2015.
03.15
Sun
建築年 : 不明、 増改築 何度か有り
構 造 : 木造平屋建て 
見 学 : 9:00~17:00 ※近年に閉鎖予定。
       休館は月曜日(祝日の場合は翌日)・祝日の翌日・年末年始
       貸室利用の際は見学出来ないため、事前に問い合せた方が良いでしょう。
所在地 :  神奈川県 横須賀市 津久井2-15-33
交 通 : 京急・津久井浜駅~徒歩5分
TEL : 046-848-0043
   ※詳しくはコチラ⇒【万代会館
万代会館
 2014年10月4日(土)横須賀の万代会館において、文化祭(主催:横須賀建築探偵団)が催され、茶会や落語、青山学院・杉浦教授による講演「万代順四郎と青山学院」などが行われました。
この建物は、帝国銀行会長、東京通信工業(現:ソニー)会長、青山学院理事長の経歴を持つ、万代順四郎の晩年の住まいでした。
トミ夫人の遺志(S53.5他界)により横須賀市に寄贈され、『万代会館』として昭和55年(1980/4/1)に開館。 貸室として市民のサークルや研修に利用されてきました。
 しかし、老朽化を理由に「横須賀市 施設配置適正化計画」の2015年度から10年以内に廃止する公共施設リストに含まれてしまいました。
民間売却など検討されているようですが、寄贈者の遺志を顧みず、歴史的価値がある建物を擲つとは…。 横須賀のお宝が消えないよう、只々 願うしかありません。
 
※2017年に廃止施設の対象から外れました! ホッとしました。

万代会館・玄関
玄関

万代会館・裏手1
北棟の西面

万代会館・釜場
左: 風呂釜があった場所で職員の方が中を見せて下さった。         右: その入口   
万代会館・裏手2
北東面

万代会館・裏手
北棟の北面

万代会館・鉄格子
左: 便所外側(北棟と西棟の繋ぎ部分)  
右: 窓には鉄格子が。 物騒な時代(2・26事件以降)に建てられた屋敷に見られる。
万代会館・棟
棟と谷: 屋根の谷から雨漏りしやすい
屋根材の茅も、カラスが巣作りのため抜いてしまう事もある。
万代会館・次の間(松)
広間(現在は松の間)定員15名
松・竹の間は、皇后様ご実家の部屋を移築したとの説がある。
万代会館・広間(竹)
広間(現在は竹の間)定員15名 
万代会館・座敷(梅)
座敷(現在は梅の間)定員15名
万代会館・座敷床の間
座敷の床の間: 杢目の床柱は栂か杉と思われ、床框はカエデかイチョウの様に見える
万代会館・応接間
サンルーム(現在は応接間)
万代会館・応接間天井
サンルーム天井
万代夫妻・遺影
サンルームに飾られている万代夫妻の写真
万代会館・便所
 西棟と北棟の繋ぎ目にある便所: 衛生陶器は交換済み
東棟の奥の8帖和室(現在は椿の間:定員15名)の前にも便所有り
北棟の部屋は訪問時に茶会の先生達が控えていたため写真なし
万代会館・台所
左: 東棟にある納戸         右: 東棟(椿の間の前)にある水屋


