラバーチンに交換
旧小坂家住宅・寝室2
主寝室
旧小坂家住宅・サンルーム
左:主寝室の洗面所           右:サンルーム
旧小坂家住宅・照明2
照明(左:玄関、 右:階段室)
旧小坂家・茶室跡
茶室跡:主屋は高台にあり、茶室は低地にあった。
この家の近くに住んでいた画家・竪山南風の紹介で、横山大観夫妻が上野の池之端から疎開し、昭和20年3月から3ヶ月程ここに居住。
しかし空襲で焼け出された小坂家三男・徳三郎一家が住む事になり、熱海の別荘へ転居。
空襲で全焼した池之端の跡地に昭和29年に横山大観は家(現:横山大観記念館)を再建している。


 小坂順造は明治14年(1881.3.30)小坂善之助の長男として長野の村山村で生まれ、東京高等商業学校卒業後に日銀へ就職。
信濃毎日新聞・信越化学工業・信濃電気・長野電燈の社長や、日本発送電㈱の総裁を務め、衆議院議員にも当選しています。
父親の小坂善之助は、信濃銀行や長野電灯を創設した人物で、衆議院議員や信濃毎日新聞社長にも就任。
妹2人は日銀総裁の深井英伍や第百銀行頭取の関根善作の妻であり、順造の長男・善太郎は外務大臣、三男・徳三郎は運輸大臣となり、政界や金融界にも繋がりがありました。
 順造の妻・花子はキリスト系女学校出身で、「二十世紀」梨の名付け親である渡瀬寅次郎の長女。
夫妻はしつけに厳しく、子供達は働かなければ小遣いがもらえなかったといいます。
晩年は東京で暮らした小坂順造ですが、死後は長野の生家の裏庭にあるお墓に埋葬されました。
ちなみに小坂順造の生家(江戸末期・茅葺き)は、昭和34年の映画『風花(木下恵介監督)』の撮影に使用されています。

【参考文献】
「小坂順造」 小坂順造先生伝記編纂委員会 1961
実業の日本56(27)「小坂順造をとりまく人々」 鈴木富起人 著 1953 実業之日本社 
中央公論経営問題17(2)「小坂家三代・男たちの系譜」 有馬 真喜子 著 1978 中央公論社
学苑 (通号 700)「旧小坂順造邸(世田谷区)の調査報告」 堀内 正昭 著 1998 光葉会
「風のコラムVol13」 2016 世田谷トラストまちづくり大学同窓会

【2016年10月 訪問】


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2017.
08.20
Sun
建築年:明治中期、 改修あり
所在地:新潟県上越市仲町3-5-4
アクセス:えちごトキめき鉄道・高田駅~徒歩約5分
営業時間:昼 11:30~14:00/夜 17:30~22:00
休業日:第2月曜日(不定休)
TEL:025-524-2217
  ※詳しくはこちら⇒【宇喜世
宇喜世
 高田に残る老舗の料亭で、地元の人々も冠婚葬祭などに利用してきました。
魚の卸し業から仕出し屋へ、江戸末期~明治初期に割烹料亭となり現在に至っています。
この料亭で予約無しでランチがいただけるとの事で訪問。
大広間でランチを賞味後、事前連絡しておいた部屋の見学を仲居さんの案内で拝見しました。
部屋が使用中でなく、仲居さんがお手隙であれば予約無しで他の部屋も拝見可能のようですが、やはり連絡はしておいた方が良いでしょう。
宇喜世・竹の間
1F竹の間:高松宮宣仁殿下が使用された部屋
宇喜世・竹の間 襖と欄間
竹の間 (欄間:北村四海、襖絵:斎藤俊雄)
宇喜世・竹の間 床柱
竹の間:床柱の絵は斎藤俊雄が描いたと云われる
宇喜世・庭園
庭園
宇喜世・階段1
左:新館への地下通路は現在は使用不可         右:1F階段
宇喜世・大広間
2F大広間の舞台:客数が少ない時は部屋が屏風で仕切られている
宇喜世・大広間 天井
大広間の天井絵
宇喜世・大広間 彫刻
舞台の反対側にある床の間の装飾
宇喜世・ランチ
ランチ2種
宇喜世・階段2
2F階段ホール:手摺柱などは水車の部材を転用
宇喜世・水車の間1
2F水車の間:こちらにも水車の部材が
宇喜世・水車の間2
水車の間の装飾(左:囲炉裏、 右:飾り棚)
宇喜世・月の間 床の間
2F 月の間
宇喜世・春の間
2F 春の間
宇喜世・春の間 装飾1
春の間 床柱の飾り
宇喜世・春の間 装飾2
春の間 障子の飾り
宇喜世・階段3
3階への階段(右の写真は手摺柱のダルマの飾り)
宇喜世・桜三階
3F 桜三階
宇喜世・桜三階 地袋
桜三階の地袋:柱にはダルマのマスコットが
宇喜世・桜三階 装飾
出窓の装飾
宇喜世・桜三階 床の間
桜三階 床の間
宇喜世・玄関
宇喜世・看板
 特定の場所で営業権利を持つ町座は、越後には村上と高田にあったようです。
高田城下で町座の特権があったのは、小町・田端町・春日町・長門町・直江町・善光寺町など福島城下(直江津)から移転してきた町で、移転の代償として高田藩から許可されたもの。
そして宇喜世がある田端町(現:仲町3丁目)は鮮魚や四十物などの販売権を持っていました。
 新潟県の年表(※1)によると高田藩は慶長13年(1608)魚の売買権を、元和7年(1621)肴・四十物の専売権を田端町に与えますが、江戸中期以降になると城下町以外でも商業が盛んになり、城下商人と在郷商人とのいざこざが勃発。 文政4年(1821)直江津今町の魚商人が、田端町の魚役衆を殴りつけ、両町が対立する事態となりました。
いつしか町座の恩恵も薄れ、明治に入って陸軍の駐屯地になると軍人向けの繁華街へと様変わりし、映画館や飲食店などもできて高田の町々は大いに繁盛しました。
※その他の高田の建物についてはコチラ⇒【旧今井染物店旧金津憲太郎桶店小林古径邸第13師団長官舎高田世界館
宇喜世1
【参考文献】
「新潟県のあゆみ」新潟県(越後佐渡デジタルライブラリー)
(※1)「新潟県史別編1 年表・索引」新潟県(越後佐渡デジタルライブラリー)

