2014.
06.30
Mon
【カトリック弘前教会】 
建築年 : 明治43年(1910)
構 造 : 木造平屋建て鐘楼付き
設計施工: 設計はオージェ神父、施工は横山常吉
住 所 : 青森県 弘前市 百石町小路20
交 通 : JR弘前駅バス停~弘前文化センター前バス停~4分、 貸自転車もお勧め
見学不可: ミサの時間(毎日9:30~、第3・5主日ミサの前の土曜日18:30~)、冠婚葬祭
T E L: 0172-33-0175

カトリック弘前教会
 この教会はモルタル塗りの木造で、近年に修復されたようで一見すると新しく見えますが、明治43年(1910)と歴史のある教会です。
隣に幼稚園があり、送り迎えの時間帯は入りづらいのですが、ミサと冠婚葬祭以外は見学が出来ます。(見学の際には献金箱に献金しましょう)
 カトリックによる弘前での本格的な伝道は、明治11年(1878)函館から来たマラン神父により民家で始められましたが、明治13年の大火で建物が焼失。 植物学者でもあったフォーリー神父の謝礼金(パリ自然史博物館)により、明治15年(1882)現在地に聖堂が建設され、「天主公教会」と呼ばれました。 さらに明治43年(1910)モンダナ神父が現在の聖堂を新築。 設計はオージェ神父、棟梁は堀江佐吉の実弟:横山常吉です。
 カトリック弘前教会では福祉活動にも力を注ぎ、昭和42年に障害児施設「弘前大清水学園」、昭和48年に老人介護施設「弘前大清水ホーム」がヴァレー神父により開設されました。
カトリック弘前教会1
左手に見えるステンドグラスはカナダのカーロン・ジル神父(1984) 作
カトリック弘前教会2
 ナラ材で制作された祭壇(1886)は、アムステルダム聖トマス教会から譲り受けた。
建築家イ・ア・オールのデザインにより、ベルギーの展覧会でグランプリを受賞したという。
昭和14年(1939)から、この教会に設置。
カトリック弘前教会・聖堂内3
聖堂後方
カトリック弘前教会2
 カトリックは、天文18年(1549.8.15)イエズス会のフランシスコ・ザビエル渡来により始まり、鎖国令解除から布教を開始し、文久2年(1862)横浜天主堂を、慶応元年(1865)大浦天主堂を建設。 ドミニコ会・フランシスコ会・サレジオ会・メルノール会なども活動し、現在16教区あるうち、東京・大阪・長崎が管区大司教座(カテドラル)になっています。 
                ※関連記事 ⇒ 東京カテドラル関口教会


 弘前藩は、慶長19年(1614)幕府の命により、切支丹流刑者71名を受け入れました。
そして幾つかの村に分け開墾に従事させましたが、密かに布教していたようで、その土地の中で改宗した者もいたようです。
 実は、初代藩主・津軽為信(1550‐1608)は、3男・信枚(のぶひら)を受洗させ、慶長12年(1607)病に伏す長男・信健(のぶたけ)を受洗させていました。 しかし、同年に信健は亡くなり、父・為信も2か月後に亡くなります。
そして2代目藩主となった津軽信枚(1586‐1631)は改宗して、切支丹の弾圧を開始し処刑したといいます。
 このように厳しい弾圧がありながら、弘前では信仰の根が残っていたようで、明治以降に多くの教会が建設されました。
弘前藩士の息子であった本多庸一(青山学院長)も日本基督教団弘前教会の初代牧師に就任しています。

