2014.
03.28
Fri
 2014年3月14日~5月7日まで、通常非公開の浅草寺 伝法院庭園が公開中です。
寄進された大絵馬も一見の価値あり。
平日か、土曜日の午前中の見学をお勧めします。

伝法院2

  ※2013年 公開の様子はコチラ⇒【浅草寺伝法院
  ※イベントのお知らせはコチラ⇒【浅草寺


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2014.
03.27
Thu
所在地: 東京都新宿区中井2-19-6
建築年: 昭和6年(1931)
構 造: 木造、一部2階建て   (国登録有形文化財)
設 計: 図面には記載はないが吉武東里と云われる
交 通: 西武新宿線・中井駅 or 都営大江戸線・落合南長崎駅~徒歩10分
見 学: 個人宅のため、非公開。

島津一郎
 2012年10月28日(日)東京文化財ウィークにより、1日だけ特別公開された、旧島津一郎アトリエへ訪問しました。
 島津一郎は、島津源吉の長男として生まれ、東京美術学校を卒業。 画家を志しますが、家業を継ぐため断念。 島津製作所に入社し、のちに専務となっています。
 島津製作所は初代・島津源蔵が急遽した後、長男の梅次郎が2代目・島津源蔵を襲名。 次男・源吉は東京を拠点に、三男・常三郎が京都にと、兄(2代目・源蔵)をサポートしていたようです。
 2代目・島津源蔵の長男、島津良蔵(1901-1970)も、東京美術学校で芸術を学んでいます。 その後、大正14年(1925)島津製作所に入社しますが、芸術を諦めずに島津マネキンでビジネスとして成功しています。 つまり、一郎と良蔵は従兄弟であり、先輩後輩でもあったのです。
理化学機器の実業家として活躍した島津兄弟の息子達が、共に芸術家を志していたとは不思議なものです。 ※京都木屋町の島津製作所についてはコチラ⇒【島津製作所 旧本店
 下落合には島津家の所有地(1万坪)があり、島津源吉は、大熊喜邦と吉武東里に本邸の設計を依頼し、大正11年に洋館が完成します。
さらに、画家・刑部人と結婚した娘・鈴子のために、吉武東里に設計を依頼し、昭和6年にアトリエが完成。  翌年、画家であった長男・一郎のためにもアトリエを建てますが、戦時中に島津家は京都へ移転し、敷地は分割され建物も売却されてしまいます。
その後、建物を購入した所有者が代替わりし、刑部人のアトリエは平成18年に取り壊され、処分されてしまいました。
 しかし、島津一郎のアトリエだけは所有者が変わっても大事に維持され、大幅な改修もなく良い状態で残っています。 現在の所有者は、出来れば通年公開したいと話しており、いずれ一般公開される日が来るかもしれません。
近くにあった金山平三アトリエは、残念ながら解体されてしまいましたが、この様な所有者がいる事が救いとなります。
都会の中心にありながら、落合の文化として後世に残っていく事は奇跡かもしれません。
※落合周辺や島津家についてはコチラが参考になります⇒【落合道人
島津一郎-玄関
左:玄関表。ドアノブが新しい物に交換されている。  右:玄関内側。
島津一郎-トイレ
左:玄関ホールにある洋服掛けコーナーは、当初は電話BOXであった。
右:手洗所と奥にはトイレ。
島津一郎-応接室
応接室の板壁は、手斧(ちょうな)仕上げとなっている。
島津一郎-ドア
応接室の扉も、玄関扉と同様に重厚な蝶番が取り付けられている。
島津一郎-ベランダ
 ベランダは現在フローリングとなっているが、当初は石貼りの外部空間であった。
左:応接室の扉は外開き  右:アトリエ側はガラス戸と雨戸の二重仕様
島津一郎アトリエ
 アトリエの南面。先程のベランダがあり、庭を見渡せるようになっている。
2階に小さな部屋が付いており、南の採光はカーテンによって遮断することも可能。
島津一郎アトリエ1
アトリエ北面に大きな窓を設け、曇りガラスで光を拡散し、モデルに強い影が出ないよう工夫。
島津一郎-書斎
アトリエの隣にある書斎。
左:2階の小部屋への階段。   右:戸棚の脇の扉は、浴室へと続いていた。
島津一郎-照明
【照明】  左上:玄関ホール  右上:手洗所  左下:トイレ 右下:アトリエ 
島津一郎-庭
庭は、後の所有者によって改修され、小さな小川が流れている。
現在の所有者は山野草の鉢植えを育てる風流人で、この庭も一見自然に見えながら、手入れが行き届いている。
島津一郎-彫刻室
隣にある離れの彫刻室も当時の建物。
島津一郎アトリエ・2階
2012年の見学会では公開されなかった2階。
2014年に再訪した時に、ご主人の許可を得て2階を拝見。

