2016.
03.06
Sun
住 所 : 栃木県足利市通6丁目3165(織姫公民館裏)
見 学: 4・5・10・11月の土休日、6月第2日曜日の9時~16時
見学料: 無 料
交 通: 東武足利駅~生活路線バス「通六丁目」下車、徒歩約3分
TEL: 0284-20-2230(足利市文化課)    ※詳しくはコチラ⇒【物外軒
物外軒1
 戦前まで足利の主要産業であった織物は、渡良瀬川の猿田河岸(やえんだかし)から船で運ばれ、海外へと輸出されました。
 この茶室は、北猿田河岸で回漕業を営む萬屋の3代目・長 四郎三(白翁)が、明治初年に建てたものです。 その後、柳田家(6代・柳田市郎右衛門)の所有となって明治34年に現在地に移築され、昭和26年から鈴木栄太郎(鈴木病院長)が買い上げ、昭和48年に足利市に寄付しました。
この鈴木栄太郎は、田崎草雲旧宅と作品も寄付しています。
物外軒2
物外軒: 平成3年に修復。 竣工当初の屋根はこけら葺きであったが瓦葺きに変更され、現在は銅板葺きになっている。
物外軒3
蹲踞・内路地の飛び石などは、太田道灌の江戸城・富士見亭の礎石を使ったものと伝わる。
物外軒・中潜門
中門の扁額「無心」は古筆了仲の書。 この茶室の設計監修をしたと伝わる。(※2)
物外軒・雪隠
雪隠: 当初は実際に使用したと思われるが、現在は使用不可。
他の茶室で見られる砂雪隠も古くから茶庭の飾りとなってしまった。
物外軒・裏
物外軒の裏側の方が景色の良い庭に面する。 茶事で席入りすると貴人口や躙り口は閉めてしまい、景色を楽しむ窓もなく、お茶だけを楽しむ空間となる。
物外軒・中
物外軒内部: 3帖台目・次の間3帖・水屋の構成。 床柱はこぶし。
この茶室は貸室として使用できる。
物外軒・天井
物外軒天井: 手前座が一番低い天井高
物外軒・扁額
「物外」の扁額は長 四郎三の直筆。 本人が彫ったものか?
物外軒・寄付
物外軒の隣りにある建物。 茶会の客が足袋を履き替え、身支度を整える為の寄付として使用。 
物外軒寄付・玄関
寄付の玄関。 タイルは貼り換えたか?
物外軒寄付・建具
左: 寄付の建具の唐紙は貼り換えてある
右: 結霜ガラスから大正末~昭和前期に建てられたと思われ、白翁の時代のものではない。
物外軒寄付・照明
寄付の照明
物外軒寄付・座敷
寄付: 台所や浴室はないが押入れもあり、住宅としても機能する。
物外軒・付属棟
付属棟も寄付と同じ時代?


 初代・吉右衛門〔信英〕は江戸で穀物や木材を扱う舟運で儲け、足利で回漕問屋「萬屋(万屋/よろづや)」を創めます。 川上不白に茶を学んだ粋な人物でもありました。 萬屋は足利の回漕問屋の中でも大店となり、江戸時代の関東長者番付に載るほど繁盛しました。
 3代目の四郎三〔信章〕は文政5年(1822)長男として生まれ、家業を継いでからは足利学校保存整備の寄付や、毛野村の初代村長(1889~ ※3)として地元に貢献しています。
 私生活では祖父と同じく表千家不白流の指導を受け、茶名を白翁に。 表千家・如心斎の辞世「物外の境風涼し大あぐら」から、この茶室を物外軒と名付けました。
 しかし、明治21年に両毛鉄道が開通すると回漕業は徐々に衰退し、副業の両替商を主体として東京で営業します。 屋敷絵図が本に載るほど明治時代前期まで栄えていた店も徐々に衰退し、長 四郎三(白翁)は晩年、「出もせず来る人もなきわが門は ひらくも閉ずも風にまかせて」という句を残しています。
物外軒・吊燈籠

【参考文献】
※1 「物外軒雑記」1998 長太三 著
※2 日本建築学会大会学術講演梗概集
   『足利市の茶室「物外軒」の平面構成と配置構成の特徴について』2005 長好江・中村恵三 著
※3 「栃木県町村公民必携」1889 三泉堂書店

