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2016.
05.29
Sun
 この建物がまだ残っているか不安でしたが、2016年に5月に行ってみると・・・
隣の町屋は無くなっていましたが、ありました!
※誠に残念ながら2018年に解体されてしまいました(泣)
村林ビル1
村林ビル(昭和3年,RC造3F)江東区佐賀1-8-7
村林ビル
 設計は関根要太郎と云われており、『関根要太郎研究室@はこだて』に詳しく紹介されている。
施主について調べてみると、肥料商の村林商会(村林榮助商会)があり、明治40年の文献で営業地が小松町6番地となっている。 関東大震災で町割りが随分と変わってしまったが、ほぼ現在地(佐賀1-8)と同じである。
 創業者の村林榮助は、弘化4年10月に三重の松坂魚町に住む魚商の長男として生まれ、東京深川の海産物肥料商・小津商店に店丁として入り、28歳で支配人に。 小津商店で働きながら、明治32年11月に小松町で雑穀肥料商を創めた。(明治35年に小津商店を辞める) それ以降は肥料業界の重鎮として、倉庫銀行取締役・第3回博覧会の肥料部審査員・東京肥料協会の初代会長なども務め、その人柄は「資性温厚達識明朗」となっている。 さらに、ご親族から村林榮助がこの建物の施主であるとの確認も取れた。
現在の村林ビルは、Blank(ブランク)という撮影スタジオや建築事務所として活用されている。
村林ビル・タイル
村林ビルのタイル
村林ビル2
左:出入口は計3ヶ所         右:町屋の解体跡が残る村林ビル


コスガビル
コスガビル(大正末頃):江東区 佐賀1-12-3
 大正3年の商業地図には、「小菅兵次郎(佐賀町2丁目37)米穀」と出ている。
小菅氏は近江の彦根出身で、明治10年代に上京して米問屋を創業。 この建物は関東大震災後に建てられ、1階が事務所、2階に社長室・応接室があった。
コスガビル2
コスガビル
コスガビル・ギャラリー
コスガビルは現在、1階の半分がギャラリーとなっている。
※佐賀町のギャラリーは2018年1月で閉館
食糧ビル跡
食糧ビル跡(江東区佐賀1-8)
 久しぶりに訪れた2014年、これを見てショックを受けてしまった。
正米市場(1927年築、RC造3F建て)の建物として建設されたが、戦時中の食糧統制で廃止され、戦後は民間会社や商店が利用。 80年代以降はギャラリーになっていたが、2002年に解体されて、マンションになってしまった。 『佐賀町エキジビットスペース』の時代に訪問したが、その写真が見つかれば掲載する予定。
渋澤栄一邸跡
澁澤栄一宅跡(江東区永代2-37)
 深川東京モダン館~村林ビルへ向かう路地は複雑なため永代通りを歩いていると、江東区教育委員会の解説板を発見。
そこには、「明治9年(1876)深川福住町の屋敷を購入し、修繕して本邸としたが、明治21年(1888)兜町に本邸を移したため別邸として利用された。 明治30年(1897)当地に澁澤倉庫部を創業。 澁澤栄一は浅野セメント㈱・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などの設立にも関与している。」等と書かれていた。 この汽車製造会社は江東区南砂2丁目にあったもので、新幹線の試作車製造も行われていた。
渋澤倉庫・古写真
上:大島川西支川と黒江川(埋立て)の角にあった澁澤倉庫  澁澤倉庫㈱蔵
下:澁澤倉庫本店事務所と倉庫 大正5年(1916)撮影  澁澤倉庫㈱蔵
  ※澁澤倉庫の歴史はコチラ ⇒【澁澤倉庫㈱
 

