2015.
11.17
Tue
構 造 : 木造平屋建て
建築年 : 不 明
設計施工: 不 明
住 所 : 東京都調布市緑ヶ丘1-25
交 通 : 京王線仙川駅~徒歩10分
見 学: 通常非公開
TEL : 03-3326-5050
    ※詳しくはコチラ⇒【白百合女子大学
めぐみ荘
 白百合女子大学の構内にある古民家は、かつては歌人・菊池袖子の生家でした。
修善寺熊坂村の豪農・菊池家の主屋を、昭和8年(1933)頃に津村順天堂創業者である初代・津村重舎が、北多摩郡神代村仙川(現:調布市緑ヶ丘1丁目)の津村薬用植物園内に移築し、茶会や宮家のご休憩所として使用。 第2次世界大戦中は、杉山元などが秘密会議に使ったとも云われています。 離れ座敷(居室)や長屋門などは、そのまま現地に残し熊坂村に寄贈したとの事ですが、その所在は不明です。 昭和33年の狩野川台風で浸水した後に解体されたのかもしれません。
 津村順天堂の当時の本社は日本橋に、研究所と津村家別邸は上目黒にあり、この津村薬用植物園は、大正13年(1924)に開設。 最初3,600坪の土地から、近隣の飛び地を買い足し、終戦前には23万坪に拡大。 本館・標本館・標本園・温室を備え、ムサシノフローラ計画のための武蔵野の野生植物保護区域もありました。 標本園では染料・香料・局方原料・和漢薬用の植物132種類、民間薬用植物52種類を栽培していたようです。 さらに、昭和12年に日本皇民高等塾も設置されています。
 しかし、戦後の農地解放により植物園は土地を売却して縮小。 昭和24年に高松宮妃殿下や東久邇氏の来訪もありましたが、昭和30年12月に植物園は公開中止に。 売却された跡地は新川団地・三鷹市立第5中学校・第一処理場などになりました。
 また、開園当初の土地は昭和30年に売却されて帝国石油㈱の保養施設となり、宿泊所・プール・テニスコートを設置。 昭和39年に白百合学園の所有(翌年に九段から移転して4年制大学となる)になり、この建物はめぐみ荘と名付けられ、後に本館が新築された際にテニスコートの脇(現在の芝庭付近)から現在地に曳家されました。 なお、学生寮となっていた帝石の宿泊所は解体され、図書館が新築されています。
 かつての土間・囲炉裏の間・納戸(寝間)という古典的な農家の間取りに、式台の設置が許された家でしたが、帝石時代に増築し、昭和60年に改装され、その式台は撤去されて広縁になっています。 
めぐみ荘・越屋根
煙抜きの越屋根
めぐみ荘3
左: 玄関横の増築部                  右: 建物裏手
めぐみ荘・玄関
玄関
めぐみ荘・土間1
土間は現在、床が張られている
めぐみ荘・土間2
左手が板の間、右手が座敷
めぐみ荘室内
土間方向から見た様子。 真ん中の部屋が玄関の間(現在の中ノ間)
めぐみ荘・板の間
板の間: かつて囲炉裏があった場所
めぐみ荘・中の間の床の間
中ノ間: 昔は玄関の間で 外側に式台があった
めぐみ荘・広縁
広縁
めぐみ荘・上座敷の床の間
上座敷の床の間
めぐみ荘・水屋
左: 裏手にも廊下が廻り、部屋が増築されている    右: 水屋は新設


 菊池袖子は熊坂村の菊池安兵衛武教の長女として天明5年(1785)に生まれました。 菊池家はかつて北条氏に仕えた郷士であり名主を務めた家柄で、父・武教は漢学者でした。 いつしか袖子は和歌に興味を持つようになり、加藤千蔭や竹村茂雄から国学を学び、歌人として実秋卿や公家の方との文を通しての交流が始まります。
 養子の武恭と結婚し、菊池家の跡を継いだ袖子は一男三女を儲けますが、29歳の時に長女を、翌年に長男と相次いで亡くしてしまいます。
その時の歌が… 夕されば帰りや来ると門に立ちて待ち習ひたる我ぞ悲しき …
主婦として家事をこなし、農作業の合間に『菊園』として歌を詠んだ袖子は、天保9年(1838)8月に病に伏し、9月5日に他界、熊坂の自得院に葬られました。
めぐみ荘2

