2017.
11.05
Sun
所在地:東京都福生市熊川1番地
アクセス:JR拝島駅~車8分位 or 徒歩20分位
蔵見学:通年(年末年始・仕込みの時期は休み)、無料、予約制1日3回(他に参加者がいる場合のみ1名参加可能)
TEL:042-553-0100
  ※詳しくはこちら⇒【石川酒造
石川酒造
 午前中に田村酒造を見学後、同じ市内にある石川酒造を訪問。 こちらでは12~1月以外は蔵見学ツアーを随時開催しています。(試飲も含まれる) レストランも併設されており、日本酒や地ビールを味わう事も出来ます。
石川酒造・本蔵
本蔵:明治13年(1880)
石川酒造・本蔵内3
本蔵の内部
石川酒造・本蔵内1
本蔵の出入口:内部は思ったより古く、一部に江戸時代の古材を使って建てたと思われる
石川酒造・本蔵内4
近年になって金物で補強している
石川酒造・本蔵内2
本蔵の基礎は石場建で、石の形に合わせて柱の底を削って上に載せただけの日本古来の工法。
地震の多い日本で倒壊していない建物も多く、免震性があるといわれている。
石川酒造・新蔵
新蔵:明治30年(1897) 酒の熟成用の土蔵
石川酒造・文庫蔵
文庫蔵:文久3年(1863) 非公開
石川酒造・史料室
史料館:雑蔵2階 11:30~、休業日:水・木曜日(祝日を除く)
石川酒造・長屋門
長屋門:江戸時代
石川酒造・麦酒釜の館
麦酒釜の館:昭和62年(1987)
石川酒造・麦酒釜の館2
彫刻家・塩野谷博山による作品(ビール醸造の様子)
真ん中の画像:左は屋号のカネイシ(矩へんに石)、右は現在のシンボルマーク
石川酒造・井戸
麦酒釜の館に置かれた明治時代のビール醸造釜
手前の井戸は現在、テーブルとして使用しているが、昔は秋に蔵人が集まると最初に井戸替え(井戸洗い)が行われた
石川酒造・酒
左:ここで醸造された地ビール『多摩の恵』
右:11月から期間限定販売される『しぼりたて かめぐち』は現地でしか買えず、売店で量り売りをしている。
以前は蔵人しか味わう事ができなかった火入れ前の搾りたて生酒。  


 文久3年(1863)多摩川の対岸にある小川村(現:あきる野市)の森田酒造の蔵を借りて13代当主・源右衛門が造り酒屋を創業。
明治14年(1881)現在地に酒蔵を新築し、明治16年に全て引き移しました。
 石川源右衛門は上川原村の名主・指田七郎右衛門の次男『和吉』で、石川家に養子入りした人物。
同じく実弟・圭蔵も、福生村の田村家(田村酒造場1822創業)に婿入りしており、兄弟で酒造りに必要な水田や分水路の開拓を推進しました。
その後、和吉(石川源右衛門)は甥の千代蔵(圭蔵の子息、1849生)を養子に迎え入れ、明治6年に家督を相続させています。
 石川家は、明治21年からドイツ式ビールの醸造を開始し、「日本麦酒(旭マーク)石川醸造所」のラベルが貼られて日本麦酒醸造会社から販売されますが、上手くいかず明治23年に製造装置が売却されました。
しかし、多摩地域の鉄道とビールは深く繋がっていたようで、日本麦酒社長・桂二郎のドイツ留学仲間である三浦泰輔(甲武鉄道/京浜電鉄の社長)が大日本麦酒㈱取締役に就任。
甲武鉄道㈱や青梅鉄道㈱の取締役であった実兄・田村半十郎(圭蔵の長男)の関係で、石川彌八郎(千代蔵)も青梅鉄道㈱監査役に就任しています。
 石川酒造では平成10年(1998)から再びビール醸造も行われ、福生の地ビールとして味わえるようになりました。

【参考文献】
「熊川分水」福生市郷土資料室,高崎勇作 他 2002 福生市教育委員会
「第三回調査全国五拾万円以上資産家」1916 時事新報社
政治経済論叢13「甲武鉄道社長・三浦泰輔の生涯」関島久雄 著1964 国土社

