2014.
12.23
Tue
建築年 : 大正6年(1917)竣工、 1927・1960・1989・2000 修復
構 造 : 鉄骨煉瓦造, 地上2階+時計搭+地下1階 
設計施工: 基本設計は福田重義、実施設計は横浜市建築課、基礎施工は齋藤平左衛門、上部施工は清水組
見 学 : 廊下・階段・2F資料室(10:00~16:00)
       休館は 第4月曜日(休日の場合はその翌日)、貸切時、年末年始
所在地 : 神奈川県 横浜市 中区 本町1-6
交 通 : みなとみらい線「日本大通り駅」スグor JR・市営地下鉄「関内駅」~徒歩10分
TEL : 045-201-0708
      ※詳しくはコチラ⇒【横浜市開港記念会館
横浜市開港記念会館
 横浜三塔の1つ『ジャックの塔』と呼ばれるこの建物は、横浜開港50周年の横浜市民から寄付金により、大正6年(1917)約36万9千円の工費をかけて完成しました。
大阪市中央公会堂(1918)も一個人の寄付金により建設されており、当時のお金持ちは粋な社会貢献をしていました。
現役の公会堂ですが、廊下・階段・2階の資料室は見学可能であり、さらに月1回、講堂や1F会議室が一般公開(10時~18時)されています。
横浜市開港記念会館・外観
 横浜会館(1874,木骨石造2F+時計塔,ブリジェンス設計)が1906年に類焼し、新たに建設する会館が設計競技となり、福田重義が1等を受賞。 実施設計は、横浜市建築課の山田七五郎らが担当し、大正6年(1917)6月30日竣工。
その記念会館も、6年後の関東大震災で外壁を残して焼失し、馬小屋になっていたといいます。 復興の際に、南仲町通の拡幅のため解体が検討されますが、記念会館を残してRC造の陸屋根と構造補強、内部の全面改装を施し、新たに撞球室(現9号室)と囲碁室が設置、昭和2年(1927)に修復工事が完了しました。
その間も市民の慰安が必要となり、横浜公園や神奈川駅裏広場にバラックの演芸場を建てて市民に貸興したり、避難先の施設で県や市の共催により、活動写真や劇など巡回興行していたようです。(※1)
 その後の記念会館は、昭和20年9月~昭和33年まで進駐軍に接収され、映画館として使用。 昭和33年(1958)横浜開港100周年で横浜市に返還され、改装工事を行いながら昭和34年に部分再開。 そして、平成元年(1989)に屋根の復元工事が完了しました。
横浜市開港記念会館・玄関ホール
玄関ホール
横浜市開港記念会館・1号室
1階1号室(定員110名): 初期から会議室として使用。
当初の床はリノリウム貼り、暖炉とスチーム暖房を併用していた。
横浜市開港記念会館・講堂1
講堂ステージ側 (定員481名)
横浜市開港記念会館・講堂2
講堂出入口側
横浜市開港記念会館・煉瓦構造
左: 断面                右: 中庭に面した廊下
 エレベーター新設工事で現れた外壁の断面をそのまま展示。 当時の煉瓦造としては最高の耐震構造である碇聯鉄(ていれんてつ)構法で、1.8m間隔に40Φの鋼鉄棒を入れ、各階毎に100㎜の帯鉄と連結。
横浜市開港記念館・碇聯鉄
上: 碇聯鉄 
下: 外壁は有田製陶所の化粧煉瓦で、1000度以上の高温で焼いた赤煉瓦は雨が浸み込みにくい。(構造煉瓦は金町煉瓦会社・品川白煉瓦会社) 
1階出入口の当初の床タイルも有田産であったという事は、九州で仕事をしていた池田の指示か?
横浜市開港記念会館・パラペット装飾
上: 中庭に置かれた八角塔のパラペット装飾。 平成元年に屋根を復元し取り外された。
下: 大震災で屋根が焼け落ち、昭和2年の修復でRC造の陸屋根となっていた。(写真は展示パネルより)
横浜市開港記念会館・外部
左: 地下室の入口
右: 講堂につながる渡り廊下
  手前の建物は、1Fが講堂控室(旧 図書室)、2Fは9号室(旧 貿易商組合事務室→撞球室)
横浜市開港記念会館・出入口床
左: 表玄関の階段には地下室の明り取り用のガラスブロックがはまる
右: 職員用の裏玄関。 こちらにもガラスブロック
横浜市開港記念会館・南玄関
八角塔の南玄関: ささら・巾木の蛇紋岩は当初の物と思われる。
横浜市開港記念会館・階段
階段踊り場にあるステンドグラス「黒船ポーハタン号」
ペリーが来航し、日米和親条約調印に使用した船。 関東大震災で焼失して、1927年に宇野澤ステンド硝子工場が制作、1978年に修復。
横浜市開港記念会館・特別室天井
2F特別室(旧 貴賓室)
横浜市開港記念会館・貴賓室天井
旧 貴賓室: 震災前の内装は、寄木貼りの床に暖炉、柾板の腰壁と絹緞子貼の壁、中央に木象嵌の鳳凰(後藤仙之助・作)を施した板張り天井であった。(写真は展示パネルより)
横浜市開港記念会館・2F
2階ホール
横浜市開港記念会館・2階
2階資料室・ステンドグラス   
左「呉越同舟」、右「箱根越え」: 開港当時の交通を題材に制作したもので、関東大震災(1923)で焼失して1927年に宇野澤ステンド硝子工場が制作、2009年に修復された。
中央: 鳳凰と、横浜市の市章・ハマ菱。  開港150周年事業で平成21年(2009)修復。
横浜市開港記念会館・時計塔階段
時計塔の階段は、見学者は登る事が出来ない。塔の内部は⇒【横浜市開港記念会館②塔
横浜市開港記念会館・時計塔
 建設当初の設備は、電気の照明に、時計塔には電動時計を設置。
貴賓室・控室・大食堂の暖炉には英国製のガスストーブ、その他は地下室のボイラー(燃料は石炭)を使ったラジエーター式スチーム暖房を設置。
中庭と2階に消火栓を各1個設置していたが、震災時の消火に足らなかった。
大正8年(1919)から大中小3つの食堂があったが、震災後にホテル・ニューグランドの「本町食堂(2F・BF)」が営業した。