【2014年11月 訪問】


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2016.
02.21
Sun
住 所 : 栃木県足利市緑町2-3768(足利公園内)
見 学 : 9:00~16:00、 高校生以上210円
      月曜日、国民の祝日の翌日、年末年始、館内整理日は休館
交 通 : JR両毛線 足利駅~徒歩30分位
TEL : 0284-21-3808
          ※詳しくはコチラ⇒【早雲美術館
田崎早雲旧宅
 田崎草雲の屋敷『白石山房』と遺品を所有していた鈴木病院長・鈴木栄太郎が、昭和43年2月に私費を投じて美術館を建設し、同年4月に足利市へ寄附。 さらに、茶人・白翁の茶室『物外軒』を昭和48年に足利市へ寄附したのも鈴木栄太郎でした。
田崎草雲旧宅1
 この場所は、南画家の田崎草雲が明治6年に蓮台寺(蓮岱寺)跡を買い求め、明治11年に完成。 母が吉兆の徴とした白の碁石に因んで『白石山房』と命名し、書生や数人の女中と暮らしていました。 主屋の2階からは富士山が見え、畳敷きの画室と板の間の二間続きとなっていましたが、階段の昇り降りが大変になったので、隣に新たな画室を造りました。
田崎早雲旧宅・裏手
主屋の裏手 ※2階は非公開
田崎早雲旧宅・座敷
主屋1階の座敷: 細川潤次郎の書による「硯田農舎」の額が掛かる
田崎早雲旧宅・次の間
主屋1階の次の間
田崎早雲旧宅・画室
主屋の隣りに建てた画室
田崎早雲旧宅・画室内部
画室: 中国の書家「蓮岱画屋」の額が掛かる
田崎草雲・画室内
画室: 貸室となっているため備品が置かれている
田崎早雲旧宅・画室裏
画室裏手には小川が流れる
田崎早雲旧宅・茶室
茶室: こちらも貸室として利用可能
田崎早雲旧宅・茶室内
茶室の床の間
田崎早雲旧宅・茶室天井
茶室は全面 網代張り天井。 高さは点前座と区分けしていない為、普通の部屋として使えそう。
※ただし、炉畳や茶道具を置く所はマナーとして踏まないように。
田崎早雲旧宅・離れ
使用人?の離れが残る ※非公開
田崎早雲旧宅・画室茶室


 館林から通っていた門人・小室翠雲の本(※1)には、草雲の日常の様子が書かれています。
塩一俵を入れて1日に4・5回入浴する湯は1週間以上も沸かし直したり、品数多い料理を三食、その量にもうるさく一日に同じ物は出せずと、女中達は大変であったようです。
 明治20年頃に飼っていた座敷犬コロ(黒い小型の洋犬)は夜盗が入った時に噛みついて助太刀し、草雲が病に伏せった際に「俺より後へ生き残るといじめられるから先へ死んでしまへ」と言うと、数日後に死骸となって見つかるほど忠実で、長林寺の和尚を呼んで弔いし、庭に墓を建てるほど可愛がっていたようです。
 幕末で一人息子・格太郎を亡くし、妻も早世していましたが、白石山房は人けが絶える事はありませんでした。 田崎草雲は明治31年9月1日に他界し、10月2日に長林寺で葬儀が行われ、会葬者には菓子折りと遺影の銅板写真が配られました。
田崎早雲旧宅・画室内2