 この住宅を設計したと云われる吉武東里(よしたけとうり)は、明治19年(1886)12月6日に大分県国東の庄屋の家に生まれます。
そして、京都高等工藝学校(現・京都工芸繊維大学)図案科で武田五一に学び、明治40年(1907)卒業。 宮内省内匠寮の技師となります。
 その後、大正7年(1918)国会議事堂建設のコンペにグループ作品として応募し、1等と3等を受賞。 吉武東里は大蔵省臨時議院建築局技師となり、国会議事堂の意匠設計に携わります。
それは、様々な方面からの命令や要望により、当初の基本設計とは違っていく、やり切れなさがあった事でしょう。
 しかし、国会議事堂は大正9年(1920)着工したものの、関東大震災が発生しストップ。 関東が壊滅状態になってしまいましたが、日本の未来を議論する国会議事堂は、まさしく東京復興のシンボルでもありました。 工事が再開し、吉武東里の手を離れましたが、大蔵省の技師として横浜税関本関(1934)も担当したと云われています。
 実は大蔵省技師の他に、吉武東里は個人の活動として複数の住宅も手がけていました。
まずは、大正10年(1921)に上落合に自邸を建て、住居兼仕事場としています。 そして、下落合周辺の刑部人や島津一郎のアトリエ、故郷の大分県国東市国見町にある重光家住宅(1932)の設計も手掛けました。
 昭和11年(1936)に国会議事堂が竣工し、残務処理をした吉武東里は、翌年に大蔵省を退任。 息子(故)吉武泰水氏によると、その日は短髪にし髭を剃って帰宅したといいます。
 その後、再び大蔵省建築部の大熊喜邦より、万国博覧会場の設計を依頼されますが、戦争により万博が中止に。 戦争により仕事も激減、終戦間近の昭和20年(1945)4月30日に亡くなりました。

【2012年10月,2014年3月 訪問】

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2014.
03.16
Sun
所在地 :青森県 弘前市 大字 下白銀町2-1 大手門広場内
建築年 :明治39年(1906)、 平成2年に復元
構 造 :木造3階建て
設計施工:堀江 佐吉
見 学 :9:00~17:00、 無料
休 館 :年末年始
交 通 :JR弘前駅前バス乗り場~市役所前バス停~徒歩1分
TEL :0172-82-1642(弘前市教育委員会)