 基本設計者の福田重義は、明治20年(1887)長崎で生まれ、東京帝国大学工科大学建築学科卒業後に東京市の技師となり、日比谷公園事務所(1910)等を設計。 のちに建築課長・復興事業局長となりましたが、昭和5年(1930)に退職して建築事務所を開設します。
その後、同潤会評議委員(※2)、住宅営団の理事 兼 建設局長に就任しています。(※3)
手掛けた作品のうち、日比谷公園事務所の建物(東京都所有)は、借り受けた民間会社により改装されて、現在は結婚式場になっています。
また、意匠設計を担当した四谷見付橋(1913)は、多摩ニュータウンへ移設し「長池見附橋」として再生されています。 なお、三楽病院(1933~1986大林組)、仙台市立病院(1939~1945木田組)等は、すでに解体されています。 昭和46年(1971)に他界。

 実施設計者の山田七五郎は、明治4年(1871.2.1)京都で生まれ、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、長崎県技師となり長崎県庁舎・長崎市役所の設計管理を担当。 この会館新築のため大正3年に招聘され、初代・横浜市建築課長となり、昭和4年に退職。
 その後は横浜高等工業学校建築学科講師となっています。 昭和20年(1945.6.27)に他界。

【参考文献】
     「横浜市開港記念会館ドーム復元工事報告書」 横浜市建築局
(※1) 「横浜復興録」 1925 小池徳久 著. 横浜復興録編纂所発行
      関東大震災の被害や支援金の事など、こと細かく書かれており興味深い資料。 
(※2) 「昭和15年度 事業報告」 1941 同潤会
(※3) 「昭和16年 住宅営団の栞」 1941 住宅営団