【参考文献】
※1 「田崎草雲先生の生涯」 小室翠雲 著 1930  日本南画院 
※2 「草雲先生の葬列」 田﨑草雲研究会

【2014年11月 訪問】




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2016.
02.08
Mon
住 所 : 栃木県足利市助戸仲町453
交 通 : JR両毛線 足利駅~徒歩16分位
TEL : 0284-44-0791
      ※詳しくはコチラ⇒【助戸公民館
木村絹織工場
 かつて、足利でも有数の輸出用絹織物を製造した工場で、一部の工場と事務所を残して移築保存され、助戸公民館が新築されました。
さらに木村家住宅が平成6年に足利市に寄贈され、現在、主屋と事務所は一般公開して、工場は公民館ホールとして改装し利用されています。
木村織物工場事務所
木村絹織工場の事務所棟:明治44年竣工と云われ、木骨石造2階建て、石綿スレート葺き。 旧工場(明治25年上棟)は木造平屋建て桟瓦葺き。
昭和60~62年に建物一部が復原され、足利織物記念館として平日9:00~16:00公開(雨天時は閉館。土休日は職員がいる場合に見学可。要問合せ)
料金は無料。
木村絹織工場事務所・室内
左: 事務所1階                 右: 2階の旧社長室
木村絹織工場・看板
左: 大正15年(1926.10)蚕糸織物協進会が足利で開催され、閑院宮親王が行啓の際にこちらに立ち寄り、使用された椅子。
右: 工場の看板。 戦時中は軍需工場となっていた。
木村絹織工場・天井飾り
天井飾りは復原
木村浅七邸・古写真
明治17~25年頃の木村浅七邸の写真 (展示パネルより)
茅葺きの建物は現存していない。 主屋も平屋で門からの距離が遠く、現在の建物と違う。
木村浅七邸
木村家の主屋(明治24年) ※平日9:00~16:00公開(貸室として使用の場合は見学不可)
昭和30年(1955)に土間を無くし、台所・勝手口・使用人室を設けて洋風に改装。
木村浅七邸・応接室
応接室: 両脇にある竹は型枠にはめて四角く成長させたもので、床の間の落とし掛けに使われる場合が多い。
木村浅七邸・大広間
大広間
木村浅七邸・西蔵
西蔵(明治元年)
木村浅七邸・座敷
座敷: 寝室か? 障子の奥に西蔵がある。
木村浅七邸・居間
居間
木村浅七邸・台所
昭和30年に土間を改装した台所
木村浅七邸・洗面所
左: 洗面所                 右: 台所/食堂境の食器棚
木村浅七像
左: 初代・浅七の銅像          右: 西蔵の錠金物(安子島侑美?の作)
木村浅七邸・蔵
東南の蔵(明治26年)
木村浅七邸・蔵前
東南の蔵前
木村浅七邸・蔵内部1
東南の蔵前内部
木村浅七邸・蔵内部2
東南の蔵内部

 江戸中期に京都西陣の絹織物技術が桐生に伝わったとされ、足利でも絹織物の他、大衆向けの綿織物や絹綿交織物を生産するようになり、天保3年頃に織物市場が開設されます。 天保の改革で贅沢品禁止となると綿織物を生産していた足利が有利になり、安政の開港で綿糸が輸入された時には安価で良質な絹綿交織物を開発しました。
 明治7年には絹綿交織物1位という産地に成長しますが、次第に粗悪品も増え、松方デフレで織物業は打撃を受けました。 これを契機に輸出向け絹ハンカチ製造に転換し、明治27年頃には海気(甲斐絹)の注文が殺到。 再び機屋が続出して粗悪品乱造となり、戦後恐慌と重なり織物業は縮小していきます。
大正末~昭和初期は絹織物や銘仙へ転換するも、殆どの工場は国家総動員法で軍事産業への転換または廃業へと追い込まれました。


 初代・木村浅七は、上州山田郡須永村(現:桐生市川内町)生糸商・星野家の三男として生まれ、織物業の木村家の養子となり家督を継ぎます。
しかし、南部縮の需要が減り、撚糸業へ転身。 第1回内国勧業博覧会(1877)に出品された木製模造ジャガード織機を木村半兵衛(勇三)らと共同購入し研究。 明治15年(1882)に足利工商会が発足すると、足利で輸出向け羽二重ハンカチの製織が始まり、木村浅七も織物業を再開。 海気・スパンクレープ等の絹織物を製造し、足利輸出組合設立(1891)メンバーの一員となっています。
 木村浅七は、明治20年代には海外との直取引も行っており、その際の手紙には税・保険・運賃は顧客負担とし、荷為替信用状と電信暗合で受注。 絹のハンカチ・肩掛けの受注数は、白無地5ダース以上、柄物10ダースから、日数は縞海気・白羽二重が7週間、柄物は10週間~3ヵ月となっています。 見本帳を送ったり、シカゴ万博に出品する旨の手紙を出して豪州・独逸・印度の商会との取引も実現しますが、船便の手紙が届かなかったり、絹価格の高騰に間に合わず、次第に海外の代理店(堀越商会など)を通すようになっていきます。
 明治27年には足利の純絹織物11工場の内、生産反数2位・産出高1位に。 明治34年に工場を増築し、フランス製の整経機など導入。 明治41年には米ゼネラル社の電動機(5馬力)を採用、国産のジャガード織機や整経機、自工場製自動式平織用織機を導入。 大正6年頃には、スイス製ルーチー式力織機41台・手織機31台・整経機5台・糸繰機7台・管巻機4台・職工103人となりました。
その他にも足利模範撚糸合資会社の初代社長や、足利銀行・渡良瀬水力電気・足利瓦斯㈱の役員としても活躍しています。
 小泉家から婿入りした国三郎は部長となり輸出部門を担当しますが、2代目・浅七を受け継いだのは初代の孫・保之助で、明治24年に生まれ、小学校に入学すると初代の養子となりました。 保之助は東京高等商業学校を卒業して家業を手伝い、大正3年に五代目・正田文右衛門の四女すま(美智子様と玄孫同士)と結婚。 初代が大正5年(1916)に亡くなると浅七を襲名します。 東京・桐生・横浜・神戸に支店を構え事業を拡大しますが、終戦近い昭和19年に織物業を廃業します。
 しかし、地代や貸金でも利益があり、足利銀行・両毛整機㈱・明治紡績㈱の役員の他、県議会副議長・衆議院議員も務め、戦後は足利市長として20年以上も在籍。 緑町配水場増設工事が竣工した際に、浅七の書による金石文が設置されました。 昭和57年(1982)に他界。