【2016年11月 訪問】


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2017.
10.22
Sun
所在地:東京都福生市福生1158
アクセス:JR福生駅~徒歩約7分
見 学:10:00~16:00、無料
休 館:月曜日(祝日の時は翌平日)、年末年始
  ※詳しくはこちら⇒【福生市郷土資料室
ヤマジュウ
 福生市の文化財ガイドツアー(2016年11月,郷土資料室主催)に参加して、田村酒造場の次に訪れたこの家。 
田村家(田村酒造)の分家として明治35年(1902)に独立した頃、本家の建物を移築したと云われています。
田村幸三(幸蔵?)は明治44年(1911.6.1)無集配の三等郵便局『福生郵便局』を家の向かいに開設し、初代局長を務めました。 
大正5年に別の地に局舎を新築移転した後も、近年まで田村家が局長を務めています。
平成25年に建物が寄贈された福生市は、翌年に土地を購入して修復工事を行い、平成27年度から一般公開しています。
ヤマジュウ2
主屋:明治35年(1902)木造、 大正5年(1916)改築、平成26年(2014)修復
ヤマジュウ・内部1
明治の住宅だが、土間に座敷という古典的な間取り
ヤマジュウ・神棚
神棚:裏面に明治10年(1877)新築落成時に田村半十郎がこの神棚を造ったと記されている
田村半十郎(十兵衛の長男、1912没)は、本家(田村酒造)明治時代の当主で、八王子まで電車の開通を勧めたメンバーの一人であり、甲武鉄道㈱や青梅鉄道㈱の取締役にも就任している  ※本家についてはこちら⇒【田村酒造場
ヤマジュウ・内部2
奥座敷
ヤマジュウ・内部3
奥座敷の飾り棚 地袋(左:落款、 右:引手金物)
ヤマジュウ・寝間
寝間
近代的に収納を多く取っている(押入れは両方から出し入れ可能)
ヤマジュウ・廊下
廊下にも収納を設けてある
ヤマジュウ・手水所
便所の手水場 
左:客用(洗面台の所に小便器があった)    右:家族用
ヤマジュウ・土間1
土間を分断し、台所と繋がる廊下が造られている
左手に高さのある玄関框があり、公開時に階段が設置された
この様な階段や踏み台がない場合は膝から上がり、履物を揃えてから入ると良い
ヤマジュウ・土間3
左:土間の一部を部屋に改修         右:屋根裏スペースもある
ヤマジュウ・土間2
土間の脇にある台所と風呂場
ヤマジュウ・風呂跡
右:台所内にある風呂釜 兼コンロ?(燃料はコークス等)     右:風呂跡
ヤマジュウ・土蔵1
手前が東土蔵(明治37年、修復済み)、奥に西土蔵(明治44年、非公開)
西土蔵には冠婚葬祭用の食器などが収納されていた
ヤマジュウ・土蔵2
土蔵の裏側
ヤマジュウ・土蔵3
土蔵の床下換気口にはの屋号が
この家の屋号は『仐=ヤマジュウ(山へんに十)』で、本家は『カネジュウ(矩へんに十)』と呼ばれていた
なお、土蔵の床下には古瓦や古レンガを配置して湿気を防ぐ工夫がされている
ヤマジュウ・土蔵内
かつて郵便局の道具類などを収納していた東土蔵
訪問時には昭和初期の福生の記憶画(窪田成司)が展示されていた
旧福生郵便局1
旧福生郵便局:現在は純福音福生教会
旧福生郵便局3
屋根も部分的に古い物が残る
旧福生郵便局2

