2018.
01.07
Sun
建築年:大正15年(1926)竣工、何度か改修有り
構 造:鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC)3階+塔屋
設計施工:竹中工務店
所在地:神奈川県横浜市中区尾上町6-85
電 話:045-681-3804
アクセス:JR・横浜市営地下鉄「関内」駅~徒歩約4分
  ※詳しくはコチラ⇒【指路教会
指路教会
 こちらは、ヘボン博士らにより創設された横浜指路教会です。
横浜大空襲(1945)で内部が焼失しましたが、修復されて現在に至っています。
指路教会・玄関
平成の大改修でバラ窓と一部の窓は保存、それ以外の改修済サッシは更新。 玄関のスチール折れ戸は保存し自動扉を新設。
指路教会・鐘
竣工時の鐘は外へ移動された
指路教会・会堂1
会堂前方
指路教会・会堂2
会堂後方
指路教会・椅子
左:内陣にあるベンチ(戦後に改修)
右:古そうな椅子
指路教会・階段
1Fから階段ホールを見上げる(戦時中に内部が焼失した際、スチール階段やトラスの一部が歪んだ)
指路教会1F
1F:戦後2年間は進駐軍に建物を接収されていたYMCAに間貸し(英会話教室)、その後は9室に改造して一時は会計事務所や歯科に貸していた。
平成の大改修で集会室を増やし、可動間仕切り壁で部屋の広さが変更可能に。
指路教会・1F資料室
1F教室
指路教会・金庫
1F金庫:佐倉金庫店製

 文久2年(1862)米国長老教会の宣教師・ヘボン夫妻が、横浜の旧・谷戸橋付近に住宅と診療所を設け、合間にヘボン塾や聖書研究会などを開催。
そのヘボン邸(居留地39番館)は日本の大工が建てた擬洋風建築で、成仏寺(旧住居)内部の造りと似ていたという事です。
 そしてJ.C.ヘボンら長老派の外国人宣教師に南小柿洲吾も加わり、明治7年(1874)ヘボン邸内に横浜第一長老公会が創設され、借地(現在地付近)に耶蘇教講義所を開設。
 翌年、太田町にあった別派の講義所を譲り受けて集会を催していましたが、信徒の増加により住吉町の借地(第二国立銀行所有)に木造の礼拝堂を建立。 明治9年(1876.11.26)献堂式が行われ、『住吉町教会』と呼ばれました。
 その後も信徒が増加し、米国と国内有志からの献金+ヘボンの私財を合わせ、サルダの設計により現在地に煉瓦造の礼拝堂を建設。
サルダ(P.P.Sarda)はフランス出身、エコール・サントラル卒業後に来日し、横須賀造船所付属学校などの器械/理工学教師を経て、横浜の山手で設計事務所を開設。フランス領事館やグランドホテル等を設計していました。
 明治23年(1890)ヘボン夫妻の金婚式を以って教会の定礎式が行われ、記念物が納められた鉄箱をヘボンが尖塔下に埋めました。
その中身は指路教会員名簿・日本基督教会規則の草案・日曜学校生徒の献金等との事。
 明治25年(1892.1.16)献堂式にはヘボン夫妻はリュウマチで参加できませんでしたが、W.インブリーが説教を行っています。
そして教会名はヘボンの郷里のShiloh Churchを踏襲して『指路教会』と改められました。
 しかし、その礼拝堂は関東大震災で倒壊。 建築費の殆どを貿易商・成毛金次郎(ヘボン塾生/東洋貿易商会社長)が寄付し、竹中工務店(設計担当:石川純一郎)が請け負って現在の建物が建設されます。
大正15年(1926.9.5)完成間近の会堂で礼拝が開催され、竣工した10月に献堂式が行われました。
 当初の間取りは…
1F:下足室・日曜学校教室・便所・厨房など(正面右に出入口があった)
2F:会堂・事務室・牧師室
3F:婦人室・応接室
 その後この建物は横浜大空襲(1945.5.29)で貰い火に遭い、屋根が焼け落ちるほど内部が焼失しますが、翌月には1階で、昭和23年(1948)にはテックス貼の2階で礼拝が続けられました。 その後も屋根の葺き替え・サッシの交換などが行われましたが、雨漏りのシミ・屋根の錆び・外壁仕上材の剥落が目立つようになり、平成に入り保存改修工事が実施されました。
 工期1989年10月~1990年3月(改修設計:堀江悦男設計事務所、施工:竹中工務店)
外壁仕上材の浮き部分を剥がして弾性砂骨材吹付け、屋根は鉄板→ステンレスに葺き替え、屋根裏鉄骨補強、室内は全改装、空調新設、改修済サッシの更新、玄関に自動扉を新設しています。 平成2年(1990.5.6)竣工感謝会を開催。

