2014.
04.27
Sun
所在地 :青森県 弘前市 大字 上白銀町8-1
見 学 :9:00~17:00 (入園は16:30まで)
開園日 :4月中旬~11月23日 (開園中は無休)
交 通 :JR弘前駅前バス乗り場~市役所前公園入口バス停など~徒歩5分位
TEL :0172-37-5525
    ※詳しくはコチラ⇒【藤田記念庭園
旧 藤田謙一別邸
 弘前公園の近くにあるこの屋敷は、大正10年(1921)に藤田謙一の別邸として完成。
洋館の施工は堀江彦三郎が請け負い、設計は堀江金造が担当しております。
堀江佐吉の長男である彦三郎は、旧弘前偕行社・旧第八師団長官舎を、6男の金造は佐瀧本店・別邸を手掛けております。
旧藤田謙一別邸・南面
 大東亜戦争後にこの屋敷は、明治法律学校の後輩である弘前無尽㈱ (現・みちのく銀行)の社長・唐牛敏世に譲渡され、接待用の倶楽部として利用。 昭和62年(1987)弘前市が買収し、市制100周年記念事業の一環で、平成3年(1991)7月に『藤田記念庭園』として開園しました。
高低差のある6600坪の敷地には、高台に正門・洋館・和館・倉庫などがあり、低地にある回遊式日本庭園には、新たに茶室 『松風亭』が建設されました。
 現在、洋館の1階ホールは無料音楽会の会場として、洋館2階と松風亭は会合などに有料で貸出されております。 また、洋館のサンルームは喫茶室として利用され、アップルパイ等が人気のようです。
枯木平の開拓事業事務所倉庫であった煉瓦造の蔵(1921.地上2F+地下1F)も『考古館』として、弘前市内で発掘された土器などが展示されています。 さらに、和館の横には見事な枝垂れ桜があり、低地には梅や菖蒲などが植えられ、季節が良ければ花も楽しめるでしょう。
旧藤田謙一別邸・庭園
日本庭園
旧 藤田謙一別邸・サロン
洋館1階の大広間
旧 藤田謙一別邸・
大広間の暖炉のあるコーナー
旧藤田謙一別邸・サロン暖炉
大広間 :大理石の暖炉。  この渦巻き模様は館内のあちこちに出てくる。
旧藤田謙一別邸・漆喰彫刻
大広間のドア上の漆喰彫刻
旧藤田謙一別邸・ステンドグラス
左:玄関                    右:大広間の暖炉脇
旧藤田謙一別邸・サンルーム
サンルームにある喫茶室で休憩もできる。
旧藤田謙一別邸・サンルーム仕上げ
サンルームは、人造石研ぎ出しとタイル仕上げ
旧 藤田謙一別邸・応接室暖炉
玄関脇にある応接室は、現在は展示室となっている。
旧 藤田謙一別邸・応接室
応接室の照明は当時の物。
旧藤田謙一別邸・結霜ガラス
 応接室の窓には、大正~昭和初期に流行した「結霜ガラス」が残る。
ニカワの収縮で霜の様な模様を付けたガラス。 レースカーテンの様な目隠し効果がある。
旧藤田謙一別邸・玄関ホール
玄関ホール
旧藤田謙一別邸・玄関ホール暖炉
玄関ホールの暖炉と、その壁の漆喰彫刻。 館内はアールデコ調となっている。
旧藤田謙一別邸・階段手摺
2階の階段手摺 (2階の貸室利用客のみ立ち入り可)
旧藤田謙一別邸・2階
通常は公開されていない2階の部屋。 第1会議室として有料貸出しされている。
旧藤田謙一別邸・第1会議室暖炉
左: 第1会議室の暖炉は、とてもシンプル。
右: 2階廊下にある小さな扉の用途は? 
   しかし、むやみに開けてはいけない。壊れてしまう可能性もある。
   「閉まっている所を開けたくなる」心理か、何もない押入れ等を開けまくる見学者がおり、
   手垢や傷が付くので、困っている施設も多いだろう。
   はたしてその対策とは …… ⇒〔 開けておく 〕という実に単純な方法。
   これだけで、多くの見学者はその場を素通りしてしまう。
旧藤田謙一別邸・展望室
今回は特別に許可を取り、展望室を拝見させて頂いた。 (非公開区域)
旧藤田謙一別邸・展望室の眺め
展望室からの眺め
旧菊池邸
 和館は昭和27年に失火により全焼。
この建物は、昭和36年に北津軽郡板柳町の菊池邸(1923)を移築したもの。
菊池邸とは、実業家でロシア文学者の菊池仁康に関係あるか?
旧菊池邸・床の間
格天井のある広間
旧菊池邸・床の間2
他にも大名屋敷の様に立派な座敷がある。
旧菊池邸・広縁と水屋
広縁:見事な床板は屋久杉。            水屋は奇抜な意匠
旧菊池邸・戸
左: 広縁の引き戸の彫刻
右: 引き戸の横にある、雨戸の戸袋扉も凝っている。
旧藤田謙一別邸・正門
冠木門と両袖番屋(1922)、煉瓦倉庫(1921)


