2017.
05.14
Sun
建築年:昭和8年(1933)、何度か改修有り
設計施工:不明
所在地:神奈川県藤沢市鵠沼橘1-14-7
交 通:JR藤沢駅~徒歩約8分
見 学:市民専用のため通常非公開。 イベント時のみ公開
  ※所有はこちら⇒【藤沢市
旧後藤医院
 この建物は2008年から藤沢市が借り受け、「鵠沼橘市民の家」としてOPEN。 2013年に所有者から藤沢市へ寄付されました。
後藤医院鵠沼分院は、東京の後藤医院の長男・秀兵が昭和8年(1933)開業。 その後、高齢になったため閉院し、昭和46年(1971)院長が他界した後は親族が別荘として使用していました。
旧後藤医院・玄関
玄関
旧後藤医院・待合室2
玄関内部
旧後藤医院・待合室1
待合室
旧後藤医院・排気口
待合室にある天井排気口(右:戸を開ける紐)
旧後藤医院・薬局
受付・薬局の内部
旧後藤医院・検査所
待合室の奥にある検査所
左:棚の上にはガス栓         右:謎の小部屋(パイプはスチーム暖房の配管)
旧後藤医院・旧診察室
診察室は和室に改装
旧後藤医院・応接室
応接間
旧後藤医院・居間
居間も改装済み
旧後藤医院・廊下1
十字路になった廊下は天井が高く、交差点にも天井排気口がある
右:居間後方の廊下 (この建物は外部との出入口が計4ケ所)
旧後藤医院・平面図
旧平面図を元に描いたと思われる図面(地内排水管改良工事 H11)
旧後藤医院・トイレ
もう一方の十字路の奥にあるトイレは様式に変更済み
旧後藤医院・台所建具
台所:勝手口扉の窓は開くことができる
旧後藤医院・窓
窓は二重になっており窓の上下に通気口
旧後藤医院・掃き出し窓
窓下の通気口を兼ねた掃き出し口(ほうきの掃除用)の戸は上開き・横開きがある
旧後藤医院・窓1
外部は上げ下げ窓で内部は引違窓になっており、2枚のガラス窓の間には通気口とロールカーテン
旧後藤医院・痰壺
左:当初からの物と思われる水洗式痰壺で縁から水が流れる     右:東洋陶器(現:TOTO)のマーク
かつては所かまわず痰を吐く人が多く、公共空間に痰壺が設置される事が多かった。
旧後藤医院・設備
左:ラジエーター式スチーム暖房  
右:廊下の床板一部は点検用に外せるようになっている。 排水溝? それとも床下換気用の導気溝?
旧後藤医院2

 院長・後藤秀兵は、解説板によると明治21年(1888.3.18) 後藤瞭平の長男として生まれ、東京帝国大学医学部卒業後、実家の医院で経験を積み、昭和8年(1933)藤沢で開業、昭和30年代後半から閉院、昭和46年(1971.9.23)他界となっています。 
 東京の後藤医院長で父親の後藤瞭平は明治元年(1868)群馬県高山村で生まれ、慈恵医学校卒業後に、母校の附属病院及び日本郵船の船医として勤務(※1)、明治35年4月に小石川区駕籠町113番地にて『後藤医院』を開業していますが、昭和20年3月に戦争で建物が焼失しています。
 さらに調べてみると同一人物かは不明ですが、後藤秀兵(群馬出身)なる人物がいて、東京帝国大学医学部を大正10年に卒業(※2)しており、衛生室の研究員をしていたようです。 その頃に住宅について衛生面から幾つか雑誌に記事を書いています。
 三越の記事(※3)を要約すると… 実験上、空中の細菌濃度は床面付近が一番であるから、床面に座る・眠る、汗などで汚れた畳に両手をついて礼をする事は、病原菌の体内侵入にしばしば好機会を与える事になる。 日本住宅の欠点としては、不完全採光・室内温度調節困難・湿気対策の不備・換気不足・天井裏の清掃不能・太陽輻射熱に対する無抵抗・不便な雨戸・家屋内の音波及などである。 改善策としては伸縮着脱可能な庇や、熱伝導率の低い天井床材、熱容量の小さい壁で造作し、外気導入口・高い窓や二重窓・ドイツ式暖炉などを設け、床下の空気を上昇管によって屋外に排出する…と提唱しています。
この記事を書いた後藤秀兵は、後藤医院鵠沼分院の医院長であると確定できませんが、この建物には大きな天井排気口が数か所、二重窓やスチーム暖房など、この提唱に通じる特徴を備えています。
 同じ時代に京都帝大教授で建築家・藤井厚二も住宅改善に取り組み、自邸を5軒建て検証していました。 最後の自邸である聴竹居にも外気導入口・天井排気口が設けられ、通気を重視しています。 これらの造作は夏の暑さを凌ぐ効果がありますが、後藤医院鵠沼分院では結核などの感染予防を兼ねた物なのかもしれません。

