2014.
10.13
Mon
建築年 : 大正10年(1921)落成、 増改築あり
住 所 : 大阪市 中央区 伏見町2-2-6
構 造 : RC造, 3階+地下1階(4~5階は増築)
設計施工: 設計は伊東恒治、 施工は大林組

            ※青山ビルについてはコチラ⇒【青山ビル
青山ビル
 こちらは、野田屋を経営していた野田家の住まいでした。 大正10年4月調査の「大阪商工名録」〔※1〕によると、野田屋は東区京橋2丁目で食料品店と食堂を営み、和洋菓子や粟おこし・清涼飲料を製造販売していたようです。 
 青山喜一の所有となった後、一時 進駐軍将校向けの娯楽施設となりましたが、戦後は「青山ビル」と改称され、貸しビルになりました。
また、裏庭の日本庭園と屋上庭園を無くして、4~5階が増築されています。
 設計者の伊東恒治は窓の研究などを行っており、〔※2〕によると昭和初期には京都帝国大学営繕課の嘱託となっており、京都府乙訓郡大山崎村山崎驛上に住まいがあったようです。
青山ビル・1F
1階玄関ホール
青山ビル・装飾
上:漆喰の廻り縁も洒落ている
下:玄関ホールの片隅にある石造りのベンチ・・・  看板が残念。
青山ビル・窓1
イタリア製のステンドグラス
青山ビル・館内

青山ビル・窓3

青山ビル・窓2
かつての階段ホール屋上部。 現在は4~5階が増築され、窓の外は部屋になっている。
青山ビル・裏階段
左:現在は使われていない地下の階段。 床が抜ける恐れ有り、立入禁止。
右:裏階段
青山ビル・設備
左:当初から水洗トイレであったというが、当時の便器は残っていない
右:当初の物と思われる飲食物運搬リフト

 大阪ではこの様なレトロビルが数多く残り、大事に使われています。 東京でも銀座にある奥野ビル(銀座アパ-トメント 1932)が、若者達から好評を得ているようです。   ※詳しくはコチラ⇒【奥野ビル

【参考文献】
※1 「大阪商工名録」 (1922) 大阪商工会議所
※2 「昭和3年 建築年鑑」 (1928) 建築世界社

【2013年10月 訪問】


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2014.
09.18
Thu
建築年 : 大正15年(1926)6月竣工、 平成19年(2007)改修
構 造 : RC造 地上6階+屋上階+地下1階
設計施工: 大林組
住 所 : 大阪市 中央区 北浜東6-9
見 学 : 無料、9:00~17:00(16:30までに入場)、 会社指定日・土休日・年末年始は休館
交 通 : 北浜駅・天満橋駅~徒歩5分
T E L : 06-6946-4626
   ※詳しくはコチラ⇒【大林組歴史館
大林組旧本店
 この建物は、かつて大林組本店(4代目)であったもので、平成19年(2007)に耐震補強・設備改修が完了し、現在は地階~2階にレストランや結婚式場、3階には大林組歴史館が、その他の階にはグループ企業が入り、『ルポンドシェルビル』という名称になっております。
大林組旧本店・玄関廻り
正面玄関
大林組旧本店・装飾2

大林組旧本店・装飾

大林組旧本店・装飾1

大林組旧本店・装飾3
建物上部の装飾
大林組旧本店・1Fホール
1階 玄関ホール
大林組旧本店・1F装飾
エレベーターの壁面彫刻
大林組旧本店・展示室
 大林組歴史館では、東京スカイツリーの模型も展示。
東京スカイツリーは東日本大震災時に建設中であったが、被害はなかったという。
旧ダイビル本館軒飾り・大林組
旧ダイビル本館(1925-2010)の軒装飾を保存
地下鉄御堂筋線・工事
 地下鉄御堂筋線 淀屋橋~北久太郎町間の線路・停留所工事(昭和5~8年)
木製支保工設置の様子 ※展示パネルより
大林組旧本店・社長室
大阪大林ビルにあった大林芳郎名誉会長(3代目社長)室の再現。  (備品は本物)