【参考文献】
「調布市域の文化財と津村薬用植物園」 赤城高志
「静岡県郷土研究 第6輯」 1936 静岡県郷土研究協会
「歌人菊池袖子について」 室城秀之

【2014年11月 訪問】


スポンサーサイト
comment 0 trackback 0
2015.
11.01
Sun
住 所 : 東京都 三鷹市 大沢3-10-2
交 通 : JR三鷹駅・武蔵境駅~バス~国際基督教大学行き終点

       ※詳しくはコチラ⇒【国際基督教大学
ICU泰山荘・門
 ICUの泰山荘には、寺社仏閣の古材を使った『草の舎』を組み込む『高風居(こうふうきょ)』があり、学園祭や東京文化財ウィークで一般公開されます。(殆どは外観のみ見学) 現在は撮影禁止になっており、今回の写真は以前撮影したものを掲載しています。


 日産コンツェルンの重鎮・山田敬亮(※1)が昭和9年(1934)この土地を購入。 別邸「泰山荘」として昭和11年頃(1936)に母屋などが、昭和14年(1939)には茶室が完成しています。
 その後、この土地は昭和15年(1940)に山田家から中島飛行機㈱へ売却され、中島飛行機三鷹研究所となり、泰山荘は中島知久平が自宅として使用。 終戦後、創立まもない国際基督教大学が昭和25年(1950)に一部の土地を購入し、語学研究所(1952.4.29献学式)を開設。 泰山荘は一時 校宅として使用され、現在は賓客の接待や学生達の茶道稽古に利用されています。
この様な貴重な建物を保存できたのも、民芸研究家であったICU初代学長・湯浅八郎の努力によるものでしょう。
ICU泰山荘・門2
表門(昭和11年頃): 江戸城幸橋御門の櫓土壇から発掘された古材が横木と梁に使われており、火災と思われる炭化した形跡が残る。
「泰山荘」の扁額は、昭和41年に焼失した母屋の物。京都建仁寺・竹田頴川の落款がある。
ICU泰山荘・車庫
車庫(昭和11年頃): 木造
ICU泰山荘・書院
 書院も昭和11年頃に建てられたもので、昭和41年に焼失した母屋(日野にあった江戸時代の農家を移築)と渡り廊下で繋がっていたため、一部被災し修復している。
ICU泰山荘・書院玄関
書院の玄関
ICU泰山荘・待合1
待合(江戸末期)
東京大崎の備前岡山藩の下屋敷(現・池田山公園)にあった池亭を移築したものと伝わる
ICU泰山荘・待合2
待合: 学園祭では茶席として使用するが、お茶券の数に限りがある
ICU泰山荘・高風居1
待合: 室内
ICU泰山荘・草の舎1
高風居に組み込まれた『草の舎』
 草の舎は一畳敷きの小間で、松浦武四郎(※1)により明治19年(1886)寺社仏閣の古材を用い、神田五軒町の松浦邸内に建てられた。(棟梁・藤田政吉) その後、徳川頼倫(※2)の所有となり、大正14年(1925)代々木上原の『清和園』に草の舎を移し、さらに古材で茶室と水屋を増築して『高風居』と名付けた。
 山田敬亮(※3)の所有となってから、昭和11年に三鷹の別邸「泰山荘」敷地内に移築されたが、水甕の蓋に「草舎」と書かれた(細井広沢 書)扁額は不良に燃やされる。 その後、草の舎を明治村へ売却する話も出たという。
ICU泰山荘・高風居3
高風居の茶室
ICU泰山荘・高風居2
高風居の欄間
ICU泰山荘・高風居4
高風居の水屋 
 「泰山荘之記」の配置図には、高風居の近くにわさび田が描かれていて、ハケの水を利用し栽培していたようだ。
その昔この辺りは米があまり採れない土地で、農家は小麦や蕎麦を栽培して水車で粉を引き、深大寺参道でうどんや蕎麦の店を出すようなった。 


