2017.
05.14
Sun
建築年:昭和8年(1933)、何度か改修有り
設計施工:不明
所在地:神奈川県藤沢市鵠沼橘1-14-7
交 通:JR藤沢駅~徒歩約8分
見 学:市民専用のため通常非公開。 イベント時のみ公開
  ※所有はこちら⇒【藤沢市
旧後藤医院
 この建物は2008年から藤沢市が借り受け、「鵠沼橘市民の家」としてOPEN。 2013年に所有者から藤沢市へ寄付されました。
後藤医院鵠沼分院は、東京の後藤医院の長男・秀兵が昭和8年(1933)開業。 その後、高齢になったため閉院し、昭和46年(1971)院長が他界した後は親族が別荘として使用していました。
旧後藤医院・玄関
玄関
旧後藤医院・待合室2
玄関内部
旧後藤医院・待合室1
待合室
旧後藤医院・排気口
待合室にある天井排気口(右:戸を開ける紐)
旧後藤医院・薬局
受付・薬局の内部
旧後藤医院・検査所
待合室の奥にある検査所
左:棚の上にはガス栓         右:謎の小部屋(パイプはスチーム暖房の配管)
旧後藤医院・旧診察室
診察室は和室に改装
旧後藤医院・応接室
応接間
旧後藤医院・居間
居間も改装済み
旧後藤医院・廊下1
十字路になった廊下は天井が高く、交差点にも天井排気口がある
右:居間後方の廊下 (この建物は外部との出入口が計4ケ所)
旧後藤医院・平面図
旧平面図を元に描いたと思われる図面(地内排水管改良工事 H11)
旧後藤医院・トイレ
もう一方の十字路の奥にあるトイレは様式に変更済み
旧後藤医院・台所建具
台所:勝手口扉の窓は開くことができる
旧後藤医院・窓
窓は二重になっており窓の上下に通気口
旧後藤医院・掃き出し窓
窓下の通気口を兼ねた掃き出し口(ほうきの掃除用)の戸は上開き・横開きがある
旧後藤医院・窓1
外部は上げ下げ窓で内部は引違窓になっており、2枚のガラス窓の間には通気口とロールカーテン
旧後藤医院・痰壺
左:当初からの物と思われる水洗式痰壺で縁から水が流れる     右:東洋陶器(現:TOTO)のマーク
かつては所かまわず痰を吐く人が多く、公共空間に痰壺が設置される事が多かった。
旧後藤医院・設備
左:ラジエーター式スチーム暖房  
右:廊下の床板一部は点検用に外せるようになっている。 排水溝? それとも床下換気用の導気溝?
旧後藤医院2

 院長・後藤秀兵は、解説板によると明治21年(1888.3.18) 後藤瞭平の長男として生まれ、東京帝国大学医学部卒業後、実家の医院で経験を積み、昭和8年(1933)藤沢で開業、昭和30年代後半から閉院、昭和46年(1971.9.23)他界となっています。 
 東京の後藤医院長で父親の後藤瞭平は明治元年(1868)群馬県高山村で生まれ、慈恵医学校卒業後に、母校の附属病院及び日本郵船の船医として勤務(※1)、明治35年4月に小石川区駕籠町113番地にて『後藤医院』を開業していますが、昭和20年3月に戦争で建物が焼失しています。
 さらに調べてみると同一人物かは不明ですが、後藤秀兵(群馬出身)なる人物がいて、東京帝国大学医学部を大正10年に卒業(※2)しており、衛生室の研究員をしていたようです。 その頃に住宅について衛生面から幾つか雑誌に記事を書いています。
 三越の記事(※3)を要約すると… 実験上、空中の細菌濃度は床面付近が一番であるから、床面に座る・眠る、汗などで汚れた畳に両手をついて礼をする事は、病原菌の体内侵入にしばしば好機会を与える事になる。 日本住宅の欠点としては、不完全採光・室内温度調節困難・湿気対策の不備・換気不足・天井裏の清掃不能・太陽輻射熱に対する無抵抗・不便な雨戸・家屋内の音波及などである。 改善策としては伸縮着脱可能な庇や、熱伝導率の低い天井床材、熱容量の小さい壁で造作し、外気導入口・高い窓や二重窓・ドイツ式暖炉などを設け、床下の空気を上昇管によって屋外に排出する…と提唱しています。
この記事を書いた後藤秀兵は、後藤医院鵠沼分院の医院長であると確定できませんが、この建物には大きな天井排気口が数か所、二重窓やスチーム暖房など、この提唱に通じる特徴を備えています。
 同じ時代に京都帝大教授で建築家・藤井厚二も住宅改善に取り組み、自邸を5軒建て検証していました。 最後の自邸である聴竹居にも外気導入口・天井排気口が設けられ、通気を重視しています。 これらの造作は夏の暑さを凌ぐ効果がありますが、後藤医院鵠沼分院では結核などの感染予防を兼ねた物なのかもしれません。