【参考文献】
「ゼー・シー・ヘボン博士 : 新日本の開拓者」山本秀煌 著 1926 聚芳閣
横浜市史稿 神社編・教会編 「指路基督教会」 1932 横浜市役所
「横浜指路教会百二十五年史」横浜指路教会125年史編纂委員会 2004
開港のひろば85『禁酒会のおきて(南小柿洲吾関係史料から)』 2004 横浜開港資料館

【2017年2月 訪問】


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2017.
11.19
Sun
所在地:神奈川県小田原市南町2-1-27
建築年:明治後期
公 開:木~日・祝日(年末年始除く)、11:00~15:00
料 金:無 料
  ※詳しくはこちら⇒【旧松本剛吉別邸
旧松本剛吉別邸
 銀杏の巨樹がある事から『黄樹庵(おうじゅあん)』と呼ばれた松本剛吉の別邸跡です。
主屋(住居のため非公開)は関東大地震で被災し、その部材を使って名古屋の職人(請負:内藤工務所)が再建した昭和初期の建物です。
 その後、東京府農工銀行頭取であった鈴木茂兵衛らの手を経て、昭和17年(1942)日本橋の木綿問屋「岡正」の岡田正吉に譲渡されました。
岡田正吉(正次郎の長男)は若くして家督を襲ぎ、義兄と共に商売を繁盛させていたようです。
茶室『雨香亭』と腰掛待合はいつの時代に誰が建てたものかは解明されていませんが、凝った造りになっています。
雨香亭2
雨香亭
雨香亭
雨香亭
雨香亭・床下
雨香亭 床下換気口
雨香亭・扁額
雨香亭 扁額
雨香亭・玄関
雨香亭 玄関
雨香亭・広間1
雨香亭 広間
雨香亭・広間2
雨香亭 広間: 障子は母屋のものと似ている
雨香亭・小間1
雨香亭 小間
雨香亭・小間2
雨香亭 小間の床柱は桜
雨香亭・炉
雨香亭 小間の 炉は天然石
雨香亭・水屋1
雨香亭 水屋
雨香亭・水屋2
雨香亭 水屋
待合1
高台にある腰掛待合
待合2
腰掛待合の内部