【参考文献】
(※1)「日本医籍録. 昭和17年版」 医事時論社
(※2)「東京帝国大学一覧. 大正10年~11年」 東京帝国大学
(※3)三越23-4「衞生と日本家屋」後藤秀兵 著 1933 三越

【2015年11月 訪問】


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2016.
07.10
Sun
東伏見宮邸
建築年:大正3年(1914) 
所在地:神奈川県 三浦郡 葉山町 堀内1968   
構 造:木造2階建て
見 学:非公開  
交 通:JR逗子駅~「向原」バス停~徒歩2分

東伏見宮葉山別邸・2F階段
階段2階:踊り場の窓の下には脚立が入っている
東伏見宮葉山別邸・2F和室1
2階和室の前室
東伏見宮葉山別邸・和室2
2階和室・大広間
東伏見宮葉山別邸・和室照明
2階大広間の照明
東伏見宮葉山別邸・和室照明2
2階和室の照明:菊の紋様が意匠に取り入られている
東伏見宮葉山別邸・2F洋室
2階南西の洋室
東伏見宮葉山別邸・寝室照明
2階西の洋室と照明
東伏見宮葉山別邸・クローゼット
奥行きのあるクローゼット家具:東伏見宮家の物かは不明だが扉は巨木の1枚板
(左:階段ホール、右:2階南西洋室)
東伏見宮葉山別邸・2F
左:2階西の洋室の暖炉          右:塔屋への螺旋階段
東伏見宮葉山別邸・2F廊下2
2階南西廊下(サンルーム)
東伏見宮葉山別邸・2F廊下1
2階北西廊下(サンルーム)
東伏見宮葉山別邸・螺旋階段2
塔屋への螺旋階段
東伏見宮葉山別邸・塔屋
塔屋内部
東伏見宮葉山別邸3


 ここ逗子は、東伏見宮依仁親王にとって療養の地であったようです。 この建物が出来る前の明治43年にも逗子で療養していた記録があります。
大正2年12月に風邪をこじらせ肺炎となり、熱海で1か月半ほど療養し全快すると、大正3年3月3日に船に乗って逗子(葉山)別邸に入っている事から、その頃にはこの建物も完成していたのでしょうか。 3月17日には帰京し、3月23日に軍令部へ出勤。 その後、3月26日に沼津で静養中の照憲皇太后へ御参伺するなど慌ただしい日々を送ったようです。
 大正11年5月10日、再び葉山別邸で療養に入り、6月25日に重体となって同日14時にご容態を公表。 26日20時頃に危篤に陥り、23時頃には絶望の状態。 27日20時頃に周子妃と共に自動車に乗り、近隣住民に見送られながらこの別邸を出ます。 赤坂.葵町の本邸にて23時25分薨去。 7月3日5時30分から柩前祭が行われ、7時に陸海軍.儀仗隊の行列に伴われて豊島岡墓地へ向かい、7月4日8時に斂葬、7月5日に權舍祭、同日10時に墓所祭が行われました。 周子妃は五十日祭に至るまで、雨が降っても毎日墓参していたとの事です。

