2017.
07.24
Mon
所在地:新潟県柏崎市大字新道5212-4
公 開:9時~17時、 有料
休館日:月曜・12月~3月 
アクセス:JR信越線柏崎駅~ 北越後観光バス野田行き約30分~駐在所前バス停~約3分
TEL:0257-20-7120
  ※詳しくはこちら⇒【飯塚邸
飯塚邸
 柏崎の大地主・飯塚家の本家の屋敷であり、江戸時代末期に建てられた主屋を中心に増改築を重ね、大正時代の新座敷棟2階が昭和天皇の行在所となりました。
飯塚邸・庭園
昭和天皇が『秋幸苑』と名付けられた庭園
飯塚邸2
庭園側に式台がある
飯塚邸・式台
式台:昭和天皇はこちらを使用されたのだろうか
飯塚邸・玄関
表玄関も立派
飯塚邸・表座敷
主屋の座敷
飯塚邸・奥茶室
奥茶室(小間の茶室は別にある)
飯塚邸・茶室棟
左:奥茶室の前にある石は佐渡の赤石か?
右:奥茶室の便所
飯塚邸・茶の間
主屋の茶の間
飯塚邸・2階
昭和22年(1889.10.10‐10.11)昭和天皇の行在所となった新座敷棟2F
飯塚邸・2F御座所
家具も当時の物が残る
飯塚邸・2F古写真
当時の写真                    ※展示パネルより
飯塚邸・2F化粧の間
新座敷棟2F化粧の間
飯塚邸・2F書斎
新座敷棟2F書斎
飯塚邸・2F部材
新座敷棟2Fの天井材と床材
飯塚邸・新座敷1F
新座敷棟1F
飯塚邸・浴室
洗面所と浴室
飯塚邸・電燈昇降器
蔵に展示されていた大島式電燈昇降器


 柏崎の名士であった飯塚彌一郎(1852‐1923)は柏崎銀行の頭取、日本石油などの役員を務め、弟は山田順一(衆議院議員)と渋谷善作(長岡商工会議所会頭・県会議員)、親戚に関矢孫左衛門/忠靖(森林運動家・衆議院議員)や内藤久寛(日本石油社長・衆議院議員)がおります。
 内藤久寛の著書(※1)によると、彌一郎は父を早く亡くし家督を継いで色々苦労した人で、親戚に対しても親切に世話してくれたとの事。
彌一郎の長男が病死し、次男である知信が飯塚家の本家を継いだと書かれています。
 その飯塚知信は明治25年に生まれ、早稲田大学卒業。 高田村長や貴族院議員となり、東京牛込榎町に別邸もあったようです。
また柏崎農業高等学校のために所有地を県へ寄付するなど、数々の公的援助もしました。
飯塚邸・庭石
【参考文献】
「中支皇軍慰問行」1940 越後タイムス社
「刈羽郡案内」関甲子次郎 著 1976 柏崎市立図書館
※1「春風秋雨録」内藤久寛 著 1957 春風秋雨録頒布会

