2014.
05.25
Sun
旧制弘前高校外人教師館
旧制弘前高校外人教師館1
 大正14年(1925)に完成したこの建物は、旧制弘前高等学校の外国人教師館です。 戦後は弘前大学の一般教官宿舎として利用された後、道路の拡幅工事に伴い解体されました。 卒業生の献金により平成16年(2004)移築復元され、現在は資料館として公開されています。
 竣工当初は富田町(現:富田3丁目)に2棟並んで建てられ、工費は合わせて11,680円。 外壁は1階が下見板張り・2階がスタッコ塗で、屋根は石綿盤と亜鉛メッキ鉄板葺き、靴履き用に室内の床はリノリウム敷きでした。
 学生の校舎は川元重次郎が元請け(棟梁:田中忠五郎)となり、大正12年に竣工。 弘前大学になってからも利用され、昭和40年代の新校舎建設にあたり解体されましたが、近年になって人文学部の中庭に井戸が復活しています。
川元重次郎の手掛けた他の建物には、青森県尋常中学校があります。
旧制弘前高校外人教師館・室内
復元された大理石風の漆喰仕上げの暖炉
旧制弘前高校外人教師館・パネル
旧制弘前高校の配置図  (展示パネルより)

 大正8年に高等学校令(勅令第389号)施行によって官立の他に公立・私立も高等学校として認可され、大正9年(1920)公立の弘前高等学校が設立されました。
この学校は高等科3年制で、解説板によると文甲(英)・文乙(独)・理甲(英)・理乙(独)の4クラスあり、大正10年~昭和20年まで招聘された外国人教師(英語:9名、独語:6名)の創設期の平均月収は425円との事。
校内には普通教室・化学室・物理室・博物室・講堂・図書室・学生寮・運動場・雨天体操場・剣道場・器械体操場・テニスコート・野外バスケコートの他、銃器室という時代ながらの部屋もあったようです。 そして若者達が戦争へと駆り出され、優秀な人材も露と消えていきました。
 終戦後の学制改革では、昭和24年(1949)青森師範学校・青森青年師範学校・青森医専・弘前医大と共に『弘前大学』に包括され、弘前高校は文理学部に継承されました。 その後、旧制弘前高校は昭和25年3月で閉校となり、最後の入学生は1年で修了します。
 なお、現在もある青森県立弘前高等学校は且つての尋常中学校でした。 その変移については旧 青森県尋常中学校の頁をご覧下さい。
旧制弘前高校外人教師館2
〔 旧制弘前高等学校外国人教師館 〕
所在地:青森県 弘前市 大字 文京町1
見 学:9:00~16:00 (年末年始の他、臨時休館有り) 無料
      非公開と記載されていますが、扉が開いている時は自由見学出来ます。
TEL:0172-39-3980        ※詳しくはコチラ⇒【弘前大学
     


太宰治まなびの家
 弘前大学から歩いて10分位の所に太宰治の下宿先が移築されており、近くには旧弘前偕行社(弘前女子厚生学院記念館)もあります。
この旧制弘前高校には太宰治(本名:津島修治)が昭和2年~5年まで文甲科(第1外国語:英語、第2外国語:ドイツ語)に在籍していました。
金木町の大地主・津島源右衛門の六男であった修治(太宰治)は病弱を理由に入寮せず、親戚の藤田家に下宿。 藤田豊三郎は酒造業を営む高嶋屋の分家で、妻が津島家の親戚でした。
 長男・藤田本太郎の手記※によると、修治は弘高1年の8月頃から義太夫に興味を抱いて稽古に行くようになり、10月には青森の花柳界に出入りし、紅子(小山初代)と知り合ったといいます。 そして、学費・下宿代として藤田家に送金された中からお金を引出し、毎週土曜日に青森市へ出掛けて1泊。
2年生になり同人誌を発行してから成績は下がる一方で、弟・礼治の急逝などもあり、3年目の12月に睡眠薬による自殺未遂を起こします。
 現在の部屋に、本太郎の日記(昭和2年)を表にしたものが展示されています。 それによると、合格発表(4/11月)の翌日には藤田家は下宿を頼まれ、木曜日に畳屋と障子張りが、土曜日に修治が来て、4/18月曜日には入学式と、慌ただしい様子が窺えます。
また、蛾を捕まえてくれと言った修治の手元に蛾が飛んで行き、彼が椅子から転げ落ちた等のエピソードも記載されています。
本太郎が撮影した写真にはポーズを撮る前の修治が写っており、親しみを感じる1枚となっています。
※参考文献  「弘高時代の修治さん」藤田本太郎(筑摩書房 1991 太宰治全集)
2F太宰の部屋
修治が居た2階の角部屋:手前の部屋には藤田家の長男・本太郎が居た
夏・冬休みに東京へ出掛けた修治が麻雀・チェス等のお土産をくれたという
2F太宰の部屋2
上:当時の文机と黒柿材の箪笥が現存
下:同人誌が山積みになっていたという押入れの長押には、修治が残した計算式の傷跡が
太宰治まなびの家1
2階角が修治の居た部屋
旧藤田家住宅は大正10年(1921)旧碇ヶ関村の村長宅を移築したと伝わる