【参考文献】
「依仁親王」1927 東伏見宮家


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2016.
06.26
Sun
建築年: 大正2年(1913)、平成5年(1993)改修
設 計: 設計は海軍経理部建築科(櫻井小太郎・富田喜久二)、監督:弘中儀一
構 造: 木造、一部2階建て
見 学: 非公開
住 所: 神奈川県横須賀市田戸台90
交 通: 京急電鉄・県立大学駅~徒歩約10分
TEL: 046-822-3551(海上自衛隊横須賀地方総監部総務課広報係) 
田戸台分庁舎1
 横須賀の旧海軍司令長官の官舎が、桜の時期に一般公開(1Fのみ)されています。
「鎮守府」とは、出征準備・防御計画・海軍区の警備や事務を監督する海軍機関で、東海鎮守府が明治17年に横浜から横須賀造船所内へ移転して「横須賀鎮守府」と改称。 明治23年に新庁舎(設計:林忠恕)が完成し、当初の長官舎は造船所経理部官舎の向かいにありました。
 大正2年にこの長官舎が完成すると、歴代の長官が家族と共に入居します。 その中でも海軍中将・東伏見宮依仁親王は、東伏見宮家の文献によると、大正2年(1913/4/1)横須賀鎮守府艦隊司令官、大正5年(1916/12/1)に横須賀鎮守府司令長官となり、大正6年3月16日に周子妃と共にこの官舎へ入居。 同年12月1日に第二艦隊司令長官となり転居となっています。
こちらの掲示板によれば、大正2年7月から僅か1ヶ月の居住となっていますので、新築間もない頃は殆ど使用していなかったのかもしれません。
ちなみに、東伏見宮依仁親王は私邸として、湘南地域に葉山別邸(1914)がありました。
 終戦後は昭和39年まで進駐軍に接収され、外壁・内部も白く塗り替えられて、歴代のアメリカ海軍司令官ら9人が住んでいました。 その当時の写真(柱・長押は白く塗られていない)には、2階和室の窓を背に広縁と畳をまたぐ形でベッドを置いた様子が写っています。
 昭和44年に返還された後は防衛庁の所管となったものの殆ど使用せず、平成5年に改修されてから会合や貴賓客の接待に使用され、現在は海上自衛隊横須賀地方総監部の管理の下、1階ホールは貸室としてピアノ演奏会等に利用されています。 ※詳しくはコチラ⇒【田戸台分庁舎
田戸台分庁舎6
表玄関
田戸台分庁舎3
古写真(展示パネルより)には、和館に通じる内玄関(妻や子供らが使用)が見える
田戸台分庁舎7
基礎や煙突部分は煉瓦造+石貼りか?
田戸台分庁舎・窓
上:応接所のステンドグラス        下:出窓の内側は屋根裏倉庫
田戸台分庁舎・玄関
玄関ホール
田戸台分庁舎・応接所
旧応接所(記念館)と暖炉:天井が張られステンドグラスが隠れている
田戸台分庁舎・応接所家具
旧応接所の家具と、机に置いてあるBOOKスタンド
田戸台分庁舎・旧客室2
旧客室(リビング):一般公開は土足入場のため、床に養生が張られている。
田戸台分庁舎・旧客室1
旧客室(リビング)
田戸台分庁舎・ピアノ
 大正時代に独・ハンブルグで製造されたスタインウェイ社製グランドピアノ。 海軍の従軍カメラマンとして樺太に居住していた野坂保雄が、帰国する際に購入して持ち帰ったもので、転居(1929)に伴い海軍に寄贈したと云われている。 修復済みで実際に使用できる。
田戸台分庁舎・客室暖炉
左:旧客室(リビング)の暖炉    
右:暖炉上の壁にあった小川三知のガラスモザイク一部。 進駐軍接収時代は壁に鏡が貼られていた。
田戸台分庁舎・食堂1
食堂 (下の写真は展示パネルより) 暖炉は無くなっている   
田戸台分庁舎・食堂2
食堂
田戸台分庁舎・食堂家具
食堂の家具:上の古写真を見ると当時の物と分かる。
田戸台分庁舎・食堂3
食堂/サンルーム境のステンドグラス
田戸台分庁舎・サンルーム
旧縁側(サンルーム):床のタイルは石
田戸台分庁舎・古写真
解説パネル:進駐軍接収時代の写真も(1階客室と2階和室)
田戸台分庁舎・階段
階段:2階は非公開。 和室二間があり、洋館の上は屋根裏倉庫になっていた。
田戸台分庁舎・廊下
和室前の廊下:邸内も広く私用空間を分けているため、陸軍第13師団長官舎では、呼鈴の1鈴は長官の来客・2鈴は夫人の来客・3鈴は食事の合図となっていたが、ここでは使用人が呼びに行ったのだろうか?
田戸台分庁舎・1F和室
1階和室は改装済み
田戸台分庁舎2
和館外部
田戸台分庁舎・外壁
進駐軍が全ての木部にペンキを塗っている。
田戸台分庁舎8
 同じ敷地内に、建坪40坪・平屋で日本家屋の司令副官舎(1913,富田喜久二設計)もあったが、返還後に2世帯向き官舎に改修され、平成17年(2005)解体。 これらの高等官以上の官舎は有料であったようで、玄関・取次の間・床付き室は公用として家賃の対象から除外すると海軍規則に書かれている。 建設時は長官自ら建築指導しており、新潟にある陸軍第13師団長官舎(1910)は長岡外史中将が設計から庭木の植付けまで関わり、好みの官舎に仕上げている。(横須賀の長官舎は瓜生外吉が指導)
田戸台分庁舎・防空壕
敷地内にある小山の下は防空壕
田戸台分庁舎・門
門柱と塀は一部を除き現存

