2014.
11.28
Fri
住 所 : 静岡県 熱海市 昭和町4-2
見 学 : 9:00~17:00(入館は16:30迄) 大人510円
      水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始は休館
交 通 : JR熱海駅~「起雲閣前」or「天神町」バス停すぐ
TEL : 0557-86-3101
             ※詳しくはコチラ⇒【起雲閣
起雲閣2
 船会社を経営していた内田信也が、母の静養所として大正8年に建てた別荘です。
大正14年から東武鉄道社長・根津嘉一郎の所有となった後、昭和22年から平成11年まで旅館『起雲閣』として、志賀直哉・太宰治・谷崎潤一郎という文豪も訪れた宿で、平成12年に熱海市が購入し一般公開されています。 それぞれの棟が廊下で繋がり、一部の部屋は市民のための貸室になっています。
起雲閣・孔雀
孔雀: 大正7年(1918)着工、大正8年(1919)竣工。
当初は麒麟の隣(喫茶室付近)にあったもので、昭和28年(1953)音楽サロン付近に、昭和56年(1981)現在地にと2回移築。
ここで、舟橋聖一が「芸者小夏」「雪夫人絵図」を、武田泰淳が「貴族の階段」を執筆したと云われている。
起雲閣・麒麟
麒麟(きりん): 大正7年(1918)着工、大正8年(1919)竣工
加賀の青漆喰壁は、金沢の白雲楼の主人・桜井兵五郎が塗らせたもの
起雲閣・大鳳
大鳳(たいほう): 2階にある大鳳の間は太宰治が宿泊したと伝わる。
起雲閣の解説版では、この部屋で昭和23年(1948/3/18~)山崎富栄と共に滞在したと記載されている。 また、太宰治『人間失格』の奥野健男による解説では、はしがきと第一・第二手記は、起雲閣(1948/3/10~3/31)で執筆したとなっている。
起雲閣からの情報です。
【人間失格】をすでに取り壊された起雲閣別館(熱海市林ガ丘町)で、はしがきと第一・第二手記の執筆をされたと伺っております。 起雲閣へは昭和23年3月18日から2泊宿泊しております。

起雲閣・大鳳の床の間
大鳳の床の間には落とし掛けはない
起雲閣・大鳳の障子桟
大鳳の付書院の障子はサビ竹の組子 
起雲閣・玉姫
玉姫: 根津嘉一郎により昭和7年(1932)完成
起雲閣・玉姫天井
玉姫の天井には、当時の金唐革紙が残る
起雲閣・玉姫サンルーム
玉姫のサンルーム
起雲閣・サンルーム床
サンルームの床と腰壁               サンルームの扉
起雲閣・照明
玉姫の照明
起雲閣・玉渓
玉渓(ぎょくけい): 昭和7年(1932)竣工 
起雲閣・玉渓
玉渓の暖炉の、古材を使った丸柱の由緒は不明。 ベンチの座板が開閉し収納となっている。
起雲閣・金剛
金剛(こんごう): 根津嘉一郎により昭和4年(1929)完成。 何度か改装され、1989年の改築で浴室の位置と向きが変更。 ドアノブや蝶番は当初の物。
起雲閣・金剛2
金剛の浴室: 道路拡張のため1989年に移築。ステンドグラスや湯出口は当初の物。
起雲閣・金剛 窓&床
金剛の暖炉脇のステンドグラス                 床タイル
起雲閣・根津の大石
梅園付近からソリとコロを使って運ばれた、根津の大石(カグラ石)
※展示パネルより
起雲閣・廊下
渡り廊下も凝った造りとなっている
起雲閣1
~起雲閣の所有者たち~
内田信也(うちだのぶなり, 通称のぶや1880/12/6-1971/1/7)
 三井物産神戸支店 船舶部主任を経て、内田汽船(1914)を創業。 中古船の売買で利益を得て、大正6年には内田商事・帝国窯業㈱・内田造船所と3つの会社を創業します。
 そして母親のために熱海の地を購入し、大正7年(1918)宅地造成・別荘着工。 大正9年に隣の土地も買い足しています。 その他にも神戸病院や一橋高等商業学校への寄付、水戸高等学校に創設資金を提供。 恐慌を予見し、大正12年までに窯業と造船所を整理しますが、所有船が相次いで沈没し、この熱海の別荘も手放したようです。 その頃すでに政界に進出していた内田は、のちに鉄道大臣・農商務大臣・農林大臣に就任しています。 