【参考文献】
専修商学論集59「明治期足利産地における輸出絹織物経営-足利町木村浅七家を中心に」1995 川村晃正 著
「絹織物直輸出をめざして : 明治二十年代木村浅七の海外通信文」2006 下村欣司・小口悦子 著
「戦時下の政局を繞る人々 : 昭和政治家評論」1938 角屋謹一 著

【2014年11月 訪問】


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2016.
01.24
Sun
建設年 : 昭和5年(1930)11月竣工、翌年4月給水開始
設 計 : 足利市上下水道部
見 学 : 個人の場合は、足利市文化財一斉公開(秋)で見学可
住 所 : 栃木県足利市緑町1丁目3780
交 通 : JR両毛線 足利駅~徒歩35分位
TEL : 0284-20-2206   
※詳しくはコチラ⇒【足利市上下水道部
緑町配水場
 足利市で最も古い配水場で、昭和5年に今福浄水場と共に建設されました。 低地にある浄水場からポンプで送水し、山の上にある配水場に貯めて、高低差を利用して各地に配水する上水道施設です。 中高層マンションの水道も、一旦ポンプで屋上まで上げ、貯めてから各家庭へ配水するので、これも巨大な給水タンクといえるでしょう。(総容量5,100㎥)
水道施設全体の土木設計は、東京の八王子市水道部から招聘した、中島貞一郎工務課長と中谷繁治(後に足利市職員になる)。
 そして昭和4年(1929.5.15)着工し、翌年12月竣工(緑町配水場は11月竣工)昭和6年4月に給水開始。 創設時の計画では、給水人口:55,000人、1日最大給水量:11,550㎥、1人1日最大給水量:210ℓ。
 しかし町の合併で人口が増え、第1次拡張工事(昭和28年~33年3月)で、緑町配水場の配水池(管理事務所付近)を増設し、昭和31年に完了しています。 現在は、地震などを感知し水の流出を防ぐ緊急遮断機も設置されています。
緑町配水場・旧管理事務所1
水道山記念館(旧管理事務所): フランス瓦葺き屋根、木造平屋建て
緑町配水場・玄関
玄関内部
緑町配水場・会議室
大広間
緑町配水場・貴賓室
昭和9年11月の天皇行幸のために貴賓室が増築された。
緑町配水場・旧管理事務所廊下
廊下: 窓には結霜ガラスがはめ込まれている
緑町配水場・旧管理事務所照明
古そうな照明。 黒いブツブツはテントウムシの仲間で越冬するために部屋の中に入ってくる。
踏んだり触ったりしなければ特に被害はなく、アブラムシを食べる益虫なので殺さないでほしい。
緑町配水場・庭
左上: 門柱                右上: 建物は西洋風だが庭は和風
下: 玄関脇の日本庭園
緑町配水場・解説板
解説板
緑町配水場2
 1段上がった所が配水地で、内部は3池に区切られている。
奥に見える建物は保守点検入口棟。 さらにその奥に同じ形の水位計室がある。
緑町配水場・点検入口棟
保守点検入口棟と水位計室の前に、階段とバルブがある。
緑町配水場・接合井
接合井: RC造
緑町配水場・水量計室
水道計量室: RC造
緑町配水場・銘板
上: 竣工時の定礎板
下: 当時の市長・木村浅七の書による「清澄無比」-この水が澄みきって清らかであり、比較するものがないほど優れているという意味を表す。 第1次拡張事業の竣工記念に伴い、水位計室の前に昭和31年に設置された。
緑町配水場・地層
配水場の脇にある層状チャートの崖。 ふもとの蓮台寺川付近でも見られる。
足利の工場
山の上にある緑町配水場へ向かう途中、屋根の形が珍しい古い工場があった。