田戸台分庁舎5


 この建物を設計した海軍経理部建築科長・櫻井小太郎は、明治3年(1870)神田今川町生まれ。 J・コンドルの建築事務所、UCL(ロンドン大学)で建築を学び、ロジャー・スミス建築事務所で2年間の実務を経て、英国王立協会建築家資格を取得します。
明治26年に帰国した後、コンドルの事務所でドイツ公使館を手伝っていましたが海軍技師となり、明治36年から建築科長として呉・横須賀鎮守府の建物を手掛け、大正2年に退官。 三菱合資会社地所部の技師長として丸の内ビルディング等を担当し、大正12年に櫻井建築事務所を開設。 意匠図~原寸図まで図面の描き方・寸法の記入など細部にわたって所員に注意していたそうです。 私生活では能楽・仕舞・漢詩などの趣味を持ち、中條精一郎や佐藤功一らと事務所(丸ビル内)近くにあったエーワンレストランでよく昼食を共にしたとの事。
 作品は、旧呉鎮守府長官官舎・静嘉堂文庫・成蹊学園・旧横浜正金銀行門司支店,神戸支店など。
木造2階建ての個人住宅では、田中銀之助邸(麻布.兵衛町)や三好邸(四谷.仲ノ町)等を設計しましたが、現存しているのは旧 荘清次郎別邸だけのようです。
荘清次郎別邸
旧 荘清次郎別邸:大正5年,木造2階建て(鎌倉市扇ガ谷1-7-23)
 三菱合資会社の役員をしていた荘清次郎の別荘として建てられた。 その後、内閣総理大臣を務めた濱口雄幸や近衛文麿らが借りて別荘に利用し、昭和12年(1937)日本土地建物㈱の古我貞周が取得した後、進駐軍に接収されて将校クラブとして使われる。 返還された後、レーサーであった息子の古我信生が受け継ぎ使用していたが、2015年にレストラン『古我邸』へと生まれ変わった。 この写真はレストラン開店前に撮影(2014年10月)。

【参考文献】
「新横須賀市史 別編 文化遺産」2009 横須賀市
「依仁親王」1927 東伏見宮家
建築雑誌 50(612)「追憶」櫻井小太郎著 1936
建築雑誌 69(807)「桜井先生を忍ぶ」石原信之著 1954