 その後、東武鉄道社長であった根津嘉一郎(ねづかいちろう 1860-1940/1/4)が、大正14年(1925)にこの別荘を購入し、昭和2年に温泉を掘り当てます。 そして昭和4年(1929.3.31)金剛・浴室棟が、昭和7年(1932)玉姫・玉渓の棟が完成。 さらに昭和15年(1940)温室が完成。 その温室は駐車場の隅にありましたが、昭和39年(1964)に解体されています。 この別邸は昭和19年(1944)に手放されました。
 ちなみに根津嘉一郎は、武蔵大学(旧・武蔵高等学校1922)の創設者でもあり、東京の自邸(茶室のみ現存)に根津美術館が開設され、収集した美術品が展示されています。

 昭和22年(1947)からは、金沢の白雲楼ホテル経営者であった櫻井兵五郎(さくらいひょうごろう 1880/8/8-1951/2/11)の所有となり、旅館「起雲閣」を開業。 櫻井は、国務大臣・北陸毎日新聞社長・日本タイプライター㈱(現・キャノンNTC)常務取締役などに就任しており、昭和5年(1930)の著書『日本の情勢と産業合理化』によると、東京の大崎町字谷山に住まいがあったようです。

 その後の経営者が、起雲閣に宴会場(1981)、初霜・春風・有明・鶯・千鳥・雲雀(1990)を新築するも、熱海の観光客は減る一方で、平成11年(1999)廃業して競売に出されました。 林ガ丘町にあった起雲閣別館も、昭和60年(1985)に売却され、すでに解体しています。
起雲閣別館
起雲閣別館                     ※展示パネルより

 国の登録有形文化財であった金沢の白雲楼ホテル(1932-1999)も残念ながら解体されてしまいました。
この様に文化財に登録されても、様々な理由により消えていった建物は少なくはありません。 
※詳しくはコチラ⇒【文化庁HP

 この起雲閣は幸運にも熱海市により保存され、旧中山晋平邸杉本苑子旧宅・旧日向別邸などと共に、新たな観光客を惹きつけています。


【参考文献】
「風雲児 内田信也」 1935 イハラキ時事社編輯局

【2013年3月 訪問】


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2014.
11.09
Sun
 建築年 : 昭和16年(1941)竣工
住 所 : 東京都新宿区中井2-20-1
構 造 : 木造平屋建て
設計施工: 平面・内装計画は林芙美子、設計図は山口蚊象建築事務所、
       施工は渡邊棟梁(柳田工務店)
見 学 : 10:00~16:30(入館は16:00迄)  150円
        月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始は休館
交 通 : 都営地下鉄大江戸線・西武新宿線「中井」駅~徒歩6分、東西線「落合」駅~12分
T E L :  03-5996-9207
     ※詳しくはコチラ⇒【林芙美子記念館

