2015.
01.18
Sun
建築年 : 明治23年(1890)竣工、 平成11年復原
設計施工: 棟梁・西村市右衛門 ほか
見 学: 10:00~16:30(入館は16:00迄)有料、 休館は月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始
所在地 : 千葉県 佐倉市 鏑木町 274
交 通: 京成佐倉駅~徒歩15分、JR佐倉駅~徒歩20分、「厚生園」バス停~徒歩5分
TEL : 043-483-2390
       ※詳しくはコチラ⇒【旧堀田邸
旧堀田邸
 この屋敷は、旧 佐倉藩主・堀田正倫が明治23年に建てたもので、昭和26年から佐倉厚生園(現・佐倉厚生園病院)の所有となっていましたが、その一部を県と市が購入し、平成11年から一般公開。 「坂の上の雲(2010)」、「JIN-仁(2011)」等のドラマや映画のロケ地にもなっています。
現在は書斎棟と居間棟2F・門番所は非公開ですが、年に数回、特別公開されます。
旧堀田邸・2階
 堀田正倫は、明治4年の廃藩置県により佐倉藩知事を免職後、東京(本所・麻布・深川)に住んでおりましたが、明治20年に華族の旧領地への移住が許され、この土地2万坪を購入。 棟梁・西村市左右衛門(本所区緑町)を筆頭に東京の職人により明治23年に主屋が竣工。 この庭も本郷の前田侯爵家の日本庭園(現・東京大学。懐徳館庭園1890)を作庭した、染井の職人・伊藤彦右衛門が手掛けました。
その後も工事が行われ、明治27年に別邸として完了。 明治29年に堀田正倫が転籍して本邸となり、堀田農事試験場も併設しました。
 昭和に入ると堀田家が転居し、併設されていた農事試験場も閉鎖となった後ここは貸地となり、昭和17年(1942)から日産の厚生施設『佐倉日産厚生園』が開設され、軽度の結核療養所になりました。 昭和21年からは一般患者も受け入れ『佐倉厚生園』と改称。 昭和26年(1951)に佐倉厚生園は堀田家より土地建物を購入し、庭園を無料で一般公開、旧堀田邸は各団体に貸し出されました。
そして佐倉厚生園病院と老人ホームゆうゆうの里が新しく建設された後、旧堀田邸の敷地の一部を千葉県と佐倉市が購入し、平成11年から一般公開しています。
 ちなみに佐倉厚生園には吉村順三の設計によるサナトリウム(1953)があったようですが、佐倉厚生園に問い合わせたところ、その図面や写真はすぐには見つからないとの事。 そこで自分なりに捜してみると新建築43号(※1)に『佐倉厚生園住宅(1951年69㎡木造平屋建て,居間8帖,寝室6帖,3帖×2)』の平面図を発見。「普通の木造真壁の家である。採光通風がよく考えられ、また平面のローテーションにより住みやすい住宅となっている。」というコメントが添えられていました。 おそらく幹部か医師の住宅と思われますが、それも残念ながら現存していません。
旧堀田邸・玄関
玄関: 訪問時はイベントのパネルが展示されていた
旧堀田邸・中の口・金物
玄関脇にある『中の口』の帽子掛け
旧堀田邸・客座敷
客座敷
旧堀田邸・居間
居間2部屋は後に洋間へ改装
旧堀田邸・御寝之間
御寝之間は二重床になっているという。 床下からの冷気対策と防犯を兼ね備えたものか?
旧堀田邸・寝の間天袋引手
御寝之間の物入れは更紗の布張り
旧堀田邸・役女詰所
左側に居間、奥に御寝之間がある。
この部屋は役女詰所とあるが、長押もあり格式のある部屋。
旧堀田邸・2F上の間
2階 上の間: 床柱は唐松   (通常は非公開)
旧堀田邸・2F上の間・引手
2階 上の間(通常は非公開)     左:襖の引手、 右:床脇の戸棚の引手
旧堀田邸・居間と2F引手
左:1階居間の床脇地袋の引手     右:2階次の間の襖の引手
旧堀田邸・書斎棟
渡り廊下の先に書斎棟(通常非公開)がある
旧堀田邸・書斎上の間
書斎棟・上の間 (通常非公開)
書斎上の間・床脇棚
書斎棟・上の間の飾り棚 (通常非公開)
旧堀田邸・書斎上の間棚
左:仏像を安置していた様な壁龕       右:床脇の飾り棚 (通常非公開)
旧堀田邸・書斎上の間・地袋
壁龕の地袋には竹ひご網代編み (通常非公開)
旧堀田邸・書斎引手
左:襖(芭蕉布)の引手             右:違い棚上の物入れの引手
旧堀田邸・書斎天井
書斎棟・上の間の天井は更紗張り  (通常非公開)
旧堀田邸・書斎雪隠2
書斎棟の小便器と水屋   (通常非公開) 
旧堀田邸・書斎雪隠
書斎棟(通常非公開)の大便器と作者名・橋本三治郎
旧堀田邸・浴室
左:復元された湯殿           右:化粧の間は現在は茶室に改装
 湯殿は明治44年に農事試験場を視察に訪れた東宮殿下(大正天皇)のために増築された。
湯船はなく掛け湯による入浴だという。 後に仏間の次の間を浴室に改修したが元の状態に復元された。
旧堀田邸・萱門
上:茅門 その奥に茶室があった
下:堀田正倫の揮毫による「孤山餘韻」の扁額が掛かる
旧堀田邸・蔵
土蔵


