2016.
06.26
Sun
建築年: 大正2年(1913)、平成5年(1993)改修
設 計: 設計は海軍経理部建築科(櫻井小太郎・富田喜久二)、監督:弘中儀一
構 造: 木造、一部2階建て
見 学: 非公開
住 所: 神奈川県横須賀市田戸台90
交 通: 京急電鉄・県立大学駅~徒歩約10分
TEL: 046-822-3551(海上自衛隊横須賀地方総監部総務課広報係) 
田戸台分庁舎1
 横須賀の旧海軍司令長官の官舎が、桜の時期に一般公開(1Fのみ)されています。
「鎮守府」とは、出征準備・防御計画・海軍区の警備や事務を監督する海軍機関で、東海鎮守府が明治17年に横浜から横須賀造船所内へ移転して「横須賀鎮守府」と改称。 明治23年に新庁舎(設計:林忠恕)が完成し、当初の長官舎は造船所経理部官舎の向かいにありました。
 大正2年にこの長官舎が完成すると、歴代の長官が家族と共に入居します。 その中でも海軍中将・東伏見宮依仁親王は、東伏見宮家の文献によると、大正2年(1913/4/1)横須賀鎮守府艦隊司令官、大正5年(1916/12/1)に横須賀鎮守府司令長官となり、大正6年3月16日に周子妃と共にこの官舎へ入居。 同年12月1日に第二艦隊司令長官となり転居となっています。
こちらの掲示板によれば、大正2年7月から僅か1ヶ月の居住となっていますので、新築間もない頃は殆ど使用していなかったのかもしれません。
ちなみに、東伏見宮依仁親王は私邸として、湘南地域に葉山別邸(1914)がありました。
 終戦後は昭和39年まで進駐軍に接収され、外壁・内部も白く塗り替えられて、歴代のアメリカ海軍司令官ら9人が住んでいました。 その当時の写真(柱・長押は白く塗られていない)には、2階和室の窓を背に広縁と畳をまたぐ形でベッドを置いた様子が写っています。
 昭和44年に返還された後は防衛庁の所管となったものの殆ど使用せず、平成5年に改修されてから会合や貴賓客の接待に使用され、現在は海上自衛隊横須賀地方総監部の管理の下、1階ホールは貸室としてピアノ演奏会等に利用されています。 ※詳しくはコチラ⇒【田戸台分庁舎
田戸台分庁舎6
表玄関
田戸台分庁舎3
古写真(展示パネルより)には、和館に通じる内玄関(妻や子供らが使用)が見える
田戸台分庁舎7
基礎や煙突部分は煉瓦造+石貼りか?
田戸台分庁舎・窓
上:応接所のステンドグラス        下:出窓の内側は屋根裏倉庫
田戸台分庁舎・玄関
玄関ホール
田戸台分庁舎・応接所
旧応接所(記念館)と暖炉:天井が張られステンドグラスが隠れている
田戸台分庁舎・応接所家具
旧応接所の家具と、机に置いてあるBOOKスタンド
田戸台分庁舎・旧客室2
旧客室(リビング):一般公開は土足入場のため、床に養生が張られている。
田戸台分庁舎・旧客室1
旧客室(リビング)
田戸台分庁舎・ピアノ
 大正時代に独・ハンブルグで製造されたスタインウェイ社製グランドピアノ。 海軍の従軍カメラマンとして樺太に居住していた野坂保雄が、帰国する際に購入して持ち帰ったもので、転居(1929)に伴い海軍に寄贈したと云われている。 修復済みで実際に使用できる。
田戸台分庁舎・客室暖炉
左:旧客室(リビング)の暖炉    
右:暖炉上の壁にあった小川三知のガラスモザイク一部。 進駐軍接収時代は壁に鏡が貼られていた。
田戸台分庁舎・食堂1
食堂 (下の写真は展示パネルより) 暖炉は無くなっている   
田戸台分庁舎・食堂2
食堂
田戸台分庁舎・食堂家具
食堂の家具:上の古写真を見ると当時の物と分かる。
田戸台分庁舎・食堂3
食堂/サンルーム境のステンドグラス
田戸台分庁舎・サンルーム
旧縁側(サンルーム):床のタイルは石
田戸台分庁舎・古写真
解説パネル:進駐軍接収時代の写真も(1階客室と2階和室)
田戸台分庁舎・階段
階段:2階は非公開。 和室二間があり、洋館の上は屋根裏倉庫になっていた。
田戸台分庁舎・廊下
和室前の廊下:邸内も広く私用空間を分けているため、陸軍第13師団長官舎では、呼鈴の1鈴は長官の来客・2鈴は夫人の来客・3鈴は食事の合図となっていたが、ここでは使用人が呼びに行ったのだろうか?
田戸台分庁舎・1F和室
1階和室は改装済み
田戸台分庁舎2
和館外部
田戸台分庁舎・外壁
進駐軍が全ての木部にペンキを塗っている。
田戸台分庁舎8
 同じ敷地内に、建坪40坪・平屋で日本家屋の司令副官舎(1913,富田喜久二設計)もあったが、返還後に2世帯向き官舎に改修され、平成17年(2005)解体。 これらの高等官以上の官舎は有料であったようで、玄関・取次の間・床付き室は公用として家賃の対象から除外すると海軍規則に書かれている。 建設時は長官自ら建築指導しており、新潟にある陸軍第13師団長官舎(1910)は長岡外史中将が設計から庭木の植付けまで関わり、好みの官舎に仕上げている。(横須賀の長官舎は瓜生外吉が指導)
田戸台分庁舎・防空壕
敷地内にある小山の下は防空壕
田戸台分庁舎・門
門柱と塀は一部を除き現存