 藤田謙一は、明治6年(1873)旧藩士・明石家の次男として弘前で生まれ、5歳で親戚の藤田家の養子となります。
明治法律学校(現・明治大学)卒業後は、栃木県職員を経て大蔵省専売局に入省。
 その後、岩谷商会(天狗煙草)に入社した事で、その会社経営に関する手腕が知れ渡り、台湾塩業・帝国火災保険・日本活動写真・箱根土地の取締役社長の他、太陽生命保険・東洋製糖・斗六製糖・後藤毛織・東亜煙草・千代田ゴム等の経営に参加しています。
 また、昭和3年(1928)には日本商工会議所初代会頭、貴族院議員となっています。
そして、国際労働会議の日本使用者代表に選出されたのを機に、欧州へ120日間の視察旅行をし、自著「訪欧余録」を昭和4年に出版。
昭和10年(1935)判決の『売勲事件』で貴族院を除名されて隠居した後、昭和21年(1946)に他界しました。


 岩木山の北麓や東麓は、縄文時代の遺跡が発見されるほど古くから人が住んでおりました。 弘前藩は西南にある枯木平も開墾しますが、放牧地や薪取・製炭場になる程度。
 明治15年から農牧社(大道寺繁禎と笹森儀助が設立)が、再び開墾しますが結果は同様であり、大正8年に放牧地(岩木村常盤野)約800町歩を藤田氏が買い取り、水田87.67町歩・畑185.74町歩に開墾し、残りは製炭用としました。 他県からの移住は30戸120人、家屋や馬の提供、トラクターを導入し、米・大豆・小豆・燕麦・ジャガイモを栽培しましたが、やはり収穫量は多くなかったようです。 その後、枯木平は東奥義塾に寄贈されたとの事。
 齋藤 主も近くにある川原平の開墾を志しており、山の開拓は弘前の人にとっては夢であったのでしょう。 枯木平周辺は作物の収穫はできなかったものの、登山口や温泉があり、現在は8合目まで津軽岩木スカイラインが開通し、岩木山の登山拠点となっております。

【参考文献】
 「事業乃人物(遠間平一郎 著)」 大正4年発行・中央評論社 
 「開墾地経営ニ関スル調査・第1輯」 大正14年発行・農林省農務局
 「〈論説〉岩木山麓の開発と集落」著:横山弘 (1965年)弘前大学レポジトリ

【2013年7月 訪問】


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2014.
04.17
Thu
松濤美術館
 以前ご紹介した「松濤美術館」   ※詳しくはコチラ⇒【記事
しばらく休館していましたが、トイレや空調などのリニューアル工事を終了し、このたび記念特別展を開催しております。
 特別展「ねこ・猫・ネコ」では、古代エジプトのブロンズ像から絵画や彫刻など、様々な『猫』の作品が全国から集められ、前期と後期に分かれて展示されております。
 私の一番のお勧めは、劉奎齢(りゅうけいれい)の「斑猫」。 墨で描かれた猫の毛並みに見入ってしまいました。 これは個人蔵なので普段は見る事は出来ないのでは。
 その他にも、原在正の「眠猫図」(大阪市立美術館 蔵)や、柴田是眞の「猫 鼠を覗う図」(板橋区立美術館 蔵)が、気になりました。 あなたも気になる猫の作品を見つけてみては?
ちなみに、飼っている猫の写真(L判サイズ以下)を持参すると入館料が割引に!
ネコ割