【2016年8月 訪問】


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2016.
11.06
Sun
建築年:昭和58年(1983)竣工
設計施工:デザイン・設計監理は村野藤吾、 図面作成・施工は㈱谷村建設
構 造:RC造
開 館:9:00~16:30(16:00受付終了)、有料
休館日:12月~3月中旬の火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
所在地:新潟県糸魚川市京ケ峰2-1-13
交 通:JR糸魚川駅~徒歩約25分 or 市街地巡回線バス「京ケ峰二丁目(谷村美術館)」下車
TEL:025-552-9277
    ※詳しくはコチラ⇒【谷村美術館
谷村美術館
 晩年の村野藤吾が現場に何度も訪れ、設計監理した建物が糸魚川にあります。
澤田政廣の作品を所有していた㈱谷村建設の社長・谷村繫雄が美術館を建設するにあたり、澤田の強い希望で村野藤吾に設計を依頼。
丁度その時期は新高輪プリンスホテルの新築工事(1979.6~1982.4)をしていた頃で、1年近く設計完了の返事がなく、何度か催促して村野の機嫌を損ねた事もあったそうです。
そして5種類の模型が届いたうち、現在の形に決定。 ただちに㈱谷村建設の技師2名が図面を作成。 昭和57年(1982.9)から着工し、村野藤吾は完成するまで現場に7回ほど訪れ、冬の寒い時期に冷えきったコンクリートの中に入り、休憩もせず3~4時間立ったまま技師に指示していたとの事。 美術館が完成するまで、澤田政廣にも建物を見せませんでした。 彫刻家の澤田もこの建物を気に入ったようで、村野の死後完成した熱海の美術館は谷村美術館のイメージを反映させたもので、市の職員が設計しています⇒【澤田政廣記念美術館
谷村美術館・手水鉢
手水鉢
谷村美術館6
無造作に置かれた石も村野が指示
谷村美術館4
人の横顔にも見える、鼻の下に明り取りの窓
谷村美術館2
明り取りの窓
外壁は打ち放しコンクリートの上にスタッコ吹付け
谷村美術館3
隙間の位置を変える事で室内に入る光量も変わる
谷村美術館・回廊1
回廊
谷村美術館・回廊2
回廊と出入口
玉翠園
玉翠園
 作庭は中根庭園研究所が手掛けており、所長の中根金作は楽水苑(城南宮神苑)・日本万国博覧会・足立美術館・米ボストン美術館などの日本庭園を作庭し、後に大阪芸術大学長に就任した。
休憩所で玉翠園を眺めながら一休みしていると、奥に資料室がある事に気付く。
谷村美術館・模型
何と、資料室(和室)には本物の模型が!
谷村美術館・スタディ模型A
スタディ模型A(石膏)
谷村美術館・スタディ模型B
スタディ模型B(石膏):ゴミの様な塊にも意図があるらしい
谷村美術館・スタディ模型C
スタディ模型C(石膏):大部分に村野の手が入っている
谷村美術館・模型DE
上:実施模型D(油粘土に彩色)、 下:完成模型(ブロンズ)
 三浦栄次郎(三浦模型)は、初期の村野作品の模型を数多く担当しており、この谷村美術館も担当。 村野のラフスケッチを基に、三浦が油粘土で模型を作成し、村野の手により直される。 施主の要望があれば石膏で型抜きもしたという。
谷村美術館・展示室模型
展示室模型(石膏+発泡スチロール):縮小した仏像を入れて光の当たり具合を確認
谷村美術館・図面
㈱谷村建設が作成した図面に、村野藤吾が手書きで修正
谷村美術館1
 村野藤吾によると、シルクロードに立つイメージは後から付いたもので、澤田の作品を何とかして自分なりに生かしてあげたいというのが大体の動機であり、形は最初から無かったとの事。
初めからお金の事は考えず、60坪位のつもりが模型を何度も直すうちに現在の広さになったという。 模型を修正した跡が下の方にあるが、工事が完了した後に「これじゃいかんな」と思って壊したそうだ。
 村野はかつてヘンリー・ムーアのアトリエを訪れており、小さな作品も購入している。 ヘンリー・ムーアは夜中に模型をこしらえ、大きな庭に1年ほど石膏を置き、それを毎日見てこれはいいと思ったら作品にするという。 村野の作品作りもその影響を受けており、谷村美術館の原型モデルも一夏かかったという。

翡翠園
翡翠園(糸魚川市蓮台寺2-11-1)谷村美術館との共通入園券有り、12月~3月中旬まで休園
昭和53年(1978)開園。 谷村美術館から1㎞程の距離で、坂道を上がった所にある。 
70tあるコバルト翡翠原石は姫川の上流で発見したもの。 大型重機を使い、許可を取って河原を均して運び出したという。
翡翠園・休憩室
翡翠園の休憩室:ステンドグラスのデザインも澤田政廣が手掛けたようで、熱海の澤田政廣記念美術館にも似たデザインがある。
翡翠園・仏像
ここにも澤田政廣の作品が置かれている。
谷村美術館(玉翠園・翡翠園)の施主・谷村繫雄は元 製材屋で、澤田政廣も若い頃に製材屋をしていた共通点がある。

 施主の谷村繫雄は、大正5年に地元の糸魚川で生まれ、昭和13年 に谷村製材所を設立し、製材・土木建築業を営むうちに、昭和20年代末から地元で採れる翡翠に目を付けます。 甲府から職人を呼び寄せアクセサリーに加工、地元のスーパーで販売したところ大当たりし、国税局の捜索を受けるほど儲かります。
 その後、翡翠は昭和31年に天然記念物に指定されて採掘ができなくなりますが、高度成長期に入り㈱谷村建設として事業が成長。 それらの資金で澤田政廣の作品を所有し、翡翠園・玉翠園・天寿園や谷村美術館を建設、北京市へ日本庭園「翠石園」を寄贈しました。
 現在の会社は、土木建築・港湾・河川工事の他、平成 6年 に谷村環境緑花研究所を設立し、国産原種ユリの大量増殖に取り組んでいます。
バイオ技術で栽培したササユリの種が国際宇宙ステーション日本実験棟「きぼう」で8カ月半滞在し、平成21年に地球に帰還。 研究所へ戻った種の一部が発芽に成功し、平成26年に2つの球根が花を咲かせました。 ※詳しくはコチラ⇒【ササユリ