【2013年9月 訪問】


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2014.
12.07
Sun
 建築年 : 昭和3年(1928)竣工
 構 造 : 鉄骨鉄筋コンクリート造, 地上5階+搭屋4階+地下1階 
設計施工: 外観意匠は小尾嘉郎、 設計は神奈川県内務部、  施工は大林組
 見 学 : 本庁舎歴史展示室(6階)と屋上は、開庁時間中に自由見学可
 所在地 : 神奈川県 横浜市 中区 日本大通1
 交 通 : みなとみらい線「日本大通り駅」スグ or JR・市営地下鉄「関内駅」~徒歩10分
 T E L : 045-210-1111
    ※詳しくはコチラ⇒【神奈川県庁本庁舎
神奈川県庁舎
 県民であっても県庁舎に行く人は多くないでしょう。子供の頃に校外学習で見学する位でしょうか。 私も横浜に住んでいた頃、県庁舎に足を踏み入れた事はありませんでした。
 その神奈川県本庁舎が現在、年に数回 特別公開され、旧議場や現役の知事室も見学できるとの事で行ってまいりました。 この建物は横浜三塔の一つであり、『キングの塔』(22.64m+塔48.60m)と呼ばれ、かつては入港する船の目標となりましたが、現在は横浜ランドマークタワーの方が目立っています。
神奈川県庁舎・玄関ホール
玄関ホール:照明は変更済み。
神奈川県庁舎・玄関ホール2
左: 玄関脇の警備室窓口も古そう。
右: 宝相華がデザインされた階段の照明は陶器製
神奈川県庁舎・議場1
旧議場(3階大会議場): 照明は変更済み。
神奈川県庁舎・議場
旧議場
神奈川県庁舎・床タイル
階段踊り場の床タイルは、階ごとに微妙にサイズや色合いが違う。
神奈川県庁舎・階段ホール
階段ホール
神奈川県庁舎・装飾タイル
階段ホールの梁や壁に埋め込まれた装飾タイル
神奈川県庁舎・廊下1
知事室前の廊下はシンプルで、ぶら下がり取材用のバックボードを設置
神奈川県庁舎・秘書室
秘書室
神奈川県庁舎・秘書室天井
上:秘書室の天井と梁。 LED照明に変更済み。 
下:秘書室の欄間
神奈川県庁舎・知事室
知事室:黒岩知事のパネルがご挨拶。 照明は変更済み。 
神奈川県庁舎・貴賓室
 旧貴賓室(3階第3応接室)の床は寄木貼りで、当初は浴室があり、置き型のバスタブが設置されていた。 貴賓室と正庁以外の部屋の床はリノリウム貼り。
神奈川県庁舎・貴賓室ドア
左:貴賓室の柱と梁の彫刻             右:貴賓室の扉
 神奈川県庁舎・貴賓室ドアノブ
貴賓室の扉:装飾として各所に出てくる宝相華(ほうそうげ)は、正倉院宝物にも使用された文様で、極楽浄土に咲く花と云われる。
神奈川県庁舎・貴賓室時計
貴賓室の時計は当初の物。 知事室にも同じ物がある。
神奈川県庁舎・貴賓室壁
上:貴賓室の欄間
下:貴賓室の壁は、金粉を所々にまぶした砂壁。
神奈川県庁舎・貴賓室天井
上:貴賓室の照明は当初の物
下:貴賓室の格天井
神奈川県庁舎・貴賓室暖炉
貴賓室の暖炉
神奈川県庁舎・貴賓室家具
貴賓室の家具も当初の物。 白い取っ手は象牙
神奈川県庁舎・貴賓室家具2
貴賓室の家具
神奈川県庁舎・塔階段
塔屋の階段は、見学者は登る事が出来ない。
神奈川県庁舎・屋上2
屋上のパラペットは洗い出し仕上げ
神奈川県庁舎・屋上3
左:現在の軒先装飾は銅板           
右:昭和38年に取り外した当初の軒先装飾.テラコッタを展示
神奈川県庁舎・屋上5
屋上にある部屋と煙突
神奈川県庁舎・屋上4
塔屋のスクラッチタイル 
神奈川県庁舎・屋上1
金土日の日没~22時まで搭屋をライトアップしている