~永代橋界隈の歴史~
 隅田川の永代橋近くにある佐賀町付近は、古くは漁師町として栄え、それ以降は物流の拠点となり、米穀物類や干鰯・油糟・米糠などの肥料が取引され、それらの問屋や倉庫が建ち並んでいました。
 明治18年に東京府の認可を受けて東京肥料問屋組合が設立され、明治21年に組合事務所が小松町2番地(現:佐賀1丁目)に木造2階建ての和風建築(1F事務所、2F大広間)を新築し、隣りの借地に肥料市場を構えました。 その頃には、高峰譲吉・澁澤栄一らが東京人造肥料会社を創立しています。
 大正11年(1922)東京米穀商品取引所第三部が佐賀町に設置され、穀物類・肥料の取引開始。 しかし関東大震災でこの地域に火災が発生し、永代橋や東京米穀商品取引所、東京肥料問屋組合事務所も焼失。
 昭和2年に正米ビル(食糧ビル)が竣工すると、昭和4年に東京肥料協会創立総会がそのビルで開催され、村林商会の村林榮助を会長として決定。(数年後に病気で辞任) 戦時中は穀物や肥料も配給制となり、組合も統合されて市場も閉鎖されました。

【参考文献】
「京浜実業家名鑑」1907 京浜実業新報社
「新式商業地図」1914 東京書院
「東京肥料史」1945 東京肥料史刊行会

【2014・2016年 訪問】


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2016.
05.22
Sun
建築年: 昭和7年(1932)3月完成、 1948年頃・2009年に改修
設 計: 東京市建築課、 施 工: 鹽城淺次郎
構 造: RC造2階建
住 所: 東京都江東区門前仲町1-19-15
交 通: 東京メトロ・都営地下鉄「門前仲町駅」~徒歩約3分
開 館: 10時~18時(金・土曜日19時まで) ※月曜(休日の場合は翌日)・年末年始など休館
      ※詳しくはコチラ⇒【深川東京モダン館
深川東京モダン館
 関東大震災後に、東京市が数か所に設置した食堂の一つで、時代により名称・用途を変更しています。
設計時の名称は『黒江町食堂』で、昭和7年3月に『深川食堂』として完成。 一時閉鎖後、昭和13年から『東京市深川栄養食配給所』として再開し、近隣の工場労働者向けに営業。 昭和18年から『東京市深川食堂』、翌年には『都民食堂』となっています。
昭和20年の空襲で被災したため改修し、昭和23年から『亀戸公共職業安定所深川分室』となり、それ以降は名称を変えながらも職安の施設として利用。 昭和54年に江東区へ移管され、内職補導所や福祉作業所に活用して平成18年に閉鎖。 平成21年4月に耐震補強等の改修工事が完了し、10月から『深川東京モダン館』として活用されています。
深川食堂・外壁
外壁は南満鑛業㈱製のリソイド仕上げであった
深川東京モダン館・階段
階段のタイル一部は古い物が現存
深川食堂・メニュー
東京市の食堂時代(景気が良い時)には2種類の定食に嗜好食と、現代の社員食堂に引けを取らないメニューが提供されていた。
深川東京モダン館・2階
2階は貸室として各種イベントに利用されている。 1階にはカフェがあり、ボランティアガイドさんも常駐。
深川の工場
 企画展「江東発祥 近代江東の産業史」(2014年11月)に展示されていた写真
江東区には工場や倉庫がたくさんあり、栄養食配給所も各所に設置された。 現在、店舗やギャラリーに再利用されている倉庫などがある。
上:大正時代の大日本製糖㈱(小名木川付近) ※写真は江東区中川船番所資料館蔵
中:昭和30年に撮影された三菱倉庫㈱深川佐賀町倉庫 ※写真は江東区教育委員会蔵
下:明治頃の東京瓦斯砂村製造所コークス製造炉(砂村)※写真は江東区中川船番所資料館蔵
 熱してガスを取り出した石炭はコークスになり、水を掛けて冷やしている様子
豊洲のガス工場跡地の土壌汚染が話題になったが、これも一因か?
深川東京モダン館2