【施主たち】
(※1)松浦武四郎(本名:松浦弘=ひろむ): 草の舎の施主
 伊勢国で松井時春の四男として文化15年(1818年)に生まれ『竹四郎』と命名。
平松楽斎の私塾で学んだ後、天保4年(1833)に家出し、江戸から連れ戻されたものの全国を放浪するようになりました。 病にかかった後、長崎の禅林寺で修業し『文桂』と改め、平戸の宝曲寺・千光寺で住職となっています。
 再び探検心が目覚め、朝鮮や蝦夷地への渡航の失敗を経て、弘化元年(1844)僧念を断り、翌年に商人に扮して蝦夷地に潜入し、蝦夷日誌や蝦夷大概之図を作成。 その後は幕府公認で蝦夷地の調査を行いました。 その功績が認められ明治元年(1868)に箱館府の徴士、翌年から開拓判官に就任。
 しかし、アイヌの改善を目指した松浦は、地元の商人や役人らの抵抗にあい明治3年(1870)辞職に追い込まれます。 引退後は号を『馬角齋(ばかくさい)』とし、風刺文「賀真宗僧某新婚」を書いたり、古美術品や古銭を収集。
『滑稽記事論説戯範』という本の中に、「馬角齋とは愚蒙の謂ひなり、齋は安在なり、余の至る所の處に在り、而して馬には角なし角ある者は鹿なり、鹿と指て之を馬と謂ふは蒙の甚だしきなり~」という馬角齋の記事が取り上げられています。
 そして寺社仏閣の古材を集めて、自宅(借地:神田区外神田五軒町15)に1帖の書斎『草の舎(くさのや)』を増築します。
70歳でも大台ヶ原や富士山へ登山できるほど体力があった松浦は、明治21年(1888.2.10)脳溢血で他界。 お墓が東京の染井霊園にあり、故郷の松坂市に『松浦武四郎記念館』が建てられています。

(※2)徳川頼倫 : 高風居の施主
 紀州徳川家15代当主で侯爵であり、日本図書館協会総裁でもありました。 古美術を愛好し、書も得意であったようです。
松浦武四郎の草の舎を買取り、麻布区飯倉町6-14(現・麻布小学校付近)の本邸に保管しますが、主屋(洋館1908年)等が関東大震災で被災。
代々幡町代々木上原1177(現・渋谷区上原)鈴木善助の大山園跡を取得して『清和園』とし、そこに草の舎を移し、さらに神社仏閣、戦艦三笠(畳寄・廊下境の敷居と透戸、炉縁のチーク材)や徳川幕府戦艦蟠龍丸(床脇天井板)等の古材で茶室と水屋を増築して『高風居(こうふうきょ)』と名付ける事にしました。 しかし大正14年(1925)徳川頼倫は亡くなり、久子夫人が清和園を完成させています。
 ちなみに関東大震災で被災した、徳川家の麻布本邸にあった南葵文庫の蔵書は、東京帝国大学へ寄贈されました。 そして文庫の建物一部は熱海に移築され、現在はヴィラ・デル・ソルのレストランとして使用されています。 また、同じ敷地にあった南葵楽堂のパイプオルガンは上野の旧東京音楽学校奏楽堂に保存されています。(1928寄贈)

(※3)山田敬亮 : 泰山荘の施主
 明治14年(1881)山口県一寒村で生まれ、親戚の山田家の養子となります。 明治37年に早大法科卒業後、北濱銀行堀留支店に入社。 鮎川義介と出会い、会計係長として戸畑工場新設に関わり、戸畑鋳物㈱(日立金属の前身)常務となっています。 また、共保生命や日本産業(日産自動車を設立)の専務に就任。 茶名は山田橘庵。 昭和9年に高風居を買取り、三鷹の泰山荘へ移築。

【参考文献】
「拾遺松浦武四郎」吉田武三 著 1964 松浦武四郎伝刊行会
「木片勧進」松浦武四郎 著 1887
「滑稽記事論説戯範」痩々亭骨皮道人 著 1890
「図書館物語」竹林熊彦 著 1958 東亜印刷出版部
「新東亜建設を誘導する人々」1939 日本教育資料刊行会
「泰山荘之記」高木文(紀州家)著 1936


comment 0 trackback 0
back-to-top