大林組旧本店・1代目
創業時の「大林店」 (1代目) 現・西区西本町2-5-24  ※展示パネルより①
大林組旧本店・2代目
2代目の大林組本店 : 東区北浜2-27-乙 (現・中央区北浜2-5-4) ※展示パネルより②
大林組旧本店・3代目
3代目の㈱大林組本店 : 東区京橋3-75 (現・中央区北浜東6-9) ※展示パネルより➂
大林組旧本店・竣工時
4代目の㈱大林組本店 (現・中央区北浜東6-9) 竣工時の写真 ※展示パネルより④
現在は隣のビルに隠れている両脇の窓が見える。
大林組旧本店・正面
現在のルポンドシェルビル (現・中央区北浜東6-9)
大林組旧本店・図面
地階~3階の平面図  ※展示パネルより⑤


 創業者の大林芳五郎は、元治元年(1864)大阪の海産物問屋の家に生まれ「由五郎」と命名。 明治6年に父が亡くなり、呉服商の丁稚見習いとなりました。 そして、小売りの呉服屋として独立しますが不景気でうまくいかず、土木建築請負業の砂崎庄次郎の下で工事管理を経験。
明治25年(1892)に、土木建築請負業「大林店」(写真①)を創業し、第5回内国勧業博覧会の施設や銀行、官立の学校等を受注。
明治37年(1904)2月「大林組」と改称。 同年6月に東京事務所を開設し、翌年に本店が大阪市東区北浜2-27-乙(写真②)へ移転しています。 そして、日露戦争が始まると軍事施設の工事を、第2次世界大戦中は工場等を請け負いました。
 大正7年(1918)株式会社 大林組となり、翌年に合資会社大林組を合併し、大阪市東区京橋3-75(写真➂)に本店を新築移転。 その建物も手狭になったため西側の敷地を買い足し、大正14年(1925/2/23)起工、3/4地鎮祭、大正15年(1926/6/24)に大林組本店社屋としてこの建物が竣工しました。(写真④)
 この社屋建設の際には社内コンペが実施され、平面計画は小田島兵吉、意匠設計は平松英彦、彫刻は大塚尚武らが担当。 社員をアメリカに派遣し、最新の工法・設備が導入されたようです。
 〔文献※2〕によると、竣工当初の間取りは… (写真⑤)
地階は食堂・炊事場・宿直室・小使室・実験室・ボイラー室など。
1階は営業室・重役控室・3つの応接室・出納室など。
2階は、社長室・2つの応接室・重役会議室及び食堂・3つの事務室・電話受信室・タイプライター室など。秘書室には英国シンクロノーム社製の電気時計を設置。
3階は、製図室・応接室・書庫・標本室など。
4階は、事務室・林友会員(協力業者)室・社員寝室・予備室など。
5階は、事務室・予備室など。
6階は、大集会室・料理室・配膳室
 さらに各階には、便所・倉庫(安全庫)・スチーム暖房・扇風機・電鈴・時計・消火栓が設置され、ボイラーの熱を利用して各手洗器に給湯されました。 また、便所の汚水は地下の浄化槽を通して土佐堀川へ、その他の排水は川へ直接放流。
外装は、階段表面は擬石ブロック張り、正面ドア窓廻り・腰壁は竜山石(宝殿石・凝灰岩)貼り、側面・背面腰壁は人造石塗りor人造石ブロック貼り、外壁はフェイスブリック貼り。 正面出入口にはシャッター、その他出入口は鉄扉を設置。
 室内は、玄関ホール~1階営業室は、梁下まで日華石(観音下石・凝灰岩)貼り、天井はコルク入りプラスター塗りペイント仕上げ。 主要な部屋は、床は寄木張り・腰壁に羽目板・天井は特別仕上げ。 製図室と見積室は、床は米松板張りで腰壁に羽目板。 その他の部屋は、床はリノリウムかテラゾー又はタイル、腰壁はテラゾーかタイル又はモルタル仕上げとなっています。(壁と天井はプラスターの共通仕上げ)
 その後、昭和11年(1936)に㈱第二大林組を設立。 翌年に㈱大林組を吸収合併し、㈱大林組を商号としました。 よって現在の㈱大林組は、創業は明治25年・設立年は昭和11年となっているようです。
 戦後は、庁舎や駅舎・駅ビル、空港ターミナルビル・自動車道・トンネル工事などを受注。 昭和45年(1970)商法上の本店は大阪とし、東京に本社が設置され、昭和48年(1973)旧社屋の前に大阪大林ビルが竣工しています。