 堀田正倫(まさとも)は正睦の四男として、嘉永4年12月に江戸小川町の藩邸で生まれました。 明治に入ると、徳川家存続の嘆願をした事で軟禁されますが、官軍に就いた佐倉藩兵の功績により謹慎を解かれ、佐倉藩知事(1869-1871)となります。 解任後は政府の命により東京本所の屋敷に移り、明治17年(1884)に伯爵となりますが、深川佐賀町の私邸(麻布の私邸は1872年に国へ上納し、代替地として水戸藩屋敷跡3500坪を取得したもの)が焼失し、佐倉の別邸へ移住。 殖産興業と教育に力を注ぐ事になり、明治30年4月に巨額の資金を投じて農事試験場を創設。 農作物の試作や家畜の飼育改良を開始しました。 
 大阪朝日新聞〔※3〕の記事によると、改良農法を提案しても農民達は信じず、まったく成果が上がらなかったので、収穫高が在来法より減少した場合は不足額を試験場が負担するという賠償試作制度を設けたところ、それに応ずる農民が続出し、結果的に大幅な増収になったとの事。
この功績などにより明治35年に紫白綬有功賞、第5回勧業博覧会で1等賞を受賞。 明治36年に第2圃場、翌年に第3縁圃場を増設して果樹園を開き、明治40年以降は養鶏の改良に力を注いだようです。
記事の中には、立花伯爵・松平康荘侯爵・加納子爵のほか、堀田正倫の後妻・伴子の父である、萬里小路道房伯爵の事が載っている事から、農業を通じて2人の縁が生まれたのかもしれません。
 その後、千葉県立の農事試験場が開設され、堀田農事試験場は大正11年に種芸部を廃止し、大正15年には園芸部・養鶏部も無くなり閉鎖となりました。
そして堀田正倫は、明治44年1月に他界し、菩提寺である甚大寺に埋葬。 生前の正倫は大日本私立衛生会佐倉支部設立にも力添えしていたようで、この地を佐倉厚生園に賃貸したのも正倫の遺志を継いだ堀田家ならではといえるでしょう。
 また、堀田正倫は教育にも力を注ぎ、佐倉中学校(現・佐倉高等学校)に株券10万円を寄付し、校舎の建設・奨学金制度に充てられました。
ちなみに校舎は『佐倉高等学校記念館(1910久野節設計)』として現存していますが、内部は管理棟として使用のため一般公開されておりません。
旧堀田邸・解説板
                       解説板より

【参考文献】
  「旧堀田邸保存整備工事報告書」 2002 佐倉市教育委員会 
  「旧堀田邸・庭園・古文書とわが病院~佐倉厚生園」
    日本病院会雑誌1993年11月号 日産厚生会理事長・佐倉厚生園園長・遠山正道 著
  「房総の偉人」 (1925多田屋支店) 林寿裕 著
  「佐倉市史」
※1  新建築43(1) 1968年1月号 「特集:吉村順三と住宅」 新建築社
※2 「華族の農業」(大阪朝日新聞1914.1.7~1.16)神戸大学附属図書館 蔵