※今回から、企画展ごとに料金が変更します。
「ねこ・猫・ネコ」展… 一般1,000円(学生・団体・障害者の割引有り)
前期:2,014年4月5日(土)~4月28日(月)、  後期:4月29日(火)~5月18日(日)
時間:10:00~18:00(金曜日は19:00まで) 閉館30分前までに入館する事
休館日:4/7,4/14,4/21,5/7,5/12 
 ※詳しくはコチラ⇒【渋谷区立松濤美術館

【2014年4月 訪問】


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2014.
04.17
Thu
建築年:昭和55年(1980) 
所在地:東京都渋谷区松濤2-14-14  TEL:03-3465-9421 
構 造:鉄筋コンクリート造 地上2階・地下2階建て
設 計:白井晟一研究所
見 学:10:00~18:00(金曜日19:00まで) 閉館30分前までに入館する事 
休 館:展示替え・年末年始・企画展による
料 金:企画展により変更
交 通:渋谷駅~徒歩15分 or 京王井の頭線・神泉駅~徒歩5分 >】

    ※詳しくはコチラ⇒【渋谷区立松濤美術館
松濤美術館
 渋谷駅から東急本店方向へ向かい、その裏手にある街が『松濤』です。
この地域は渋谷の高級住宅街で、若者で溢れた駅前とは違い、閑静な地域となっています。
しかし、最近になって表通りが拡張され、この地域も変わりつつあるようです。
 その表通りから少し入った所にある、『渋谷区立松濤美術館』は、企画展の内容も良い美術館です。
建物の良さと企画展に関しては、「東京の美術館TOP5」に入るのではないかと、個人的に思っております。
松濤美術館・玄関
 建物の正面は、まるで要塞の入口の様に、重厚な造りとなっています。
玄関を入っても天井は低く、決して広いとは言えない空間です。
 しかし、その天井は光天井となっており、奥のガラス戸から僅かな自然光が差し込んできます。
建物の中心は池となり、空まで吹き抜けています。 そして楕円型の陳列室やホールなどが配置され、池の上には橋が架かり、異空間を体感出来るでしょう。
 まずは荷物をコインロッカーに預け、身軽になって見学開始。 地階へ下ったら、中心にある池を覗いてみましょう。高さが変わる度に光の差し込む量が変わり、それぞれのフロアーの印象が違います。
 そして陳列室へ1歩入ると空間は広がってゆるいカーブを描き、吹抜けとなった展示室で、作品をゆったりと鑑賞できます。
 また、2階の陳列室にはソファがあり、座っての鑑賞も可能。 最後に橋を渡れば、内と外の繋がりを実感できます。
松濤美術館・掲示板
表にある掲示場。 ガラス廻りの雨仕舞いのデザインが絶妙。
花崗岩(紅雲石、韓国産)を外壁に使用している。
松濤美術館・井戸
掲示場の後ろには井戸の様なものが。 覗いてみると地下の明り取りとなっていた。
松濤美術館・水飲み場
右手には搬入用の駐車スペースと、水飲み場が。
松濤美術館・天井
受付前の光天井は、薄く切った瑪瑙(=オニックス)をガラスで覆ったもの。
松濤美術館・階段