 余談ですが、ここからは話半分で読んで下さい……何かの文献で、切支丹の流刑地が「高岡 鬼沢村」とあり、鬼沢を調べたところ『鬼(き)神社』があるとの事。 そこには弘前藩津軽家の旗印と同じ「卍」が掲げられており、卍を調べると中国では瑞相、日本では寺院の地図記号の他、隠れ切支丹にも使われたとの記載有り。 弘前藩津軽家「卍」の旗印、さらに黒石藩津軽家の替紋「フツの字」はよく見ると……! 謎は深まります。
ちなみに「フツの字」は、古代中国の役人礼服の刺繍模様とも、 黻/黹/芾/甶とも云われています。 それぞれの漢字はどれも当てはまりそうです。
 「鬼」との関連では、岩木山(厳鬼山)には良い鬼の伝説があり、周辺には鬼が飾られた鳥居が複数あります。 一方で他の地域では「鬼理死丹(キリシタン)」という差別用語もあり、「鬼神社」には鬼を祀った? それとも殉教者の鎮魂? 実は津軽家の一部の者が切支丹を匿っていた?……というと小説みたいですので、ここら辺でやめておきましょう。

【参考文献】 
「青森から見た日本キリスト教史」2010 東京基督神学校・山口陽一
カトリック中央協議会HP
日本聖公会HP、東北教区HP

【2013年7月 訪問】



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2014.
06.22
Sun
【日本聖公会・弘前昇天教会】
建築年: 大正9年(1920)竣工、献堂式は翌年2月
構 造 : 煉瓦造+木造小屋組み鉄板葺き、一部2階建て鐘塔付き
設計施工: 設計はジェームズ.M.ガーディナー、 工事監督は奥村 亮、 棟梁は林 緑
住 所 : 青森県 弘前市山道町7 
交 通 : 中土手町バス停~5分  貸自転車もお勧め
見学不可: 礼拝時(毎日6:30~/17:30~)、日曜日、冠婚葬祭
T E L: 0172-34-6247

弘前昇天教会
 地元の人から「山道町の教会」と呼ばれるこの教会も、礼拝と冠婚葬祭以外は見学出来ます。(見学の際には献金箱に募金しましょう)
弘前昇天教会・外部1
 日本聖公会による東北での活動は、明治25年(1892)ミス・サザンが青森に派遣され、松下一郎(立教大総長・松下正寿の祖父)や小畑貞恵(1889紀和水害にて慰主教会から支援参加)らの日本人が伝道を開始。  弘前での伝道は、明治29年(1896)チャペル師が始め、明治33年(1900)リムック師により3万円の費用を投じて、最初の聖堂が建設されました。
 現在の聖堂は、大正9年(1920)竣工、献堂式は翌年2月に行われました。 設計者のジェームズ.M.ガーディナーについては、日光真光教会の頁をご覧下さい。
弘前昇天教会・聖堂内1

弘前昇天教会・聖堂内2
聖堂後方は、2階が襖で間仕切られて見えないが円窓がある。
弘前昇天教会・構造
 屋根を支える聖堂内の柱やトラス等には、青森産のヒバを使用。
古い煉瓦造や石造の建物は、屋根や床が木造(混合造)である事も多い。 西欧の外壁だけ残る古城は、屋根が焼け落ちたか朽ちたもので、屋根を煉瓦造や石造とするとドーム状になる。
弘前昇天教会・オルガン
米国Bernard Shoninger製のリードオルガン(1880年代初め)
弘前昇天教会・聖堂内3
聖堂後方の部屋は和洋折衷
弘前昇天教会・聖堂内4
左:礼拝の前に鳴らす鐘の紐        右:玄関の下駄箱は古そうだ。
弘前昇天教会・外部3
正面出入口
弘前昇天教会・外部2
脇出入口

 聖公会はイングランド国教会が発祥で、安政6年(1859)米国聖公会から2人の宣教師が渡来。 明治20年(1887)日本聖公会が設立され、現在11教区あります。 カトリックとプロテスタントの中間的な信仰思想を持ちます。
※日本聖公会についての関連記事 ⇒ 滝乃川学園川越キリスト教会日光真光教会

【参考文献】 
「基督教青年と関西キリスト教青年会運動」 滝澤民夫・同志社大学レポジトリ
「青森から見た日本キリスト教史」2010 東京基督神学校・山口陽一
「新編弘前市史 通史編4」2005 弘前市企画部企画課
日本聖公会HP、東北教区HP

