2012.
06.24
Sun
建築年:明治38年頃(1905年)
所在地:〒157-0061 東京都世田谷区北烏山5-15-1  
構 造:木造2階 (世田谷区指定有形文化財)
見 学:内部非公開   
交 通:京王電鉄・千歳烏山駅~「寺院通4番」バス停~スグ or 久我山駅~徒歩18分

客殿1
 この建物は、子爵・鍋島直柔(なおとう)邸の屋敷の一部であり、昭和2年に麻布区飯倉狸穴町(現:港区麻布台2丁目のロシア大使館)から移築したものです。
明治37年12月に上棟し、翌年に竣工したと考えられています。
 下見板張りの外壁と、桟瓦葺き入母屋造りの屋根を持つ家屋を、移築後に玄関を増築して、庫裡としました。
そして、内部は書院造りであり、当時の高級建材であった栂(ツガ)を柱などに用いております。
客殿4
 この寺院は、寛永8年(1631)谷中清水町で、法華宗本門流「妙感寺」として開基しました。
寛文2年(1663)に本所猿江村に移転し、のちに稲荷社と合併し「妙壽寺(みょうじゅうじ)」と改名。
しかし、関東大震災(1923)で全焼し、同年12月この北多摩郡千歳村大字烏山へ移転しました。
 その後、千歳村(江戸時代は烏山村)に数多くの被災した寺社が移転し、この一帯は烏山寺町と呼ばれるようになりました。
1階客間1
1階の角にある二の間。 雪見障子が入り、とても明るい。
2階大広間1
2階大広間は24帖で、12帖の次の間が付く。折上げ格天井・蟻壁長押で1階より格式が高い。
妙喜寺・広縁
 関東大震災で建具が壊れた可能性があり、ガラスは大正12年以降とおもわれる。
左:1階の広縁。当時の技術・運搬では作れるガラスの大きさに限界があった。大きいほど高価。
右:2階の広縁。手摺が低いのは、畳に座った時に視界を妨げないため。
妙喜寺・階段
多くの来客に対応できる、ゆったりした階段。

  ※詳しくはコチラ→【妙壽寺

 鍋島直柔は、佐賀藩主10代目・鍋島直正の八男で、慶應義塾大学卒業後、イギリスに留学。
蓮池藩(佐賀藩の支藩)9代目藩主・鍋島直紀の娘と結婚し、養子となりました。
そして子爵を継承し、46歳でこの建物を建てましたが、5年後の明治43年(1910)に亡くなっています。

【2009年11月 撮影】

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2012.
06.17
Sun
建築年:主屋が明治22年(1889年)など
所在地:〒950-0205 新潟県新潟市江南区沢海2-15-25  TEL:025-385-2001
構 造:木造、一部2階 
棟 梁: 斉藤 金蔵(主屋・三楽亭)など
開 館:9:00~17:00(12~3月は16:30まで)、無 休 
入館料:有料  ※詳しくはコチラ→【北方文化博物館
交 通:JR新津駅~車5分