〔太宰治まなびの家・旧藤田家住宅〕
所在地 :青森県 弘前市 大字 御幸町9-1
見 学 :10:00~16:00 (年末年始のみ休館) 無料
交 通 :JR弘前駅前~徒歩20分 (貸自転車お勧め)
TEL :0172-39-1134         ※詳しくはコチラ⇒【弘前市

【2013年7月 訪問】

 ※太宰治と山崎富栄が滞在した熱海の旅館についてはコチラ⇒ 【起雲閣


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2014.
05.18
Sun
弘前ねぷた作業
 鏡ヶ丘記念館(弘前高校)の見学を終え、貸自転車に乗って帰る途中、倉庫で何やら作業をしている人を発見。
それは、『ねぷた』を製作する作業場で、車なら見過ごしていたでしょう。
弘前ねぷた新寺町2013
 弘前ねぷたは扇型になっており、三国志や水滸伝などが絵師により描かれます。
弘前ねぷた2013 (新寺町ねぷた愛好会製作)
鏡絵:水滸伝「花和尚奮戦之図」, 見送り:「一丈青」,絵師:小野隆昌氏(高さ:7m 幅:6.4m)
弘前ねぷた構造
弘前ねぷたは町ごとに製作        内部は、現在は鉄骨構造となっています
昔のねぷたは蝋燭の明かりでしたが、現在は発電機+照明器具に、さらにナイロン入りの和紙が使用され、雨にも強くなっているようです。
弘前ねぷた・たか丸
前ねぷた(小型ねぷた)に乗っていた『たか丸くん』(弘前城築城400年祭 のマスコット)
大型ねぷた(扇)の前を進む小型のねぷたは前座的な物で、可愛らしいものが多くて人気となっております。
弘前ねぷた下絵
作業中の前ねぷたの下絵 「金太郎と熊 大相撲」 絵師:小野隆昌氏
なんと!熊が動くようになっていた! 
上記の完成品についてはYouTubeで動画が公開されております。 (新寺町ねぷた愛好会, 2013 で検索)
弘前ねぷた骨組
前ねぷたは木の骨組みとなっています

 弘前ねぷた祭りは毎年8月1日~7日まで開催されるとの事。
後で気付いたのですが、訪れた日はまさに最後のラストスパート、忙しい日であったのでしょう。
快く見学を受け入れ、解説までして下さった新寺町ねぷた愛好会の皆様、感謝しております。
 2014年の今年は、「水滸伝 李逵 二振りの板斧」の錦絵に決まっているとの事。 どの様なねぷたが完成するのでしょうか。
※詳しい活動の様子はコチラ⇒【新寺町ねぷた愛好会