【2013年7月 訪問】


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2014.
06.15
Sun
 【日本基督教団 弘前教会】
建築年: 明治39年(1906)12月に完成、明治40年8/26に献堂式
構 造: 木造、一部2階建て塔屋付き
設計施工: 設計・監理は桜庭駒五郎、 施工は斎藤伊三郎
見 学: 教育会館入口から入館、 9:00~16:00 (募金箱に献金を)
       ※礼拝・集会時(日曜と水曜のAM)、冠婚葬祭、職員不在時は見学不可
住 所: 青森県 弘前市 元寺町48番地
交 通: 弘前城の近くにあり、バスや貸自転車もお勧め
T E L: 0172-32-3971
    ※詳しくはコチラ【日本基督教団 弘前教会
日本基督教団弘前教会
 3代目になるこの教会堂は、斜陽館(旧津島家住宅)も手掛けた棟梁・斎藤伊三郎によるもの。 伊三郎は堀江佐吉の四男で、斎藤家の養子となりました。 設計者はこの教会の委員であった桜庭駒五郎です。 耐久性・抗菌性に優れた、青森産の総ヒバ造りとなっております。
 資料〔※1〕によると、明治10年頃に土手町に平屋の講義所が開かれ、明治13年に献堂式を。 さらに明治30年(1897)に礼拝堂が建設されたのですが、明治37年に隣の写真館から出火。 礼拝堂と牧師館も類焼し、坂本町の弘前女学校を仮礼拝所としました。
 そして保険金に加え、伝道会社や有志からの寄付、アレキサンダー師も資金を集めて隣地を買い足し、まずは明治37年に牧師館を建設。(1904/9/1~12/13. 工費1,000円)
役員会(1905/12/12)のメモ〔※2〕によると、「形状は桜庭氏に託し、更に訂正する事。工事請負は桜庭氏を監督とし、工事着手より竣工まで依頼する事。」となっているそうです。
 そして桜庭駒五郎が委託人に選ばれ(1906/1/7)、斎藤伊三郎と契約。 礼拝堂は明治39年5月に着工、5/28定礎、12月に竣工。 礼拝堂建築請負費:4,500円、外部・両袖・正面変更:447円11銭、外部・両袖・正面屋根:159円4銭、礼拝堂屋根変更:345円78銭とあり、設計変更があった事が分かります。
 また、設計費227円79銭、青焼き代60円、保険料42円、絵葉書代、その他に下駄箱4つ、ストーブ2基、さらにガスランプ3基の購入がありましたが、明治44年には電燈料を支払っています。〔※1〕
日本基督教団弘前教会・マーク
このマークは、ユリでもアイリスでもないような・・・
日本基督教団弘前教会・堂内
祭壇:中央の椅子は「キリストの座」、左側が牧師席、右側が司式者の席。
日本基督教団弘前教会・堂内後ろ
礼拝堂後方は、襖戸(2階は畳敷)の和洋折衷となっている。
「弘前礼拝堂」の札は、本多庸一の書によるもので、焼失した2代目礼拝堂から拾い出された。