伊藤家 2
 この建物は、千歩町(1000ha)を超える土地を持つ、新潟一の大地主・伊藤家の屋敷です。 初代の文吉は、宝暦6年(1756)に分家した百姓で、その土地は1万3千㎡から始まりました。 
 その後、紺屋(染物屋)・質屋・立入人(蔵管理)をなりわい、「いはの家」と呼ばれました。 そして2代目が、天保8年(1832)に名字帯刀の権利を取得し、「伊藤文吉」と名乗ります。 この格式を持つ事が出来たのは、立入人であったためと思われます。 明治以降もさらなる土地を取得し、明治末期には1385haを持つ大地主となりました。
伊藤家 4
 この屋敷は、5代目が明治15年(1882)に起工し、8年余りの歳月をかけて完成。
さらに、明治25年(1892)には、新発田藩の「清水谷屋敷」を所有します。
そして大正時代の本邸には、家族と60人近くの使用人が住んでいたといわれます。
伊藤家 3
 終戦後の昭和20年頃、慶応義塾大学卒・ペンシルベニア大学に留学経験を持つ7代目が、屋敷を博物館にする計画を考え、ペンシルベニア大学の後輩で、進駐軍・ライト中尉の協力もあり、軌道に乗せます。
 現在の8代目は、慶応義塾大学卒業後に、毎日新聞・音楽之友社を経て館長となり、文化施設として確立。日本博物館協会理事就任、2008年には旭日双光章を受章しております。
伊藤家 1
式台と板戸は、欅の一枚板。 冠婚葬祭・皇室が御来訪された際のみ使用。
伊藤家 流し
洗い分けができる流し(シンク):両側に人が立って洗い物ができる便利なアイランド型だが、昭和の物か?
伊藤家 茶室1
 6代目が、明治22年(1889)から2年の歳月をかけて完成した書斎「浩元房」
間取りが三角形で、畳・柱・抽斗などは菱形という、とても珍しい建物で、現在は「三楽亭」と呼ばれています。 ※外からの見学のみ
 園内には、刈羽民家(江戸初期)・積翠庵(天保初期)・常磐荘(1860年の旧宅離れ)・時庵・佐度看亭・吉ヶ平民家などが点在。
毎年5月の第三日曜日に、一部の建物で茶会を主催しているそうです。 また、カフェ・レストラン・売店・宿「大呂庵」が新設され、観光スポットとして多くの観光客が訪れております。 

【2011年9月 訪問】

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2012.
06.10
Sun
建築年:文政(1820年代)など
所在地:〒950-1261 新潟県新潟市南区味方216  TEL:025-372-3006
構 造:木造、一部2階を増築 (国指定重要文化財)
棟 梁:小黒 杢右衛門
開 館:9:00~17:00(入館は16:10まで)  入館料:大人500円
休 館:月曜日・祝日の翌日(土曜日が祝日の場合は火曜日)・年末年始    
交 通:JR新潟駅~バス50分 「笹川邸入口前」バス停~徒歩3分

旧笹川邸
 初代は武田 治右衛門 源義勝と云われ、川中島合戦の後、信州笹川村を経て、この地に移り住み、改姓したと云われております。慶安2年(1649)に、味方組八ヶ村8千石を統括する大庄屋に任命され、年貢の徴収・藩からの伝令・治安・裁判を行使。新田開発・治水事業も手掛け、明治維新まで代々この地を治めてきました。
 その為、郷士として表門・式台のある屋敷も許され、格式を持つ事が出来ました。
主屋は役宅として、会合・帳簿作成の仕事の場であり、さらに賓客の接待用として上段の間を設けました。
 そして、式台はその賓客の為の玄関であり、当主以外は使うことが許されず、家族や村民は土間からの出入りとなります。
旧笹川邸 上段の間
上段の間の欄間にはヘチマが! とても大胆なデザイン。
旧笹川邸 三の間
三の間の床の間と襖紙の模様が、これまた大胆!
旧笹川邸 廊下
雨戸が独立し、雪囲いの様になっている。 藁沓を脱がずに奥にいる家人と話す事も可能。
旧笹川邸 湯殿
体を洗うだけで上半身は湯に浸からない、浴室の古い形式。 中央の穴に向けて水が流れる。
旧笹川邸 浴室
こちらは進化した浴室。明治~大正以降とおもわれる。
旧笹川邸 水屋
戸袋の一部を利用した水屋は、大正時代の改修時に造作。 左:1階、右:2階。
旧笹川邸 2階増築
居室部の2階は、大正元年(1912)に増築。 戸袋の水屋が見える。
旧笹川邸 蔵
年貢米・自家用米・家財など用途別に納めた蔵が連立する。

 この笹川家は火災に遭っており、表門(天正年間)等を残し文政2年に主屋が全焼。
再建した主屋の居室部は文政4年(1821)、表座敷と台所は文政9年(1826)に上棟。
 棟梁の小黒 杢右衛門(おそらく5代目とおもわれる)は新潟の村松の出身で、五泉市にある住吉神社の拝殿(1838)などを手掛けた宮大工です。
 その後、この建物が昭和24年に国の重要美術品に認定された後、昭和40年代まで笹川家の住まいでしたが、昭和45年(1970)に新潟市の所有となってから、一般公開されております。
 笹川家の住まいだった時代に、柳宗悦・濱田庄司と共に訪れた陶芸家バーナード・リーチが、「これまでに見たうちで最も魅力ある邸宅の一つ」と、手記に書いているそうです。
※詳しくはコチラ→【旧 笹川家住宅