【参考文献】
「村野先生と私」村野森建築事務所, 1986
「ひろば249」近畿建築士会協議会1985.1
新潟日報1979.4.28「ヒスイ物語7-谷村繫雄」

【2015年9月 訪問】


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2013.
10.20
Sun
所在地:新潟県 新潟市 中央区 一番堀通町1-2 白山公園内
建築年:明治40年代、 平成9年移築   
構 造: 木造平屋
見 学:9:00~17:00   無料 
休館日:第1・3月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
交 通:「白山公園前or競技場前」バス停~徒歩3分、 玄関前に有料駐車場有り
TEL:025-224-6081

燕喜館・表
 新潟の三大財閥の一つ、齋藤家3代目当主・喜十郎が建設した本邸(東堀通7番町)であり、新潟市の所有となって平成9年(1997)白山公園にその一部を移築し、一般公開されております。
 齋藤家の先祖は越前三国出身という事から『三国屋』という屋号で酒問屋を営業。そこから分家した初代の名『喜十郎』を当主が代々襲名し、『山三』という屋号になりました。
 2代目(長男・庫之丞)は廻船業の他、通商司や第四国立銀行にも関わり、船を売った資金で、地主になっています。明治18年(1885)越佐汽船会社を創業。大正7年(1918)には『新潟汽船』と改め、新潟から日本の各港・ウラジオストク間を就航しました。
 2代目に子供はなく、3代目当主となった実弟・庫次郎は、船道具・廻船問屋の間瀬屋(現・新潟ビルサービス)の鈴木コウと結婚して4男1女に恵まれ、長男の庫吉が4代目当主、4男の庫四郎が5代目当主になりました。
 4代目が建てた齋藤家別邸(中央区 西大畑町576)も、平成21年(2009)新潟市の所有となり、敷地と屋敷がそのまま残る「現地保存」として、平成24年(2012)より一般公開されています。 ※詳しくはコチラ⇒【旧齋藤家別邸
燕喜館・庭
 庭の前には白山神社の蓮池が広がる。
陶器製の灯篭は、3代目 清水六兵衛(祥雲)晩年の明治10年 作
燕喜館・式台
式台:特別な行事の時に使用されたという表玄関。
来館者用に別の玄関が造られ、現在は使用できない。
陶器灯篭は清水六兵衛の弟子である、浅見五郎介(祥瑞)明治15年 作。
燕喜館・式台扁額
 『燕喜館』は長 三洲(チョウ サンシュウ 漢学者・書家1833-1895)が名付けたもので、韓愈「燕喜亭記」に由来し、玄関の間には三洲の扁額が掲げられている。
燕喜館・奥座敷
奥座敷:三部屋の大広間で、天井高は11尺(3.3m)。紫檀・黒檀の床柱や床框が使われ、柱は杉の四方柾の書院造り。
燕喜館・縁側
縁側には、10間(18.1m)の桁、8間(14.4m)の長押や巾木がある。
燕喜館・前座敷
 前座敷は、赤松の皮付き丸太の床柱と面皮柱という、書院造りでも軽めの意匠。
前座敷・地袋
 前座敷には、滝 和亭(タキ カテイ 1830-1901)の地袋の襖絵「天桃海物之圖」
滝 和亭は江戸に生まれ、大岡雲峰・坂本浩然・日高鉄翁に学んだあと、幕府のお抱え絵師として海外へ遊学。 南画家として海外の万国博覧会に出品し、帝室技芸員となった。
燕喜館・居室
居室 : 本鉄刀木の床柱や、水原出身の長井一禾(ナガイ イッカ1869-1940)の襖絵がある。
 長井一禾は、明治2年(1869)蒲原郡水原に生まれ、東京に出て円山派や河鍋暁斎に師事。
鴉(カラス)の絵を得意とし、さらに渡米留学して技を磨き海外でも受賞している。
京都・楞厳寺に描いた鴉の襖絵が、「丹波のカラス寺」の由来となった。
燕喜館・居室床の間天井
居室の違い棚の天井。 別邸にも同じ仕様があり、同じ棟梁の作によるものと思われる。
燕喜館・照明
居室の吊下げ照明用コード調節器は陶器製。 滑車で高さも簡単に調整できる。
燕喜館・茶室
 小間の茶室は平成9年に建設(設計管理:京都伝統建築技術協会、施工:安井杢工務店)
茶会に利用できるが普段は非公開。 許可を取り拝見させていただいた。
燕喜館・茶室床の間
茶室 床の間と給仕口。 床の間裏にある収納の扉も網代張りで凝っている。
燕喜館・茶室水屋
茶室の水屋は現代的。