【参考文献】
「遞信省告示第580号」1911 
「福生町誌」1960 福生町
「明治過去帳 : 物故人名辞典」1988 東京美術

【2016年11月 訪問】


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2017.
10.09
Mon
所在地:東京都福生市福生626
アクセス:JR福生駅~徒歩約10分
営 業:8:30~17:00
蔵見学:10名以上で受付(12~1月を除く) ※月1回程、少人数受付の見学会あり
休業日 :日・祝日(月曜休業あり)
TEL:042-551-0003
   ※詳しくはこちら⇒【田村酒造場
田村酒造
 難読地名は東京に結構ありますが、『福生』もその一つといえるでしょう。
福生市には造り酒屋が2軒あり、普段は団体のみ公開する田村酒造場の蔵見学が、福生市の文化財ガイドツアー(2016年11月,郷土資料室主催)に含まれていたので参加してみました。
 この蔵元は、文政5年(1822)福生村の旧家の当主・勘次郎が酒造業を興して、武州一帯の酒造家や酒店に酒造技術や経営法を提供し、各店舗に「かねじゅう(矩へんに十)」マーク(家印)を掲げさせるという、現代でいうフランチャイズ経営をしていたようです。
現在も『嘉泉』を始めとする様々な日本酒が醸造されています。
田村酒造2
酒造蔵:煙突のある蔵はRC造で新しく、奥にも木造の蔵が連なる
田村酒造・煙突
左:明治時代の煉瓦造の煙突は機能していないが地域のシンボルとして残された
右:ガラス越しに見た作業場には米を蒸す釜が残されていた
田村酒造・酒蔵内部1
古い蔵は文政5年(1822)頃に移築したものと云われ、大正7年(1918)に増改築されている
さらに近年、土間・基礎に新たにコンクリを打ち、一部の木材は交換している
田村酒造・酒蔵内部2
タンクが並ぶ酒蔵:他にも近代的な麹室が設置されている
田村酒造・酒蔵内部3
梁など古い物が残る
田村酒造・酒蔵内部4
2階への階段は古そうだ
田村酒造・前蔵
前蔵(米蔵):文政13年(1830) 木造
2F床を撤去して裏に出入口を設け、現在は商品販売の店舗として使用
この蔵かは不明だが記録(※1)によると、文政13年に完成した土蔵は…1/2土蔵柱を引取る、1/22地業始め、1/29上棟、2/2大工仕舞、3/1壁下地塗り始め、3/28裏壁帰し、4/6土間叩き始め…となっている
田村酒造・雑蔵
前蔵の隣りにある雑蔵(ぞうくら):文久2年(1862) 木造2F
田村酒造・主屋
主屋(非公開) 木造
新しい階段は平成28年(2016.4.12)天皇・皇后 両陛下の行幸啓のために設置された
田村酒造・水車小屋と脇蔵
旧 水車小屋と脇蔵:昭和前期、木造
水車は酒造用の精米や発電に使用し、脇蔵は精米を貯蔵したと云われている
田村酒造・水車小屋
旧水車小屋 水車は残っていないようだ
田村酒造・脇蔵
脇蔵
田村分水路3
邸内を流れる田村分水
田村分水路2
田村分水(下は水車小屋の地下)
田村分水路1
水車小屋裏の田村分水
田村取水堰
玉川上水にかかる田村分水の取水堰
田村分水・取水口
田村分水(私用)の取水口
慶応3年(1867)通水時は直接の取水ではなく、樋→溜井戸→樋を通して僅かな水を邸内に取り入れたようである


 天領(江戸幕府の直轄領)であった福生村では、田村家は代々、名主や組頭などの村役人を勤め、文政5年(1822)当主の勘次郎が造り酒屋を創業しました。
歴代の当主は、勘次郎(安永5年~慶応元年)⇒重兵衛(寛政8年~明治6年)⇒十兵衛(文化13年~明治38年※)と80歳を超える長寿であったようです。
幕末~明治時代の当主・十兵衛の本名は『圭蔵』といい、上川原村(昭島市)の名主・指田七郎右衛門の三男であり、婿入りして家督を受け継ぎました。
 実は指田一族は、この地域の分水路開拓を推進していたようです。
実兄(次男)和吉も熊川村の石川家当主となり、後に石川酒造を創業(1863)し、熊川分水を推進。 羽村の指田茂十郎は水番人をしていたようです。
 幕末の頃、江戸幕府は滝野川村(現・北区)に大砲製造所の建設を計画し、製造に必要な水車を設置するため、慶応元年(1865)千川用水の拡張と延長工事を実施します。
しかし水量は足らず、水制限が懸念された各村から水量確保の願いが出て、田村家が工事費用を負担し、慶応3年(1867)上流域の分水の流末を玉川上水に戻す事で、千川用水や三田用水を増水させました。
 酒造りに必要な水を得るため、以前から願い出ていた田村家にとっては好都合な事で、これにより僅かな水が邸内に引かれます。
ただし使用制限があり、~常に溢れ水に留意する事、規定を越えて水が流れ込む時は樋口に栓を打つ事、吐き捨て水のないよう心掛ける事、池泉水など贅沢なものに使わない事、隣近所や知り合いの者であっても屋敷外へは水の汲み運びは一切しない事~と、かなり厳しいものでした。
それから水車を大いに動かす水量が確保できたのは、明治に入り数年経ってからの事でした。
多摩川近くの村でさえ水を確保するのにこれほど大変だったとは、蛇口を捻れば水が出るありがたさを痛感しました。

【参考文献】
(※1)「年中行事日記帳(文政11年~13年)」田村勘次郎 2016 福生古文書研究会
「熊川分水」福生市郷土資料室,高崎勇作 他 2002 福生市教育委員会
「近代化を支えた多摩川の水」(一般研究)小坂克信 2011 とうきゅう環境財団