【2016年8月 訪問】


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2017.
07.24
Mon
所在地:新潟県柏崎市大字新道5212-4
公 開:9時~17時、 有料
休館日:月曜・12月~3月 
アクセス:JR信越線柏崎駅~ 北越後観光バス野田行き約30分~駐在所前バス停~約3分
TEL:0257-20-7120
  ※詳しくはこちら⇒【飯塚邸
飯塚邸
 柏崎の大地主・飯塚家の本家の屋敷であり、江戸時代末期に建てられた主屋を中心に増改築を重ね、大正時代の新座敷棟2階が昭和天皇の行在所となりました。
飯塚邸・庭園
昭和天皇が『秋幸苑』と名付けられた庭園
飯塚邸2
庭園側に式台がある
飯塚邸・式台
式台:昭和天皇はこちらを使用されたのだろうか
飯塚邸・玄関
表玄関も立派
飯塚邸・表座敷
主屋の座敷
飯塚邸・奥茶室
奥茶室(小間の茶室は別にある)
飯塚邸・茶室棟
左:奥茶室の前にある石は佐渡の赤石か?
右:奥茶室の便所
飯塚邸・茶の間
主屋の茶の間
飯塚邸・2階
昭和22年(1889.10.10‐10.11)昭和天皇の行在所となった新座敷棟2F
飯塚邸・2F御座所
家具も当時の物が残る
飯塚邸・2F古写真
当時の写真                    ※展示パネルより
飯塚邸・2F化粧の間
新座敷棟2F化粧の間
飯塚邸・2F書斎
新座敷棟2F書斎
飯塚邸・2F部材
新座敷棟2Fの天井材と床材
飯塚邸・新座敷1F
新座敷棟1F
飯塚邸・浴室
洗面所と浴室
飯塚邸・電燈昇降器
蔵に展示されていた大島式電燈昇降器


 柏崎の名士であった飯塚彌一郎(1852‐1923)は柏崎銀行の頭取、日本石油などの役員を務め、弟は山田順一(衆議院議員)と渋谷善作(長岡商工会議所会頭・県会議員)、親戚に関矢孫左衛門/忠靖(森林運動家・衆議院議員)や内藤久寛(日本石油社長・衆議院議員)がおります。
 内藤久寛の著書(※1)によると、彌一郎は父を早く亡くし家督を継いで色々苦労した人で、親戚に対しても親切に世話してくれたとの事。
彌一郎の長男が病死し、次男である知信が飯塚家の本家を継いだと書かれています。
 その飯塚知信は明治25年に生まれ、早稲田大学卒業。 高田村長や貴族院議員となり、東京牛込榎町に別邸もあったようです。
また柏崎農業高等学校のために所有地を県へ寄付するなど、数々の公的援助もしました。
飯塚邸・庭石
【参考文献】
「中支皇軍慰問行」1940 越後タイムス社
「刈羽郡案内」関甲子次郎 著 1976 柏崎市立図書館
※1「春風秋雨録」内藤久寛 著 1957 春風秋雨録頒布会