 教会の設計者である桜庭駒五郎は、明治4年(1871)8/12弘前で鋳物職人の3男として生まれ、桜庭家の養子となり、明治23年に弘前教会で受洗したと伝わります。
 明治30年頃から関西で土木工事に従事し、明治36年に美恵子と結婚しますが、難産で妻と長女が亡くなります。(その後つる子と再婚) 明治45年~大正初期まで秋田木材の弘前販売所に勤務。 大正2年1月~9月まで(埋葬後の工事か?)伏見桃山御陵を、大正4年1月から東御陵、2つの墳丘墓の礫石葺きを担当。 その際は職人に、白筒袖に足袋は毎日履き替えさせ、汗を垂らさないよう気を使ったそうです。
東御陵竣工後には御神酒器一式と三方2個を授与され、三方1個は東奥義塾再興の奉読用に、御神酒器一式は西津軽郡岩崎小学校(現:深浦町立いわさき小学校)へ寄贈したとの事。
 その当時の青森では、大正2年(1913)の大飢饉に加え、疫病で亡くなる者が増えました。 弘前教会は「青森救済会」を設置し、白銀町堀端の民家で「健康園」が開設され、駒五郎も私財を投じて孤児55名を収容しますが、4か月程で閉鎖。
 一方、働く母親のためのサムエル託児園(鷹匠町道場を利用)は県と市の助成を受け存続する事になりました。 駒五郎は一時帰省し、健康園の孤児:安部銀蔵(のちに牧師)と、中村いつ子(のちに教師)を引き取って育てました。
 そして、東御陵完成後の大正4(1915)秋に弘前に戻り、停車場通りに「円満商会」を開業。 青山学院神学部寄宿舎・秋田楢山教会・津山基督教会図書館・岡山香登教会・藤崎教会などの設計を行いました。 弘前女学院宣教師館も、駒五郎の作品と云われています。 ※詳しくはコチラ⇒【弘前学院外人宣教師館
 昭和30年(1955)8月に教会修養会の準備中に他界。 万蔵寺に葬られたそうです。


 初代牧師の本多庸一は、弘前藩士の長男『徳蔵』として嘉永元年12/13(1849.1.7)弘前在府町に生まれ、藩校「稽古館」で学びます。 奥羽列藩同盟を結んだ弘前藩の裏切りを知り、菊池九郎らと共に庄内藩に加わり秋田戦争に参戦。 庄内藩降伏後も脱藩の罪は問われず、『庸一』と改名して弘前藩に戻りました。 明治2年には松浦氏の子女・みよ(みよ子)を娶り、3男2女を儲けています。
 明治3年(1870)藩命により横浜へ赴き、ブラウンやバラから英語を学び、明治5年(1872)設立した日本基督公会(横浜公会)で本多は受洗しました。 帰郷してから東奥義塾の塾長となり、英語教師として外国人宣教師を招聘。
明治8年(1875)3代目英語教師のジョン・イングと共に『弘前公会』を設立し、本多は初代日本人牧師となりました。 その後、弘前公会はメソジスト派(プロテスタント)に転向。
 そして本多は、東京英和学校教師となった後、明治21年(1888)長嶺サダ(貞/てい)と再婚。 先妻の子に加え4男2女を授かりました。
その後、次男は法学士となり、長女・真理子は宮之原信次郎(牧師)の許へ嫁ぎましたが、長男・次女・三男・四女・七男は早世しています。
 東京英和学校長となった後、明治27年(1894)『青山学院』と改称して学院長に。 明治20年代から美似教会(メソジスト監督教会)代表として、メソジスト3派の会合にて合同を主張し、明治40年(1907)『日本メソヂスト教会』誕生と共に、学院長を退任して初代監督に就任。 会合先の長崎で、明治45年3月26日に他界しました。
 その後の日本メソジスト教会は、昭和16年(1941)プロテスタント33余派が集約(11部編成)した日本基督教団に加入し、弘前教会もその一つとなっています。

【参考文献】 
※1 「日本メソジスト弘前教会五十年記念史」1925 高木武夫
※2 「基督教棟梁桜庭駒五郎の軌跡」1985 間山洋八
   「本多庸一先生遺稿」1918 日本基督教興文協会発行
   