【2014年4月 訪問】


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2015.
01.04
Sun
見  学 :9:00~17:00(入館は16:30迄)有料、 休館は月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始
所在地 :千葉県 佐倉市 宮小路町57
交  通 :JR佐倉駅~徒歩15分or、京成佐倉駅~徒歩20分or、宮小路町バス停~5分
T E L :043-486-2947
      ※詳しくはコチラ⇒【武家屋敷
佐倉・薬師坂
 武家屋敷と旧堀田邸、佐倉順天堂記念館を廻るため、JR佐倉駅前の観光情報センターで貸自転車を借りる事にしました。 職員に坂道があるか尋ねると、どちらも高台にあるため急坂か、延々と続く緩い坂になるとの事。 そこで短い急坂(薬師坂)のある武家屋敷から廻る事にしました。
言葉通りのその坂は、自転車を降りて登るほどの急勾配。 たとえ敵が攻めて来ても勢いが落ちるような坂です。 その薬師坂を上がると平らな道となり、生垣に囲まれた武家屋敷に辿り着きます。
佐倉武家屋敷
 この辺りは佐倉藩の上中級武士の屋敷があった所で『鏑木小路』と呼ばれ、屋敷の前に土手を築いてイヌマキ等の生垣を作り、背後に常緑樹や果樹を植えていました。 明治以降は一時、陸軍歩兵第二連隊の将校達が住んでいたようです。
現在は3軒の建物が公開されており、解体調査のうえ現地保存された旧但馬家の隣に、旧河原家と旧武居家が移築復原されています。
佐倉武家屋敷・解説
鏑木小路の一角にある解説版
高台にある城を川と堀で囲い、背後を武家屋敷と寺社にする事で守りを固めた。
この辺りの井戸は深くて水を汲むのが大変で、昔は「佐倉へ嫁やるな」と言われたという。
佐倉城大絵図
佐倉城大絵図 (展示パネルより)
堀外、左下の辺りが鏑木小路
旧河原家1
旧河原家住宅(18C後期~19C前期)…300石ほどの武士の住まい
佐倉で現存する最古の武家屋敷と云われ、昭和62年(1987)佐倉市に寄贈、平成元年3月から解体調査・移築工事開始。 式台・次の間・中の間・縁側が復原され、翌年(1990.6.30)から一般公開。 年4回の特別公開があり、室内に上がる事ができる。
旧河原家・座敷
旧河原家の座敷 
藩令(下記参照)によると佐倉藩では300石以上で漆喰壁が許されたが、千石未満は長押が禁止されたという。 旧河原家は天保の御制前に建てられたと想定し、この部屋には長押を復元しているもよう。 座敷・居間は近江表畳へり付、その他は七嶋表畳へり無しの仕様。
旧河原家・男部屋と居間
左:土間の脇にある男部屋             右:旧河原家の居間
旧河原家・刀箪笥
刀箪笥などが展示されている
旧河原家・茶の間
旧河原家の土間・台所・茶の間
旧但馬家
旧但馬家住宅(19C前期)…150石ほど
最初の住人は誠心流槍術師範の井口家で、岡田家を経て明治8年(1875)に但馬家の所有となった。
平成2年12月から解体調査・復原工事開始、平成4年(1992.5.1)から一般公開。
藩令(下記参照)により、座敷は近江表畳へり付、その他は七嶋表畳へり無しの仕様。
旧但馬家・座敷
旧但馬家の座敷:旧河原家よりも立派に見える
旧武居家
旧武居家住宅(19C中期)…90石ほどの武士の住まい
文政~天保頃には依田家、天保7-11年頃には服部家、安政6年には田島家が使用。
藩令(下記参照)により、座敷は七嶋表畳ヘリ付、その他は七嶋表畳ヘリ無し。
復原工事完了後、平成9年(1997.7.19)一般公開。 
旧武居家・土間
旧武居家の土間と台所
 この建物の解体発掘の際に、上下に口を合わせた素焼きの浅鉢が出土。 その場所は式台の箱段下から2組、土間の隅から7組で、胞衣(えな)納器と推測されています。
かつての日本では産後すぐ洗い清めた胎盤を土器や桶に納め、屋外や出入口の下などに埋め、(地域によっては屋根裏に吊るし)神祭式を行う家もあったようです。 明治~大正初期の家相本には胞衣納めとして、両親にとっての吉方位に埋める(日当り・通気の悪い所は避ける)と記されています。 また、ある地域では息のない赤子を救うため胞衣を火にかけたという事から、分身=身代わりであったのかもしれません。
 明治中期以降に各地で条例が出され、胞衣は専門業者で処理するようになりました。 千葉県では明治33年(1900.5.2)胞衣及産穢物取締規則が公布され、家や井戸・湧水から9.2m以上離れた地に埋めるか、それ以外の場所では91㎝以上の深さに埋める事となり、処理業者も免許制となったようです。
武家屋敷パンフ
天保御制(1833)により定められた佐倉藩の上中級武士宅の建築制限(既存建物は改修・増築の際に対象となった)
※写真はパンフレットより引用


 堀の方向にある『ひよどり坂』等、趣のある道は徒歩が良いですが、旧堀田邸と佐倉順天堂記念館は坂道は少ないものの多少の距離があるため、自転車での移動は正解であったようです。

【参考文献】
佐倉武家屋敷解説シート
「胞衣にみる産と育への配慮:禁制産育書における子どもと母の関係」(神戸大学レポジトリ2010)島野裕子 著
「家運発達子孫長久家相方鑒大奇書」 1919 松浦国美 著

【2014年4月 訪問】


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