2014.
07.20
Sun
  建築年 : 大正7年(1918)10月竣工、何度か改装工事あり、平成11年~14年まで修復工事
 構 造 : 鉄骨煉瓦造、 地上3階・地下1階建て塔屋付き
設計施工: 基本設計:岡田信一郎、 実施設計:辰野片岡事務所、施工:清水組ほか
 住 所 : 大阪市北区中之島1-1-7
 交 通 : 「なにわ橋」駅~徒歩1分、「淀屋橋」駅~徒歩5分、「北浜」駅~徒歩6分
 見 学 : 特別集会室と岩本記念室の見学ツアー
       毎週木曜日9:40~/11:00~申込制,300円
        その他の貸室は利用者以外は見学不可。 年に数回、特別公開あり
  T E L : 06-6208-2002(第4火曜日・年末年始休み)

              ※詳しくはコチラ⇒【大阪市中央公会堂
大阪市中央公会堂
 『中之島公会堂』とも呼ばれる大阪市中央公会堂は、ヘレン・ケラーやガガーリンが講演に訪れた歴史ある建物です。
 この公会堂は岩本栄之助の私財により建設され、平成に入って市民募金により修復保存されました。
 中之島はかつて各藩の蔵屋敷があった場所で、現・公会堂の地には成羽藩の蔵があったようです。〔※1〕 その後に建造された木造2階建の中之島公会堂は、第5回内国博覧会(1903)開催にあたり多人数の会合のために急造されたもので、その造りは極めて粗末だったようで、明治42年の文献〔※3〕によると、すでに壁が崩れかけているとの記載があります。
 その後、大正2年3月に天王寺公園内に移築され『天王寺公会堂』と改称。
そして、昭和11年(1936)動物園の拡張時に老朽化のために解体されました。〔※2〕
ちなみに、同じ博覧会場にあった小奏楽堂は、『八角亭』として四天王寺に現存しています。
 大阪市は新公会堂建設に際し、大正元年(1912)に開催された指名コンペで、1等3,000円・2等は1,500円・3等は1,000円の賞金を掛けました。
伊藤忠太・武田五一・塚本靖・田邊淳吉など錚々たるメンバー20名が指名された内、13名が応募。 1等は岡田、2等は長野宇平治、3等は矢橋賢吉となっています。〔※4〕
 実施設計は辰野片岡事務所が行い、堂島川と土佐堀川に囲まれた中州という軟弱地盤のため、地中には東京駅(八重洲側にも外堀があった)と同様に松の木杭を打ち込み、5年の歳月と112万円の費用を掛けて大正7年(1918)10月竣工、11月に開館しました。
 戦時中は金属供出により、エレベーター・冷暖房装置・階段手摺・屋根の神像(メルキューブとミネルバ)が撤去され、昭和20年の大阪大空襲では被災者の収容所となっています。
 昭和に入り6回の大規模改装が施されましたが、老朽化により取壊しの話が持ち上がった際に保存の声が高まり、7億円余りの市民募金により3年間の修復工事が実施され、現在は結婚式場としても利用される等、市民に親しまれています。
 平成11年~14年まで行われた修復工事では、松杭を撤去し、RC地中壁を深く廻してベタ基礎とし、免震装置の上に建物を載せる工法が採用されました。 さらに地階を増築し、屋根や壁も補強されています。
 貸室利用者以外は見学は出来ませんが、年に数回、事前申込により特別公開が実施されています。
大阪市中央公会堂・庇
 建物脇にあるキャノピー(庇)は、利用者が雨で濡れないようにと岩本栄之助の要望により追加で設置された。
建物正面・中央4本の柱と基壇表面は花崗岩で、その他の外壁は煉瓦タイル張り(㋐15)と擬石塗り(モルタル洗出し)で仕上げている。
大阪市中央公会堂・玄関
玄関ホール
大阪市中央公会堂・玄関ホール床
壁境の床
大阪市中央公会堂・大集会室1
大集会室 : 最大1161席(椅子)
大阪市中央公会堂・大集会室2
大集会室 出入口側
大阪市中央公会堂・中集会室
中集会室 : 最大500席(椅子)
大阪市中央公会堂・中集会室 窓
中集会室のステンドグラス
大阪市中央公会堂・中集会室扉
中集会室ドアと、その上にある壁画
大阪市中央公会堂・中集会室装飾
中集会室 ドア上の装飾。 鶏・小石?・貝類・茄子など
大阪市中央公会堂・小集会室
小集会室 : 最大150席(椅子)
大阪市中央公会堂・小集会室照明
小集会室の照明と天井装飾
大阪市中央公会堂・小集会室 扉と装飾
小集会室の扉には木象嵌が施されている。      折り上げ天井にあるステンドグラス
大阪市中央公会堂・特別室1
特別室 : 最大32席(4人掛テーブル・椅子)
大阪市中央公会堂・特別室2
特別室 : 天井画「天地開闢」、櫛形壁「仁徳天皇」、北側壁画「商神素箋鳴尊」などは、のちに東京高等工業学校(現:千葉大学工学部)の校長となった松岡壽が描いた。
大阪市中央公会堂・特別室4
特別室 南側壁画 「工神太玉命」
大阪市中央公会堂・特別室3
鳳凰と市章の澪標(ミオツクシ=航路を示す標識)のステンドグラス
大阪市中央公会堂・扉とガス灯
左: ドアの木象嵌                      
右: 停電の予備としてガス灯が各所にあった。 復元されたガス灯は使用不可。 
大阪市中央公会堂・松杭とELV
左: 地階に展示されている松杭。 地中に埋め込まれた松杭の長さは3m30、60㎝間隔で打ち込まれた。 当時の書類には「抗木 松二間末口六寸 三千九百三十五本」と記載あり。
右: 西側にあった創建当初のエレベーター装置。(米国オーチスエレベーター製・10人定員)
本来は、エレベータースペース上部に設置されたもの。 東側エレベーターは戦時中に金属供出。
大阪市中央公会堂・煙道
 機械室の地中にあった煙道。 現在、舞台下は椅子収納スペースと多目的会議室があるが、当初は機械室とオーケストラピットの出入口があった。 機械室の上に舞台があるため、スチーム暖房用のボイラーから出た煙を、地下の煙道へ通し、建物から離した煙突に煙を流した。
大阪市中央公会堂・旧椅子
当初の椅子。 座面はワニス塗りで、座面の裏には帽子掛けとみられる金具があったという。
大阪市中央公会堂・修復調査
内壁のペンキは塗り重ねられており、修復の際に一部の壁を削って当初の色を調査した。
大阪市中央公会堂・階段1
地階の階段
階段本体(一部の手摺除く)は金属の供出を免れたようで、当時の物が残っている。
大阪市中央公会堂・階段2
上階の階段には当時の仕上げ材(リノリウム?)が残っている。
大阪市中央公会堂・その他
左: 公会堂の由来板               右: 塔屋へ登るための梯子
大阪市中央公会堂・塔内
現在の塔屋内部