 若い頃ダメ人間であった松本剛吉は上司に重用され、後に大臣秘書官・衆議院議員となり、山縣や西園寺ら大物政治家の側近として裏政治に深く関わりました。
 文久2年(1862)柏原藩の藩士・今井源左衛門の五男として丹波(兵庫)で誕生。 松元家に養子入りし、10歳で松元剛吉を襲名。(後に松本と改称)
17歳の時に柏原の実家に戻り、巡査か軍人になるための資金として刀を盗み逃亡。 京都の宿まで追ってきた父親は事情を訊き、上京を許してお金を渡してくれました。
 しかし東京へ行くも陸軍士官学校の受験に落第し、店番や寿司屋の出前持ちも上手くいかず、織田家の執事・中川保を訪ねます。
その長男・一郎と共に小石川の同人社へ通う事になりますが遊んでばかり。 織田邸の不寝番となるものの泥棒に入られ居づらい状態に。
 18歳で千葉の巡査試験を受け、踵に詰め物をして身長と年齢のさばを読み合格。
しかし交番での居眠りが見つかり、千葉警察署の内勤に異動。 そこで警部(木更津署長)に誘われ木更津へ転勤し、夜学に通って三等巡査になり、下宿先の親戚の妹サクを嫁に迎えます。
翌年に北條警察署へ転任し二等巡査に、長女・鶴代が誕生した明治14年、一等巡査に昇進し土佐へ異動。
 ところが同郷の県令・田辺輝実が東京に転任する事になり、田に相談せよとの事で同じく東京へ異動となる田健次郎と初めて会う事になります。
田の紹介で土佐の監獄での勤務となりますが、囚人の衣類検査がいやで辞職。 そして大阪行きの船内で宮地茂春と出会い、貿易会社に誘われます。
しかし、父に偽り調達した出資金で、宮地が遊んでいるという話を聞き商売を断念。
明治16年に神奈川県警へ異動となった田から誘われ、庶務掛探偵係に着任。 翌年に長男・卓が誕生し、両親と実母を呼び寄せて伊勢佐木町の官舎で暮らします。
 後に警察を辞めた松本は、後藤象次郎の秘書となっていた宮地茂春(板垣退助の娘婿)と再会し、その紹介で後藤の鞄持ち(逓信属)に。
後藤と陸奥宗光に言われ、九州で郵便局長らに選挙干渉したところ、松本と間違われた教員が殺害される事件が発生しています。
 鉱山・米相場に手を出し明治27年に辞職。 始めた彼是屋が上手くいかず、芝神明町の借家(内田信也の父の持家)から夜逃げ同然で退去。
神奈川の埋立てを画策していた宮地に呼ばれ、橘樹郡長・安達(神奈川県警の元上司)と交渉。 宮地が他界すると、信州の山田藤左衛門や小坂善之助と共に埋立て計画を勧め、明治32年(1899)事業着手の報酬として、出資者・山内家から子安の埋立地3千坪の権利をもらい、佐伯藤之助に譲渡した金で、小田原に家を構える資金としました。
 明治32年に家族を小田原に移し、板垣退助の口添えで林有造の秘書として逓信省に入省した松本は、東京築地の借家で衆議院議員の植木致一らと寄宿。
翌年に星亨から依頼を受けた松本は、植木に辞任するよう交渉しています。(後任の議員は田健次郎、星亨は明治34年に暗殺)
 明治35年に妻サクが他界し、翌年に恭(三輪田真佐子の娘)を後妻に迎え、明治37年に衆議院議員に初当選。
その後、田が逓信大臣(1916)や台湾総督(1919)になると秘書官として補佐しました。
 この小田原の別邸は、東京鉄道の重役になった明治40年頃に担保に出されていましたが、関東大震災で被災すると松本は9/14に帰庵し、再建するほど愛着があったようです。  昭和4年(1929.3.5)他界。

【参考文献】
「第三回調査全国五拾万円以上資産家」1916 時事新報社
松本剛吉自伝「夢の跡」松本剛吉 著(大正14年の複製) 2012 芙蓉書房出版
「小田原市内数寄屋等建築調査 調査概報」小田原市数寄屋等建築調査団 2013