【参考文献】
(※1)「日本医籍録. 昭和17年版」 医事時論社
(※2)「東京帝国大学一覧. 大正10年~11年」 東京帝国大学
(※3)三越23-4「衞生と日本家屋」後藤秀兵 著 1933 三越

【2015年11月 訪問】


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2017.
04.30
Sun
建築年:昭和3年(1928)竣工
設計施工:設計は藤井厚二、施工は酒徳金之助
所在地:京都府乙訓郡大山崎町
交 通:JR山崎駅 or、阪急大山崎駅~徒歩約10分(上り坂)
見 学:水・金・日曜日の時間限定で予約受付(人数制限あり)
 ※詳しくはコチラ⇒【聴竹居
聴竹居・サンルーム
藤井厚二の自邸・聴竹居では、藤井夫妻+子供3人+女中1人(計6人)が暮らしました。
細かいところまで工夫された空間と、当時の最先端である住宅設備を見てみましょう。
聴竹居・居間
居間:天井は杉柾板+鳥の子紙貼 
聴竹居・客間
客間:床面を広く、床の間を深く見せるため、落し掛けの位置より床の間の奥行を狭くしている。
部屋の片隅に蓄音機も設置
聴竹居・読書室
読書室:藤井と娘2人の机があるが、藤井は閑室にいる事が多かった
聴竹居・食堂
食堂:自邸2~3軒目の食卓は畳坐+椅子の併用、それ以降は椅子+ベンチに変わっている
聴竹居・流し
台所の流しと生ゴミのダストシュート  ※外部の様子はコチラを参照⇒【聴竹居①
聴竹居・冷蔵庫
電気冷蔵庫(右の写真はスイッチ)
上部に載っているモーターは、スイスのエッシャー・ヴィス社(Escher Wyss & Co.)製で、戦艦のタービンも作っていたメーカー
聴竹居・分電盤
分電盤:全室に電灯とコンセント、浴室にはシャワー用貯湯式電気湯沸し器を設置
ところが戦時中は電気もそれほど使えず、座敷3帖の上り框に襖を入れて火鉢を使っていたとの事
聴竹居・浴室
左:浴室           右:シャワーは貯湯式電気湯沸し器
聴竹居・便器
高島製陶の便器:大正4年(1915)9月に瀬戸で高島製陶が設立され、衛生陶器などを製造。
千葉の化研病院恩賜館にも同じメーカーの便器が現存している。
高島製陶にて徴用された人の話(※1)によると、戦時中に高島製陶は軍需工場となり、B5の紙より少し大きめの薄い磁器板を生産。
それは隔膜という物で、ロケット部品に関係があったという。
聴竹居・換気
上:居間座敷下の導気口         下:サンルームの天井排気口
木陰のある箇所に外気取入口を設け、導気口を通して室内に涼風を取り入れていた。
台所や廊下などにも天井排気口がある。


 現在、藤井厚二の設計の住宅で見学可能なのは、聴竹居(この建物)・後山山荘(鞆の浦・旧くろがねや別荘)・八木邸(寝屋川)となっており、藤井厚二の住宅志向を感じる事ができます。

【参考文献】
「床の間」藤井厚二 著 1934 田中平安堂
「聴竹居 実測図集」竹中工務店設計部 2001 彰国社
「聴竹居に住む : モダニストの夢」 高橋功 著 2004 産経新聞ニュースサービス
「聴竹居 : 藤井厚二の木造モダニズム建築」松隈章 著 2015 平凡社
※1)瀬戸地下軍需工場・戦時下の証言「海綿鉄について」加藤琢也 → 瀬戸地下軍需工場跡を保存する会HP