弘前高校近くの家1
 再び自転車に乗っての帰り道、気になる建物があった。(絋文塾:新寺町55)
向かい合うように建つ2軒の建物は昭和前期か?
弘前高校近くの家2

【2013年7月 訪問】


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2014.
05.11
Sun
魚コード
 【明和電機】とは、「魚器」や電動楽器「ツクバ」等を開発して実演もする、工学系アート・ユニットで、ご存じの方も多いでしょう。
 以前は土佐兄弟2人で活動していましたが、兄:正道氏が定年退職し、現在は弟:信道氏が社長となっています。
 久しぶりに「明和電機 EDELWEISS 展(2014/4/19~6/1)」が、千葉県市川市の芳澤ガーデンギャラリーで開催されており、5月4日(日)にギャラリートークが行われました。
 このエーデルワイスシリーズは個人活動との事で、土佐信道氏は明和電機の制服ではなく、黒い服装で登場。 作品の解説と共に、ニュートン銃の実演や自動演奏が行われました。
 中学生の頃から「女とは何か?」を考え始め、ポエムを書いていた時期があり、母親に見つかった事もあるそうで、大学の卒業作品として妊婦型ロボットを製作し、13週目の胎児『サバオ』も活動初期から出現しています。
 2000年頃から始まったEDELWEISSの制作は…スケッチ⇒絵コンテ⇒人形⇒アイテム… と、いまだ完成はしていないようです。
 2004年に新宿のICCでの展覧会で、すでにこれらの作品のスケッチやアイテムが展示されていましたが、物語の内容を把握せずに観ていたものですから、その当時の記憶は薄い印象です。
 この物語には、白いオイルの生成物「プラスチカ」の副作用により、子供ができなくなった人間が出てきます。
女達は「プラスチカ」を諦めきれず、地球から逃げ出した男達は、月宮というコロニーで生活しています。 (月を崇める男達はアキバ系のイメージだという。)
地球の女達が住む『末京』の名は、ドラッグストアのイメージ=マツキヨから由来するとの事。
                            ※明和電機についてはコチラ⇒【明和電機
EDELWEISS・銃ロケット
左: ‘ボク,が地球に行くための林檎のエンジンロケット。地球は6倍の重力があるので、6個の
  リンゴを搭載し、1個ずつ食べて減速しながら地球に着陸する。
右: 『末京銃』  実際に土佐氏が150種類の化粧品をこの銃に込め、一気に発射して「末京液」
  を作成した。
EDELWEISS・泣き羊
左: 『泣き羊時計』   こんな水時計があったら手に入れたい!
右: 子宮を表現しているという、新作の『泣き羊マスク』 
   涙の成分はガリウムだが、内部のアルミの板やダイカストが溶けてしまって涙が流れず、
   ただいま改善中。
EDELWEISS・サバオマスク・プ-ドルズヘッド
左: 『サバオマスク』と、水平器付きの『ニュートン銃』
右: 『プードルズ・ヘッド』
 攻撃性と服従性を兼ね備えた犬と、バタフライナイフを持つ少年がモデルになっているという。
EDELWEISS・BOKU-3
 歌う櫛を開発した‘ボク, その後、地上から人間が姿を消した時、櫛から白い花(エーデルワイス)が一斉に咲き、散り積もる… 6章から成る物語はエーデルワイスの花弁の様に、Endless/エンドレスの物語となっています。 エロスと残酷性の要素が入った大人のための童話であり、今回の展示でその世界観をつぶさに視ることが出来るでしょう。
EDELWEISS・イメージ

EDELWEISS.jpg
〔明和電機EDELWEISS展〕
会 期: 2014年4月19日(土)~6月1日(日)
開 館: 9:30~16:30(入場は16:00まで) 月曜休館
入館料: 高校生以上500円
     毎日3回(11:00~/13:00~/15:00~)電動楽器の自動演奏(約4分)有り

 ※詳しくはコチラ⇒【芳澤ガーデンギャラリー

芳澤ガーデンギャラリーから、歩いて10分程の所に木内ギャラリーがあります。
木内重四郎別邸
 これは木内重四郎の別邸(1914)であり、和館(設計:保岡勝也)と洋館(設計:鹿島貞房)があったのですが、平成11年にマンションの建設により全て解体され、洋館にあった建具や造作家具を使って再現された建物(再築)です。
 無料公開(有料イベントも有り)されており、職員の方が解説して下さるので、「明和電機EDELWEISS展」と併せて見学してみては。   ※詳しくはコチラ⇒【木内ギャラリー
木内重四郎別邸・室内
室内の様子。  作者不明の壁画(キャンバス)は当時の物。
市川団地
国府台 県営住宅7号棟(昭和30年代後半)メゾネット形式