【2013年7月 訪問】


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2014.
06.03
Tue
建築年 :明治39年(1906)、 昭和55年(1980)移築復原
構 造 :木造2階建て
所在地 :青森県 弘前市 稔町13-1
見 学 :9:00~16:00(土曜日~12:00まで) 無料
休館日 :日・月・祝日、6/25、8/13、年末年始、その他
交 通 :弘南鉄道大鰐線「弘前学院大学前」~徒歩4分
TEL :0172-38-6111
    ※詳しくはコチラ⇒【弘前学院大学
弘前学院外人宣教師館
 弘前学院は聖愛中学校・聖愛高校・弘前学院大学・大学院を持つキリスト系の私立学校です。 『弘前学院資料館』として公開されている建物は、かつては外人教師の住まいでした。
以前は中瓦ヶ町にあったもので、明治39年(1906)竣工・登記、昭和53年(1978)国の重要文化財に指定され、21ヶ月(1978.7.1~1980.3.31)の工期を掛けて現在地に移築復原。 修復の際に2階根太から明治39年の京都日出新聞が見つかり、建築年が確定しました。
設計はクリスチャンであった桜庭駒五郎と云われています。 ※桜庭駒五郎についてはコチラ⇒ 【日本基督教団 弘前教会
弘前学院外人教師館2
当初の屋根材は手割板柾葺きで、後に鉄板を葺き重ねた。
弘前学院外人教師館・1F応接室
1階応接室:ベンチの下は引戸の収納
弘前学院外人教師館・1F窓上蛇腹
1階応接室:蛇腹引きの納まりはアカンサスの漆喰彫刻で飾る
弘前学院外人教師館・廊下
階段と2階サンルーム
弘前学院外人教師館・2F談話室
2階談話室の蛇腹引きはシンプル
弘前学院外人教師館・2F寝室
2階寝室と暖炉


 この学校は、本多庸一東奥義塾長・青山学院長)が創設した弘前教会内に『来徳女学校』として明治19年に開校し、後に本多の妻となった長嶺サダ(貞・てい)も弘前遺愛女学校時代に教師として在籍していました。
 長嶺サダは文久2年(1862)盛岡藩士の長嶺忠司の次女として生まれ、東京女子師範学校卒業後に受洗。
その後、教員として東京の桜井女学校・岩手県師範学校女子部・函館遺愛女学校を経て弘前に赴任。
妻を亡くした本多庸一と結婚して4男2女を儲け、日本キリスト教婦人矯風会の幹部や、機関誌「婦人新報」編集発行人としても活躍しました。
昭和6年3月18日に他界し、多磨霊園にある本田家の墓に眠っています。

【弘前学院の変移】
明治19年(1886) 弘前教会内にカロライン・ライト夫人(駐独・アメリカ公使夫人)の寄付により
          『来徳(ライト)女学校』を開設。 翌年『弘前遺愛女学校』とする。
明治22年(1889) 元大工町に『弘前女学校』が設立される
明治34年(1901) 坂本町(中瓦ヶ町含む)に校舎を新築し移転(←昭和4年に建替え)
明治39年(1906) 中瓦ヶ町に外人教師館を新築
昭和21年(1946) 中等学校令(勅令-第36号)『弘前聖愛高等女学校』に改称
昭和22年(1947) 戦後の学制改革により『聖愛中学校』に改称
昭和23年(1948) 『聖愛高等学校』 開校   
昭和25年(1950) 『弘前学院短期大学』 開学
昭和45年(1970) 弘前学院短大が西弘前キャンパス(稔町)に移転
昭和46年(1971) 『弘前学院大学』 開学
昭和49年(1974) 聖愛高等学校が原ヶ平へ移転
昭和55年(1980) 聖愛中学校 閉校
           外人教師館が現在地に移築復原され『弘前学院資料館』となる
平成11年(2000) 弘前学院大学が共学になる。 翌年に聖愛高校も共学に。
平成15年(2003) 大学院 開学
平成18年(2006) 聖愛中学校が再び開校
                  ※詳しくはコチラ⇒【弘前学院聖愛高等学校】 【弘前学院大学

〔参考文献〕
「弘前学院外人宣教師館のしおり」 弘前学院
「弘前と遺愛女学校の音楽教育」 安田寛・北原かな子 1998 弘前大学レポジトリ
「本多庸一先生遺稿」 1918 日本基督教興文協会発行

※その他に弘前に残る外国人教師館は ⇒ 【東奥義塾】 【旧制弘前高校

【2013年7月 訪問】


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