 林芙美子邸が通年公開されており、ボランティアガイドさんが丁寧な説明して下さいます。
通常は、外から窓越しに部屋内を見るとういうものですが、年に数回特別公開があり、抽選により室内に上がる事が出来るとガイドさんから伺い、2014年3月21日の特別公開に応募したところ当選しました。 
林芙美子邸・書斎
 「放浪記」で有名な作家・林芙美子は、明治36年(1903)に私生児として門司で生まれました。 母キクは、内縁の夫・宮田麻太郎が営む「軍人屋」の店員であった沢井喜三郎と結婚し、一家は行商をしながら各地を転々と。 いつしか尾道に落ち着き、芙美子は尾道高等女学校を大正11年(1922)卒業します。 ※卒業証書は新宿歴史博物館に所蔵。
 のちに『随筆-父を語る』(1941秩父書房)の中で、九州に住む年老いた実父と会い、若い妻と暮らす、テニスコートがある裕福な家に数日滞在したと記しています。
 卒業後は恋人を頼って上京しますが、婚約破棄。 大正15年(1926)画学生だった手塚緑敏と内縁となり、下落合4丁目の12部屋もある洋風な借家で暮らします。
 住み心地の良い日本家屋に住みたいと思った芙美子は、昭和14年(1939)12月、近隣の土地を購入し、自ら間取りを考え、設計図は山口蚊象建築事務所に依頼、腕利きの大工を選びました。 そして、設計担当の香取廣司と渡邊大工を連れて、京都を見学。
この家を建てる頃に30坪制限(※下記参照)が施行され、設計変更して芙美子と緑敏で名義を分け、分棟して建造したようです。
大工2人により3年がかりで造られた家は、昭和16年(1941)8月に竣工。 多い時にはこの家に8人で暮らしていました。 疎開の際にこの家を売りに出しても売れ残り、大空襲でも焼けなかったので、戦後、一家はこの家に戻っています。
 林芙美子に子供はなく、『随筆-柿の実』中で、隣に住んでいた女の子(大泉黒石の娘・淵)を見ているうちに、「子供がほしいと思つた」と初めて母性が生まれた事を記しており、昭和18年12月に男の赤ちゃんを養子に迎え、『泰(たい)』と名付けます。
 林芙美子は昭和26年(1951)6月28日1時頃、書斎にて永眠。7月1日、川端康成が葬儀委員長となり自宅で告別式が行われました。 その後、息子の泰は1959年に事故で早世、夫の緑敏は再婚し、1989年に緑敏が亡くなった後、この家は新宿区に寄贈され、現在は『林芙美子記念館』となっています。
林芙美子邸・玄関
左: 玄関にある取次の間。左奥にある沓脱石は茶の間や小間への出入口
右: 玄関
林芙美子邸・客間
玄関脇の客間: 原稿を受け取りに来た編集者が待たされた部屋。
ごく親しい者は茶の間に通されたという。
林芙美子邸・茶の間
茶の間
林芙美子邸・茶の間2
左: 茶の間の地袋の中には抽斗  
右: 床の間の明り取り
林芙美子邸・小間
小間: 母・キクの部屋。 のちに書生部屋や客間として使用。 出窓で狭さを補った。
林芙美子邸・台所
台所: 芙美子はタイルの流しをきらい、人造研ぎ出し仕上げにした。
     ユズや素麺を冷やした水槽は、断水・消火用でもあった。
林芙美子邸・便所水槽
便所のタンク。 便器も当時の物と思われる。(手ブレがひどいので掲載せず)
林芙美子邸・流し
左: 便所の手洗い流し。 陶器はただ置いてあるだけ。
右: 脱衣場にある洗面用の流し
林芙美子邸・風呂場
当初の檜風呂は8年保証250円で9年保ったという。
浴室の壁は節無し檜と1寸4角タイルと書いてあったが、タイルも貼り換えた? 
林芙美子邸・風呂天井
浴室の天井はリシンに竹を並べた物
林芙美子邸・屋根裏
左: 屋根裏に上がる梯子           右: 屋根裏の外観
林芙美子邸・寝室
ここは芙美子の書斎として造られたが、明る過ぎたため納戸へ移り、夫と息子の寝室となった。
林芙美子邸・寝室次の間
次の間: 田舎の質屋の台帳を張った襖の下張りは板の様に丈夫で、その上に自分の着古した唐ざん木綿(更紗)を張ったという。
林芙美子邸・戸棚
唐ざん木綿(更紗)
林芙美子邸・書庫
左: 金庫が隠されていたという書庫      右: 外から見た書庫
林芙美子邸・書斎2
左: 書斎にあるランプ            右: 書斎の押入れには桐箪笥
林芙美子邸・アトリエ
画家であった夫・緑敏のアトリエ。
林芙美子邸・照明
一部の照明も当時の物
林芙美子邸・外部
左: 書斎北側の広縁               右: アトリエの窓
 