 基本設計者の岡田信一郎は明治16年(1883)東京で生まれ、東京帝国大学卒業後、東京美術学校・早稲田大学で教鞭をとり、この公会堂の設計コンペで1等になります。
 その他の作品には、明治生命館・旧歌舞伎座・鳩山一郎邸・旧琵琶湖ホテル・鎌倉国宝館・黒田記念館などがあります。
 大正6年(1917)に結婚した妻の静(静子)は、美人の代表として様々なポスターのモデルとなった赤坂芸妓・萬龍。
 岡田信一郎は昭和7年(1932)他界し、今は静と共に東京・護国寺墓所に眠っています。


 寄付者の岩本栄之助は、北浜の両替商「岩本商店」の次男として明治10年(1877)に生まれ、大阪市立商業学校(現:大阪市立大学)卒業後、亡くなった長男の代わりに家督を継ぎ、明治39年(1906)に株式仲買人に登録。 栄之助の助けにより、北浜の仲買人達が大損を免れた事もあったそうです。
 そして、明治42年(1909)渡米実業団に参加し、公共事業に寄付する実業家を知って感銘を受け、公会堂建設を決意し100万円を大阪市に寄付します。
 その後、多大な損失を出し、公会堂完成前の大正5年(1916.10.22)岩本商店の2階自室で拳銃自殺。 その5日後に39歳の若さでこの世を去りました。
 自ら命を絶つ事は間違いですが、利益を独り占めせず、社会に貢献した岩本栄之助は、世の師範といえるでしょう。   ※BFにはレストランと「岩本記念室」あり。

【参考文献】
※1 「中之島蔵屋敷跡発掘調査現地説明会の報告」 2014.5.14(大阪市HP)
※2 「デジタルギャラリー2011-ポスター・チラシ等にみる大阪市政.4中央公会堂落成」(大阪市HP)
※3 「大阪市政の将来」 岡島松次郎 1909(同志協会)
※4 「大阪市公会堂新築設計指名懸賞競技応募図案」 1913(公会堂建設事務所)
   「大阪市中央公会堂の建築」 山形政昭(大阪芸術大学) 
   「大阪市中央公会堂の保存・再生工事について」 央道弘志(坂倉建築事務所)