【2016年11月 訪問】


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2017.
09.24
Sun
所在地:板橋区東新町2-30-23
アクセス:小茂根三丁目バス停~徒歩約3分 or 東武鉄道・上板橋駅~徒歩約15分
見 学:内部は非公開
  ※安養院についてはコチラ⇒【板橋区HP
安養院・本堂
 板橋区にある安養院に、明治時代の松平伯爵邸が移築されているとの事。
いたばし文化財ふれあいウイーク2016(10月末~11月初)にて数日だけ公開されるとの事で上板橋駅を降り、てくてくと歩いて辿り着いた先に緑の杜。 ※2017年度は残念ながら公開されないようです
T字路で迷いましたが、右手に行くと参道に近く(私はこの道)、T字路を直進して信号を右に曲がると表門や客殿に近いようです。
武王山最明寺 安養院(真言宗)は、鎌倉時代に北条時頼が開基したと云われ、江戸初期に再興されますが、明治の頃に火災に遭い、僅かな寺宝を残して焼失。 徐々に建物を再建して現在に至ります。
安養院・鐘
鐘撞堂
元禄2年の銅鐘にヒビが入り、享和2年(1802)再鋳。 国の重要美術品
安養院・堂
多宝塔 (木造、2004年竣工、設計:山雄設計事務所、施工:宏和建設)
この下には納骨堂『常圓堂』もある(RC造、2005年竣工、設計:GA設計、施工:日東みらい建設)
安養院・御堂
大師堂
安養院
客殿(旧松平基則邸)
明治35年(1902)、木造2階建て
麹町にあった建物が安養院へ譲渡され、昭和5年に移築完成
屋根は平成11年(1999)改修されている
安養院・表玄関引戸
客殿の表玄関
安養院・表玄関 屋根
前橋松平家の葵紋
安養院・中玄関
客殿の内玄関
安養院・玄関内
表玄関の内部:訪問時は表玄関ではなく案内人(檀家さん)と一緒に本堂から入った
安養院・玄関前廊下
表玄関の廊下にある杉戸
安養院・1F大広間
1F大広間
安養院・1F大広間 付書院
1F大広間の付け書院
安養院・1F大広間 欄間
1F大広間の欄間
安養院・棟札
客殿(旧松平基則邸)の棟札
建築技師:北澤虎造の他、薄くて読みづらいが副技師:中津音次郎?、建築掛:川成〇太郎?、 棟梁:金田平吉?
設計主任の北澤虎造は海軍建築技師で、前田公爵家和館(1905-1945焼失、現:東大本郷キャンパス庭園)等を設計し、この松平基則邸と同じ年に乃木希典邸(1902-現:乃木神社内)も完成している。
海軍に所属していた北澤のように、国会議事堂の基本設計者・大蔵省技師の吉武東里も幾つか個人住宅を手掛けている。
安養院・階段
左:表階段               右:裏階段(使用人向け)
安養院・2F階段
2F表階段から大広間に向かう
安養院・2F大広間1
2F大広間:この部屋は格が高く、折上げ格天井となっている
北烏山の妙壽寺に移築された鍋島直柔邸(1905年頃・非公開)も2Fに格式の高い大広間がある
安養院・2F床脇
床脇(左:実際に使えそうな上段の書院、 右:違い棚)
安養院・2F大広間 欄間
2F大広間の欄間
安養院・2F大広間照明
2Fの照明:一見新しく見えるが古い物(左:大広間、右:次の間)
安養院・家紋
家紋入り(左:照明ガラスシェード、 右:襖の引き手)


 松平基則は明治8年(1875)に、松平典則(旧 川越藩主)の三男として生まれます。 その後、松平直方に養子入りし当主となって伯爵になりました。
明治40年(1907.8.3)国へ申請して隠居し、本来の相続人である直之(松平直克の長男)に家督を譲り、昭和5年(1930.5.24)他界しています。※1
 この建物は麹町にありました。 松平基則の著書には住所が麹町区下二番町48番地とあり、旧前橋松平家の家臣・八木始(詩人・萩原朔太郎の祖父)も同じ敷地内に住み、明治35年「麹町区下二番町 松平基則様邸内・八木始宛」の郵便物が群馬県立文書館に保存されています。
 次回は安養院の仏像をご紹介します。⇒【安養院②