 その他に、この付近には市川教会や千葉商科大学体育館・郭沫若記念館などがあり、建物散策を楽しめるでしょう。
【2014年5月 訪問】


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2014.
05.03
Sat
建築年 : 明治26年竣工・明治27年落成。 何度か改修・改築有り
構 造 : 木造 地上2階
施工等 : 川元 重次郎
所在地 : 青森県 弘前市 新寺町1-1
見 学 : 特別公開日、 無料
      上記以外に事前予約で見学可(4月~11月の平日10:00~16:00、0172-32-8545)
休館日 : 12月~3月の全日、4月~11月の土休日、その他の休校日
交 通 : JR弘前駅・桜ヶ丘方面行バス~弘高前バス停 下車
TEL : 0172-32-0251
    ※詳しくはコチラ⇒【弘前高校
鏡ヶ丘記念館
 弘前2日目の建物訪問は、バスの時間にとらわれず効率的に廻るため、観光案内所で貸自転車を借りて、弘前女子厚生学院記念館太宰治まなびの家弘前学院記念館などを巡りました。
 事前に見学予約した弘前高校の事務室を訪ねたところ、訪れた日は野球部の県大会決勝戦との事で、ほとんどの生徒・先生が出払っており、ひっそりとした校内。
職員が記念館の鍵を開け、1人で薄暗く静まりかえった旧校舎の中を見学しました。
 校舎は中心部分だけ残され、他の部屋は解体されておりますが、館内には様々な物が展示されていました。
 かつてこの青森県立弘前高等学校(略:弘前高校)は、明治時代に1府県1校のみ設置された『青森県尋常中学校』であり、皇太子が訪れている進学校です。
当初は男子校でしたが男女共学へ、5年制(4年)3年制に、さらに校名の改称と、法改正のたびに変化をしてきました。
 この学校に在学した人は、実業家や学識者のほか、長部日出雄(直木賞作家)・前田光世(格闘家)・三浦雄一郎(スキーヤー・登山家)・奈良美智(芸術家)などの有名人も。
建築家の渡辺節もこの学校を卒業しています。 ※詳しくはコチラ⇒【綿業会館
 明治26年竣工の校舎は、新館建設のため取り壊される事になりましたが、卒業生の強い要望で解体を免れ、昭和33年に『鏡ヶ丘記念館』として部分保存されました。
 施工者の川元重次郎は、堀江佐吉の下で副棟梁を務め、旧制弘前高等学校なども手掛けた人物です。
鏡ヶ丘記念館・校長室前
1階) 校長室前の廊下。 奥にあるものは電話室。
鏡ヶ丘記念館・旧事務室
1階)当初は事務室⇒大正4年の大改修後から教員室に。現在は弘前中学校の歴史を展示。
鏡ヶ丘記念館・旧図書室
1階) 当初は図書室⇒大正4年の大改修後から教員室に。 現在は教室を再現。
鏡ヶ丘記念館・応接室と時鐘
左: 当初は応接所⇒当直室へ。
右: 授業開始を告げる時鐘。 屋根の後方に設置され、用務員室から綱を引いて鳴らした。
鏡ヶ丘記念館・階段
階段の踏板は丸みを帯び、年月を感じる。
鏡ヶ丘記念館・旧講堂
2階) 当初は講堂⇒図書閲覧室に。 現在は壁で間仕切り、卒業生の書を展示。 
鏡ヶ丘記念館・旧1年級教場
2階) 当初は一年級教場で、平成4年の改築の際に廊下をつぶして一部屋にし、
    弘前高校の歴史を展示している。
鏡ヶ丘記念館・古材
改築の際に取り外された部材
鏡ヶ丘記念館・パネル
左上: 元寺町にあった敷地(明治25年)          右: 新寺町での配置図(明治27年)
左中: 仮校舎とした津軽産業会館(本町倶楽部)     〔展示パネルより〕
下段: 落成時の平面図と現況      〔パンフレットより〕

 現在残る部屋の竣工時の用途は、受付・応接所・校長室・事務室・図書室・講堂・1年級教場でした。 教員室・標本室・博物教場・器械室・理化学教場・図画教場・2~5年級教場の部分は、解体されています。 さらに離れには、体操場・寄宿舎・舎監室などもあったようです。