【2015年月10月 訪問】


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2017.
04.16
Sun
建築年:昭和3年(1928)竣工
設計施工:設計は藤井厚二、施工は酒徳金之助
所在地:京都府乙訓郡大山崎町
交 通:JR山崎駅 or、阪急大山崎駅~徒歩約10分(上り坂)
見 学:水・金・日曜日の時間限定で予約受付(人数制限あり)
  ※詳しくはコチラ⇒【聴竹居
聴竹居
 大山崎の高台に佇むこの建物は、住宅の改善に取り組んだ藤井厚二の5軒目の自邸です。
それまで平屋と2階建てに住んだ結果、藤井は平屋が最適と判断し、それに適する敷地として現在地を選びました。
実は伊東恒治(大阪船場の青山ビル設計者)も大山崎に住んでいました。 昭和3年の文献(※1)には、伊東恒治は京都帝国大学営繕課嘱託、住所は乙訓郡大山崎山崎駅上と記載されおり、その頃の藤井は京都帝国大学の教授。 近所としての親交もあったのでしょうか。
聴竹居・玄関
聴竹居・玄関 (細かい工夫がなされているので現地で確認してほしい)
外壁はクリーム色の漆喰、腰積みはRC造に靑龍石粒の洗い出し仕上げ。
当初の屋根は野地板(軒・ケラバ等を除く)を二重にした銅板葺きで、屋根裏の通風口の上だけ瓦葺き。 屋根は現在、着色鉄板葺きとなっている。
聴竹居・勝手口
勝手口と風呂釜
小さな戸を開ければ風呂の湯加減をチェックできる。 洗濯に使う残り湯も運べて便利。
聴竹居・ゴミ箱
台所前にある生ゴミのダストシュートBOXは、洗い水も少々流すため下水管を設置。 床下通気口もかなり大きい。
※室内の様子はコチラ⇒【聴竹居②
聴竹居・閑室
本屋の隣にある閑室(かんしつ:昭和3年) ※非公開 
書斎・接客用で、建物の角に2枚の玄関戸を設置した珍しい設計。 
藤井によると『閑室』とは、茶道の古い伝統にこだわらず和敬静寂を楽しみ、閑寂を旨とする室の意味との事。
聴竹居・下閑室
敷地内にある下閑室(茶室):昭和5年頃 ※非公開 
茶席・接客用として利用。 1畳台目中板敷きの茶室・座敷・板の間・立ち流しの水屋・便所などがある。
当初は腰掛待合(写真に写るベンチ)の前に小さな滝と浅い池があり、小川となって下の家に流れていたという。
座敷の床の間は少々変わっており、細長い地袋付きの棚に陶磁器や生花などを配列し、地袋の襖を開いて膝を入れて座り、間近に鑑賞できるよう工夫されている。 
聴竹居・彫刻
左:聴竹居の霊獣石像              右:伝道院の霊獣石像
竹中工務店が施工した伝道院(1912.伊東忠太設計)と同じ彫刻が庭の片隅にあるが、その由来は不明。

【藤井厚二の自邸】
1軒目…大正6年(1917)神戸市葺合区熊内で、2階建ての典型的な間取りで母と暮らす。
2軒目…大正9年(1920)大山崎町竜光の平屋建て。 その頃に高台の土地を取得し、後に防火水槽を兼ねた25mプールやテニスコート(戦時中に芋畑に変更)も完成。
3軒目…大正11年(1922)大山崎町の2階建て。 譲渡後、昭和36年の第二室戸台風で鉄板屋根が飛ばされ仮屋根で凌いでいたが、昭和30年代に解体。
4軒目…大正13年(1924)大山崎町の平屋建てで、屋根はセメント瓦葺き。 家族は住まなかったというが、解体部材は保管されているらしい。
5軒目…昭和3年(1928)平屋建ての聴竹居。 その他に閑室・下閑室・大工小屋・陶芸窯などがあった。