 主要工事としては、東京駅(1914)・伏見桃山御陵(1912)・東御陵(1914)・甲子園球場(1924)・多摩御陵(1927)・大阪府庁舎(1927)・神奈川県庁舎(1928)・東京地下鉄(万世橋~上野1928)・国立科学博物館(1930)・大阪城再建(1931)・大阪地下鉄(淀屋橋~北久太郎町1928)・東京国立博物館本館(1937)・熊本城再建(1960)・神戸ポートタワー(1963)・東京モノレール線(1964)・スタジアムオーストラリア(1999)・東京スカイツリー(2012)など。
 
【参考文献】
 ※1  大林組HP  「おおばや史
 ※2 「昭和2年 建築年鑑」(1927) 建築世界社

【2013年10月 訪問】
  

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2014.
09.07
Sun
建築年 : 昭和10年(1935)落成、 昭和53年(1978)改修、 平成25年(2013)耐震補修
構 造 : 木造一部2階建て、鉄骨補強あり 
設計施工: 設計は池田谷建築事務所、 施工は北井工務店
住 所 : 大阪市 西区 江戸堀1-16-9
交 通 : 地下鉄 四ツ橋線「肥後橋駅」8号出口~徒歩1分、
        御堂筋線「淀屋橋駅」南出口西~徒歩8分
T E L : 06-6441-2403
 ※詳しくはコチラ⇒【金光教玉水教会
金光教玉水教会
 肥後橋商店街の外れにある、玉水教会と書かれた和風の建物に次々と人が入っていくので、その人達の後ろに付いて門の中に入りました。
ちらりと覗いてみると、建物内も和風であり、人々が椅子に座ってお祈りをしています。
 今思えばすごい度胸でしたが、受付にいらした御年輩の婦人に「建物を見学してもよろしいでしょうか?」と声を掛けてみました。
 その方は、「どうぞ誰でも入れますよ。 今日は先生がいらっしゃるし、せっかく来たのだから、お願いをしてみては?」と、祭主がいらっしゃる前の方へと連れていかれました。
 そこでは3人ほど順番待ちをしており、まずは補佐の方に願いを伝え、祭主(教会長)の近くに進み出る形式のようです。 今さら後に戻れずドキドキしながら待っていると、すぐに私の番が来ました。
 補佐の方は物柔らかな男性で、建物の見学に来た事を伝えると、祭壇に祀られている銅像は玉水教会の初代であり、現在の4代目教会長(湯川正夫師)は子孫であると、説明をして下さいました。
 いよいよ教会長の下へと進みましたが、「建物を拝見させて下さい。」と御挨拶だけして下がりました。
金光教玉水教会・玄関
玄 関
金光教玉水教会・内部
会堂は総檜造り
金光教玉水教会・天井
格式の高い、折り上げ格天井
金光教玉水教会・耐震補強
大広間横の部屋に設置された耐震補強柱。 吊り橋の様にワイヤーで引っ張る構造のよう。
平成25年4月から実施された耐震補強ほか修繕工事は、㈱金剛組が手掛けた。
金光教玉水教会・屋根
 今回の耐震補強に合わせ修繕された銅板葺の屋根。
下屋の部分は葺いたばかりで、銅板はピカピカに光り輝いているが、数日で赤褐色になり、やがて薄緑色になる。 この薄緑色の緑青は被膜であり、銅板内部の腐食を防ぐ効果があるが、近年では酸性雨などで緑青が溶けて、腐食が進行している鎌倉の大仏が話題になった。


 金光教(こんこうきょう)とは、安政6年に金光大神(赤沢文治)が開いた新宗教で、「天地金乃神」様をお祀りする神道系の宗教です。
布教が出来なくなった国家神道(神社)に替わって設立された「神道事務局」の傘下となった後、明治33年(1900)に独立。 明治政府が認可した神道13派(教派神道)の一つで、本部は岡山県浅口市金光町にあります。
これらの教派神道は神社名を冠する事を禁止(1888.4.17)されたため、教会となっています。
 金光教は、現在は国内1500、海外30カ所に教会があり、宗教・宗派を問わず参拝者の願いを神に伝える「取次」が行われているようです。

