2013.
02.28
Thu
所在地:秋田県 仙北市 角館町
交 通:JR角館駅~徒歩20分

石黒家
 石黒家は、現存する角館武家屋敷の中で一番古いと云われ、唯一室内に上がれる建物です。
勘左衛門直起を初代とし、佐竹義隣に仕えて勘定役となりました。 現在の屋敷は嘉永6年(1853)8代目当主が蓮沼七左衛門邸を買取ったものです。
石黒家は代々、佐竹家のお共として江戸へ参り、学問にも秀で、先代の石黒直次氏は、2005年の選挙により仙北市・初代市長となった家柄です。
現在も子孫の方がこの屋敷を守り、観光客の案内もしています。
◎公開:9~17時、無休、300円 TEL:0187-55-1496 ※詳しくはコチラ→【石黒家
石黒家・広縁
石黒家の広縁から見た景色
河原田家
河原田家:会津時代から蘆名家の家臣であり、後に佐竹北家の家臣となりました。
雨戸を独立させ、広縁との間に空間を設け、使用人などは土足のままで主人との応対が可能。
雪国に多く見られ、新潟の旧笹川家住宅も同じ様な造りとなっています。 
 ※詳しくはコチラ→【旧笹川家住宅
河原田家・蔵
河原田家の蔵:この地方独特の造りで、深い軒の出に屋根の荷重を支える持送り材、雪・泥除けの下見板張りが特徴。
◎公開:9~16:30(4月中旬~11月末のみ公開)無休。無料 TEL:0187-43-3384
青柳家
青柳家:蘆名家の家臣から、後に佐竹北家の家臣となりました。
◎公開:9~17時(11月~3月は16時まで)無休。500円 ※詳しくはコチラ→【青柳家
青柳家・玄関間
青柳家の玄関の間:狭いながらも控えの間や寄付きとして使えるような凝った造りで、床の間・書院・飾り棚が並列になっています。
青柳家・蔵
青柳家の蔵:雪が積もっても2階から荷物の出し入れが出来るようになっています。
小野田家玄関
小野田家:佐竹北家の家臣であり、家の脇に道場がありました。
土間への入口が二重になっており、冬には風除室の役目をはたしています。
◎公開:9~16:30(4月中旬~11月末のみ公開)無休。無料 TEL:0187-43-3384
岩橋家
岩橋家:蘆名家の家臣から、後に佐竹北家の家臣となりました。
映画「たそがれ清兵衛」のロケ地で有名。
◎公開:9~16:30(4月中旬~11月末のみ公開)無休。無料 TEL:0187-43-3384
松本家
松本家:佐竹氏の重臣・今宮家組下の家柄で、常州から角館へ来ました。
内町(武家地)から離れた田町に住んでいましたが、佐竹北家の組下となってから現在地(小人町)に移転。 身分が低いながらも、郷校・弘道書院の教授を勤めた家柄です。
現在は、イタヤ細工の実演を行っており、映画「たそがれ清兵衛」のロケ地になりました。
◎公開:9~16:30(4月中旬~11月末のみ公開)無休。無料 TEL:0187-43-3384