田戸台分庁舎5


 この建物を設計した海軍経理部建築科長・櫻井小太郎は、明治3年(1870)神田今川町生まれ。 J・コンドルの建築事務所、UCL(ロンドン大学)で建築を学び、ロジャー・スミス建築事務所で2年間の実務を経て、英国王立協会建築家資格を取得します。
明治26年に帰国した後、コンドルの事務所でドイツ公使館を手伝っていましたが海軍技師となり、明治36年から建築科長として呉・横須賀鎮守府の建物を手掛け、大正2年に退官。 三菱合資会社地所部の技師長として丸の内ビルディング等を担当し、大正12年に櫻井建築事務所を開設。 意匠図~原寸図まで図面の描き方・寸法の記入など細部にわたって所員に注意していたそうです。 私生活では能楽・仕舞・漢詩などの趣味を持ち、中條精一郎や佐藤功一らと事務所(丸ビル内)近くにあったエーワンレストランでよく昼食を共にしたとの事。
 作品は、旧呉鎮守府長官官舎・静嘉堂文庫・成蹊学園・旧横浜正金銀行門司支店,神戸支店など。
木造2階建ての個人住宅では、田中銀之助邸(麻布.兵衛町)や三好邸(四谷.仲ノ町)等を設計しましたが、現存しているのは旧 荘清次郎別邸だけのようです。
荘清次郎別邸
旧 荘清次郎別邸:大正5年,木造2階建て(鎌倉市扇ガ谷1-7-23)
 三菱合資会社の役員をしていた荘清次郎の別荘として建てられた。 その後、内閣総理大臣を務めた濱口雄幸や近衛文麿らが借りて別荘に利用し、昭和12年(1937)日本土地建物㈱の古我貞周が取得した後、進駐軍に接収されて将校クラブとして使われる。 返還された後、レーサーであった息子の古我信生が受け継ぎ使用していたが、2015年にレストラン『古我邸』へと生まれ変わった。 この写真はレストラン開店前に撮影(2014年10月)。

【参考文献】
「新横須賀市史 別編 文化遺産」2009 横須賀市
「依仁親王」1927 東伏見宮家
建築雑誌 50(612)「追憶」櫻井小太郎著 1936
建築雑誌 69(807)「桜井先生を忍ぶ」石原信之著 1954

【2015年4月 訪問】


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2016.
06.12
Sun
建築年: 明治37年(1904)竣工
設 計: 大蔵省・妻木頼黄
構 造: 煉瓦造3階建て一部平屋+地下1階
住 所: 東京都北区滝野川2-6-30
交 通: JR・東京メトロ「王子駅」~徒歩約10分、or 都バス・都電「飛鳥山」~徒歩約7分
赤レンガ酒造工場
 この建物は醸造試験所の酒類醸造工場(第一工場)として、醸造・貯蔵・熟成に関する試験を行うため、明治37年に建てられたもので戦時中に一部被災しています。 2015年4月、桜の時期の一般公開で、予約無しで見学できるとの事で行って参りました。
今回は1階を公開していますが、通常の団体見学は地下や2階も見学できたようです。(以前は団体であれば平日に見学出来ましたが、酒類総合研究所東京事務所が2015年7月に広島へ移転してしまったため、2016春の一般公開はしなかったようです。)
※現在は、日本醸造協会(03-3910-3853)が管理しており、2016年秋以降に団体受付を開始するとの事。
赤レンガ酒造工場・門
王子駅から川沿いを歩き、坂道を上がっていくと公園の入口に辿り着く。 この門はかつての醸造試験場の表門で、同じ頃に建設されたもの。
赤レンガ酒造工場1
区立公園の奥に赤煉瓦の建物が
赤レンガ酒造工場5
旧 変電室・ボイラー室前(北面)
赤レンガ酒造工場・ボイラー室
旧ボイラー室では講演会も行われた
赤レンガ酒造工場・廊下1
廊下の天井はアーチ状
赤レンガ酒造工場・麹室1
左:低温貯蔵室/廊下境の出入口           右:冷蔵庫
赤レンガ酒造工場・麹室2
低温貯蔵室(旧麹室):壁や天井は釉薬煉瓦を使用。 これと似た様なものが、日本銀行本店(設計:辰野金吾1896,)の地下金庫や、旧岩崎久彌邸(設計:J.コンドル,1896)の本館~撞球室をつなぐ地下通路壁(非公開区域)に使用されている。
たしか、横浜正金銀行(設計:妻木頼黄1904)の地下金庫も釉薬煉瓦だったような…。
しかしこの工場では、表面の釉薬が水分調整できず、麹室として使用されなくなり、低温貯蔵室になったという。
赤レンガ酒造工場・麹室タイル
低温貯蔵室(旧麹室)の釉薬煉瓦:愛知煉石または陶弘社製。 湿気による劣化防止のために釉薬がかかっている。
赤レンガ酒造工場・廊下3
廊下の曲がり角の所は天井が吹き抜けているが、屋根の形跡も残る
赤レンガ酒造工場・廊下2
エレベーター前の廊下:2階の床を兼ねた1階天井。 I型鋼の小梁とアーチ状の煉瓦積みの連続。
赤レンガ酒造工場4
 創建時の3階建て部分は、地下に貯蔵室3室+作業場、1階は貯蔵室2室+清澄室1室+作業場、2階は発酵室2室+酒母室1室+分析室+搾場、3階は温水槽・冷水槽・寒水槽を設置。
赤レンガ酒造工場6
3階建て部分(東面)
赤レンガ酒造工場3
3階建て部分(南東方向)
赤レンガ酒造工場2
南面にある倉庫部分(旧 蒸米冷却室・低温実験室)
赤レンガ酒造工場・窓
左:倉庫の窓(南面)           右:3階建て部分の階段室窓(北面)
赤レンガ酒造工場・窓枠
外壁煉瓦:日本煉瓦製造㈱上敷免工場製など。 内壁煉瓦はイギリス積で、外壁煉瓦はドイツ積になっていたり、二重壁とし断熱のための空洞を設けている箇所がある。
赤レンガ酒造工場・開口部
左:ボイラー室内の窓台は無くなっている     右:廊下の天窓(換気口?)にまぐさらしきものが  