【2016年8月 訪問】


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2017.
07.09
Sun
建築年:明治後期
設計施工:設計者は不明、棟梁は14代 伊藤佐久ニ
所在地:岡谷市御倉町2-20 
見 学:9:00 ~16:30(12/1~2/末は16:00まで) 有料
休館日:水曜日・祝日の翌日・年末年始
TEL:0266-22-2330
アクセス:JR岡谷駅~徒歩約 5分
  ※詳しくはこちら⇒【岡谷市HP
旧林家住宅
 製糸場・鉄砲店を営んでいた初代・林国蔵(1846-1916)の本邸で、約10年の歳月を掛けて完成したと云われています。
林家が東京へ本居を移した後この建物は別荘となっており、普段は管理人だけが常駐していました。
昭和62年に所有者の(イチヤマカ)一山カ林合名会社から土地売却の申し出を受け、平成元年に岡谷市が買収(建物・調度類は寄贈)、修復工事が行われ、平成6年から一般公開されています。
旧林家住宅・蔵

旧林家住宅・蔵2
外蔵: 繭の貯蔵用として明治26年頃建造。 殆どの部材がカツラを使っているため桂倉とも呼ばれている。 
旧林家住宅・洋館1
洋館:昭和3年に敷地の隣にあった旧イチヤママル製糸所(ヤマトモ岡谷製糸)が火事になって洋館屋根が類焼し、瓦屋根→金属屋根に改修。 外壁の色が一部違うのは平成の修復工事によるもの。
旧林家住宅・洋館装飾1
外壁はセメン漆喰
旧林家住宅・洋館装飾2
乙女チックな装飾
旧林家住宅・主屋座敷
主屋の表玄関隣りにある座敷
旧林家住宅・主屋上座敷
主屋の上座敷
旧林家住宅・彫刻
上座敷の彫刻は松本の彫師・清水虎吉(好古斎)作
旧林家住宅・台所
台所
旧林家住宅・呼び鈴
提灯箱と呼び鈴
旧林家住宅・仏壇
仏壇
旧林家住宅・仏壇彫刻
仏壇の彫刻も清水虎吉(好古斎)作
旧林家住宅・装飾
左:広縁にある欄間              右:便所の建具の引手
旧林家住宅・離れ1F上座敷
離れ1F上座敷
旧林家住宅・離れ2F座敷
離れの2F座敷は天井・壁・襖が金唐革紙貼り(一部補修されているが当時の物)
旧林家住宅・茶室
洋館の内部にある水屋と茶室
旧林家住宅・茶室横座敷
茶室横の座敷
旧林家住宅・家具1
洋館の調度類
旧林家住宅・家具2

旧林家住宅・洋館内部1

旧林家住宅・漆喰彫刻
洋館の漆喰彫刻


 林国蔵は弘化3年(1846)倉太郎の長男として生まれ、家業の製糸所を継承します。 
林家は倉太郎の代に坐繰製糸を成し、明治9年に岡谷に天竜製糸所(後の一山カ製糸場)を開設。 生糸の統一を計るため片倉と林で開明社を創業し、共同揚返所を設けます。 明治19年(1886)倉太郎が亡くなると国蔵が製糸所を受け継ぎ、開明社にも参画。 社長は片倉や林と一年交代で務め、諏訪薪炭㈱設立、郵便局設置・中央線の開通を薦めました。
 林国蔵は明治24年頃から東京に進出し、鉄砲商・川口亀吉の死別により免許を継承して明治26年(1893)「川口屋林銃砲火薬店」を創業。 店舗も馬喰町から本銀町へ移転して事業を拡大、全国で1・2位を争う業者となります。
製糸業でも岡谷の屋敷の隣にイチヤママル/一山○製糸所、深谷のイチマル/一○製糸所(開国館)と工場を増やし、その他にも炭田や津川鉱山を買収、有志と共に諏訪索道㈱や諏訪薪炭㈱を設立しています。
しかし、明治40年恐慌が原因で岡谷の2つの製糸場を手放し、大正5年(1916)国蔵が他界するとその翌年、深谷の一○製糸所(開国館)も買収されました。
 一方で川口屋林銃砲火薬店は、2代目・林国蔵(宮澤豊助:旧藩士の家の出)が事業を継承。 一時ダイナマイト等も取り扱っていましたが、現在は㈱川口屋となり、コンサートグッズでお馴染みのルミカライトや発炎筒・塗料などの販売の他、法面緑化・展示会ブース工事なども行っているようです。
 ちなみに深谷の開国館に関する明治44年の文献によると、深谷停車場の南側にある池は開国館が製糸用に用いるため明治43年に開掘し、堤上に桜の木を移植したとなっており、現在の下台池公園と思われます。
旧林家住宅・蔵4
【参考文献】
「日本製糸業の大勢 : 成功経歴」岩崎徂堂  1906 博学館
「深谷案内」大谷高重良 1911
「深谷案内」高田晴司  1923 深谷案内編纂会
「旧イチヤマカ林家住宅:シルクと金唐紙の館」信濃建築史研究室 2001 岡谷市教育委員会
「日本橋紳士録」1929 日本橋紳士録編纂所
㈱川口屋⇒ 【H P】  