 角館は、戦国時代は戸沢氏が統治しておりましたが、関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602) 常陸多賀郡へ転封。 入替わりに常陸国の佐竹義宣(よしのぶ)が出羽国秋田へ転封・減封となり、久保田藩主になります。 そして戸沢氏が治めていた角館を実弟の蘆名盛重(のちの義勝)に与えます。
蘆名家は相模国三浦郡の出で、源頼朝の平泉征伐で功名を成し、文治5年(1189)会津の地を与えられて黒川城(若松城)を拠点としてから、後に70万石の大名となっていましたが、蘆名家が絶えたため佐竹家から養子として入ったのが義広(=蘆名盛重、義勝)です。 天正17年(1589)摺上原の戦いで伊達政宗に敗れて常陸へ逃れますが、天正18年(1590)秀吉のもと小田原征伐が成功し、常陸国江戸崎を拝領。 
 しかし関ヶ原の件で、兄・佐竹義宣と共に秋田へ転封されてしまいます。 蘆名義勝と改名して角館の所預りとなりましたが、元和元年(1615)一国一城令が発令され、久保田藩は元和6年(1620)に小松山(古城山)北麓にあった角館城を廃城。 これを機に、蘆名義勝は山の南麓に御殿を移し、城下町の工事を開始しましたが、石垣や堀の建設が許されなかったため川を外堀に見立て、山や丘を障壁の役割としました。 そして外側を寺町で囲み、外町(町人地)と内町(武家地)の間は、延焼防止のため空地にして土塁を築き、さらに塀で区切って門を設けました。 その内町は、上・中級武士が住む表町と下級武士の住む裏町に分かれていたと云われます。
 蘆名家は後継ぎが病気や事故で早世し、寛永8年(1631)義勝が没した後、断絶してしまいました。 その後、角館は佐竹北家が統治し、蘆名家の家臣は減封させられ、佐竹北家の家臣となりました。 現在も残る武家屋敷は、蘆名家の家臣であった家系も多いようです。
 北家の当主・義廉の亡き後は、佐竹義宣の甥で、京の公家・義隣(よしちか)に継がせ、北家を再興させました。 それにより京都との交流が生まれ、角館に華やかな文化が育まれたのです。
明治以降は中心地が大曲に移りましたが、新たな開発を免れた武家屋敷の街並みが昭和51年(1976)国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、角館は観光地として再び栄えるようになりました。

【2011年7月 訪問】


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2013.
02.12
Tue
建築年:昭和42年(1967)、昭和57年に増築
所在地: 東京都世田谷区成城5-12-19 
構 造: 木造平屋建て、一部RC造 (敷地1861.7㎡、延床面積371㎡)
設 計: 吉田 五十八研究室(担当:野村加根夫)
施 工: 主屋は水澤工務店、  茶室は丸富工務店
見 学: 9:30~16:30  無料
休 館: 祝日除く月曜・年末年始  
交 通: 小田急小田原線・成城学園前駅~徒歩5分

猪俣邸・居間
 成城の高級住宅地に佇むこの建物は、猪俣 猛 夫妻の邸宅で、吉田 五十八の晩年の作品です。
長男・猪俣 靖 氏より、建物と敷地が世田谷区へ寄贈され、せたがやトラスト協会の管理運営のもと、『猪俣庭園』として平成11年10月から一般公開されております。
 敷地の半分以上は、梅や桜など季節の風景を楽しめる回遊式日本庭園となっています。
小さな屋根を多く配置して高さを抑えた建物は、中庭を2つ設けて室内に風と光を取り入れ、