【2015年4月 訪問】


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2016.
04.24
Sun
日本丸
 2015年5月末に『横浜開港祭2015』が開催されました。 様々なイベントも実施され、横浜港の魅力を満喫! 今回はその時の様子と横浜港の歴史を紹介します。
※今年も6月に『横浜開港祭2016』が開催されますが、同じ内容のイベントがあるとは限りません。 詳しくはコチラ⇒【横浜開港祭
総帆展帆
 日本丸メモリアルパークに係留されている初代日本丸で、全ての帆を広げる総帆展帆が実習生によって行われた。
本来は波のある沖合で行われるもので、高所恐怖症の私にとっては想像するだけでも恐ろしい。 見学者の注意事項としては日焼け・脱水症対策を念入りにする事。
船の模型
 横浜みなと博物館の帆船模型展に展示されていた、仏1669年100門艦『ル・ソレイツ・ロワイヤル』の断面模型。 村石忠一氏がパリ海洋博物館の写真から図面化して製作したというから驚き。
護衛艦やまゆき1
護衛艦やまゆきの一般公開は長蛇の列
ランチャー
ランチャーが動いた!
船用電球
揺れに強い船用の電球。 東京の旧岩崎久彌邸の屋根裏から船用の電球が見つかっており、船で実際に使用される姿を見る事ができて嬉しい。
やまなみロープ
索(縄)の収め方がアート作品の様
新港埠頭8号バース
新港埠頭8号バースの先端:関東大震災以降の工事箇所か?
ハンマーヘッドクレーン
50t定置式起重機(ハンマーヘッドクレーン):英国コーワンス セルドン社製で当時価格95,555円。 基礎工事は政府直営で行い、据付け組立は石川島造船所が請負った。関東大震災では倒壊を免れたが修理を行っている。(※3)
象の鼻
 開港時に造られた2つの突堤の一つで、荷降ろしの際の波避け形状から『象の鼻』と呼ばれるようになった。
運上所の役人が沖合に停泊中の外国船へ出向き、積荷検査と料金徴収後、小船に移して荷揚げされた。
横浜税関3
 「クイーンの塔」と呼ばれる横浜税関本関:明治18年の庁舎(煉瓦造2階建1885)が関東大震災で倒壊し、昭和9年に完成。 終戦直後マッカーサーに使用された歴史を持つ。 横浜三塔の一つとして保存が決定し、平成15年に増改築工事完了。


~横浜港の歴史~
 安政6年6月2日(1859/7/1)開港後の歴史は、元治元年に2つの波止場が構築された後、本格的な第1期工事(明治22年9月起工~29年5月竣工)が実施され、東と北の水堤と鉄橋などが完成します。 さらに、明治31年の議会で繋船岸拡張工事が可決し、臨時税関工事部が設置されます。
 そして、古市公威を中心に中山・丹羽らが港湾の全体設計を行いました。 その構造は、基礎は海底の砂質擬灰岩を堀盤し、コンクリートブロックの内部に割栗石を詰め、外部は切石積みとしたもので、東南埠頭の鉄橋は回転式で計画されました。 当初は明治36年度完成予定でしたが、実際には…
◆第2前期工事(明治32年5月~38年12月)埋立て岸壁延長・萬国橋。 日露戦争で緊縮。
◆第2後期工事(明治39年4月~大正6年11月)大蔵省臨時建築部へ移管され、明治44年に埋立て岸壁延長完了。 新港橋・煉瓦造の新港事務所2棟・煉瓦造3階建て倉庫2棟・木造や鉄骨造の上屋15棟・煉瓦造の発電所などは大正6年までに随時完成。
 この時に新築された船舶繋留・貨物取扱事務用の中央事務所(新港右突堤事務所)は、明治44年起工~大正3年5月竣工。 鉄骨煉瓦造3階建て+塔屋で、1Fには事務室と外航・荷扱船用の貸し事務室、2Fは事務室と特別応接室、3Fは会議室・小食堂・脱帽室など。
萬国橋の事務所は、大正2年2月起工~大正3年3月完成。煉瓦造2階建て+高低差を利用した半地下で、検査場や事務室を設置。
2階建て木造上屋は1Fが貨物置場、2Fが待合室。それに手荷物検査の上屋が付属し、鉄骨造の上屋は貨物の荷揚場などに使用しました。
◆第3期工事(大正10年4月~)は、埋立て岸壁延長・上屋・道路・鉄道引込線が昭和11年度に完成予定のところ、関東大震災が横浜港を直撃。
北防波堤と岸壁第3~5・7~13が沈没、桟橋も猛火で崩壊。鉄骨上屋1・5・7・10号は半倒壊、その他は半倒壊+火災。木造上屋い・ろ・12号は全焼。3階建て煉瓦倉庫2棟のうち、甲は火災で内部の1/3焼失。事務所・鉄道・橋梁・発電所・水道も被災。可動起重機18基は全て倒壊しましたが、50tと20t定置起重機は倒壊を免れています。
◆震災復興工事では、大正12年6月に臨時建築課横浜出張所が設置され、港湾は大正12年10月起工~14年9月竣工。上屋・倉庫・道路・鉄道などは大正13年6月起工~随時竣工し、昭和6年3月に完了しています。
◆終戦後は港や倉庫が接収され、GHQは大桟橋を、SCAJAPは新港埠頭・瑞穂埠頭・高島町二号桟橋を使い、日本は川崎埠頭・東洋埠頭石炭バースと認用された高島町二号桟橋を使っていました。 その殆どが日本に返還されていますが、いまだに戻っていない所もあります。
旧帝蚕倉庫
 旧横浜生糸検査所倉庫(旧帝蚕倉庫:横浜市中区北仲通五丁目)1926年,地上3階+地下1階
遠藤於菟の設計により、関東大震災後に建設された旧横浜生糸検査所(現・横浜第二合同庁舎)の倉庫。
「北仲通北再開発等促進地区地区計画」A-4地区にあり、この倉庫は解体され、旧横浜生糸検査所倉庫事務所(旧帝蚕倉庫事務所)の後ろへ移される予定。 三井不動産2016/3/1ニュースリリースによると、倉庫跡地には三井不動産レジデンシャル㈱・丸紅㈱・森ビル㈱の3社共同で、地上58階建の超高層タワーが計画され、予定では解体着工2016/6/1~、新築着工2016年10月~、竣工2020年1月となっている。
 煉瓦造やRC造の解体移築はとても難しいですが、なるべく多くの部材が残る事を期待しています。 ちなみに、事務所棟は解体せずに耐震補強されるようです。 どちらも内部は公開されていませんが、最後の姿は見ておきたいものです。
(手前の岸壁の切石はいつの時代のものだろう?)