【2016年11月 訪問】



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2017.
05.14
Sun
建築年:昭和8年(1933)、何度か改修有り
設計施工:不明
所在地:神奈川県藤沢市鵠沼橘1-14-7
交 通:JR藤沢駅~徒歩約8分
見 学:市民専用のため通常非公開。 イベント時のみ公開
  ※所有はこちら⇒【藤沢市
旧後藤医院
 この建物は2008年から藤沢市が借り受け、「鵠沼橘市民の家」としてOPEN。 2013年に所有者から藤沢市へ寄付されました。
後藤医院鵠沼分院は、東京の後藤医院の長男・秀兵が昭和8年(1933)開業。 その後、高齢になったため閉院し、昭和46年(1971)院長が他界した後は親族が別荘として使用していました。
旧後藤医院・玄関
玄関
旧後藤医院・待合室2
玄関内部
旧後藤医院・待合室1
待合室
旧後藤医院・排気口
待合室にある天井排気口(右:戸を開ける紐)
旧後藤医院・薬局
受付・薬局の内部
旧後藤医院・検査所
待合室の奥にある検査所
左:棚の上にはガス栓         右:謎の小部屋(パイプはスチーム暖房の配管)
旧後藤医院・旧診察室
診察室は和室に改装
旧後藤医院・応接室
応接間
旧後藤医院・居間
居間も改装済み
旧後藤医院・廊下1
十字路になった廊下は天井が高く、交差点にも天井排気口がある
右:居間後方の廊下 (この建物は外部との出入口が計4ケ所)
旧後藤医院・平面図
旧平面図を元に描いたと思われる図面(地内排水管改良工事 H11)
旧後藤医院・トイレ
もう一方の十字路の奥にあるトイレは様式に変更済み
旧後藤医院・台所建具
台所:勝手口扉の窓は開くことができる
旧後藤医院・窓
窓は二重になっており窓の上下に通気口
旧後藤医院・掃き出し窓
窓下の通気口を兼ねた掃き出し口(ほうきの掃除用)の戸は上開き・横開きがある
旧後藤医院・窓1
外部は上げ下げ窓で内部は引違窓になっており、2枚のガラス窓の間には通気口とロールカーテン
旧後藤医院・痰壺
左:当初からの物と思われる水洗式痰壺で縁から水が流れる     右:東洋陶器(現:TOTO)のマーク
かつては所かまわず痰を吐く人が多く、公共空間に痰壺が設置される事が多かった。
旧後藤医院・設備
左:ラジエーター式スチーム暖房  
右:廊下の床板一部は点検用に外せるようになっている。 排水溝? それとも床下換気用の導気溝?
旧後藤医院2

 院長・後藤秀兵は、解説板によると明治21年(1888.3.18) 後藤瞭平の長男として生まれ、東京帝国大学医学部卒業後、実家の医院で経験を積み、昭和8年(1933)藤沢で開業、昭和30年代後半から閉院、昭和46年(1971.9.23)他界となっています。 
 東京の後藤医院長で父親の後藤瞭平は明治元年(1868)群馬県高山村で生まれ、慈恵医学校卒業後に、母校の附属病院及び日本郵船の船医として勤務(※1)、明治35年4月に小石川区駕籠町113番地にて『後藤医院』を開業していますが、昭和20年3月に戦争で建物が焼失しています。
 さらに調べてみると同一人物かは不明ですが、後藤秀兵(群馬出身)なる人物がいて、東京帝国大学医学部を大正10年に卒業(※2)しており、衛生室の研究員をしていたようです。 その頃に住宅について衛生面から幾つか雑誌に記事を書いています。
 三越の記事(※3)を要約すると… 実験上、空中の細菌濃度は床面付近が一番であるから、床面に座る・眠る、汗などで汚れた畳に両手をついて礼をする事は、病原菌の体内侵入にしばしば好機会を与える事になる。 日本住宅の欠点としては、不完全採光・室内温度調節困難・湿気対策の不備・換気不足・天井裏の清掃不能・太陽輻射熱に対する無抵抗・不便な雨戸・家屋内の音波及などである。 改善策としては伸縮着脱可能な庇や、熱伝導率の低い天井床材、熱容量の小さい壁で造作し、外気導入口・高い窓や二重窓・ドイツ式暖炉などを設け、床下の空気を上昇管によって屋外に排出する…と提唱しています。
この記事を書いた後藤秀兵は、後藤医院鵠沼分院の医院長であると確定できませんが、この建物には大きな天井排気口が数か所、二重窓やスチーム暖房など、この提唱に通じる特徴を備えています。
 同じ時代に京都帝大教授で建築家・藤井厚二も住宅改善に取り組み、自邸を5軒建て検証していました。 最後の自邸である聴竹居にも外気導入口・天井排気口が設けられ、通気を重視しています。 これらの造作は夏の暑さを凌ぐ効果がありますが、後藤医院鵠沼分院では結核などの感染予防を兼ねた物なのかもしれません。

