2013.
09.24
Tue
所在地:新潟県新潟市 中央区 1番堀通町 3-3
建築年:明治16年(1883)、修復2回有り
構 造:木造2階建て+塔屋付き
設計・施工:星野 総四郎
見 学:9:00~16:30(月曜・祝日・年末年始は休館) 無料
交 通:「白山公園前」バス停~徒歩1分、 駐車場は3台分(無料)
TEL:025-228-3607
  ※詳しくはコチラ⇒【新潟県政記念館
新潟県議会旧議事堂
 明治13年(1880)の大火で類焼したため、県会は西堀小学校や新潟学校百工化学部の建物を改修して使用。 県令・永山盛輝は議事堂の新築を提案し、明治15年(1882)着工、明治16年に37,000円を掛けて竣工しました。 延焼を免れるような場所として、白山神社の隣りで信濃川沿岸が建設地となりました。
新潟県議会旧議事堂・古写真
建物裏側の当時の様子で、擬宝珠風の棟端飾りが白い。 (所蔵:新潟市)
現在は信濃川の一部が埋め立てられ、県民会館や陸上競技場が出来ている。

 昭和7年(1932)新県庁舎内に議場が移り、昭和9年から新潟郷土博物館、昭和18年(1943)から海軍新潟港湾警察隊船舶警戒部宿舎、戦後は県庁分館などに利用された後、昭和47年~48年度に創建時の様子に復原され、昭和50年(1975)から新潟県政記念館として開館。
平成16年(2004)11月~平成18年(2006)9月にかけて、耐震補強と修復工事が実施されました。
 設計・施工を請け負った星野総四郎は、弘化4年(1845)西蒲原郡巻村(現・新潟市西蒲区)生まれ。 明治4年(1871)鉄道局に入り、新橋・大阪・神戸の駅舎建設に従事。 明治10年(1877)に退官して建築工事請負業を創業。 第四銀行本店(1882)や相馬子爵邸の設計・監督を手掛けました。
その他にも全国の鉄道関係の建物や橋梁の建設に携わり、大正4年(1915)9月12日に他界しました。
新潟県議会旧議事堂・内部
左:議 場
右:大時計はロンドンから取り寄せた物で、議事堂の竣工(1883)に合わせて備え付けられて、昭和9年(1934)から郷土博物館の展示品となった。
その後、海軍宿舎となったため(1943)大畑町の県立図書館に移り、昭和28年(1953)から倉庫に保管されていたが、昭和39年(1964)新潟大地震で大時計は泥の中に埋没。文字盤と機械の一部が見つかり保管されていた。 8ヶ月の期間と450万円の予算を掛けて、平成元年(1989)修復された物。(高さ:2,32m 幅:0,8m 重さ:70kg  修復者:長岡市の角屋祥次)
新潟県議会旧議事堂・委員室
常置委員(7名)、明治30年以降は参事会員(4~7名)の控室だった部屋。
常置委員会(参事会)は知事が議長となって毎月開催され、工事執行についての規定や緊急案件を県会に代わって議決できた。 その会議の傍聴は許されなかったという。
新潟県議会旧議事堂・天井飾り
左:守衛室の天井中心飾り「梅」       右:傍聴受付室「猿に栗の木」
他に書記室「松に帆掛け舟」が現存
新潟県議会旧議事堂・展示品
英国製の水濾器(浄水器):明治43年まで新潟市には上水道がなかったため、議事堂に信濃川の水を入れた水濾器を6個設置した。
新潟県議会旧議事堂・階段
左:屋根裏・塔屋は非公開区域だが、許可を得て拝見させて頂いた。  足場板の様な所は高所恐怖症にとって大変怖い。 何故か水濾器が置いてある。
右:塔屋への階段は当時のものと思われる
新潟県議会旧議事堂・材料
塔屋下の小部屋に保管された当時の部材(右端の尖った物は塔屋の屋根飾り)
新潟県議会旧議事堂・屋根裏
小部屋にある小さな扉を開けると屋根裏が現れる
新潟県議会旧議事堂・塔屋
小部屋からさらに梯子を登ると塔屋内部に辿り着く
新潟県議会旧議事堂・屋根
右:塔屋の窓には、雨水の侵入対策で下部に水抜き管を付けた水切り板を設置している
左:擬宝珠風の棟端飾りの真下にも同じ飾りが付いている