【参考文献】
※1「横浜税関一覧」1900 横浜税関
※2「横浜税関新設備報告」1917 大蔵大臣官房臨時建築課 編 
※3「横浜税関新港設備概要」1917 大蔵大臣官房臨時建築課
※4「横浜税関陸上設備復旧工事概要」1925大蔵大臣官房臨時建築課横浜出張所
※5「横浜港概覧」 1930・1934 横浜税関
※6「横浜開港150年の歴史」横浜税関 2007


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2016.
04.17
Sun
建築年:昭和7年9月着工、昭和9年3月完成、平成15年に増改築工事完了
設 計:大蔵省営繕管財局工務部(増改築は香山・アプル設計共同体+国交省)
構 造:改修棟SRC造5階建て・増改築棟SRC造+S造7階建て
住 所:神奈川県横浜市中区海岸通1-1
交 通:みなとみらい線「日本大通り駅」~徒歩3分
TEL:045-212-6053        ※業務についてはコチラ⇒【横浜税関
横浜税関
 2015年3月の横浜三塔の日に「クイーンの塔」と呼ばれる横浜税関庁舎で、普段は公開されていない旧税関長室と展望台が定員制で公開されました。 輸入品通関と密輸取締り等を行う横浜税関は、現在、神奈川・宮城・福島・茨城・栃木・千葉を管轄しています。
横浜税関・玄関
港側の玄関
大蔵省の設計担当者と云われる吉武東里は、住宅なども手掛けている⇒【旧島津一郎アトリエ
横浜税関・車寄せ
大通り側の玄関には車寄せが
横浜税関・外壁
外壁タイルは昭和40年代に貼り換えたようだが、平成の工事で部分的に修復されている
横浜税関・展示室玄関
資料展示室の玄関: 主な外壁装飾は保存
横浜税関・展示室
1F資料展示室は平成元年から公開している
10時~16時(5~10月は17時まで)、休館は年末年始
税関制服
明治時代の税関の制服を再現(左は下役)西洋顔で違和感があるので島津マネキンの様なものが合うのだが 
横浜税関・竣工資料
竣工当時の資料
横浜税関長
税関長の写真(左から、4代目の星 亨、3代目の中島信行、初代の上野景範)
ちなみに、星 亨が暗殺された後、東京の本邸は山本条太郎が購入したと云われている
横浜税関・階段
1号階段は平成の工事で腰壁のテラゾー(人研ぎ)は洗浄、漆喰壁は塗り替えている ※非公開区域
横浜税関・ホール
3Fホール床     ※非公開区域
横浜税関・廊下
左:3Fホールの腰壁も階段と同じ仕上げ       右:廊下は腰壁なし
横浜税関・貴賓室
3Fの旧貴賓室  ※非公開区域
横浜税関・額縁
3Fの旧貴賓室の額縁  ※非公開区域
1582~1590、ITO MANTIOと書かれている(天正遣欧使節・伊藤マンショ)
横浜税関・装飾1
貴賓室の天井と梁の装飾
平成の工事で3室共、壁紙の貼換え・漆喰の塗替え、寄木貼りの床板に張替えられた。
横浜税関・次室
旧貴賓室次室  ※非公開区域
横浜税関・税関長室
マッカーサーが使用したと云われている旧税関長室 ※非公開区域
横浜税関・装飾2
上:天井の換気口、 中:梁の漆喰彫刻、 下:ラジエーター式暖房機グリルは銀色で統一
横浜税関・展望台
平成の工事で増築された7階展望台  ※非公開区域
横浜税関・塔上
塔の銅板葺き屋根、外壁タイルは部分補修されている
横浜税関・塔下
塔と屋上との取り合い(内部は公開されていない)
横浜税関・中央
中庭の建物も新しくなった
横浜税関・模型
左:竣工時の様子     右:平成の工事後の様子 (展示室模型より)