 玉水教会の初代教会長・湯川安太郎師は、明治3年、和歌山市御膳松に生まれ、父親が亡くなったため叔母のいる中尾家で育てられました。
大阪で奉公し、明治27年から独立して乾物の小売行商を始めていましたが、金光教に感化され入信。 神職の資格を取って明治38年に家業を知人に譲り、土佐堀裏町の家屋にて布教を始め、翌39年に教会を発足させます。
大正4年、船町橋付近へ移転。 さらに大正9年に江戸堀上通1-8 に教会堂を新築。
 また昭和に入ると教会堂の新築が計画され、昭和9年に上棟式(1934.4.5)と遷座式(1934.12.11)が、翌年に落成式(1935.4.19~4.21)が行われました。
 現在は曾孫の湯川正夫師が4代目教会長となっています。


 設計者の池田谷 久吉は、住宅等を手掛けた他、大宮神社本殿(1936 金剛組 施工)などの社寺建築や郷土史の研究に携わりました。
 自邸(昭和初期=1927頃、非公開)は、泉佐野市大西1丁目に現存し、蔵の2階(6畳間)が仕事場兼書斎であったといいます。 主屋は昭和24年(1949)に増築され、玄関東脇に寺院の古材を用いた3畳茶室があるとの事。
 大正15年(1926/2/4)に法隆寺五重塔の芯柱下の空洞調査をしており、法隆寺の森山師と佐藤氏の3人で芯柱下に潜り、僅かに残る芯柱が石枠の上にただ載っていた事などを〔※1〕に記しています。

【参考文献】
  金光教HP
  金光教玉水教会HP
  教派神道連合会HP 「教派神道連合会百年史」
  文化庁・国指定等文化財データベース
※1 「法隆寺五重塔と空洞の調査研究」(1926) 池田谷久吉

【2013年10月 訪問】


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2014.
08.24
Sun
 建築年 : 昭和10年(1935)、 昭和53年(1978)改修済
 構 造 : RC造, 地上3F+地下1F
設計施工: 岡本工務店(山中茂一 設計)
 住 所 : 大阪市 西区 江戸堀1-10-26
 交 通 : 地下鉄 四ツ橋線「肥後橋駅」8号出口~徒歩2分、
             御堂筋線「淀屋橋駅」南出口西~徒歩8分

江戸堀コダマビル
 この建物は兒玉竹平商店・児玉竹次郎の住まいとして昭和10年に建設されました。
 昭和8年の「大阪商工名録」(大阪商工会議所 発行)によると、兒玉竹平商店は西区靸上通り2丁目で店を構え、市内や名古屋から仕入れた絹布・麻布・各種金巾を使って、ワイシャツやカラーなどを製造していたようです。
 その後、綿布商として成功しましたが、空襲で店は焼失、戦後の物資統制で企業統合し、事業は昭和繊維㈱大阪支店に継承されています。
 訪れた日は、児玉竹次郎の子孫で、小さな男の子を含む児玉家3世代がいらっしゃり、屋上や音楽室も拝見する事ができました。
日本海上保険ビル部材
 旧・日本海上保険㈱本社(西区江戸堀上通1-25、大正11年6月竣工、大林組施工)の解体の際に、柱頭飾りを譲り受けたという。 その上のオブジェは大久保栄治氏の作品。
江戸堀コダマビル・1F
玄 関
江戸堀コダマビル・1F窓
1階正面の窓。 この部屋はテナントが入居。
江戸堀コダマビル・地下
地下の窓。
こちらはミーティングホールとして利用可能(定員10~30名,予約制,日・祝日は休み)
江戸堀コダマビル・窓
ステンドグラス
江戸堀コダマビル・スタジオ
1階レッスンホール(クラシック専用の貸室)
 ベルリンフィルメンバー、エサ=ペッカ・サロネン(作曲家・指揮者)、カール・ライスター(クラリネット奏者)等の著名な音楽家がここを訪れ、大阪でのコンサート等の練習に利用。
江戸堀コダマビル・貸室
左: 3階談話室も貸室として利用可能(定員6~8名,予約制,日・祝日は休み)
右: 階段
江戸堀コダマビル・屋上1
屋 上
江戸堀コダマビル・屋上2
屋上の増築部にもテナントが入居中
江戸堀コダマビル・屋上4
左: 屋上の床タイル                 右: 屋上にある煙突
江戸堀コダマビル・屋上3
屋上から見える改築された坪庭
江戸堀コダマビル・模型
展示されている模型