 各部屋は3部制(9:00~12:00/13:00~17:00/18:00~21:00)で伝統文化活動に貸出しており、奥座敷は4千円、前座敷・居室・茶室は各3千円で(冷暖房費別)利用出来ます。
※詳しくはコチラ⇒【燕喜館

【2013年8月 訪問】


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2013.
10.08
Tue
建築年:主屋は大正7年(1918)
構 造: 木造2階建て 他
見 学:9:30~18:00(10月~3月は17時まで)  300円
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)年末年始
交 通:新潟駅万代口~「東大畑通二番町」バス停~徒歩3分、 駐車場なし
TEL:025-210-8350   ※詳しくはコチラ⇒【齋藤家別邸
齋藤家別邸
 新潟の三大財閥の一つ、齋藤家4代目当主・喜十郎が建設した別邸です。
4代目・喜十郎(齋藤庫吉)は大正7年に新潟県で初めて自家用車(シボレー)を所有した人物。
 自然主義的な池泉回遊式庭園は、東京の庭師であり、渋沢栄一の曖依村荘や成田山新勝寺の庭園を手掛けた2代目・松本幾次郎と、弟の亀吉が作庭したと云われ、大正6年に造園が始まり大正9年に完成しました。
 この地は明治中期まで、料亭・堀田楼が営業しておりましたが、明治26年(1893)焼け出された島清楼が屋敷ごと買収して、翌年から島清館として営業。
 さらに、大正元年からは嶋村医院となっていましたが、齋藤家が買収して大正5年より建設を始めています。
齋藤家・1階広縁
大広間の広縁。 降り口の意匠と共に手摺の高さも洒落ている。
齋藤家・1階大広間
1階大広間。  こちらで抹茶(有料)を一服いただける。
齋藤家・仏間
1階の仏間。  左が神棚、右が仏壇を収納し上げ下げ式の襖で閉じる。
標本の様な物は、訪問時に開催されていた「スウェーデン現代美術家展」の作品。
齋藤家・西の間
1階西の間。 丸太柱を使った少々くだけた感じの部屋。
齋藤家・便所
1階便所。  便器などは近代の物。
齋藤家・2階大広間
2階の大広間。 
人物が写らないようにと1時間後に戻ってみると、ご婦人方はこの場所を気に入ったようで同じだった。
齋藤家・2階床の間
2階大広間の床の間。
齋藤家・2階大広間の違い棚
2階床の間-違い棚の側板。 1枚板をくり抜いて彫り上げたもの。
齋藤家・2階広縁の地袋
2階大広間の付書院裏手にある地袋。
曲線状の襖・敷居の製作は難しいし、付書院裏手にこの様な立派な地袋があるのも珍しい。
齋藤家・茶室
高台にある茶室『松鼓庵』
齋藤家・茶室内部
『松鼓庵』内部。  床の間の構成はとても変わっている。
齋藤家・茶室前蹲踞
『松鼓庵』裏手にある蹲踞の横には、まるで妖怪の様な「根上がりの松」が。
手前にもう1本あり、この松に囲まれて手と口をすすぐのは、ちょっと怖いような・・・。