 横浜税関の前身である「神奈川運上所」が慶応2年の大火で類焼し、埋立地に石造平屋建ての運上所と上屋2棟が翌年に完成しました。 名称も「横浜運上所」となっていましたが、明治5年に「横浜税関」と改称され、所管も神奈川→外務省→大蔵省へと移り、現在は財務省となっています。
 明治6年(1873)、現在の神奈川県本庁舎の位置に、石造3階建て(R.P.ブリジェンス設計)の初代税関庁舎が完成。 そして明治18年に、塔付きの煉瓦造2階建て本関(税関本部)が完成すると、旧庁舎は県へ約8万円で譲渡。 新庁舎の1Fには輸入検査場・事務室・金庫派出所・警備室が、2Fには税関長室・2つの応接室・官房室・図書室・庶務課・統計室・見本室がありましたが、それも関東大震災で倒壊しています。
それ以外にも西波止場の監視部(煉瓦造2階建て1893)、新港右突堤事務所(鉄骨煉瓦造3階建て+塔屋 1914)、萬国橋際事務所(煉瓦造2階建て1914)等がありましたが、それも被災したようです。
 震災後の税関業務は木造平屋建てで行われていましたが、昭和に入って庁舎を新築する事になりました。 その設計図を見た当時の税関長・金子隆三に叱責され、一部を4階建てに削り、県庁の塔より約3m高く設計変更。 昭和9年(1934)現在の庁舎が完成し、1F~2Fは事務室、3Fは貴賓室・税関長室・部長室など、4Fは会議室・協議室・柔剣道場、5Fは講堂・映画検閲室に使用されました。 
 終戦後はGHQに接収され、連合国軍総司令部が東京の第一生命ビルへ移転した後も、昭和28年(1953/11/28)まで第8軍司令部が使用しました。 この建物は税関庁舎に戻り、近年になって設備の老朽化により建替えの案も出ましたが、横浜三塔の一つとして保存が決定し、平成13年着工~15年に増改築工事が完了しています。 
 その工事とは、河口の砂州埋立てで液状化の恐れがある海側を中心に、改修棟下はCPG工法、増改築棟下はSLP工法による地盤改良を施して、マルチペデスタル杭などを打ち込み、改修棟と増改築棟の基礎を繋げています。
横浜税関3
【参考文献】
「横浜税関一覧」1900 横浜税関
「横浜税関沿革史」1902 横浜税関
「横浜税関新設備報告」1917 大蔵大臣官房臨時建築課 編 
「横浜税関と其の設備」元尾光輝 著 1937 横浜貿易協会
月刊建設48号「横浜税関庁舎の保存活用」石丸茂 著 2004 全日本建設技術協会
基礎工34号「歴史的建造物の保存・再生のための液状化対策実施例」伊勢本昇昭・金子治著 2006 ㈱総合土木研究所

【2015年3月 訪問】


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