 1代目県令の平松時厚(1845‐1911公家 出)は明治3年6月から新潟県知事、明治4年11月から県令となりましたが、変革と負担による大河津分水騒動で退任。 外務大丞の楠本正隆(1838‐1902肥前大村藩中老 出)が明治5年5月から2代目県令になりました。
楠本は明治7年には議長となって初の県会を開き、新潟学校・新潟病院を設立。 明治8年8月に内務大丞、明治10年に東京府知事などを経て、明治26年より衆議院議長を4期務めました。
 新潟県令3代目には、筑摩県(長野県中南部・飛騨地方)最初の権令・永山盛輝(1826‐1902鹿児島藩士 出)が明治8年(1875)から10年間在任。
永山盛輝は、筑摩県内を巡回して教育の現状を知り開智学校(松本市)を創設した人物で、新潟においても全国最下位であった小学校就学率を向上させ、1郡1中学校も目指しました。 また女紅場や医学校・師範学校を設立した人物であり、退任後は元老院議官などを経て貴族院予算委員長となっっています。 永山自筆の書は新潟県立文書館に所蔵されています。 ※詳しくはコチラ⇒【新潟県立文書館

 ※ 展示品の解説をして下さった副館長、誠にありがとうございました。

【2013年8月 訪問】


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2013.
09.23
Mon
所在地: 埼玉県川越市 松江町2-4-13
建築年: 大正10年(1921) 国の登録有形文化財
構  造: 煉瓦造、木造小屋組 
設  計: ウイリアム・ウィルソン
施  工: 清水組
見  学: 日 中。  礼拝:日曜日10:30~/18:00~
料  金: 献金箱に寄付金を。
T E L : 049-222-1429
交  通:  西武新宿線 「本川越」 駅~徒歩15分 or  東武バス 「仲町」 バス停~徒歩3分
川越キリスト教会
 川越では、明治11年(1878)横山錦柵・田井正一らにより日本聖公会の伝道が開始されました。
※情報いただきました。詳しくはコメント欄をご覧ください
明治22年(1889)元町一丁目辺りに川越教会の木造礼拝堂が建設されますが、明治26年の大火(1893/3/17)により焼失。 ニューヨーク大学教授であったピーターソン氏からの援助により、同じく大火で更地になった『上松江町』という商人町(現・松江町)へ移転し、大正10年(1921)4月に完成します。
※日本聖公会については、以前紹介した東京・国立市【滝乃川学園】をご覧下さい。
 ウィリアム・ウィルソンは、アメリカの聖公会から派遣された建築家で、立教大学礼拝堂や校舎の実施設計・管理(基本設計はアメリカのMurphy & Dana建築事務所)を担当し、関東大震災後も立教大学の修復に携わりました。
その当時のウィルソンの姿が、立教大学のHPに掲載されていますので、詳しくはコチラをご覧下さい→【立教タイムトラベル第37回
 その他にも、熊谷聖パウロ教会礼拝堂(1919竣工)や、大阪主教座聖堂川口基督教会(1920竣工)など聖公会の建物を設計しています。
川越キリスト教会3
教会内部。デザインはノアの方舟をイメージしているという。
川越キリスト教内部
トラス式の小屋組。
川越キリスト教会内部2
玄関の上は鐘楼になっており、礼拝の前に右手にある吊り紐を引っ張って鐘を鳴らした。
※ 鐘楼内部については⇒【日本福音ルーテル市川教会】を参考にして下さい。
川越キリスト教会オルガン
昨年の訪問時には、パイプオルガン奏者が練習をしていた。
川越キリスト教会2
屋根は新しくなっている。 また、祭壇裏手はステンドグラスになっていた形跡がある。
川越キリスト教会定礎
 田井正一(1848~1927)は、川越キリスト教会の牧師で、教会の敷地内に明治34年(1901)、『宇気良(うきら)幼稚園』を創設。私立幼稚園としては埼玉県内で最も古く、明治44年(1911)『初雁幼稚園』と改称されました。
 一方の横山錦柵は、アメリカへの留学経験があるという事ですが、調べてみるとH.A.アイオンの論文「十字架の喜びと苦難」の中で、横山錦柵は帰国直後に病気になり、日本聖公会伝道団を離れたと記しています。
 さらに、明治23年発行の埼玉県第3選挙区国会議員選挙論「附・ロック設置主意書」なる文書があり、「横山錦柵、埼玉県北葛飾郡堤郷村112番地生まれ、東京両国米澤町在住」と書いてあります。(国会図書館所蔵)
 この横山錦柵が川越キリスト教会創設者と同一人物であるか定かではありませんが、中川にロック式水門(閘門)をかけるよう提案しています。
先見の明があり、実現していれば、現在ある荒川ロックゲートの先駆けとなった事でしょう。 ※詳しくはコチラ⇒【近代デジタルライブラリー
 ※横山家の子孫の方から、同一人物との情報を頂きました。詳しくは下記のコメント欄をご覧下さい。