 万代順四郎(まんだい じゅんしろう)は、岡山県の勝間田町(現:勝央町)の農家の次男として明治16年(1883/6/25)に生まれ、『金蔵』と名付けられました。
青山学院卒業後、本多庸一の推薦で明治40年(1907)に三井銀行に入行。 先輩の米山梅吉がいる大阪支店に配属され、実地で銀行実務を学びます。 米山夫人が親の代わりとして見合いに同席し、大正3年(1914)棋士・広瀬平治郎の次女トミと結婚。
名古屋支店長になるとトヨタの創業を支援し、金融恐慌の際には愛知銀行も助けた万代は、「貸し剥がしの三井」と評判の悪かった大阪支店へ異動。 倒産寸前に陥った取引先の調査を行い、回生の見込みが有る者には援助を惜しみませんでした。 その業績が評価されて常務となり、昭和12年(1937)に会長となります。
 万代の提案により、昭和18年(1943)三井銀行と第一銀行が合併して『帝国銀行』になると、昭和20年(1945)帝国銀行会長に就任。 昭和21年12月に会長を辞任すると、夫人の療養の為に購入した横須賀の家で、野菜を育てながらの隠居暮らしを始めました。
数々の誘いを断っていた万代が唯一引き受けた仕事は、酒造業・盛田家の長男・昭夫が創業した、東京通信工業(現:ソニー)の相談役で、名古屋支店長時代の縁から引き受けたものです。 万代は後に会長となっています。   
その後の会長となった田島道治は、万代が援助した愛知銀行の常務でした。 歳が近い二人は盟友であったのかもしれません。
 万代は、青山学院理事長も務めていますが、電車に乗って東京まで通うほど横須賀の家を気に入り、離れる事はありませんでした。 杉浦教授の話によると、理事会が終わると宿直室に泊まり、食事はかけ蕎麦という質素な過ごし方であったようです。
 昭和34年(1959/3/28)永眠。 青山学院には、万代順四郎からの多大な寄付(退職金やソニーの株券)により、厚木キャンパスに『万代記念図書館』が建設(1982)され、『万代奨学金(無利子貸付)』制度が現在も実施されています。
民家
津久井浜の旧道沿いにある旧商家: 他にも立派な屋敷が点在する
タバコ屋
 同じ通りには、昭和のタバコ屋も(杉山ガラス店の一角) 
134号線沿いには、美味しいパン屋〔ブロートバウム〕がある

【参考文献】
● 法政大学イノベーションマネジメント研究センター・日本の企業家活動シリーズ№55
  「財閥銀行の大型合併に関わった銀行家-万代順四郎と加藤武男」 2012 堀峰生 著
● 米山梅吉記念館 館報24号「米山梅吉と万代順四郎の青年時代」 2014 堀峰生 著

【2014年10月 訪問】


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2015.
03.02
Mon
建築年 : 大正8年(1919)竣工、 平成12年に保存修復工事完了
構 造 : 木造2階建て 
見 学 : 10:00~18:00(11~2月は16:30迄)有料。 休館は月曜(祝日の場合はその翌日)、年末年始
所在地 : 東京都渋谷区猿楽町29-20
交 通 : 東急東横線・代官山駅~徒歩5分
T E L : 03-3476-1021
      ※詳しくはコチラ⇒【旧朝倉家住宅
旧朝倉家住宅
 この建物は、東京府会議長や区割整理全国連合会副会長の経歴を持つ、精米業・朝倉虎治郎の住まいとして大正8年(1919)に建てられました。
朝倉夫妻の死後に中央馬事会へ売却後、農林水産省へ譲渡され公邸→昭和39年から経済企画庁の渋谷会議所として利用。 現在は一般公開されています。
旧朝倉家住宅・外観

旧朝倉家住宅・応接間
応接間:近江屋喜助や、孫の診療に訪れる小児科医・河内全中をこの部屋に通したという。
旧朝倉家住宅・1F便所
左:1階の便所
右:手洗い所の窓には結霜ガラスがはまっている
旧朝倉家住宅・会議室
現在の第1会議室は、仏間・中の間(居間)・寝間という畳の部屋を改装したもの。
当時の中の間では虎治郎が書類や新聞に目を通し、前の畳廊下で3日に一度は床屋が来て髭を剃ったという。 
旧朝倉家住宅・角の杉の間
角の杉の間:虎治郎が友人や陳述者に対応した部屋 
広縁側に置いた火鉢(瓶掛け)の傍らに座り、自ら煎茶を入れて客に供したという。
旧朝倉家住宅・角の杉の間・地袋
角の杉の間:飾り棚の戸には素晴らしい彫刻が
旧朝倉家住宅・杉の間・奥
杉の間(奥)
旧朝倉家住宅・杉の間・表
杉の間(表)の部屋は板目材を使用
旧朝倉家住宅・茶室
左:茶室には酒と肴が合いそうな炉が切ってある。
右:円窓の部屋は、息子の精一郎が暗室として使用。
旧朝倉家住宅・手洗い所
円窓の部屋前の手洗い器
旧朝倉家住宅・洋間
洋間:番頭の事務室・来客用として使用
旧朝倉家住宅・洋間天井
洋間の天井
旧朝倉家住宅・事務室
事務室(金庫がある部屋)妻タキが普段この部屋に居たという
旧朝倉家住宅・事務室2
左:事務室の金庫のマーク            右:電話台の跡が残る
旧朝倉家住宅・玄関
家族用の内玄関
旧朝倉家住宅・2F広間
2階広間:小猿雪堂が描いたと伝わる襖絵・杉戸が残る
会合などに使用する以外は殆ど使われていなかったという
旧朝倉家住宅・2F水屋
2階水屋:奥に茶室がある
旧朝倉家住宅・2F便所
2階の便所(左が小便器・右が大便器) 東洋陶器製
旧朝倉家住宅・2F便所天井
2階便所(上:天井、 下:手洗い器)
旧朝倉家住宅・土蔵
左:土蔵は関東大震災後にRC造に建替えられた。 ※内部非公開 
壁に並んだ折れ釘は、火災や補修の際に足場を掛けて屋根に上がる時に使用するもので、饅頭型は補強と水切りの良さを兼ねたもの。
解説板には火災の際に濡らした藁を引っかけるとの記載があり、濡らしたムシロ等で冷却効果を上げたのかもしれない。
右:敷地の片隅に残る機械はポンプか?
旧朝倉家住宅・車庫
ガレージ:大正8年(1919)竣工 管理棟となっていたが近年に復原された
旧朝倉家住宅・配置図
当時の配置図 (展示パネルより)
旧朝倉家住宅・庭