 この美術館を建設するにあたり、住民の為の美術教育施設も兼ねた600坪、建物の高さは10mまで、敷地は狭く、隣家のプライバシーも守らなくてはいけないという、厳しい条件がありました。
 昭和53年(1978)4月に、渋谷区は白井晟一に依頼し、12月から着工。1年半の工期をかけて竣工し、昭和56年(1981)美術館がオープンしました。
 設計者の白井 晟一は、明治38年(1905)に銅板屋・白井七蔵の長男として京都に生まれ、12歳で父が亡くなり、義兄であり画家の近藤浩一路に引き取られ、成長します。
 昭和3年(1928)京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)を卒業後、ドイツへ留学。
ベルリン大学で哲学を専攻、のちにハイデルベルグ大学(美学専攻)を卒業します。
 昭和8年(1933)帰国し、義兄・近藤浩一路の家や歓帰荘を設計。晩年には松濤美術館の他、親和銀行 本支店・静岡市立 芹沢銈介美術館などを設計。 群馬の松井田町役場と善照寺本堂が高村光太郎賞に、その後は建築学会賞も受賞しています。  昭和58年(1983)に他界。
松濤美術館-中庭1
 こちらの美術館は、展示室を除いた空間は写真撮影可能(三脚・モデル撮影禁止)ですが、 念のためスタッフに「写真を撮らせて下さい。」と声をかけておきましょう。
                  ※詳しくはコチラ→【渋谷区立松濤美術館
松濤美術館-中庭2
 ここ松涛は、江戸時代は紀州徳川家の下屋敷や畑があった場所で『中渋谷村』と呼ばれ、明治になると下屋敷が鍋島直大侯爵(佐賀藩11代当主)の所有となりました。
 その鍋島直大(なおひろ)は、明治4年(1871)~明治11年(1878)までイギリス留学し、帰国後も外務省に勤務、明治13年(1880)からイタリアへ特命全権公使として2年間派遣されました。
 帰国後は、元老院議官・宮中顧問官・貴族院議員に就任。明治44年(1911)神職の養成・皇典講究所(現・國學院大學)の4代目所長となり、大正10年(1921)に亡くなっています。
 妻の鍋島榮子は、権大納言・広橋家の5女として生まれ、明治14年(1881)に、直大とローマで結婚。帰国後は鹿鳴館の華となり、日本赤十字社 篤志婦人会などの会長や役員を務めました。
四男三女をもうけ、次女・伊都子が梨本宮家に嫁いでいます。
 本邸は永田町にあったため、この地は茶園『松濤園』となり、日本茶を生産していました。
『松濤』とは、茶釜の湯が沸騰する音から由来するようです。
 しかし、輸送網が発達し、静岡茶が東京に出廻るようになり廃園。 明治37年(1904)に『鍋島農場』となっていましたが、大正時代に入ると敷地の一部が住宅地として分譲されました。
 永田町の本邸は、関東大震災により被害を受け、後に和館だけが啓明学園に移築され、現在も北泉寮として生徒に利用されています。
 そして鍋島農場は、大正13年(1924)湧水池の周辺が公園として開放されましたが、維持が出来なくなった鍋島家は東京市に寄贈し、昭和7年(1932)『鍋島松濤公園』として開園。
 その後、公園は渋谷区に移管され、現在に至っています。