【2013年10月 訪問】


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2014.
07.05
Sat
建築年: 明治34年(1901) 増築・改修あり ※2017年秋頃まで移築復原工事中
構 造: 木造2階建て、一部鉄骨柱
住 所: 東京都文京区目白台2-8-1
交 通: 東京メトロ有楽町線「護国寺」~徒歩10分 or、JR目白駅~徒歩15分
TEL: 03-5981-3376 (成瀬記念館)

成瀬仁蔵邸
 日本女子大学では、創立者・成瀬仁徳の生誕記念日6/23、成瀬仁蔵旧宅が公開されるとの事で行って参りました。(2014年6月)
目白キャンパス護国寺門入ってすぐの右手の道を入ると、樹木の生い茂る角地に日本家屋が建っています。 開校した明治34年(1901)教員住宅として建設されたもので、当初は道路際に同じ様な建物が3棟ありました。
 1階は茶の間・台所・浴室の他、和室が3部屋と便所3ヶ所が設置され、数人の教師が共同生活できる間取りになっていますが、実際には成瀬校長が1人で暮らし、家事は女中がしていたようです。 その後は4・5代目校長や英文学科の外国人教授などが住んでいたとの事。
 成瀬校長の生前、2階に書庫を増築するという大幅な改築がなされましたが、死後に和書500冊・洋書1900冊は成瀬文庫に移されたため、荷重と経年劣化による損壊は免れたようです。

 この度、環状第4号線(目白台区間=工期未定)開通工事により立ち退きとなる為、成瀬記念館の横に移築復原されるといいます。 以前は1階を使用していたため非公開だったそうですが、解体に伴い使用者が引き払ったため、今回は公開する事ができたとの事。 今後の状況によっては解体時期・公開日時も変更する可能性がありますので、HP等でご確認ください。
※既に解体されており、2017年秋頃まで移築復原工事中で、公開時期などは未定との事
建物以外の見学は、成瀬記念館(TEL:03-5981-3376)へ
開館日時: 火曜日~土曜日(祝日除く) 10:00~16:30(土曜は12:00まで)
※詳しくはコチラ⇒【成瀬記念館
成瀬仁蔵邸・玄関
玄関                          照明は年代不明
成瀬仁蔵邸・1階8帖間
1階8帖間
成瀬仁蔵邸・1階6帖間
1階6帖間
成瀬仁蔵邸・台所
台所                       網戸が付いた戸棚がある
成瀬仁蔵邸・台所天井
台所の天井
成瀬仁蔵邸・改良型竈
煉瓦に漆喰を塗った改良据え置き型カマドは、七輪と竈の中間の様な物。
成瀬仁蔵邸・浴室
浴室はシャワーと洗面器は後付け         天井と壁境には換気口
成瀬仁蔵邸・階段
左:階段                 右:大学の評議員であった大隈重信の為に設置したという手摺
成瀬仁蔵邸・2階書斎
2階西南側の書斎は、当初は和室8帖であったが板張りにして書庫を増築。
成瀬仁蔵邸・家具2
家具は当時の物
一部の家具や、明治末期の西川オルガン(Nishikawa&Sonz ・横浜)は記念館に展示。
そのオルガンは十字屋楽器(銀座3丁目2)で購入したようで、プレートが貼られている。
成瀬仁蔵邸・家具1
それぞれの案件用の机があった。 左側の本棚はオックスフォード英語辞書専用。
そこで辞書が読めるよう天板に傾斜とキャスターが付いた特注家具。
成瀬仁蔵邸・2階書庫
書斎奥にある増築された書庫は天窓があり、相当な明るさ。
成瀬仁蔵邸・2階寝室
2階北東側の7.5帖の和室はそのまま寝室とし、奥に板の間を増築。
成瀬仁蔵がこのベッドで息を引き取った。
成瀬仁蔵邸・2階寝室奥
寝室奥の増築された板の間は、かなり歪みが出ている。
手前の家具の様な物は、蓋を開けると人研ぎの流し台がある。
成瀬仁蔵邸・2階寝室2
更に寝室の北側に大きな洋風書斎を増築
成瀬仁蔵邸・2階洋風書斎
増築された洋風書斎
成瀬仁蔵邸・2階洋風書斎窓
洋風書斎の窓                    鎧戸もそのまま
成瀬仁蔵邸・2階洋風書斎天井
洋風書斎の天井
成瀬仁蔵邸・家具4
大学にあったという家具で、左端の机は学生用か? 天板が開いて文具が収納できる。
成瀬仁蔵邸・エピソード
左:書斎広縁にある書見台。 ここに本を置いて立ち読みし、歩きながら瞑想したという。
右:各部屋にあるベルは校舎か学生寮に繋がっていたと云われ、あるとき生徒がスイッチを押してしまい、成瀬がサーベルを持って寮に駆け付けた事があったという。