 齋藤家の先祖は越前三国出身という事から『三国屋』という屋号で酒問屋を営業。そこから分家した初代の名『喜十郎』を当主が代々襲名し、『山三』という屋号になりました。
 2代目(庫之丞)は廻船業の他、通商司や第四国立銀行にも関わり、船を売った資金で地主になっています。
明治18年(1885)越佐汽船会社を創業。大正7年(1918)には『新潟汽船』と改め、新潟から日本の各港・ウラジオストク間を就航しています。
2代目に子供はなく実弟・庫次郎が3代目当主となり、その長男として元治元年(1864)に生まれた齋藤庫吉が4代目当主になります。
 4代目(庫吉)は海運業で得た資金を元に、倉庫業、大株主として成功。
新潟一の大地主で伊藤文吉(5代目)の次女ラクと結婚しますが子宝に恵まれず、実弟(4男)の庫四郎を養子に迎えます。 ※伊藤邸についてはコチラをご覧下さい⇒【北方文化博物館
明治28年(1895)発起人となった新潟貯蓄銀行が開設され、その後も新潟商業銀行(新潟銀行)、新潟興業貯蓄銀行の経営にも関わっています。
明治29年(1896)硫酸や人工肥料を生産する新潟硫酸会社が創業され、取締役に就任。
4代目・齋藤喜十郎は、大正4年(1915)には衆議院議員、大正14年には貴族院議員となり、昭和16年に他界します。
 庫四郎が5代目・喜十郎となりましたが、昭和18年(1943)新潟貯蓄銀行・新潟銀行(新潟商業銀行)・新潟興業貯蓄銀行などが第四銀行として合併。
 この別邸は、昭和20年(1945)からGHQ軍政部長公邸として接収され、齋藤家は財閥解体・農地開放の他に、5代目・喜十郎の死により多額の相続税が課せられて屋敷を維持できず、昭和28年(1953)齋藤家別邸は加賀勘一郎(加賀田組2代目)により買収されました。
 加賀勘一郎(本名:徳二郎1900-1978)は茶道をたしなみ、新潟県文化財保護連盟会長や日本陶磁協会理事に就任した数寄人。
 その後の平成17年(2005)まで加賀家本邸であった、この屋敷が手離される事となり、市民による保存活動が始まります。
 そして平成21年(2009)新潟市の所有となり、平成24年(2012)より一般公開されています。
東堀通7番町にあった齋藤家本邸も、平成9年(1997)白山公園に一部を移築し、一般公開されております。

 齋藤家については、「新潟ハイカラ文庫:齋藤家が新潟に遺したもの」に、かなり詳しく記載されておりますので、参考にして下さい。 ⇒【新潟ハイカラ文庫

【2013年8月 訪問】


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2013.
09.09
Mon
 所在地 : 新潟県 上越市 中央3丁目7-31
 建築年 : 明治後期、  大正7年頃に移築・増築
 構  造 : 土蔵造り+煉瓦造
設計施工 : 不 明
 見  学 : 三八朝市開催日の土日祝日(4月末~11月始め)9時~13時のみ公開   無料
 交  通 : JR直江津駅~徒歩15分
 駐車場 : 海沿いにある船見公園駐車場(無料)
  T E L : 025-526-6903(上越市文化振興課)  ※詳しくはコチラ⇒【上越市
直江津銀行
 この建物は直江津銀行として建設され、倉庫業『高橋回漕店』の事務所として利用されました。
 直江津銀行は、明治28年9月に『直江津積塵(せきじん)銀行』として、笠原恵・弟の片田初造ら発起人により資本金10万円で発足。
 明治32年頃に普通銀行となり『直江津銀行』へと改称しますが、明治末期には全国的な不況で経営が悪化し、大正2年に取付け騒ぎへと発展。 大正4年(1915)6月14日に解散となりました。
 この建物は、直江津234番地(現・直江津郵便局の隣り)に建てられたもので、資料では明治25~27年とありますが、本店は明治39年(1906)頃の大火で焼失したとの記録もあるそうで、実際の建築年は不明となっております。
 そして、銀行が解散した後の建物と備品は、倉庫業を営む高橋達太に買収され、大正7年頃に現在地に曳き家され、隣に2階建ての事務所も新設しています。
当初の外壁は漆喰仕上げでしたが、近年になってタイルやサイディングが貼られました。
 この会社は昭和17年(1942)に閉店し、合資会社高達回漕店となっていましたが、平成13年(2001)に清算し、業務は高達倉庫(有)と直江津海陸運送㈱に引き継がれたようです。
 そして建物は、平成21年に所有者から上越市へと寄贈され、一般公開となりました。
直江津銀行・ライオン像
高橋達太の依頼により、三越本店のライオン像を真似て、柏崎に住む彫刻家・小川由廣が2千円で制作。
直江津銀行・扉
左: 表口は鉄扉で防火と防犯を兼ねる。
右: 裏口は土蔵造りの扉。
直江津銀行・室内2
館内の様子
直江津銀行・室内
奥には電話BOX。 
床に斜めに残る形跡はカウンターの跡で、ストーブの横にカウンターの天板が。
直江津銀行・扇風機
天井にはドイツ製の扇風機
直江津銀行・金庫
直江津銀行の金庫。扉を開けるとさらに鉄扉があり、その扉を開けると桐箪笥がある。
直江津銀行・看板
金庫の横に大理石の直江津銀行の看板が。 
直江津銀行・時計
高橋回漕店のTマークの付いた時計
高達回漕店・マーク
Tマークの付いた洋服掛けと鬼瓦。
高達回漕店2
左: 高橋回漕店が増築した煉瓦造の建物。
右: 室内に残る金具。窓の防火シャッターのハンドルと思われる。
   海沿いのため、塩害でシャッターは錆びてしまったのだろう。
※防火シャッターについてはコチラを参照⇒【旧横浜正金銀行本店
高達回漕店
室内には、当時のロールカーテンが残っている。