 虎治郎は、明治4年(1871)愛知県碧海郡旭村の豪商・杉浦太一の次男として誕生。 深川の材木商で働き、15歳で店を任されていました。
縁戚の近江屋喜助(材木商)の紹介で、明治30年(1897)に大地主の朝倉徳次郎の娘・タキと結婚。 副業で精米業を営む朝倉家に婿入りした虎治郎は、深川の問屋筋の注文を受けるようになり、東京の4大米屋と言われるまでに成功します。
のちに、虎次郎の弟・八郎も、末娘スエの婿養子となり、共に朝倉精米所を支えています。
 大正5年の資産家調査(※1)東京府豊多摩郡①の中に「五十万円 朝倉虎治郎(精米業)渋谷下渋谷, 略歴, 参州の出身にして日清戦後 先代徳次郎の養子となり甞て郡会議員たりしことあり現に府会議員たり~」と記載があり、初登場となっています。
また、大正12年の関東大震災では、困窮者に2500俵を施し、精米機も無償で貸したといいます。
 公職については、明治37年(1904.5.30)に義父の後を継いで渋谷町会議員となり、家業を弟の八郎に任せて大正4年から東京府会議員となり、渋谷区会議長・東京府会議長・区割整理全国連合会副会長などに就任しています。 大正12年には紺綬褒章を受章。
 しかし、友人にお金の工面をした事で、昭和8年の東京府会議長選で嫌疑がかかります。 五島慶太から青山師範学校移転地に対する報酬金を受取り、議員に賄賂を贈ったという容疑は第1審で有罪となり、第2審では敷地の件は無罪、贈賄の件では懲役5か月の有罪。 上告するも大審院で棄却されます。(※2)
 その後の虎治郎は、東京府議会議員を辞職し、精米業も戦時中の物資統制で営業停止となり、昭和19年(1944/5/3)に他界します。
さらに、昭和21年(1946)に妻タキがなくなると、朝倉家に多大な相続税が掛かり、昭和22年この建物は中央馬事会へ売却されました。
翌年、農林水産省へ譲渡されて農林水産大臣公邸に、昭和32年から経済安定本部(経済企画庁)公邸となり、昭和39年から渋谷会議所として利用されていましたが、平成7年~12年まで保存修復工事が実施され、平成18年より渋谷区の管理となり一般公開されています。

【参考文献】
 「朝倉虎治郎翁事績概要」 1935 有田肇 著  東京朝報社
 代官山ヒルサイドテラスHP 「飄飄踉踉記
※1 「第3回調査 全国50万円以上資産家」(1916.3.29-1916.10.6) 時事新報社
※2 「巨人朝倉虎治郎翁奇禍顚末」 1938 牧野 編  東京朝報社

【2014年9月 訪問】



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