 大正末期~昭和初期、これらの公営食堂の他に、工場の組合等が設置した栄養食配給所(給食センターの様なもの)もありました。 街中の食堂より新鮮で上等な食事が1日3食提供され、栄養士の考えたメニューで健康にも良く、脚気などの病気も減りました。 労働者の確保もでき、小規模工場では賄い食を作らなくてよいので主婦も大助かり。 金網入りの窓や二重出入口、消毒槽などを設けた優良な調理場もあったようです。
 江東区には江東消費組合が設置した栄養食配給所が数カ所ありました。 これは関東大震災の時に賀川豊彦が神戸から上京し、駒形にテントを張って救援活動したのが始まりで、賀川が組合長になって設立されました。
まずは昭和11年に横川橋のたもとに第一栄養食配給所が、その後は厩橋に1ヶ所、石川島町に3ヶ所作り、一番大きな配給所では1斗5升炊き炊飯釜10ヶ・副食用の釜4ヶ、揚げ物機・魚焼き機・洗浄機・消毒槽など設置。 10人分を1単位とし、50円の出資金を払えば2マイル以内に住む者に届けられ、朝は味噌汁、昼や夜には煮魚や煮込み、カレーなどが提供されました。 その食費は昭和12年で28銭となっています。
 さらに、昭和13年に新設された厚生省が栄養食配給所を奨励し、食事の改善策として集団生活地(工場や学校)・商店のある市街地・農繁期の農村に、栄養食配給所を市町村・団体・個人が設置するよう勧めました。 1日3食の価格は、市街地は30銭前後、農村は20銭位。 大規模な所は栄養士を置き、小規模は短期栄養講習を受けた炊事夫を置くよう奨励します。 昭和13年9月に厚生省衛生局が調査した資料によると、栄養食配給所・共同炊事場は全国で恒久施設138ヶ所、臨時施設40ヶ所となっています。 それでも東京30ヶ所・埼玉23ヶ所と集中し、未設置の県も数多くあったようで、その後は一気に増えますが、食料も乏しくなると質は下がりました。
 東京では、終戦間際の昭和20年(1945/2/5~)、都心部には75ヶ所の都民食堂が設置され、空襲の合間にうどん(1食18銭)を警防班・救護班優先で提供していましたが、それも同年6月に休止しています。
 この様な栄養食配給所や公営食堂は全国にあったのですが、栄養食配給所の建物が現存確認できているのは、深川食堂と川越栄養食配給所だけのようです。 
栄養食配給所1
川越の栄養食配給所跡

【参考文献】
・「公衆衛生57(2)」1939 日本衛生会
・「食生活54(10)(617)」1960 国民栄養協会
・労働の科学 14(12)「栄養食共同炊事の思い出」山岸晟 著 1959 大原記念労働科学研究所
・糧友 12(7)(138)「江東消費組合第二配給所」1937 食糧協会
・「麺業史」 1959 東京都麺類協同組合
・建築の東京(原本: 都市美協會昭和10年刊 大東京建築祭記念出版) 2007