 建築の参考書で学んだ林芙美子は、渡辺大工と共に木場の材木屋で「素直で平凡なもの」を選んだという。 そして、縁側や便所には、あえてヤニ松を使用している。


木造30坪制限とは… 
 昭和12年(1937)戦争が始まった日本では、銑鉄鋳物や銅製品の製造制限(商工省令)が実施され、門柱・扉・持送り・手摺・柵・窓格子・上下げ窓の分銅から金庫・文鎮・ホチキスに至るまで、地方長官の許可がなければ製造できなくなり、鉄鋼工作物築造許可規則(商工省令第24号1937.10.11-1943.4.1)により建築制限が行われました。
 さらに米松販売取締規則(商工省令第52号・92号1938-1945)により、木材不足となったため、木造建物建築統制規則(商工省令第67号1939.11.8-1943.4.1)が実施される事に。
 建坪制限の範囲は、一般建物については100㎡(30.25坪)以下、農林・畜・漁業を営む業務・居住併用建物については160㎡(48.4坪)以下となり、この建坪以上を超えて建築するものは地方長官の許可が必要となりました。(ただし、一時的用途、軍事工場や鉱業の作業場・事務所・宿舎、組合や団体の施設、補助金を受ける建物は例外) のちに家族数により許可を得たものは、最大130㎡(39.325坪)まで可能となったようです。
 そして、建造物全てが対象の、工作物築造統制規則(商工省令第17号1943.4.1-1945.11.30)へ改正。 終戦後も、臨時建築制限令(勅令第288号1946.5.29-1947.2.8)、指定生産資材割当規則(各省令第1号1947.1.24-1952)、戦災復興土地区画整理施行地区内建築制限令(勅令第389号1946.8.15-1955.3.31)が施行されました。


 設計した山口蚊象建築事務所(担当:角取廣司)所長・山口文象(ぶんぞう)は、明治35年(1902)浅草に住む清水組棟梁・山口勝平の次男「瀧蔵」として生まれた後、叔母・岡村家の養子となりました。
 東京高等工業学校附属職工徒弟学校木工科 卒業後に入った清水組をすぐに辞めて、曽根・中条建築事務所の門を叩くも願い叶わず、中条の紹介状で、逓信省経理局営繕課の製図工となりました。 そして岩本禄の下で京都西陣電話局(1922)などの製図を担当。 さらに大阪中央電信局の現場管理を担当するようになり、上司の山田守に認められます。 その山田守の紹介で内務省帝都復興局橋梁課嘱託となって、清洲橋・蔵前橋・浜離宮南門橋などの意匠設計を担当。  ※聖橋はパースのみ
分離派建築会の縁で、石本喜久治のいる竹中工務店の設計技師となった後、独立した石本の建築事務所の主任として、旧 朝日新聞社屋(1927)・日本橋白木屋(1927)を手掛けています。 ちなみに、昭和3年の建築年鑑(1928建築世界社)では、岡村瀧造(片岡石本建築事務所 府下大井龍王子4440)として記載されています。  ※伊達美徳氏によると正しくは「瀧蔵」との事
 また、日本電力の嘱託にもなっており、黒部川第2発電所と小屋ノ平ダム(1936)設計の前には1年半ほどドイツに赴き、ワルター・グロピウスのアトリエで働くかたわら、カールスルーエ工科大でダム設計の指導も受けています。
昭和8年(1933)画家の前田青邨の娘と結婚するも数年で離婚し、昭和14年(1939)千坂喜美子と再婚しています。
昭和9年(1934)山口蚊象建築事務所を開設。昭和15年(1940)東京の大田区久が原に自邸が竣工。
 そして、新制作協会の建築部(現・スペースデザイン部)設立に関わり、昭和24年に事務所を解散していたが、昭和28年にRIA建築綜合研究所(現:株式会社アール・アイ・エー)を創設。
主な作品では、黒部川第2発電所(1938)・久が原教会(1950)・新制作座文化センター(1964)・是の字寺(1971)等。
通称を、岡村蚊象(ぶんぞう)→留学前に戸籍が山口家に戻り山口蚊象→1942年頃から山口文象と変えていましたが、晩年に山口文象と正式に改名。 昭和53年(1978/5/19)に他界し、久が原教会に納骨されました。
 なお、久が原の自邸は、子息である山口勝敏氏(音楽家)が改装し、現在は音楽ホール『クロスホール』となっています。
山口文象については、かつてRIAに所属し『建築家山口文象 人と作品』(相模書房刊)の編著を担当した、伊達美徳氏の「まちもり通信G版・山口文象+初期RIAサイト」に詳しく記載されています。  ※詳しくはコチラ⇒【まちもり通信

 【参考文献】
随筆 (秩父書房1941年) 林芙美子
昔の家 (芸術新潮1950年1月号) 林芙美子
林のおばさん」 (ブログ・認知症あれこれ そして) 三宅貴夫
林芙美子の実説・放浪記」  (北九州に強くなろう №2) 西日本シティ銀行HP
日本法令索引 (国立国会図書館HP)
建築年鑑 (1928年) 建築世界社
まちもり通信G版・山口文象+初期RIAサイト

【2014年3月 訪問】


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