【2013年5月 訪問】


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2013.
09.09
Mon
所在地 : 新潟県 上越市 中央3丁目7-31
建築年 : 明治後期、  大正7年頃に移築・増築
構  造 : 土蔵造り+煉瓦造
設計施工 : 不 明
見  学 : 三八朝市開催日の土日祝日(4月末~11月始め)9時~13時のみ公開   無料
交  通 : えちごトキめき鉄道・直江津駅~徒歩約15分
駐車場 : 海沿いにある船見公園駐車場(無料)
T E L : 025-526-6903(上越市文化振興課)  ※詳しくはコチラ⇒【上越市
直江津銀行
 この建物は直江津銀行として建設され、倉庫業『高橋回漕店』の事務所として利用されました。
直江津銀行は、明治28年9月に『直江津積塵(せきじん)銀行』として、笠原恵・弟の片田初造ら発起人により資本金10万円で発足。
明治32年頃に普通銀行となり『直江津銀行』へと改称しますが、明治末期には全国的な不況で経営が悪化し、大正2年に取付け騒ぎへと発展。 大正4年(1915)6月14日に解散となりました。
 この建物は、直江津234番地(現・直江津郵便局の隣り)に建てられたもので、資料では明治25~27年とありますが、本店は明治39年(1906)頃の大火で焼失したとの記録もあるそうで、実際の建築年は不明となっております。
そして、銀行が解散した後の建物と備品は、倉庫業を営む高橋達太に買収され、大正7年頃に現在地に曳き家され、隣に2階建ての事務所も新設しています。
当初の外壁は漆喰仕上げでしたが、近年になってタイルやサイディングが貼られました。
 この会社は昭和17年(1942)に閉店し、合資会社高達回漕店となっていましたが、平成13年(2001)に清算し、業務は高達倉庫(有)と直江津海陸運送㈱に引き継がれたようです。
そして建物は、平成21年に所有者から上越市へと寄贈され、一般公開となりました。
直江津銀行・ライオン像
高橋達太の依頼により三越本店のライオン像を真似て、柏崎に住む彫刻家・小川由廣が2千円で制作
直江津銀行・扉
左: 表口は鉄扉で防火と防犯を兼ねる
右: 裏口は土蔵造りの扉
直江津銀行・室内2
館内の様子
直江津銀行・室内
奥には電話BOX 
床に斜めに残る形跡はカウンターの跡で、ストーブの横にカウンターの天板が
直江津銀行・扇風機
天井にはドイツ製の扇風機
直江津銀行・金庫
直江津銀行の金庫:扉を開けるとさらに鉄扉があり、その扉を開けると桐箪笥がある
直江津銀行・看板
金庫の横に大理石の直江津銀行の看板が 
直江津銀行・時計
高橋回漕店のTマークの付いた時計
高達回漕店・マーク
Tマークの付いた洋服掛けと鬼瓦
高達回漕店2
左: 高橋回漕店が増築した煉瓦造の建物
右: 室内に残る金具。窓の防火シャッターのハンドルと思われる
   海沿いのため、塩害でシャッターは錆びてしまったのだろう
※防火シャッターについてはコチラを参照⇒【旧横浜正金銀行本店
高達回漕店
室内には、当時のロールカーテンが残る