 設計施工した岡本工務店(代表:岡本新次郎)は当時は東区横堀4-43に事務所があり、この建物の設計は社員の山中茂一が担当したようです。
岡本工務店は、日本基督教団大阪教会(1922)・近江岸家住宅(1935)等を手掛けた他、ヴォーリズ建築事務所作品の施工に携わり、この児玉邸もヴォーリズ風な住宅になっています。
 建物は昭和9年11月14日に上棟し、翌年3月15日に竣工。
地下には、納戸・使用人室・炊事場・浴室・汲み取り式便所・浄化槽・石炭置き場。
1階には、応接室・事務室・炊事室・8帖+4帖の茶の間・コルク貼の日光室・水洗便所。
2階には、書斎・洋室・炊事室・8帖+6帖の客間・板貼の日光室・水洗便所。
3階は、2部屋の子供部屋・ブランコ付の運動室・2部屋の納戸がありました。
1Fから屋上まで吹抜けた坪庭を通し、1階床のガラスブロック越しに地下室へ光が差し込むようになっていましたが、現在は坪庭を塞いで2階に床が張られています。
 現在は改装され、貸し音楽室や貸室、「大正・昭和の家庭用品展示室」があります。

【貸 室】 時間貸し・予約制   TEL:06-6445-6020
 営業日時: 平日・土曜日 10:00~21:00
 全館休業: GW・お盆・年末年始・その他
● 1階レッスンホール(20帖)クラシック専用の室内楽練習室 …土休日は応相談。
● 地階ミーティングホール(10~30名)…日・祝日は休み
● 3階談話室(6~8名)…日・祝日は休み
● 大正・昭和の家庭用品展示室(¥300)…日・祝日は休み
 ※詳しくはコチラ⇒【タウンページ

【参考文献】
 「江戸堀コダマビルの栞」 江戸堀コダマビル事務所
 「大阪商工名録」(1933) 大阪商工会議所

【2013年10月 訪問】




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2014.
08.03
Sun
建築年 : 本館は昭和6年(1931)12月に竣工、新館は昭和37年11月
構 造 : RC造、 地上6階+地下1階+塔屋
設計施工: 設計は渡辺節(渡辺建築事務所)、 施工は清水組(清水建設)
住 所 : 大阪市 中央区 備後町2-5-8
交 通 : 地下鉄「本町」駅 or 「堺筋本町」駅~徒歩5分
見 学 : 有料・予約制、 第4土曜日 11:00~(食事付)、14:30~(見学のみ)
T E L : 06-6231-4881(日・祝・第3土曜日・年末年始休み)