旧弘前市立図書館
 日露戦勝記念として齋藤主や堀江佐吉らが資金を提供し、明治39年(1906)堀江佐吉の設計施工により東奥義塾の敷地内に建てたもので、昭和6年(1931)まで図書館として利用。 大道寺繁禎(第五十九国立銀行の初代頭取)も2代目館長に就任しています。
その後、図書館が移転する事になり、堀江家の子孫に払い下げられ、富野町に移築してアパートや喫茶店に利用されました。
弘前市の所有となった後、大手門前の校舎跡地に市制100周年を記念して平成2年(1990)旧東奥義塾外人教師館と共に現在地に復元されました。
 ※詳しくはコチラ⇒【旧東奥義塾外人教師館
旧弘前市立図書館・裏面
建物の裏面
旧弘前市立図書館・換気口
床下換気口
旧弘前市立図書館・玄関
左:玄関                       右:玄関ホール
旧弘前市立図書館・その他
左:2階から3階に上る階段(3階は非公開)  右:1階 受付・事務室
旧弘前市立図書館・1F館長室・婦人閲覧室
左:1階 館長室                   右:1階 婦人閲覧室
旧弘前市立図書館・2F閲覧室
2階 閲覧室(現在は展示室)
旧弘前市立図書館・明治38年
明治38年頃の様子 (展示パネルより)
旧弘前市立図書館・明治39年
明治39年5月29日の開館式の様子 (展示パネルより)
表の道に並べてある石材は以前あった塀の基壇か? 私立弘前図書館の写真にも同じ様な石材が見られる。 右手奥には東奥義塾の校舎と思われる建物が見える。 
私立弘前図書館
私立弘前図書館:明治30年代の写真 (展示パネルより)
本町1番地(現・東北電力弘前営業所の付近)にあったという。 弘前教育会により創設され、蔵書は市立図書館に移管された。
旧弘前市立図書館・側面

 施主の齋藤主(さいとうつかさ)は西目屋村に不識塔(ふしきのとう1912)を建設した人物です。 不識塔の図案は太田正五郎、製図は花田林蔵で弘前に在住していました。
齋藤主は弘前藩士の長男『徳太郎』として万延元年(1860)に生まれ、書家を目指して東京へ上京しますが巡査となり、函館で英語と測量・天文学を学んで、青森・香川・兵庫の県庁土木課に勤務。 民間の日本土木会社(現・大成建設)でも測量を担当しています。
 そして、明治28年(1895)弘前第八師団兵舎新築工事の主任となった事で弘前に戻り、矢立峠トンネル工事も担当。 その後に独立して駅舎工事などを請け負い、明治37年(1904)に弘前第八師団の病院や厩舎などの建築工事の元請けとなり、堀江佐吉らと共に工事を完成させます。 その請負のお礼と日露戦争の戦勝記念を兼ねて、堀江らと共にこの図書館を寄付しました。
 しかし、裾野村・西目屋村の凶作を救う為、明治36年から多額の私財を投資した開墾が頓挫。 川原平の所有地に米沢から広泰寺を移転させ、明治44年(1911)煉瓦造の本堂を新築し、修業を経て住職となっています。
翌年には塔を建設して、上杉謙信の庵号から「不識塔」と名付けましたが、住民からは「つかさの塔」と呼ばれるようになりました。
 大正8年(1919/12/23)闘病先の東京で亡くなり、その遺体は保存処理をして不識塔の基底部に埋葬されましたが、昭和55年(1980)に火葬され真教寺に埋葬されています。
 この不識塔は、地上20,8m、地下4,85mで宝珠の形をしており、誠に不思議な煉瓦造の塔ですが、長年の風雪により煉瓦の一部が損傷、平成9年(1997)に西目屋村に移管されて応急補修工事が施されました。 現在は鉄の櫓に囲まれて全貌を見る事も、許可がなければ櫓を昇る事も出来ません。
いつか、見た目を損なわずに不識塔を支える工法が開発され、一体化された櫓が取り外されて、山の中にそびえ立つ日が訪れる事を期待しております。
私にとっては足腰の丈夫なうちに、いつかは訪れたい場所の一つとなっています。

◎参考文献 「西目屋村を伝えよう・人物誌 :笹谷柾四郎 著」 ※詳しくはコチラ⇒(広報にしめや 2008.7~2011.3

【2013年7月 訪問】



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2014.
03.02
Sun
所在地: 青森県 弘前市 大字 下白銀町2-1
建築年:明治33年(1900)、昭和63年に修復、平成2年復原
構 造 :木造2階建て
設計等:不 明
見 学 :9:00~18:00、 無料
休 館 :年末年始
交 通 :JR弘前駅前バス乗り場~市役所前バス停~徒歩1分
T EL :0172-37-5501(弘前市立観光館)