【参考文献】
(※1)「日本医籍録. 昭和17年版」 医事時論社
(※2)「東京帝国大学一覧. 大正10年~11年」 東京帝国大学
(※3)三越23-4「衞生と日本家屋」後藤秀兵 著 1933 三越

【2015年11月 訪問】


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2016.
07.10
Sun
東伏見宮邸
建築年:大正3年(1914) 
所在地:神奈川県 三浦郡 葉山町 堀内1968   
構 造:木造2階建て
見 学:非公開  
交 通:JR逗子駅~「向原」バス停~徒歩2分

東伏見宮葉山別邸・2F階段
階段2階:踊り場の窓の下には脚立が入っている
東伏見宮葉山別邸・2F和室1
2階和室の前室
東伏見宮葉山別邸・和室2
2階和室・大広間
東伏見宮葉山別邸・和室照明
2階大広間の照明
東伏見宮葉山別邸・和室照明2
2階和室の照明:菊の紋様が意匠に取り入られている
東伏見宮葉山別邸・2F洋室
2階南西の洋室
東伏見宮葉山別邸・寝室照明
2階西の洋室と照明
東伏見宮葉山別邸・クローゼット
奥行きのあるクローゼット家具:東伏見宮家の物かは不明だが扉は巨木の1枚板
(左:階段ホール、右:2階南西洋室)
東伏見宮葉山別邸・2F
左:2階西の洋室の暖炉          右:塔屋への螺旋階段
東伏見宮葉山別邸・2F廊下2
2階南西廊下(サンルーム)
東伏見宮葉山別邸・2F廊下1
2階北西廊下(サンルーム)
東伏見宮葉山別邸・螺旋階段2
塔屋への螺旋階段
東伏見宮葉山別邸・塔屋
塔屋内部
東伏見宮葉山別邸3


 ここ逗子は、東伏見宮依仁親王にとって療養の地であったようです。 この建物が出来る前の明治43年にも逗子で療養していた記録があります。
大正2年12月に風邪をこじらせ肺炎となり、熱海で1か月半ほど療養し全快すると、大正3年3月3日に船に乗って逗子(葉山)別邸に入っている事から、その頃にはこの建物も完成していたのでしょうか。 3月17日には帰京し、3月23日に軍令部へ出勤。 その後、3月26日に沼津で静養中の照憲皇太后へ御参伺するなど慌ただしい日々を送ったようです。
 大正11年5月10日、再び葉山別邸で療養に入り、6月25日に重体となって同日14時にご容態を公表。 26日20時頃に危篤に陥り、23時頃には絶望の状態。 27日20時頃に周子妃と共に自動車に乗り、近隣住民に見送られながらこの別邸を出ます。 赤坂.葵町の本邸にて23時25分薨去。 7月3日5時30分から柩前祭が行われ、7時に陸海軍.儀仗隊の行列に伴われて豊島岡墓地へ向かい、7月4日8時に斂葬、7月5日に權舍祭、同日10時に墓所祭が行われました。 周子妃は五十日祭に至るまで、雨が降っても毎日墓参していたとの事です。