【参考文献】
「あしかがの水道 : 足利市水道80年のあゆみ」2011 足利市上下水道部
足利市上下水道部 HP

【2014年11月 訪問】


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2016.
01.10
Sun
建設年 : 昭和5年(1930)12月竣工、 翌年4月給水開始
設 計 : 足利市上下水道部
見 学 : 個人の場合は、足利市文化財一斉公開(秋)で見学可
住 所 : 栃木県足利市今福町545
交 通 : 東武伊勢崎線 足利市駅~徒歩30分位
TEL : 0284-20-2210
     ※詳しくはコチラ⇒【足利市上下水道部
今福浄水場
 足利市の最も古い浄水場で、現在も全長876mの集水埋渠(浅井戸)から取水した地下水を消毒後、緑町配水池に送水(施設能力19000㎥/日)しています。
 何度も洪水を起こしている渡良瀬川の近くにあるため、建設の際 この浄水場は水害対策が施されました。 周囲を土提(東区画1.8~2m、西区画1m)で囲い、門に止水板用の溝(正門と裏門は2本溝、その他は1本溝)を設け、さらに構内も土提で東区画と西区画に分け、集水埋管会所の換気筒と浄水設備に土盛りを加えて地盤を高くし、洪水による損傷と水源汚染を防ぎました。 さらに集水井・ポンプ井はRC造のパラペットで囲み、上端を土提と同じ高さ(川の水位~9.35m)に建設しています。
 昭和13年(1938.9.1)の洪水時には、西区画の低い箇所が浸水したに止まりますが、昭和22年(1947.9.15)カスリーン台風時には洪水位が8.35mになり、止水板の設置が間に合わず、正門や裏門から流入。 さらに排水口からの逆流、砂地盤からも水が噴出し、全区画が浸水。 旧事務所も1m水没し、東区画も50㎝程浸水しましたが、ポンプ場は2段の止水板をはめて浸水位20㎝に抑える事ができ、ポンプに影響がありませんでした。 なお、集水井・ポンプ井はパラペットのおかげで、僅か10㎝差で浸水を免れています。
 現在は渡良瀬川の堤防が高くなり、正門近くの土提は削られているようです。
今福浄水場・ポンプ室
ポンプ場: RC造、地上1階+地下1階
今福浄水場・ポンプ室0
外壁は洗い出し仕上げ
今福浄水場・ポンプ室マーク
足利市上下水道部のマーク
今福浄水場・ポンプ室4
ポンプ場内部。 ポンプは更新済みで古い物はない。
今福浄水場・ポンプ室2
ポンプ場1階の床タイル
今福浄水場・ポンプ室3
地下への階段
ポンプ井
上: ポンプ井            下: ポンプ井パラペットの内側
集水井
集水井パラペットの内側
今福浄水場・止水板溝
左: 正門の門柱は御影石で、溝2本に止水板をはめ込むが、脇の土提はフェンスへと変わった
右: ポンプ場の入口にも止水板用の溝がある
今福浄水場・
正門から見た様子

足利・地層
 早雲美術館から、この今福浄水場へ来る途中、地元の方から聞いた近道を歩いていると、見事な地層が出現。
緑町配水場の崖にもあり、はるか昔の大地の動きがわかる。
足利・堰
 その脇の蓮台寺川には空気で膨らませて水量を調整する近代的な堰が。
蓮台寺堰: ゴム引布製起伏堰(空気式)1999年5月完成
足利・橋
 さらに川沿いを歩いていくとJR両毛線の鉄道橋があり、古そうな煉瓦造の橋脚。 両毛鉄道時代のものか?



今福浄水場・01
 足利市では、大正11年(1922)ザーラー技師を招聘して上水道の調査開始。 水源地を三重村大字今福山保毛織会社西方の雑木林(現在地)に決定し、大正14年に調査完了。 東京の八王子市水道部から中島貞一郎工務課長と中谷繁治を招聘し(後に足利市職員になる)、水道施設全体の土木設計をしています。 ※今福浄水場ポンプ室建物の設計者は不明
 そして昭和4年(1929.5.15)着工し、緑町配水場と共に翌年12月竣工。 創設時の計画では、給水人口:55,000人、1日最大給水量:11,550㎥、1人1日最大給水量:210Lとし、昭和6年4月に給水開始。
 しかし町の合併で人口が増え、昭和28年に第1次拡張工事が開始され、緑町配水場の配水池増設を行い昭和33年に完了。
その後も町の合併や水圧不足のたびに拡張工事が実施され、第6次拡張工事(1984~2005)では、最後の未給水地区・上松田の事業が完了し、平成9年から給水を開始しています。
現在は、浄水場11ヶ所・配水場9ヵ所となり、全ての浄水場に非常用自家発電機が設置されています。

【参考文献】
※1 「水戸市及び足利市の浄水場における洪水との戦い」小出 崇 1985 第5回日本土木史研究発表 論文集 
※2 「あしかがの水道 : 足利市水道80年のあゆみ」 2011 足利市上下水道部

【2014年11月 訪問】


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