 直江津銀行を創設した笠原恵は、中頚城郡田村新田(現・大潟区)の大庄屋の養子となり、慶應義塾で福沢諭吉に学び、帰郷後の笠原に宛てた福沢諭吉の明治11年の手紙が、新潟県立文書館に所蔵されています。
 その後、笠原は再び上京したようで、明治13年(1880)福沢門下生の朝吹英二・西脇悌二郎らとともに貿易商会の元締役に就任。 同年、横浜に早矢仕有的と共同経営で丸善内外介商店を創業し、生糸と茶を外国に輸出しました。
翌年に横浜丸善為換店が設立され、笠原は幹事取締役に就任します。
 しかし、丸善為換店は明治16年(1883)に丸家銀行と合併したあと経営破綻。
笠原は生糸と茶を外国に輸出する「笠原組」として独立し、その後は衆議院議員となりました。

 高橋回漕店の高橋達太は、慶応3年(1867)に中島村(現・板倉区)で生まれ、村の総代として諸事に携わり、橋を私費で建設したと云われています。
 明治32年(1899)高橋回漕店を創業。 保倉川沿岸に倉庫を構え、鉄道の引込み線路を設置し、石炭の荷揚げと貯蔵を担っていました。 大正12年(1923)県会議員に当選したあと、私費で直江津農商学校にグラウンドを建設。
昭和9年(1934)4月27日に永眠しました。


 直江津は上杉謙信の春日山城にほど近く、越後国府『直江の津』と呼ばれ、港町として発展。
漁港としての機能の他、特産品の米や青苧の出荷、近隣で採れた塩・銑鉄類を入荷したようです。 今でも近郊の浜辺では、磁石を近づけると多くの砂鉄が取れます。
 上杉謙信の政庁御館があったため、『府中・府内』とも呼ばれていましたが、福島城・高田城の完成と共に、いつしか『今町(いままち)』と呼ばれるようになりました。
 近くを流れる荒川(現・関川)には、「安寿と厨子王」に出てくる応化の橋があり、上杉家が通行税を徴収していましたが、松平家はこの橋を壊し、高田城下へ通行させるために稲田橋を建設しました。
 昔の町内は火災が多く、寺社は土蔵造りとし、裕福な商人の家では蔵座敷が造られていましたが、庶民の家は丸石を乗せた木羽板葺き屋根のため、さらに海風も重なって、あっという間に燃え広がってしまったようです。
 そのため、明治40年(1907)警察署長が「屋上制限令」を発布し、瓦かトタン屋根に強制的に改修させました。 その甲斐あって、延焼は極端に少なくなったといいます。
 この地は、明治11年(1878)『直江津』と正式名称が決まり、町の統合で『直江津町』⇒『直江津市』に。 現在は『上越市』になっています。
 明治19年(1886)になると国鉄・信越本線が開通して直江津駅が開業。 上野~長野への大量輸送も可能となり、さらに北陸本線の始発駅として富山・金沢へ開通。
工業都市へと発展しましたが、政庁が新潟市へ移り、上越という名が付いた新幹線が、なぜか通らなかった為に、知名度が低くなったようです。
 今後は、歴史と文化財を活かし、高田と共に観光地として発展されるよう心から願います。

 旧直江津銀行の建物は、「三八の市」に合わせて公開(土日祝日のみ)されるため、7時~12時頃まで朝市で地元の野菜や特産品が購入できます。
 また「ライオン像の建物をまちづくりに活かす会」による直江津ツアー(予約制)も開催され、近くには上越市立水族博物館もあります。

参考:直江津港・湊町の歴史(新潟県)
   直江津の土蔵造建物、旧直江津銀行とライオン像について(上越市)
   石炭王・高橋達太の誕生(高達倉庫文書)
   丸善100年史「貿易商会の設立」より

【2013年8月 訪問】


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