 成瀬仁蔵は、吉敷毛利家の右筆を務めた下級武士の長男として、安政5年(1858)6/23生まれましたが、7歳で母を亡くしています。 さらに16歳で父と弟を亡くし、明治8年(1875)山口県教員養成所(山口県師範学校)に入学しました。 その当時は姉も嫁いでいたため、尋常中学校時代から寮か下宿で生活をしていたと思われます。
 明治10年(1877)先輩・澤山保羅(浪花教会牧師)に出会って感銘を受けた成瀬は、大阪の浪花教会にて受洗。 明治11年に澤山保羅が創立した梅花女学校ただ1人の教師となり、翌年に浪花教会の信徒であった服部マスエと結婚。
成瀬は明治16年から大和郡山教会に派遣され、翌年に牧師試験合格。 明治19年(1886)設立された新潟第一基督教会(現・日本基督教団 新潟教会)牧師に就任しましたが、明治20年(1887)に開校した新潟女学校の校長となって牧師を辞任。 さらに、男子校の北越学館の創設にも関わっています。
 明治24年(1891)からアンドーヴァー神学校へ留学。 そしてクラーク大学へ転学し、明治27年に帰国した後は梅花女学校校長に就任。 廣岡浅子らの協力により、明治34年(1901)日本女子大学を開校し、初代校長となりました。
 日本女子大学開校時の教員は約50名、フレンチのシェフ・画家・礼法の家元の他、留学経験のある体育教師を採用し、バスケや野球・自転車など女子スポーツ普及のきっかけになりました。
肝臓癌の告知を受けた成瀬校長は、大正8年(1919)1月29日に特別講演会を開催。 同年3月4日60歳で永眠し、雑司ヶ谷霊園に埋葬されています。
成瀬仁蔵邸・家具3
肝臓癌だった成瀬校長は、大正8年(1919.1.29)担架を兼ねた椅子に乗せて講堂まで運ばれ、1時間20分もの講演を行った。


 開校に多大な貢献をした廣岡浅子は、三井小石川家6代目当主・三井高益の四女です。
娘婿の廣岡恵三は一柳子爵の息子で、妹の満喜子はW.M.ヴォーリズの妻ですので、ヴォーリズとは親戚になります。
 ※詳しくはコチラ⇒【旧 清友園, 旧 ヴォーリズ邸
 廣岡浅子(1849-1919)は資金提供の他、三井小石川家に懸けあった事により、明治33年(1900)現在の土地が寄贈され、校舎を建設する事が出来ました。 その後も三井小石川家は日本女子大学の支援を行っています。
 浅子は嘉永2年(1849)京都油小路出水で生まれ、学問に興味を持っていましたが、女には不要との事で読書も禁止されました。 17歳で加島屋の廣岡家に嫁ぎますが、茶の湯・謡曲に勤しむ夫を見た浅子は独学で簿記を習得。 積極的に加島銀行や鉱山経営に参加しました。
明治37年に夫が亡くなった後は娘婿に家業を譲り、日本女子大学や愛国婦人会の活動を開始。 さらに大阪教会の宮川牧師からキリスト教を学び、受洗しています。

 三井財閥の一族である三井小石川家は京都に本拠があり、当主は代々「三井三郎助」を襲名しました。 明治に入ると東京に本邸を移したようで、明治43年発行〔※3〕の本によると、小石川区水道町安藤坂にあった三井三郎助邸は、高低差を利用した和洋折衷の庭に洋館・和館・温室などがあり、噴水がある芝庭には大籠を設え、孔雀を飼っていたと書かれています。

【参考文献】
※1 「写真で見る成瀬仁蔵その生涯」 2010 日本女子大学成瀬記念館 
※2 「一週一信」 1918 廣岡浅子(婦人週報社)
※3 「名園五十種」 1910 近藤正一(博文館発行)

【2014年6月 訪問】



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