 直江津銀行を創設した笠原恵は、中頚城郡田村新田(現・大潟区)の大庄屋の養子となり、慶應義塾で福沢諭吉に学んでおり、帰郷後の笠原に宛てた福沢諭吉の明治11年の手紙が新潟県立文書館に所蔵されています。
その後、笠原は再び上京したようで、明治13年(1880)福沢門下生の朝吹英二・西脇悌二郎らとともに貿易商会の元締役に就任。 同年、横浜に早矢仕有的と共同経営で丸善内外介商店を創業し、生糸と茶を外国に輸出しました。
翌年に横浜丸善為換店が設立され、笠原は幹事取締役に就任します。
 しかし、丸善為換店は明治16年(1883)に丸家銀行と合併したあと経営破綻。 笠原は生糸と茶を外国に輸出する「笠原組」として独立し、その後は衆議院議員となりました。

 高橋回漕店の高橋達太は、慶応3年(1867)に中島村(現・板倉区)で生まれ、村の総代として諸事に携わり、橋を私費で建設したと云われています。
 明治32年(1899)高橋回漕店を創業。 保倉川沿岸に倉庫を構え、鉄道の引込み線路を設置し、石炭の荷揚げと貯蔵を担っていました。 大正12年(1923)県会議員に当選したあと、私費で直江津農商学校にグラウンドを建設。
昭和9年(1934)4月27日に永眠しました。


 直江津は上杉謙信の春日山城にほど近く、越後国府『直江の津』と呼ばれ、港町として発展。
漁港としての機能の他、特産品の米や青苧の出荷、近隣で採れた塩・銑鉄類を入荷したようです。 今でも近郊の浜辺では、磁石を近づけると多くの砂鉄が取れます。
上杉謙信の政庁御館があったため、『府中/府内』とも呼ばれていましたが、福島城・高田城の完成と共に、いつしか『今町(いままち)』と呼ばれるようになりました。
近くを流れる荒川(現・関川)には、「安寿と厨子王」に出てくる応化の橋があり、上杉家が通行税を徴収していましたが、松平家はこの橋を壊し、高田城下へ通行させるために稲田橋を建設しました。
 昔の町内は火災が多く、寺社は土蔵造りとし、裕福な商人の家では蔵座敷が造られていましたが、庶民の家は丸石を乗せた木羽板葺き屋根のため、さらに海風も重なって、あっという間に燃え広がってしまったようです。
そのため、明治40年(1907)警察署長が「屋上制限令」を発布し、瓦かトタン屋根に強制的に改修させました。 その甲斐あって、延焼は極端に少なくなったといいます。
この地は、明治11年(1878)『直江津』と正式名称が決まり、町の統合で『直江津町』⇒『直江津市』に。 現在は『上越市』になっています。
 明治19年(1886)になると国鉄・信越本線が開通して直江津駅が開業。 上野~長野への大量輸送も可能となり、さらに北陸本線の始発駅として富山・金沢へ開通。
工業都市へと発展しましたが、政庁が新潟市へ移り、上越という名の付いた新幹線が何故か通らなかった為に、知名度が低くなったようです。
さらに、北陸新幹線が開通してJRも廃線(私鉄へ移行)となって心配ですが、今後は歴史と文化財を活かし、高田と共に観光地として発展されるよう陰ながら応援しております。

 旧直江津銀行の建物は、「三八の市」に合わせて公開(土日祝日のみ)されるため、7時~12時頃まで朝市で地元の野菜や特産品が購入できます。
また「ライオン像の建物をまちづくりに活かす会」による直江津ツアー(予約制)も開催され、近くには上越市立水族博物館もあります。

参考:直江津港・湊町の歴史(新潟県)
   直江津の土蔵造建物、旧直江津銀行とライオン像について(上越市)
   石炭王・高橋達太の誕生(高達倉庫文書)
   丸善100年史「貿易商会の設立」より

【2013年8月 訪問】


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