【記:2013年1月, 修正:2014年4月】


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2014.
04.13
Sun
所在地 :青森県 弘前市 御幸町8-10
建築年 :明治40年(1907)11月、 現在は修復中
構 造 :木造平屋  (国の重要文化財)
設計施工:設計は陸軍臨時建築部、 施工は堀江佐吉・彦三郎
見 学 :平成29年秋まで保存修復工事のため閉館
交 通 :JR弘前駅~徒歩20分
TEL :0172-33-0588    ※詳しくはコチラ⇒【弘前厚生学院

旧弘前偕行社
 鷹狩場であったこの地に、9代 弘前藩主・津軽寧親により、文化12年(1815)別邸と大石武学流の庭園が造られました。
明治4年に弘前城に軍が配備され、のちに陸軍第八師団へと発展。この場所に偕行社が建設され、その翌年の明治41年(1908)、嘉仁親王(のちの大正天皇)がこの建物に1泊した際に、「遑止園」と命名され、記念植樹もなされました。 また、大正4年(1915)行幸の際にも行在所となっております。
 終戦により偕行社が解散したため、昭和20年(1945)から弘前女子厚生学院が使用。 昭和24年に敷地と建物が大蔵省より払い下げられ、昭和55年(1980)まで校舎・保育舎として利用されました。
 その後、『弘前女子厚生学院記念館』として保存される事になり、㈱堀江組が修復工事を請け負い、外壁の塗り替え・瓦の葺き替え・縁側屋根トップライト・室内の漆喰壁や腰板の修復が施されました。
旧弘前偕行社・南面
 弘前女子厚生学院の創設者は、鳴海康仲(鳴海病院長)です。
鳴海氏は、弘前市長らと共に女子医学専門学校の設立を申請しましたが、青森県に医専を誘致する話に発展し、昭和19年に青森市に医専が設置された為、この偕行社を弘前女子厚生学院として使用。 後に青森医専は弘前へ移転となり、現在の弘前大学医学部へと受け継がれています。
参考:「青森医専誕生と鳴海康仲先生 著:中路重之」 弘前大学医学部ウォーカー62号
※詳しくはコチラ⇒【弘前大学
旧弘前偕行社・玄関上1
第8師団の「八」をもじった蜂の飾りが、ペディメントの中にさり気なく見える。
旧弘前偕行社・車寄せと換気口
左:玄関ポーチの車寄せ
右:星は陸軍のマーク。戦勝記念で建設された旧弘前市立図書館にも似たような床下換気口の
  金物がある。 どちらも堀江佐吉が施工。 ※詳しくはコチラ⇒【旧弘前市立図書館
旧弘前偕行社・講堂
講堂は引き戸によって、2つの部屋に仕切られる。
修復前は、弘前女子厚生学院の行事や体育に使用されていた。
※文化財建造物保存技術協会の修復工事調査により、間仕切りは後設であることが判明。
旧弘前偕行社・講堂暖炉
講堂の暖炉と装飾タイル。 暖炉は2つあるが冬場は相当寒かったであろう。
手あぶり(立ち姿で使う小型火鉢)が館内に数か所あったと思われる。
旧弘前偕行社・廊下とホール敷居
左: 玄関側の廊下。 ずらりと並ぶコート掛け。左側の収納は雪靴用か?
右: 講堂内部の引き戸の敷居レール。 この-ネジは当時の物かは不明。
   +ネジは後から開発された物であり、古い建物や機械に-ネジが使われている場合は、
   ネジもむやみに交換しない方が良い。
旧弘前偕行社・舞台裏
講堂の舞台裏。 収納は後から設置された物で、その裏に舞台への扉がある。
旧弘前偕行社・撞球室
撞球(ビリヤード)室。 当時の将校には上流階級の者がおり、社交場となった。
旧弘前偕行社・司令官室
司令官室と天井の中心飾り
室内に飾られた写真は、弘前女子厚生学院の創設者:鳴海康仲
旧弘前偕行社・棟札
 棟札には、陸軍 臨時建築部の設計者の名が。
主任技手:櫛部宇一、 顧問技手:松村角太郎・寺田辰三、 工事請負人:堀江佐吉  
明治40年6月起工,11月竣工と記載されているが、竣工時に堀江佐吉はすでに亡くなっており、長男の彦三郎が跡を継いで完成に至ったと思われる。
旧弘前偕行社・応接室
応接室
旧弘前偕行社・灰皿と椅子
陸軍時代の灰皿と椅子
旧弘前偕行社・軒裏
 昭和後期に修復された外壁も、この様にペンキの剥離が激しく、このたび保存修復工事が実施される事になった。
旧弘前偕行社・窓枠
 窓の装飾は当初はウグイス色の漆喰であった。古写真もそれらしき色に写っている。
白いペンキを塗ったのはGHQか?
旧第8師団長官舎
 第8師団長官舎は、大正6年(1917)堀江佐吉の長男・彦三郎の設計により建設。
終戦後にGHQに接収された後、昭和26年(1951)払い下げられ、弘前市長公舎となった。
昭和34年に和館部分を解体して現在の位置に曳家され、近年に修復工事がなされた。
 通常非公開だが、年に数回 特別公開も行われている。(住所:弘前市白銀町1)
※新潟に現存する第13師団長官舎についてはコチラ⇒【旧師団長官舎