【参考文献】
「依仁親王」1927 東伏見宮家


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2016.
06.26
Sun
建築年: 大正2年(1913)、平成5年(1993)改修
設 計: 設計は海軍経理部建築科(櫻井小太郎・富田喜久二)、監督:弘中儀一
構 造: 木造、一部2階建て
見 学: 非公開
住 所: 神奈川県横須賀市田戸台90
交 通: 京急電鉄・県立大学駅~徒歩約10分
TEL: 046-822-3551(海上自衛隊横須賀地方総監部総務課広報係) 
田戸台分庁舎1
 横須賀の旧海軍司令長官の官舎が、桜の時期に一般公開(1Fのみ)されています。
「鎮守府」とは、出征準備・防御計画・海軍区の警備や事務を監督する海軍機関で、東海鎮守府が明治17年に横浜から横須賀造船所内へ移転して「横須賀鎮守府」と改称。 明治23年に新庁舎(設計:林忠恕)が完成し、当初の長官舎は造船所経理部官舎の向かいにありました。
 大正2年にこの長官舎が完成すると、歴代の長官が家族と共に入居します。 その中でも海軍中将・東伏見宮依仁親王は、東伏見宮家の文献によると、大正2年(1913/4/1)横須賀鎮守府艦隊司令官、大正5年(1916/12/1)に横須賀鎮守府司令長官となり、大正6年3月16日に周子妃と共にこの官舎へ入居。 同年12月1日に第二艦隊司令長官となり転居となっています。
こちらの掲示板によれば、大正2年7月から僅か1ヶ月の居住となっていますので、新築間もない頃は殆ど使用していなかったのかもしれません。
ちなみに、東伏見宮依仁親王は私邸として、湘南地域に葉山別邸(1914)がありました。
 終戦後は昭和39年まで進駐軍に接収され、外壁・内部も白く塗り替えられて、歴代のアメリカ海軍司令官ら9人が住んでいました。 その当時の写真(柱・長押は白く塗られていない)には、2階和室の窓を背に広縁と畳をまたぐ形でベッドを置いた様子が写っています。
 昭和44年に返還された後は防衛庁の所管となったものの殆ど使用せず、平成5年に改修されてから会合や貴賓客の接待に使用され、現在は海上自衛隊横須賀地方総監部の管理の下、1階ホールは貸室としてピアノ演奏会等に利用されています。 ※詳しくはコチラ⇒【田戸台分庁舎
田戸台分庁舎6
表玄関
田戸台分庁舎3
古写真(展示パネルより)には、和館に通じる内玄関(妻や子供らが使用)が見える
田戸台分庁舎7
基礎や煙突部分は煉瓦造+石貼りか?
田戸台分庁舎・窓
上:応接所のステンドグラス        下:出窓の内側は屋根裏倉庫
田戸台分庁舎・玄関
玄関ホール
田戸台分庁舎・応接所
旧応接所(記念館)と暖炉:天井が張られステンドグラスが隠れている
田戸台分庁舎・応接所家具
旧応接所の家具と、机に置いてあるBOOKスタンド
田戸台分庁舎・旧客室2
旧客室(リビング):一般公開は土足入場のため、床に養生が張られている。
田戸台分庁舎・旧客室1
旧客室(リビング)
田戸台分庁舎・ピアノ
 大正時代に独・ハンブルグで製造されたスタインウェイ社製グランドピアノ。 海軍の従軍カメラマンとして樺太に居住していた野坂保雄が、帰国する際に購入して持ち帰ったもので、転居(1929)に伴い海軍に寄贈したと云われている。 修復済みで実際に使用できる。
田戸台分庁舎・客室暖炉
左:旧客室(リビング)の暖炉    
右:暖炉上の壁にあった小川三知のガラスモザイク一部。 進駐軍接収時代は壁に鏡が貼られていた。
田戸台分庁舎・食堂1
食堂 (下の写真は展示パネルより) 暖炉は無くなっている   
田戸台分庁舎・食堂2
食堂
田戸台分庁舎・食堂家具
食堂の家具:上の古写真を見ると当時の物と分かる。
田戸台分庁舎・食堂3
食堂/サンルーム境のステンドグラス
田戸台分庁舎・サンルーム
旧縁側(サンルーム):床のタイルは石
田戸台分庁舎・古写真
解説パネル:進駐軍接収時代の写真も(1階客室と2階和室)
田戸台分庁舎・階段
階段:2階は非公開。 和室二間があり、洋館の上は屋根裏倉庫になっていた。
田戸台分庁舎・廊下
和室前の廊下:邸内も広く私用空間を分けているため、陸軍第13師団長官舎では、呼鈴の1鈴は長官の来客・2鈴は夫人の来客・3鈴は食事の合図となっていたが、ここでは使用人が呼びに行ったのだろうか?
田戸台分庁舎・1F和室
1階和室は改装済み
田戸台分庁舎2
和館外部
田戸台分庁舎・外壁
進駐軍が全ての木部にペンキを塗っている。
田戸台分庁舎8
 同じ敷地内に、建坪40坪・平屋で日本家屋の司令副官舎(1913,富田喜久二設計)もあったが、返還後に2世帯向き官舎に改修され、平成17年(2005)解体。 これらの高等官以上の官舎は有料であったようで、玄関・取次の間・床付き室は公用として家賃の対象から除外すると海軍規則に書かれている。 建設時は長官自ら建築指導しており、新潟にある陸軍第13師団長官舎(1910)は長岡外史中将が設計から庭木の植付けまで関わり、好みの官舎に仕上げている。(横須賀の長官舎は瓜生外吉が指導)
田戸台分庁舎・防空壕
敷地内にある小山の下は防空壕
田戸台分庁舎・門
門柱と塀は一部を除き現存