 大正11年の醸造所設備について記した本(※1)によると… 
仕込み桶は相当重いので1階に設置し、機械を置く時は煉瓦半枚増し積み。建物の重量を垂直に受ける所はコンクリートとし、面積が広ければ煉瓦をアーチに積んで材料節約。 壁は厚くするか二重とし、煉瓦であれば二重にして1~2寸の空洞を設ける。
二重ガラス窓(または内側に障子戸)は南側か東側に設置、出入口も二重にし、天井を張る。
麹室は、天井を傾斜させて水滴が麹に付かないようにし、明り取りの二重天窓(二重硝子戸か硝子戸+板戸)を設け、二重壁で断熱…となっています。
赤レンガ酒造工場・麹室3


 明治35年に敷地選定委員が、水質が佳良で豊富・土地が高燥で排水が良い・運搬が便利・建設が容易・空気が清浄であることとして敷地を決定。 候補には渋谷と新宿の停車場付近もあがっていたようです。
明治37年(1904.5.9)、醸造試験所(大蔵省所管)が設立されて、まずは事業課・庶務課が業務を開始。
大正元年に醤油醸造試験工場が竣工すると、翌年から醤油も醸造開始。 研究科・酒類醸造科・醤油醸造科・機械科が設置されますが、大正10年に研究科・醸造科の2つになります。 大正12年の関東大震災では1棟倒壊したようですが、他は大きな被害はなかったようです。
 しかし、昭和20年(1945.4.13)の大空襲で8割の施設が全焼。 無事だったのは、倉庫(1904煉瓦造2階)・醤油醸造工場(1912木造3階)・醤油発酵室(1912木造平屋)・大豆油浸出室(1919木造2階)で、一部被災は酒類醸造工場(1904煉瓦造3階)・研究科本館(1912煉瓦+木造2階)と別館(1928鉄筋2階一部3階)・酒精蒸留場(鉄筋3階)・醸造科事務室(鉄筋2階)・乙号官舎(1933木造平屋+中2階)。
昭和21年から残った施設で講習を復活。 翌年には研究科本館と酒類醸造工場を改築し、酒精蒸留場(鉄筋4階)・醤油醸造工場(木造平屋)・アミノ酸工場(木造平屋)などを新築。
昭和24年に国税庁関税部酒税課へ統合されると、敷地の一部が国税庁滝野川宿舎・日本醸造協会事務所・東京国税局鑑定官室分室になります。
その後、研究科本館(1912)等を解体し、昭和42年には、総合新庁舎(RC4階)が完成。
 昭和63年に閣議決定され、平成7年に醸造試験場は東広島市へ移転。(醸造研究所と改称)東京での講習・広報のため、この赤煉瓦工場は残置される事になりました。 その他は解体整地され、北区に払い下げられて公園や道路などになっています。
【参考文献】
※1 「醸造及設備」 鈴江近太郎(野田醤油組合技師)著 1922  日本醸造研究所
※2 「酒類総合研究所のあゆみ」2005 酒類総合研究所

【2015年4月 訪問】


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