【2016年7月 訪問】


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2017.
06.27
Tue
建築年:昭和11年(1936)
構 造:鉄筋コンクリート造2階建、一部地下あり
設計施工:設計は三苫繁實(長野県営繕課)、施工は岡谷組
所在地:長野県岡谷市幸町8-1(岡谷市役所前)
アクセス:JR岡谷駅~徒歩約20分

旧岡谷市役所
 2016/7/2に市制施行80周年の記念事業として旧岡谷市役所庁舎が1日だけ公開されました。
通常は一般公開されておらず、現在は(公財)おかや文化振興事業団の事務所となっています。
旧岡谷市役所2
 昭和11年に平野村が岡谷市になる事となり、製糸家・尾澤福太郎が私財を投じて市庁舎を建設して市に寄付。
昭和10年6月着工、昭和11年3月に竣工、落成式が5/23に行われています。
そして昭和62年まで市役所、平成27年まで消防庁舎(岡谷消防署)として使用されました。
旧岡谷市役所・玄関タイル
玄関タイル
旧岡谷市役所・1F
左:公衆溜り                右:カウンターは増設されている
旧岡谷市役所・事務室
事務室裏手
旧岡谷市役所・便所/電話室
左:便所                    右:電話室
旧岡谷市役所・1F村長室
1F村長室(畳敷きに改修)
旧岡谷市役所・1F食堂
1F食堂
旧岡谷市役所・1F宿直室
1F宿直室
旧岡谷市役所・1F宿直室床の間
1F宿直室:立派な床の間付き
旧岡谷市役所・階段①
階段➀
旧岡谷市役所・平面図1F
1F平面図 (パンフレットより)
旧岡谷市役所・平面図2F
2F平面図 (パンフレットより)
旧岡谷市役所・2F議場
2F議場
旧岡谷市役所・古写真
議場の古写真  ※展示パネルより
旧岡谷市役所・2F議場の枠
左:議壇はなくなっている              右:丸窓
旧岡谷市役所・映写室
左:映写室                    右:屋根は鉄骨組
旧岡谷市役所・2F議場控室
左:議場控室(どの部屋も天井が高い)扉の奥は議場であったが部屋に改造している
右:腰壁の板   
旧岡谷市役所・2F貴賓室
2F貴賓室
旧岡谷市役所・2F議員室①
2F議員室①
旧岡谷市役所・2F議員室②
2F議員室②:床の間があるが畳敷きではなかった
旧岡谷市役所・2F委員室①
2F委員室①:こちらも畳敷きではなかった
旧岡谷市役所・階段②
階段➁
旧岡谷市役所・左玄関
左玄関の扉とホール
旧岡谷市役所・外壁
スクラッチタイルとボイラー用の煙突
タイルは信州・高遠町の丸千組(高遠焼)の物だという
旧岡谷市役所・外壁2


 尾澤福太郎は万延元年(1860)岡谷村で金左衛門の長男として生まれ、家業の尾澤組(カクキ)を経営。 大正12年に㈱尾澤組となった会社が、さらに片倉製糸紡績会社と合併して常務取締役に就任しました。
尾澤家は金蔵の代に坐繰製糸を成し、金左衛門が明治9年に坐繰を廃して工場を建設。 生糸の統一を計るため片倉と林で開明社を創業し、共同揚返所を設けます。 社長は片倉や林と一年交代制で務め、諏訪薪炭㈱設立、郵便局設置・中央線の開通を薦めました。
 品性高尚な母に育てられたという若い頃の福太郎については、「其豊頬愉顔なる福象は眉の間に、温良謹厚にして至誠至孝なる天然の美質は妙に其慈惰を表し、真を写して人を動かしむ。恰も鼠を捕る猫は爪を隠すと、翁に代わりて掌司す。」と表現され、弟の琢郎や亮一と共に事業を継承していたようです。(※1)
尾澤福太郎の銅像クリーニング
尾澤福太郎の銅像(岡谷出身の彫刻家・武井直也作)が武蔵野美術大学によってクリーニングされていた
マル千小口店
岡谷駅へ向かう途中にある立派な蔵を持つ店 
かつてマル千小口(岡谷市幸町6-27)という店であったようで、窯業/金属業となっている。
スクラッチタイルは使われていないが、これも丸千組と何か関係があるのだろうか?

【参考文献】
諏訪総合設計㈱HP「正博の建建諤々」(2003耐震診断)
(※1)「日本製糸業の大勢 : 成功経歴」岩崎徂堂 編 1906 博学館

【2016年7月 訪問】


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