【2011年9月 撮影】

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2012.
06.03
Sun
建築年:大正7年(1918)  
所在地:〒959-1502 新潟県南蒲原郡田上町大字田上2402  TEL:0256-57-2040
構 造:木造平屋   
設計施工:松井組(棟梁・松井角平)
開 館:9:00~16:00、  有料
休 館:年末年始など    
交 通:JR羽生田駅~車5分 or 「本田上」バス停~100m

椿寿荘
 この建物は、田巻家が客殿として井波の宮大工・松井角平に依頼し、3年半の歳月をかけて完成。 建坪140坪の建物は、用途に応じて最高級の檜・杉・欅など使い建設されました。
 江戸末期の田巻家は、1260町歩の田畑を持ち、小作人2千人以上を抱える豪農でした。
本家は『原田巻家』と呼ばれ、当主は代々「七郎兵衛」を名乗り、七代目(賢太郎)が7万2千円を費やして建物を完成させました。
椿寿荘 玄関内
寺社の玄関の様に重厚な造り。 衝立に描かれた能の演者は、どこから見ても視線が合う。
椿寿荘 座敷
3部屋の襖を外せば、この様な大広間に。 宴会や冠婚葬祭に利用された。
椿寿荘 広縁
約20mの軒桁に吉野杉の絞り丸太を使用。瓦屋根・積雪量を考えると、この下屋はスゴイ!
椿寿荘 便所
左:男性用小便器。料亭などでは、便器の中に飛散防止・消臭用で杉の葉を入れる場合もある。
右:しゃがまなくても便器の蓋が取れるよう、長い取っ手を付けている。
椿寿荘 水屋
台所の様な、大きな水屋。 多くの来客に対応可能。
椿寿荘 奥次の間外
まるで池の上に建つ亭の様
椿寿荘 奥次の間
予約をすれば、この部屋で仕出し弁当をいただく事ができる。 ※詳しくはコチラ→【椿寿荘
椿寿荘 庭
この庭は、修学院離宮の改庭を手掛けた京都の庭師・広瀬万次郎によるもの。


 初代の松井角右衛門は、井波大工10人衆の一人。 加賀藩に仕え、天正14年(1586)越中高岡の守山城普請に従事。 文禄2年(1593)には伏見城普請のため上京。 慶長元年(1596)には瑞泉寺の再建に携わりました。
 その後、代々「松井角平」を名乗り、瑞泉寺山門は8~11代が、瑞泉寺本堂(1885)13代目が、大正7年(1918)の瑞泉寺太子堂は14代目が棟梁となりました。
松井組代表となった14代・松井角平(恒信)は、この田巻家の他、旧中越銀行も手掛けています。 ※詳しくはコチラ→【旧中越銀行
 その後、松井組は関東大震災後の大正12年に東京に進出。 本願寺築地別院復興工事(伊東忠太設計)を請負い、昭和9年(1934)に竣工。
昭和23年(1948)松井建設株式会社に改称。 小田原城再建(昭和60年)等を請け負いました。  ※詳しくはコチラ→【松井建設】【松井角平】 
 その後「椿寿荘」は、国鉄が買収して一時保養所となりましたが、町営となってから一般公開されております。(隣りにある「利恒庵」は別企業の所有で非公開)
 このように、企業や個人の所有となる事は決して悪い事でなく、いずれ文化財となりうる建物を後世に残す為の手段の一つとなります。
維持管理には多大な経費が掛かりますが、良き所有者であれば大事に使われるでしょう。
たとえば、横浜三溪園は原三溪が、国宝の茶室・如庵は三井本家が所有しておりました。
 ただし、時代で状況が変わり、大幅な改修や取り壊しにならぬよう、常に自治体や地元民が監視する必要もあります。
その土地の宝が無くなってしまわないように・・・。

【2011年9月 訪問】


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