      ※詳しくはコチラ⇒【日本綿業倶楽部
綿業会館
 こちらは企業系の建物を数多く手掛けた渡辺節の作品で、日本綿業倶楽部会員用施設です。
東洋紡績の専務であった岡常夫(1927.1.22没)の遺言として100万円、業界からの寄付50万円を合わせて会館を建設する事になり、渡辺節が設計しました。(村野藤吾も主任として図面作成) 昭和6年(1931.12.31)竣工し、翌年(1932.1.1)に開館。
 戦時中の昭和17年(1942)には、岡常夫の銅像や鉄柵・シャンデリア等の金属を供出し、さらに昭和20年7月から陸軍第4師団司令部に接収された為、事務所は寺田ビルに移転します。 昭和20年(1945)大阪大空襲の時には、綿業会館は網入ガラスの耐火窓を採用していたためか、被災は僅か1ヶ所で、ガラス1枚とカーテン1枚のみ。
 終戦後は昭和27年まで進駐軍に接収され、各部屋が間仕切られて浴槽などが設置されていましたが、同年10月2日から綿業会館として再開することができました。 その後、岡常夫の銅像(建畠大夢 作)は型が残っていたため再製できましたが、シャンデリアはミラノ・スカル座ロビーの照明をモデルに新規で作製。
そして渡辺建築事務所の設計により、昭和37年11月に新館(増築部)が完成しました。
綿業会館・旧館ロビー
 本館 玄関ホール
トラバーチンを大量に使用したのは、この建物が初めてだと渡辺節が語った1階ロビー。
石屋の見積もりは法外な値段であった為、渡辺節がイタリア領事館に交渉し、トラバーチンを直送してもらったという。
綿業会館・本館ロビー消火栓&ポスト
本館 玄関ホールにある郵便ポストと消火栓
綿業会館・本館サロン
本館1F: サロン
綿業会館・本館会員食堂
本館1F: 会員食堂。 この日は貸し切りのパーティーに利用されていた。
綿業会館・本館会員食堂天井
本館1F: 会員食堂の天井
綿業会館・本館会員食堂壁
本館1F: 会員食堂の壁は、石材風に仕上げたもの。
綿業会館・本館談話室
本館3F談話室
綿業会館・本館談話室2
本館3F談話室
綿業会館・本館談話室タイル
本館3F談話室: 渡辺節自ら、色合いの異なるタイルの配置を決めた。
綿業会館・本館談話室空調
本館3F談話室の空調吹き出し口:当初の冷房は井戸水による冷風装置だったという。 
その後、日本初のスターテバント型ロータリー圧縮機を採用した。
綿業会館・本館談話室4
本館3F談話室: 時計              本館3F談話室: 照明
綿業会館・本館談話室3
本館3F談話室の中にある階段
綿業会館・本館特別室
本館3F特別室
綿業会館・本館特別室天井
本館3F特別室の天井
綿業会館・本館会議室
本館3F会議室: この部屋は「鏡の間」とも呼ばれている。
綿業会館・本館会議室天井
本館3F会議室の天井
綿業会館・本館会議室天井2
本館3F会議室の天井
綿業会館・本館会議室その他
本館3F会議室:ドア             ブラケット照明と換気ガラリ?
綿業会館・本館会議室扉上
本館3F会議室:ドア枠も時計も石材を使用
綿業会館・地下階段
地下の階段
綿業会館・地下階段&休憩所
地下の階段の仕上げ                  地下の休憩所
綿業会館・地下バー
地下のBAR
綿業会館・地下食堂
地下の食堂
綿業会館・正面
手前にチラリと見える街灯は、三休橋筋に復元されたガス灯。

 渡辺節は明治17年(1884.11.3)長男として東京に生まれ、その年が天長節であった事から「節」と名付けられました。 そして子供の頃から絵を描くのが得意だったといいます。
父・祺十郎の赴任先(陸軍第八師団)で弘前にある青森県第一中学校(現・弘前高校)を明治34年に卒業し、仙台の第二高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科(1908年)卒業。 韓国政府度支部建築所を離職後(1912)、鉄道院西部鉄道管理局に入省し、旧京都駅などを手掛けました。
 大正3年に山田さだ(弟は愛知大学長・山田文雄)と結婚し、暮らした自邸は神戸・住吉村にあり、谷川焼の屋根瓦で葺いた和風建築で、晩年から趣味の菊鉢を育てたといいます。
 大正5年(1916)に独立した後の作品は、東リ伊丹工場旧事務所(1920)・旧大阪商船神戸支店(1922商船三井ビルディング)・岸和田市立自泉会館(1932)・乾邸(1937)など。
 最初の事務所は玉江橋の浪華倉庫2Fで、事務所に渡辺節が来ると所員達は相当緊張したようです。 村野藤吾によると、渡辺節は寸法の達人・図面を見る名人であり、入社3年目まではストレスで体重が減り、いつ出ようかと毎日考えていたが、一旦芽が出ると信用して仕事を任せてくれるようになったとの事。 仕事で感心したのは、工期を早くするから金を出せと施主に伝え、図面から工法まで、あらゆる時間短縮を試みた事で、例えば枠を先に付けて塗り壁で仕上げるのではなく、定規縁を先に打って壁を塗り、枠を後付けにする等々…。
 また渡辺節は、日本の建築界に新しい製品を導入してきました。 大阪商船神戸支店新築(1922)の際には米国へと視察に出掛け、大量のテラコッタ・プラスター・タイルを購入。 構造設計は内藤多仲に依頼して耐震化し、強制式温水暖房を採用しました。
さらに、テラコッタやプラスターはメーカーに持込み、大阪陶業㈱が製品化に成功。 大阪ビルヂング(1924)に採用したといいいます。 
 所員には厳しかった渡辺節ですが、晩年には菊を愛で、孫をたいそう可愛がる洒落たおじいちゃんであったようです。  昭和42年1月21日 他界。

 【参考文献】  「建築家 渡辺節」 1969 大阪府建築士会渡辺節追悼誌刊行実行委員会

【2013年10月 訪問】


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