● 青森尋常中学校 開設期の授業は…
明治19年(1886/6/22)文部省令 第14号
(勅令第15号 中学校令 第7条:尋常中学校ノ学科及其程度の解釈) 
第一条: 尋常中学校ノ学科ハ倫理・国語・漢文・第一外国語(英語)・第二外国語(独/仏)・
   農業・地理・歴史・数学・ 博物(動植鉱物)・ 物理・化学・習字・図畫(図画)・ 唱歌・体操トス 
第二条: 尋常中学校ノ修業年限ハ五箇年トス ~(略)

文部省令 第7号 尋常中学校ノ学科及其ノ程度改正(M27/4/1施行)では、
必須科目であった農業・第2外国語(独or仏語)は除外、唱歌を随意科に下げ、簿記が新たに随意科に加えられました。

● 明治24年には…
文部省令 第27号(1891/12/15)尋常中学校設備規則 第三条
 一 生徒各組ニ應スル通常教室
 一 物理 化学 博物 図畫ノ特別教室
 一 図書室 器械室 薬品室 標本室
 一 講堂
 一 職員室 生徒控室 其ノ他所要ノ諸室等
前項ノ外土地ノ情況ニヨリ体操場ニ充ツヘキ相当ノ建物ヲ設クヘシ

第四条 生徒ヲ寄宿セシムヘキ学校ニ於テハ寄宿舎ヲ設クヘシ ~(略)

…と記載されています。 この中学校令に基づいて校舎の建設が行われたはずであり、尋常中学校の歴史を残す建物となっております。

 ちなみに「学校建築図説明及設計大要」が、文部大臣官房会計課建築掛より、明治28年に発行されています。 青森県尋常中学校は既に完成しており、適用外であったかもしれませんが、当時の指導内容が解る資料です。
 これは尋常小学校から尋常師範学校の設計に関するもので…
校地は飲料水・防火水が豊富に出る場所、体操場は敷地の南か東方、 校舎の形状は長方形か凹凸工、 教室の形状は長方形で南か西南か東南向き、 窓面積は床面積の1/6~1/4、  寒冷地は引違いの硝子戸+障子の2重窓、 暖地は窓下に通風窓、 図画裁縫室等は3方向の採光、 出入口は引戸か外開き戸、 天井高は9尺以上・1階床高は2尺以上、 教室の壁は灰色、天井は板か紙か漆喰仕上げ、 階段には踊り場を設け蹴上5~6寸・踏面8寸以上、 廊下の幅は6尺以上、 昇降口と便所は男女別… との共通仕様になっています。
 さらに尋常中学校の細則では… 便所は100人に対し3箇、物理化学室には暗幕、講堂は校舎の中央に設け出入口は2か所以上、雨中体操場は土間の平屋で天井板は必要なし… と記載されています。


 【弘前高等学校の変移】
明治17年(1884): 『青森県中学校』として東津軽郡青森新町(現・青森市)8/20に設立し、
           10/6に開校式を実施
明治19年(1886): 中学校令-勅令第15号(1府県1校)により9月に『青森県尋常中学校』と改称
   ※明治22年5月に元寺町に移転するが、明治25年6月に校舎が全焼し、
    津軽産業会館(本町倶楽部)を仮校舎として使用
明治26年(1893): 明治24年の改正により1府県1校が緩和され、9/28 八戸分校が開校
           12/12 新寺町に本校の新校舎が竣工し、明治27年の1/11に落成式を挙行
明治28年(1895): 3/16 『青森県第一尋常中学校』と改称
明治32年(1899): 中学校令-勅令第28号により、4/1 『青森県第一中学校』に改称
明治34年(1901): 6/1 『青森県立第一中学校』に改称
明治41年(1908): 9/23 皇太子殿下が来校
明治42年(1909): 4/1 『青森県立弘前中学校』に改称
昭和23年(1948): 終戦での学制改革により、4/1 『青森県立弘前高等学校』に改称
昭和25年(1950): 4/1 女生徒が初めて入学
昭和33年(1958): 旧本館が現在地に移設改築され、8/31 『鏡ヶ丘記念館』完成
昭和34年(1959): RC造の新校舎が落成。 4/30 秩父宮・三笠宮両妃殿下が来校
平成 4年(1992): 平成3年の台風で屋根が損壊した、鏡ヶ丘記念館の復旧工事が5/28完了

【2013年7月 訪問】



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