 なまこ壁の塔屋を持つ横濱役所(2代目運上所1867)が慶応4年(1868)3/19に『横濱裁判所』となった後、すぐに『神奈川裁判所(4/20)』 → 『神奈川府裁判所(6/17)』と立て続けに改称し、明治5年(1872)司法分離により『神奈川県庁』になりました。
 明治15年(1882)12/22その建物が焼失し、横浜町会所(1874 ブリジェンス設計)を経て、翌年8月に横浜税関庁舎(木骨石造 1873 ブリジェンス設計)に移転。 明治17年に議事堂が増築されました。
 さらに、片山東熊・木子幸三郎により、新しい神奈川県庁舎(煉瓦造3F+BF)が大正2年(1913)6月に完成。 その建物は関東大震災では倒壊を免れたものの、火災により煉瓦壁を残して全焼してしまいます。
 ただちに県庁舎新築が計画され、岡田信一郎・内藤多仲が顧問となり、内務部土木課営繕係による設計図が完成していましたが、岡田からの提案により塔を設ける事になりました。
 大正15年(1926)設計競技が実施され、398通の応募の中から小尾嘉郎が1等を受賞。 その賞金は1等に5千円、2等に3千円、3等に2千円、佳作に千円でした。
 新たな顧問として佐野利器が県庁舎建築事務所に招聘され、県職員の渡邊利雄・池辺宗薫らが実施設計を担当。 大正15年に着工し(地鎮祭1926.12.4)、275万円の工費をかけて、昭和3年(1928.11.1)落成しました。

 設計競技1等を受賞した小尾嘉郎(おびかろう)は、明治31年(1898)山梨県北巨摩郡甲村(現・北杜市高根町)の養蚕農家の長男として生まれ、大正10年(1935)名古屋高等工業学校建築科(建築科長・鈴木禎次)を卒業。  東京市電気局の建築技手となりましたが、帰宅してから建築雑誌などのコンペの作品を制作していたようで、大正15年に行われた神奈川県庁本庁舎の設計競技で1等を受賞。 その作品は日本風なデザインを取り入れ、塔・玄関について特に力を入れたものでした。
 同年、神奈川県の建築技手として採用され、搭屋の設計図を担当しますが、その搭屋は低くなり、観音像は相輪状の物に変更される等、やりきれなさを感じたのか、僅か3か月程で辞職。
 退職後すぐに松坂屋臨時建築部に入社し、恩師・鈴木禎次の設計による松坂屋上野店本館(1929)の設計監理を担当。 完成後に退職し、昭和5年(1930)に「小尾建築工房」を設立。 そして、軍人会館(現・九段会館)の設計競技に参加し、佳作に入選しています。
 昭和17年から住宅営団の東京支所工務第三課長として採用され、三鷹の中島飛行機研究所(現・ICU校地)の社宅建設に関わっていましたが、その住宅営団は軍事工場の宿舎などを数多く建設していたため、終戦後はGHQの指示により解散となっています。
 その後の小尾は、東京復興産業㈱建築部長を経て、昭和24年8月から『小尾建築工務所』を開設し、住宅や店舗を設計。 また、甲府の恩賜林記念館(1953 木造2F)も設計しています。
昭和32年に『小尾建設㈱』に改称し、大生相互銀行秩父支店(1961 現・東和銀行)、駒澤大学寮(1963 祖師谷寮?)等、様々な設計事務所との協働で工事監理を担当。
 私生活では、両親と祖母を東京に呼び寄せ吉祥寺に暮らし、電話交換手だった女性と結婚。 1男2女を儲け、長男の小尾欣一氏はのちに光化学・レーザー化学の研究者として、東京工業大学・日本女子大学の理学部教授となっています。
 小尾嘉郎は昭和47年(1972/12/8)に他界し、多磨霊園にある自らデザインした墓に家族と共に眠っています。

【参考文献】
「神奈川県庁本庁舎と大正・昭和初期の神奈川県営繕技術者に関する建築史的研究」
 (横浜国立大学レポジトリ2006)佐藤嘉明

【2013年9月 訪問】


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