2つの茶室を持つ数寄屋建築でありながら、現代生活に馴染むよう工夫がなされています。
猪俣夫妻の老後のための住まいであり、お手伝いさんと運転手の部屋があったという広い邸宅です。
 故・猪俣 猛氏は、労使の実務担当者に向けて「労政時報」を発行している (財)労務行政研究所の初代理事長を務め、鎮信流茶道(旧肥前平戸藩主・松浦鎮信の武家茶道)を極めた人物でした。 また、猪俣 靖 氏も(財)労務行政研究所の理事長として活躍されました。
猪俣邸・茶室
 ここ成城は、北多摩郡砧村と呼ばれ、大正14年(1925)に成城学園が移転し、昭和2年(1927)に小田急線が開通してから、「成城」と呼ばれるようになりました。
住宅地が分譲されてから、柳田国男・水上勉・横溝正史ら文化人が邸宅を構えるようになり、
昭和6年(1931)に写真科学研究所(現・東宝砧撮影所)が出来てから、黒澤明・三船敏郎・石原裕次郎・加山雄三などが住むようになり、さらなる高級住宅地に発展。
 環境を守るため、住民により平成14年に『成城憲章』が制定され、敷地は125~250㎡位とし、敷地の20%に緑地を作って生垣で囲み、10m以下の低層住宅とする、さらに崖地には地下室を造らない等、建築制限が行われるようになりました。
猪俣邸玄関
この様な玄関収納の構成は、小林古径邸にも出てくる。
 ※吉田五十八についてはコチラをご覧下さい。→【小林古径邸
猪俣邸・茶室2
渡り廊下でつながった4帖半の茶室は、窓が多くとても開放的。
右側の下の障子は、躙口を兼ねている。
猪俣邸・水屋
茶室前の水屋も現代生活に馴染むよう、立って使う流し台を採用。
猪俣邸・勝手口
左: 玄関脇にある勝手口。
右: 水屋の横の躙口とつながる。 茶会などの仕出し料理は、ここから搬入。
猪俣邸・夫人室
夫人室には造作家具が設置され、化粧台上の照明まで造り付けとなっている。
猪俣邸・夫人室2
左: 夫人室の飾り棚。
右: さらに夫人室には金庫があり、上段に仏壇が設置されていた。
                ※今回案内して下さった、ボランティアの渡辺さん。
猪俣邸・次の間
夫人室の隣にウォークインクローゼットがあり、次の間の押入れには姿見が隠されている。
猪俣邸・座敷
次の間の隣にある座敷。
右手奥の障子は建築照明とし、手前の格子にはエアコンを仕込んでいる。
猪俣邸・浴室
左: 浴槽も当時の物。
右: 脱衣場兼洗面所。 引き戸に鏡を貼り、左右の位置を変えられる。
猪俣邸キッチン
システムキッチンは当時の物。レンジフードをガラスとした開放的なデザイン。
猪俣邸・食器棚
左: 厨房側は食器棚 
右: 食堂側はとてもシンプル。残念ながらテーブルと椅子は当時の物ではない。
猪俣邸・建具
食堂右手にある窓は、網戸・ガラス戸・障子全てが脇に収まるようになっている。
さらに建具の枠を斜めに切り、隙間が開かないよう工夫。
猪俣邸・設備
左上: 厨房にある呼び鈴。ランプが光った部屋へお手伝いさんが向かう。
左下: 座敷の机の下にあった(雑巾摺りの所)スイッチの用途は不明。
右 : 座敷にあるエアコンや照明のスイッチ。
猪俣邸・書斎
昭和57年に増築された書斎と1帖台目の茶室は、吉田五十八の弟子で秋篠宮邸・大使館公邸・公共茶室などを手掛けた、野村加根夫氏の設計。
猪俣邸・コタツ
書斎には堀ごたつがあり、床下からヤグラを取り出して使用。
天板に絨毯が貼ってあるので、オフシーズンに床下に収納してしまうと床と一体化する。
右の写真の穴には、ヤグラを置くための受け材が入っている。