田戸台分庁舎5


 この建物を設計した海軍経理部建築科長・櫻井小太郎は、明治3年(1870)神田今川町生まれ。 J・コンドルの建築事務所、UCL(ロンドン大学)で建築を学び、ロジャー・スミス建築事務所で2年間の実務を経て、英国王立協会建築家資格を取得します。
明治26年に帰国した後、コンドルの事務所でドイツ公使館を手伝っていましたが海軍技師となり、明治36年から建築科長として呉・横須賀鎮守府の建物を手掛け、大正2年に退官。 三菱合資会社地所部の技師長として丸の内ビルディング等を担当し、大正12年に櫻井建築事務所を開設。 意匠図~原寸図まで図面の描き方・寸法の記入など細部にわたって所員に注意していたそうです。 私生活では能楽・仕舞・漢詩などの趣味を持ち、中條精一郎や佐藤功一らと事務所(丸ビル内)近くにあったエーワンレストランでよく昼食を共にしたとの事。
 作品は、旧呉鎮守府長官官舎・静嘉堂文庫・成蹊学園・旧横浜正金銀行門司支店,神戸支店など。
木造2階建ての個人住宅では、田中銀之助邸(麻布.兵衛町)や三好邸(四谷.仲ノ町)等を設計しましたが、現存しているのは旧 荘清次郎別邸だけのようです。
荘清次郎別邸
旧 荘清次郎別邸:大正5年,木造2階建て(鎌倉市扇ガ谷1-7-23)
 三菱合資会社の役員をしていた荘清次郎の別荘として建てられた。 その後、内閣総理大臣を務めた濱口雄幸や近衛文麿らが借りて別荘に利用し、昭和12年(1937)日本土地建物㈱の古我貞周が取得した後、進駐軍に接収されて将校クラブとして使われる。 返還された後、レーサーであった息子の古我信生が受け継ぎ使用していたが、2015年にレストラン『古我邸』へと生まれ変わった。 この写真はレストラン開店前に撮影(2014年10月)。

【参考文献】
「新横須賀市史 別編 文化遺産」2009 横須賀市
「依仁親王」1927 東伏見宮家
建築雑誌 50(612)「追憶」櫻井小太郎著 1936
建築雑誌 69(807)「桜井先生を忍ぶ」石原信之著 1954

【2015年4月 訪問】


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