 藤井厚二は明治21年(1888)広島県福山の富豪で、造り酒屋「くろがねや」藤井家の次男として生まれ、大正2年(1913)東京帝国大学工科大学を卒業後、竹中工務店に入社。
大正7年(1918)千家尊福男爵の娘・壽子と結婚。 翌年に退社して欧米視察へ出掛け、帰国後に京都帝大の講師となり、大正15年(1926)教授になります。
竹中工務店時代には朝日新聞大阪本社(1916)・村山社長宅和館(1918)等を担当。 独立後は大覚寺心経殿(1925)・八木邸(1930)等の設計を手掛け、住宅研究に勤しみ、昭和13年(1938)他界。 自らデザインした墓(二尊院墓地)に葬られました。
大覚寺・心経殿
藤井厚二が設計した大覚寺心経殿:大正14年(1925)RC造
殿内には薬師如来立像と、天皇が書かれた般若心経の写経が納められており、60年に一度開封されるとの事。
次回は2018.10.1~開封で、嵯峨天皇が写経した年から1200年目に当たる。 
(建物内部や仏像が公開されるかは不明)  ※詳しくはこちら⇒【大覚寺

【参考文献】
「床の間」藤井厚二 著 1934 田中平安堂
「聴竹居 実測図集」竹中工務店設計部 2001 彰国社
「聴竹居 藤井厚二の木造モダニズム建築」松隈章 著 2015 平凡社
※1)「昭和3年 建築年鑑」1928 建築世界社

【2015年10月 訪問】


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2017.
04.02
Sun
建築年:明治18年(1885)竣工、昭和46年(1971)曳家・復原
設 計:牛田方造(土木課掛)
所在地:福島県南会津郡南会津町田島字丸山甲4681-1
交 通:会津鉄道・会津田島駅~徒歩約10分
開 館:9時~16時、有料
休 館:火曜日(祝日の場合は翌日休)、年末年始
TEL:0241-62-3848
    ※詳しくはコチラ⇒【旧南会津郡役所
旧南会津郡役所1
 会津の擬洋風建築で知られる建物。 時代により用途・名称も変わり、南会津郡役所→福島県の支所→現在地に曳家されて奥会津地方歴史民俗資料館→平成6年度に資料館が移転し、現在は『旧南会津郡役所』となっています。
 明治12年(1879)郡区町村編制法により会津が南北に分断されて南会津郡が誕生。 それまで田島陣屋(1790年竣工,現:南会津町役場の地)を役所としていましたが老朽化のため新築する事になり、建設費のうち福島県からは3千円、残りは地元が負担する事になったために戸長が寄付金を集め、お金のない住民も工事を手伝う等して建設されました。
設計・目論見書は土木課掛の牛田方造で、本館の施工は古川源治と貝瀬鉄吉が請負いました。 明治18年(1885)5/15着工、8/15竣工、8/23落成、9/5開庁。 設計案では望楼付きの3階建であったようですが、設計変更して現在の姿になっています。 竣工時の屋根はトタン葺きでコールタールが塗られていました。
 さらに大正3年(1914)改修工事が実施され、外壁に下見板が貼られています。 そして田島合同庁舎新築のため昭和46年(1971)現在地に曳家され、復原工事が実施されました。
旧南会津郡役所・玄関
玄関
旧南会津郡役所・会議室
2階 会議室
旧南会津郡役所・ベランダ
2階ベランダ 窓と柱
秋田に旧 日新館(宣教師館)というよく似た建物がある
旧南会津郡役所・階段1
階段
旧南会津郡役所・階段2
急勾配の階段は当時としては当たり前
旧南会津郡役所・事務室
1階 事務室
旧南会津郡役所・郡長室
1階 郡長室
旧南会津郡役所・回廊1
回廊
旧南会津郡役所・回廊2
回廊:洋と和の雰囲気が混在する
旧南会津郡役所・中庭
中庭
旧南会津郡役所・出入口中
左:人民出入口              右:官史出入口
表玄関は郡長や貴賓客(議員も?)出入口で、この他に事務室・人民控室にも出入口がある
旧南会津郡役所・出入口外
左:人民出入口(手前は人民控室の出入口)    右:官史出入口
旧南会津郡役所・古写真2
移築前の写真  ※展示パネルより
旧南会津郡役所・古写真1
※展示パネルより
旧南会津郡役所・古写真3
左:竣工当時の間取り
右:昭和46年(1971)曳家の写真  ※展示パネルより
旧南会津郡役所・曳家
昭和46年(1971)曳家の写真  ※展示パネルより
旧南会津郡役所2
現在の様子
六地蔵尊
隣りにある六地蔵尊:6名の南山義民を供養するため、南山義民地蔵尊建立会により平成7年に再建された。
 幕府が享保7年(1722)百姓一揆の首謀者とする6名をさらし首にした。 その顛末を分かりやすく解説した絵本があり、館内にも展示されている。
当時この地は南山という地域で幕府直轄地(御領・幕領)であり、田島陣屋で受理されなかった年貢軽減や廻米・米納の強制中止を求める直訴状を以て、百姓の代表者が江戸へ提出。 幕府は6名を一揆の首謀者として打ち首に処し、領地を会津藩への預け支配に切り替える事で百姓の願いを一部受け入れたという。
そして文久3年(1863)会津藩へ京都守護職の手当てとして南山5万5千石が与えられた。

