2013.
06.09
Sun
所在地:埼玉県 川越市 三久保町5番3
公 開:毎月第3土曜日2017年度から年末年始を除く毎週土曜日公開 9:00~16:00
料 金: 無 料
TEL :049-224-6097(川越市教育委員会)
交 通: 西武新宿線 「本川越」 駅~徒歩約15分 or 東武バス「仲町」バス停~徒歩約8分 or シャトルバス「中央公民館入口」スグ

永島家住宅
 川越城本丸御殿や喜多院、蔵造りの店が建ち並ぶ観光地として知られる川越。 その中で武家屋敷として唯一公開されている建物があります。
この建物がある場所は川越城堀外の南西にあり、上・中級武士が住んでいた地域です。 格式の違いにより家老などの最上級の武士は西大手門内に住まいを構え、下級武士らは町人町を囲むように配置され、守りを固めていました。
 江戸後期に建てられたこの屋敷には、向坂鹿平(物頭300石)、堤愛郷(御典医250~300石)、三野半兵衛(250石)、石原昌迪(御典医110石)らが住い、増改築を重ねて現在の間取りになったようです。
御典医の時代に薬草が植えられた敷地の半分は無くなりましたが、鋭い刺を持つカラタチ(ミカン科)の生垣は残っています。
 明治以降、この屋敷は東京帝国大学教授であった石原 久の所有となっていましたが、口腔科学会設立の費用を捻出するため、大正6年に永島家へ譲渡。 その後は永島家親族の女性が住み、下男部屋は他人に貸していたとの事ですが、平成20年代に入ると土地の全てと建物の殆どを川越市に寄贈し、一般公開されるようになりました。 室内に上がる事は出来ませんが、ボランティアの方の解説を聞きながら窓越しに見学可能。
今後はどの様に復元されるかは解りませんが、現状の武家屋敷を観ることができます。
永島家その他
左:土間も何度か増改築されている        右:屋敷稲荷
永島家・台所
土間にある台所:風呂釜が新しいが、カマドはいつまで使っていたのだろう
永島家・浴室
浴室内の窓は洒落ていて、窓の向こうは板の間になっている
永島家・茶の間
手前の茶の間は竣工当初からあり、奥の部屋は土間を改装したもの。
永島家・どんでん返し
左:4帖間の奥に見える板の間(4帖)は、なぜか『切腹の間』と呼ばれている。
 御典医が居た時代に、ここで執刀したためではないかとの事。
右:4帖間にある襖はどんでん返しとなっており、座敷とつながる不思議な空間。
永島家・座敷
座敷も竣工時からあるが、衝立の奥にある玄関の位置は変わった。
ちなみに床の間の大名時計は新しい物。
 永島家1
左手には増築された土間があり、玄関の位置は改築で右にずれた。 さらに玄関右側に下男部屋を増築。


◆ 石原 久は石原昌迪の次男として慶應2年(1866)に生まれ、東京帝国大学で学んだあと、明治32年(1899)政府の辞令によりドイツへ3年間留学します。 帰国後は歯科学教室主任となり、外来を開設。 大正2年(1913)に『歯科医学談話会』を開催し、のちに歯科学の教授となります。 資金を得た石原久は、大正7年(1918)日本歯科口腔科学会(現・日本口腔科学会)を設立して初代会長に就任。 昭和16年(1941)に永眠しました。
そして今年の平成25年(2013)5月に、日本口腔科学会創立100周年記念会が開催されました。

◆ 永島家は、寛文8年(1668)に武蔵国久良岐郡泥亀新田(現・横浜市金沢区)を開発した永島祐伯(泥亀)の子孫です。
本家は代々『永島 段右衛門』を名乗り、江戸後期に三浦半島の警備をしていた武蔵国川越藩・松平氏のもと、さらに塩田開発に努めて塩の生産に関わりました。 泥亀新田では名主のほか諸役人にも命ぜられ、明治以降は戸長となりました。 製塩業で富豪となった永島家の本邸には見事な牡丹園もありましたが、明治末期の塩田廃止により永島家は経営破綻。 大正時代になると博文館の大橋新太郎が泥亀新田と永島邸を買収し、『八景園』などを開園しました。
 その後は西武が買収して『ホテル八景園』となりますが、昭和43年(1968)頃に閉館。 土地は分譲されて、現在は住宅地となっていますが、近くには『海の公園』や『神奈川県立金沢文庫』もあり、観光も楽しめる地域となっています。

【2013年5月 訪問】


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