【2013年1月 訪問】

 吉田五十八は雑誌の中で、「居間が客間になり、夫人室が居間になるといったように、その用途が変わってきてしまった。」と、その後の猪俣邸について述べている。
また、南面の屋根を3段にするため、納まりに一番苦心したという。

【参考文献】
 「新建築44-5」 1969/05 新建築社


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2013.
02.11
Mon
建築年:昭和9年(1934年)、平成13年(2005)移築 
所在地:新潟県上越市本城町7-1(高田公園内)  TEL:025-525-2429
構 造:木造2階建て 
設 計:吉田 五十八、   施 工:岡村 仁三 棟梁
見 学:9:00~17:00  休館:祝日以外の月曜・祝日の翌日・年末年始・その他
入館料:大人200円(上越市立総合博物館との共通券も別途あり)
交 通:えちごトキめき鉄道・高田駅or直江津駅~バス停「高田公園入口」下車~徒歩5分

         ※詳しくはコチラ→【小林古径邸
小林古径邸
 この建物は吉田五十八の設計により昭和9年(1934年)東京都大田区南馬込に建てられた、小林古径の本邸です。平成5年(1993)に解体され、その部材は上越市が購入し、平成10年より復原に着手。 同じ敷地内にあった古民家の画室(昭和49年に解体)も、写真や図面を基に昭和13年当時に復元。 平成13年(2005)より一般公開されております。
古径アトリエ
 現在は高田城の跡地に建てられ、隣には斎藤真一のコレクションを保有する上越市立総合博物館もあります。 ※詳しくはコチラ→【番外編
ここ高田は、古くは上杉謙信公の御膝下であり、のちに越後高田藩となり、家康の六男・松平忠輝が城を築きました。 伊達政宗が総監督となり、堀と土塁を設け、慶長19年(1614)に三階櫓を建立。
しかし、明治3年(1870)に三階櫓と御殿が焼失し、戦時中には陸軍駐屯地のために土塁が壊され、堀が埋め立てられました。
現在は学校が建てられ、残ったお堀には春に桜・夏に蓮の花が咲く観光地となりました。
古径玄関
 本邸の玄関: 奥にある引戸は階段下の収納
左下に見える石は沓脱石、右手には式台があり、下2段のスノコは見学用に後付けされた物
若い人や外国人で、スノコの上で靴を脱ぐ人もたまに見かけます。
古来の日本家屋では、木材の上は土足で上がってはいけないと覚えておきましょう。
古径邸茶の間
 本邸の茶の間: 炉が切ってあり、炭で湯を沸かし暖を取る
気密性の高い現在の住宅では、一酸化炭素中毒にならぬよう換気が必要
古径水屋
2階にある水屋:茶道用に使われ、水が飛び散らないよう竹のスノコを置く
古径壁
左:1階の居間/茶の間堺にある欄間障子  欄間鴨居と欄間敷居は塗り隠されている
右:1階の書斎の壁: 床の間の垂れ壁は、土壁としては先鋭でモダン
古径台所
台所: 現代のシステムキッチンに通じる機能性
古径アトリエ室内
図面や写真を基に復元された画室: 弟子の今里 隆 氏が監修
画室は予約をすれば1時間千円で使用可能。 ただし、飲食や絵の具等の使用不可。
古径建具
左:手前から・・・障子・ガラス戸・雨戸があり、全てが戸袋に収納できるようになっている
右:戸袋の戸は襖になっており、この戸を開けて障子やガラス戸を部屋側に押し出す
古径雨戸
画室の雨戸は、高さが犬走りから軒桁まである大きなもの


小林古径は、明治16年(1883)この高田に生まれました。 父は元・高田藩士で逓信官吏であり、「小林 茂」と名付けられます。
11歳で山田於莵三郎に日本画の手ほどきを受け、12歳で青木香葩に学び「秋香」の雅号を貰います。
16歳には上京して梶田半古の塾に入門して「古径」の雅号になり、その年の第7回 日本絵画協会、第2回 日本美術院連合共進会に入選。
その後、大正3年に日本美術院同人に選ばれ、大正11年に日本美術院留学生として前田青邨とともに渡欧。 晩年には、東京美術学校教授・帝室技芸員に就任し、文化勲章を受章。 昭和32年(1957)に74歳で亡くなりました。
 大正4年(1915)から大森新井宿に住み、大正9年に南馬込の農家を購入し、画室として使用。 隣に本邸を建てる際にも「私が好きになるような家を建てて下さい。」と一言、吉田五十八に依頼しただけであり、完成後もすぐには移り住まず眺めていたそうで、設計者にとっては難しい仕事であったと思われます。
その甲斐あって古径に認められ、画室も吉田五十八により改修されましたが、古径の死後、昭和49年に解体されてしまいました。
 
吉田五十八: 明治27年(1894)東京日本橋生まれ。 太田胃散の創業者・太田信義の5男として生まれ、信義が58歳であったことから、『五十八:いそや』と命名。 後に母方の吉田家を継ぎ、吉田五十八と改名。
東京美術学校・建築科を卒業後、モダニズムを学ぶため渡欧。改めて日本の建築美に気付き、帰国後に数寄屋建築に取り組みます。 昭和16年(1941)には東京美術学校講師に就任し、その後、教授として15年ほど在籍。
吉田建築事務所としては、梅原龍三郎邸や日本芸術院会館などの新築、歌舞伎座・明治座・新橋演舞場などの改築、吉田茂や秩父宮様の邸宅まで手掛け、文化勲章を受章。 昭和49年(1974)79歳で亡くなりました。
 ちなみに、太田胃酸の工場(昭和9年、施工:日本鋼材)も設計しており、のこぎり屋根の普通の工場ですが、開口部に吉田五十八の手法が見られます。 恐らく現存していないでしょうが、写真で見る事はできます。
※復刻版「建築の東京 都市美協會 昭和10年刊」 2007 不二出版
※その他の吉田五十八の作品はコチラ⇒ 【旧猪俣邸】 【山口蓬春旧宅】 【旧吉屋信子邸
 
【2012年8月 訪問】
 
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