【参考文献】
「福島史学研究17号」1970-11 福島県史学会

【2015年5月 訪問】



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2017.
03.23
Thu
所在地:福島県会津若松市花春町8-1
公 開:8:30~17:00(入園は16:30迄)無休、有料
交 通:会津若松駅~まちなか周遊バス「御薬園入口」or「御薬園」バス停~徒歩約3分
電 話:0242-27-2472
  ※詳しくはコチラ⇒【御薬園】
重陽閣2
重陽閣:昭和3年(1928)竣工、昭和48年(1973)移築
元は東山温泉の新滝別館であった建物で、妃殿下が婚儀の前に家族と宿泊している。 誕生日が重陽の節句であった事から、秩父宮勢津子妃殿下が命名された。
施錠されていたが管理所に申し込むと鍵が開けられ、ボランティアガイドさんが案内して下さった。 この訪問後、屋根瓦補修工事が実施されたとの事。
重要閣3
玄関
重陽閣・懸魚
破風の懸魚(玄関屋根)
重陽閣・展示室
1F展示室:秩父宮勢津子妃殿下に関する資料を展示
婚儀(1928/9/28)に先立ち、昭和3年7月に会津を訪問し、藩祖・保科正之を祭る土津神社と松平家墓前に奉告している。
重陽閣・1階座敷
1F座敷
重陽閣・1階
左:照明も一部古い物が残る         
右:配膳室の子扉は、給仕以外の者を入れずに料理だけを受け渡せる
重陽閣・便所1
1F便所
重陽閣・便所2
1F便所の手洗い器と個室:タイルや衛生設備は移築の際に替えたようだ
重陽閣・便所欄間
便所個室の飾り屋根と欄間
重陽閣・便所天井
便所の天井
重陽閣・階段
階段の曲線がスゴイ
重陽閣・2階広縁
2階広縁と天井
重陽閣・2階広間
2階大広間
重陽閣・2階建具
建具
重陽閣・2階次の間
2階次の間
新滝別館・古写真
今回は偶然にも新滝(現:くつろぎ宿)に宿泊し、ロビーに展示されていた絵葉書を撮影
新滝別館
当時の新滝別館は3階建てであった事が解る
新滝・風呂
藩公の湯と云われる、湯舟から自噴する新滝の掛け流し温泉。 この温泉目当てで今回この宿を選んだ。
 ※詳しくはこちら⇒【新滝
 

 勢津子妃殿下は松平恒雄の長女・節子として育ちましたが、皇太后と同じ名前であった事から婚儀前に『勢津子』へ改名しています。
伊勢の勢と会津の津から取ったもので、幾つかの候補から皇太后が選んだ名前との事。
勢津子妃殿下は後年この様に著書に書いています。 ~皇室に上がることでこれほどまでに会津の人々が喜ぶのであれば、どのような苦労があっても耐えて、皇太后さまのお心にかなうよう努力せねばならぬと決意を新たにいたしたことでした。9月17日には、節子の名を勢津子と改めております。皇太后さまのお名前が「節子」であらせられますので、畏れ多いということで改名することになりました~
京都守護職として天皇の信頼を得ていた松平容保。 その孫であった松平節子が皇室に嫁入りした事で、賊軍のレッテルを貼られ肩身の狭い思いをしていた会津の人々が救われました。
 
※御薬園のその他の建物についてはコチラ⇒【御薬園①

【参考文献】
「銀のボンボニエール」秩父宮勢津子 著 1991 主婦の友社

【2015年5月 訪問】

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