 偕行社とは、陸軍の将校や高等官の親睦団体で明治10年(1877)に始まり、平成13年から陸上自衛隊の元幹部の入会も認められています。
陸軍駐屯地の近くには、将校用の集会場(偕行社)が設けられ、宴会や会議、皇室の行在所としても利用されました。
 明治41年〔※2〕時点の偕行社は、東京では飯田橋・駒沢・袋村・上目黒・中野、千葉では佐倉・習志野・市川、北海道では札幌・旭川・函館、青森では青森・弘前、福井では鯖江・敦賀、京都では伏見・福地山・舞鶴、香川では丸亀・善通寺、福岡では福岡・小倉・久留米、長崎では鶏知・對馬・大村・佐世保・竹久保、新潟では新発田・村松、静岡では静岡・浜松、広島では忠海・広島、山口では下関・山口と、1県に数か所ある場合も。
 その他の県では、秋田、仙台、山形、金沢、高崎、豊橋、横須賀、名古屋、岐阜、大阪、和歌山深山、姫路、鳥取、高知、兵庫由良、松山、熊本、鹿児島、大津、島根濱田、岡山、樺太、羅北、羅中、羅南、基隆、澎湖島、旅順、遼陽と、規模の大小はあったようですが各地に点在していました。
 その偕行社で国内に現存するものは、旭川(1902-中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館)・金沢(1898-石川県庁石引分室)・香川善通寺(1896-偕行社カフェ)・京都伏見(1908-聖母女学院本館)・岡山(岡山総合グラウンドクラブハウス)となっています。
 第15師団偕行社(豊橋1909-2013愛知大学)は平成25年に解体されてしまいましたが、他の集会所(1908)や司令部などの建物は現存しているようです。
※第15師団偕行社の参考文献:「偕行社の建造物文化財調査・泉田英雄」愛知大学レポジトリ 

 さらに明治41年の資料〔※1〕によると、臨時建築部として、東京本部と、仙台・名古屋・京都・広島・小倉に支部、各県に出張所が設けられ、陸軍施設の工事を担当していた事も分かりました。
 ちなみに明治41年〔※1〕に陸軍師団司令部があった地域は、近衛(皇居)・第1(東京赤坂)・第2(仙台)・第3(名古屋)・第4(大阪)・第5(広島)・第6(熊本)・第7(北海道鷹栖)・第8(弘前)・第9(金沢)・第10(姫路)・第11(香川善通寺)・第12(小倉)・第13(新潟高田)・第14(宇都宮)・第15(豊橋)・第16(京都伏見)・第17(岡山)・第18(久留米)・樺太・清国・韓国となっております。

 弘前の陸軍第8師団は、印刷局発行の「職員録 明治41年」〔※2〕によると、師団長・参謀部・副官部・法官部があります。
昭和15年〔※3〕では、歩兵4・16旅団司令部、騎馬3旅団司令部、歩兵5・17・31・32部隊、騎馬8・23・24連隊、野砲8連隊、工8連隊、輜重8連隊となっています。 そして昭和19年(1944)第8師団は、フィリピンのレイテ島・ルソン島に派遣され、ほぼ全滅してしまったとの事。

 戦勝で活気あふれ、破滅の道へと進んだ日本軍ですが、一部の軍施設は残り、現在は平和的に利用され、その地域の人々に愛される建物になっています。 歴史から目をそらさず、過ちを繰り返さないためにも、戦争の記録として紹介しました。

旧弘前偕行社・ドーマ

※旧弘前偕行社は、平成29年秋まで保存修復工事が実施され、現在は見学はできません。

【参考文献】 
※1 「陸軍軍隊官衙學校所在地一覧」(明治41年8月調) 川流堂
※2 「職員録 明治41年」 印刷局
※3 「各師団各部隊入営鉄道運賃粁程早見表・金子英三 編」(昭和15年)十勝財務協会

【2013年7月 訪問】



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2014.
04.11
Fri
 2014年4月24日~4月29日まで、春の特別舞台体験が京都四条・南座で開催されます。
人気イベントなので前売券を購入した方が無難。
まれに当日券が出ますが、それは開始時間まで現地で待ち、
キャンセルが出た場合のみ発券という状態なので、
当日券は期待しない方がよいでしょう。

南座
2013年の南座

※2013年のイベントの様子はコチラ ⇒【南座
※今回のイベントのお知らせはコチラ ⇒【松竹

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