【参考文献】
※1)「官報」1907.8.6、1930.5.30

【2016年11月 訪問】


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2017.
09.03
Sun
建築年:昭和13年(1938)、増改築有り
設計施工:清水組
所在地:東京都世田谷区瀬田4-41-21
見 学:9:30~16:30、無料
休館日:月曜日(祝日の場合は次の平日)、年末年始
アクセス:東急コーチ「玉川病院」バス停~徒歩約2分 or 東急電鉄・二子玉川駅~徒歩約20分
TEL:03-3709-5471
   ※詳しくはコチラ⇒【旧小坂家住宅
旧小坂家住宅
 二子玉川の山手にある瀬田付近は、明治以降になると実業家や文化人が別邸を設けました。 
静嘉堂文庫美術館や岡本民家園の近くにあるこの家は、小坂順造の別邸として建てられたもので、渋谷にあった本邸が昭和20年の戦災で焼失したため居宅となり、小坂順造は昭和35年(1960.10.16)この家で亡くなっています。
旧小坂家住宅・玄関天井
玄関の天井:主な部材は奥多摩の名主の家から移設したものと云われる
昭和12年(1937)7月に起工、10月2日上棟、昭和13年9月竣工
旧小坂家住宅・玄関
左:土間のある玄関         右:電話室
旧小坂家住宅・茶室
左:玄関脇にある茶室        右:広縁にある水屋は戸棚式
旧小坂家住宅・書斎1
書斎:暖炉上には仏像が置かれていた
旧小坂家住宅・書斎3
書斎の空調ガラリ(ラジエーター式ヒーター)
旧小坂家住宅・照明
左:書斎の照明                  右:書斎の壁紙
旧小坂家住宅・居間
居間(次の間が茶の間)
旧小坂家住宅・台所
台所の食器棚(流し台は新設)
左手に勝手口があり、その脇に地下(ボイラー室)の扉がある
昭和28年(1953)台所は増改築された
旧小坂家住宅・呼び鈴
呼び鈴
旧小坂家住宅・洗面脱衣室
洗面脱衣室
旧小坂家住宅・浴室便所
左:浴室               右:便所
旧小坂家住宅・廊下
左:内蔵               右:階段(2Fは令息室※非公開)
旧小坂家住宅・更衣室
更衣室(ウォ-クインクローゼット):鏡台は長女・百合子の嫁入り道具
旧小坂家住宅・寝室1
主寝室:昭和29(1954)暖炉を琉球産トラバーチンに交換
旧小坂家住宅・寝室2
主寝室
旧小坂家住宅・サンルーム
左:主寝室の洗面所           右:サンルーム
旧小坂家住宅・照明2
照明(左:玄関、 右:階段室)
旧小坂家・茶室跡
茶室跡:主屋は高台にあり、茶室は低地にあった。
この家の近くに住んでいた画家・竪山南風の紹介で、横山大観夫妻が上野の池之端から疎開し、昭和20年3月から3ヶ月程ここに居住。
しかし空襲で焼け出された小坂家三男・徳三郎一家が住む事になり、熱海の別荘へ転居。
空襲で全焼した池之端の跡地に昭和29年に横山大観は家(現:横山大観記念館)を再建している。


 小坂順造は明治14年(1881.3.30)小坂善之助の長男として長野の村山村で生まれ、東京高等商業学校卒業後に日銀へ就職。
信濃毎日新聞・信越化学工業・信濃電気・長野電燈の社長や、日本発送電㈱の総裁を務め、衆議院議員にも当選しています。
父親の小坂善之助は、信濃銀行や長野電灯を創設した人物で、衆議院議員や信濃毎日新聞社長にも就任。
妹2人は日銀総裁の深井英伍や第百銀行頭取の関根善作の妻であり、順造の長男・善太郎は外務大臣、三男・徳三郎は運輸大臣となり、政界や金融界にも繋がりがありました。
 順造の妻・花子はキリスト系女学校出身で、「二十世紀」梨の名付け親である渡瀬寅次郎の長女。
夫妻はしつけに厳しく、子供達は働かなければ小遣いがもらえなかったといいます。
晩年は東京で暮らした小坂順造ですが、死後は長野の生家の裏庭にあるお墓に埋葬されました。
ちなみに小坂順造の生家(江戸末期・茅葺き)は、昭和34年の映画『風花(木下恵介監督)』の撮影に使用されています。

【参考文献】
「小坂順造」 小坂順造先生伝記編纂委員会 1961
実業の日本56(27)「小坂順造をとりまく人々」 鈴木富起人 著 1953 実業之日本社 
中央公論経営問題17(2)「小坂家三代・男たちの系譜」 有馬 真喜子 著 1978 中央公論社
学苑 (通号 700)「旧小坂順造邸(世田谷区)の調査報告」 堀内 正昭 著 1998 光葉会
「風のコラムVol13」 2016 世田谷トラストまちづくり大学同窓会

【2016年10月 訪問】


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