旧東奥義塾外人教師館
 旧 第五十九銀行本店(※詳しくはコチラ⇒ 旧第五十九銀行本店)近くにあるこの建物は、明治33年に建てられた宣教師館です。
実施設計・施工は本間俊平とも、堀江佐吉とも云われています。 明治48年まで外人教師の住居として、以降は聖書教室などに使用されました。
旧東奥義塾外人教師館・2F寝室
2階 寝室は現在、展示室となっている
旧東奥義塾外人教師館・2F主寝室と子供部屋
左:2階 主寝室の出窓とベンチ
右:2階 子供部屋 (家具・照明・カーテン・壁紙は再現品)
旧東奥義塾外人教師館・2F書斎
左:2階 書斎 (家具・照明・カーテン・壁紙は再現品)
右:書斎の納戸
旧東奥義塾外人教師館・2Fサンルーム
左:2階の物干し場は、晴天時に引き戸を開けて外にも干せるスペースがあった。 外壁にはベランダの床梁と手摺のホゾ穴と竿受け材の痕跡が残っている。
右:書斎の隣にあるサンルーム
旧東奥義塾外人教師館・浴室1
1階の浴室:置き型のバスタブを設置していたようだ
旧東奥義塾外人教師館・便所
1階のトイレ:当時の便器などは現存していない
旧東奥義塾外人教師館・玄関
玄関:1階には喫茶室がある
 『 salon de café Ange 』 OPEN 10:00~17:00 (TEL : 0172-35-7430)
旧東奥義塾外人教師館・南
 明治5年8月、学制(文部省布達第13号)公布により、旧弘前藩校・稽古館(寛政8年創立)の流れを汲む弘前漢英学校(明治5年5月創立)を廃止し、12代弘前藩主・津軽承昭の援助によって、福沢諭吉の門下生・菊池九郎らが明治6年(1873)に私立学校・東奥義塾として下白銀町(弘前城大手門前)に開校。
稽古館出身の本多庸一(のちの青山学院長)も弘前に戻って塾長となり、外国人宣教師を招聘。 初代・英語教師はウォルフ夫妻が担当します。
 ジョン・イングは明治7年(1874)3代目英語教師として赴任。 軍人の経歴もある牧師で、弘前に西洋野菜やリンゴの苗を持込み、弘前公会(現・日本基督教団弘前教会)も設立しています。 ※弘前公会と本多庸一についてはコチラ⇒ 【日本基督教団弘前教会
 しかし、明治18年・22年と立て続けに校舎などが焼失し、メソジスト派本部からの資金により、堀江佐吉の設計施工で2度再建しています。(その建物は昭和6年に建替え)
外人教師館(1890築)も明治32年に出火し、アレキサンダー夫人が焼死するという事態になりましたが、翌年に現在の建物が再建されました。
 そして東奥義塾は保守派との対立で教会の援助が途切れ、公立学校として明治34年(1901)に弘前市立弘前中学校東奥義塾、明治43年(1910)青森県立弘前中学校東奥義塾になりましたが、同年に県立工業学校が校舎内に設置され、大正2年(1913)廃校。
その後、大正11年に米国メソジスト教会の支援により校舎を取り戻し、東奥義塾高等学校(学校法人 東奥義塾)となりました。
 昭和62年(1987)東奥義塾は石川長者森へ移転し、この建物は弘前市に寄贈され、大手門前の校舎跡地に市制100周年を記念して平成2年(1990)旧弘前市立図書館と共に現在地に復原されました。

※その他に弘前に残る外国人教師館は ⇒  【旧制弘前高校】 【弘前学院
 また秋田には、【日新館】という興味深い建物も現存しています。


【2013年7月 訪問】


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