【2014・2016年 訪問】


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2016.
05.08
Sun
住 所: 埼玉県川越市松江町2丁目11-10、12-4
交 通: 西武新宿線 「本川越」 駅~徒歩約11分、または東武バス 「蓮馨寺」or「中原町」バス停~徒歩3分位
公 開: 2016/5/22,6/26の12~15:00、7/30百万灯夏祭りの17:30~20:30
     ※それ以降は保存整備工事の都合上、公開については川越市都市景観課へ要問合せ
川越織物市場1
 旧鶴川座と同じ、立門前通り沿いにある古めいた建物。 実は明治末期に建設された織物市場跡で、川越の歴史には欠かせない織物にまつわる施設でした。 
江戸時代、秋元家が甲斐国谷村藩から入封すると絹織物の技術が庶民に伝わり、夏袴の絹布『川越平』が生産され、品質面でも五泉平と並んで全国2位(1位は仙台平)になりました。 その技術は綿織物でも生かされ、江戸末期からインド製の唐桟織を模倣した『川越唐桟』へと変化。
明治に入っても織物業は盛んで、川越を含む入間郡は埼玉の中でも製糸工場・織物工場・機業家数とも圧倒的に多く、昭和まで生産されていました。
昭和13年の資料によると、川越織物工業組合(松郷484)所属の織物工場では、人絹着尺地・ポプリン・縞木綿などが生産されています。
 明治末期には、織物市場と染織学校が設置されており、明治41年に開校した川越染織学校は、染織科の専門課程と一般教養を学ぶ公立学校で、校内には図案調整所(1910創立)も併設され、品評会の優秀作品は組合へと提供されました。 この学校は現在、川越工業高等学校となっています。
川越織物市場2
 川越では、川越商業会議所の主導により織物市場を設置することになり、明治43年3月14日に川越織物市場㈱を創立。 建設費25,000円をかけた建物が3月中旬に竣工しました。
そして織物市場組合(松郷471)がこの建物を借り受け、3月25日に開業式、4月5日から初市が行われました。 それ以降、毎月5と0が付く日(2/30→3/1変更)の8時~14時に市が開催され、綿・絹綿・絹・染物類が取引されました。 その他にも川越には、毎月1・6の日に開催される南町の繭糸市場(設立1910年)や、3箇所の市場を合併した連雀町の青物市場などがありました。
織物市場に入る仲買商の口銭は1.5/100、構内には税務署の出張所も設置された健全な市場でしたが、東京の大店では直取引が行われるようになり、7~8年で閉鎖となっています。
 その後、長屋住宅として使用されていましたが、平成13年11月に14階建マンションの建設計画が発表され、即座に地元の有志が「旧川越織物市場の保存再生を考える会」を立ち上げます。 13,000人以上の署名も集まり、川越市で買収する事になったものの、価格交渉で折り合わず取壊しの危機に。 12月~翌年6月までメンバーが夜間も泊まり込んで建物解体を防ぎ、2002年12月に保存が正式に決定されました。 以降、不定期ですが建物も公開され、今後は保存整備工事が実施されます。 さらに、若手アーティストらの創業支援施設として貸し出す方針となりました。⇒【川越市
川越織物市場・図面
川越織物市場の図面                ※展示パネルより
 東棟(平面図上)は組合事務所と10店舗、西棟(平面図下)は12店舗。
間口3間を板戸で2つに区切って6帖間とし2店舗が入る。 裏手に便所の個室が11か所
川越織物市場4
住宅に改装された箇所
川越織物市場3
当初の様子が分かる箇所
川越織物市場・揚げ戸
格子戸と板戸は摺りあげ戸形式で、柱を外すと全開できる
川越織物市場・1階
住宅として改装された室内
川越織物市場・階段
左:階段から見た2階の部屋       右:1階から階段を見上げる
川越織物市場・2階
2階の部屋は床が抜ける恐れがあるため覗く程度
川越織物市場・室内
当初の様子が分かる部屋もある
川越織物市場・土間
上がり框の下にある床下換気口
川越織物市場・模型
川越市立博物館に展示されている模型
栄養食配給所1
栄養食配給所:木造一部2階建て
 当初は事務所として建設されたようで、栄養食配給所になると朝・昼・晩の食事が配給された。 各工場の貧しい賄い食から、ライスカレー等のハイカラな食事になったという。
この栄養食配給所は労働者の食の改善のために設置されたもので、川越市の調査によるとこちらを含めて2ヶ所が現存。 東京・門前仲町には市設の深川食堂(1932)が残り、『深川東京モダン館』として保存活用されている。
この川越栄養食配給所は役目を終えた後、住宅に転用された。
栄養食配給所3
左:市場側から見た栄養食配給所 
右:カマドの上に床を張り住宅として改造(手前は掘り炬燵か?)
栄養食配給所・内部4
床下のカマド跡
栄養食配給所・内部1
カマド跡:焚口は裏側にある
栄養食配給所・カマド
カマドの中
栄養食配給所・内部3
厨房境の窓
栄養食配給所・内部
左:道路側も住宅として改装    右:厨房(カマド部分)は吹き抜け天井
栄養食配給所2
改築を重ねた栄養食配給所


 訪問時には、泊まり込みをして解体を防いだメンバーもおり、栄養食配給所の内部も拝見させていただきました。
川越織物市場の会の皆様、誠にありがとうございました。

     
【参考文献】
「埼玉県勧業年報」 1903 埼玉県内務部
「川越商工案内」1911 川越商業会議所
「日本綿織物工業組合聯合会所属組合員名簿」1938 日本綿織物工業組合聯合会
「川越商都の木綿遺産:川越唐棧 織物市場 染織学校」2012 川越織物市場の会
図録「譜代大名秋元家と川越藩」2012 川越市立博物館
川越市HP

【2015年3月 訪問】


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