2016.
07.26
Tue
建築年: 明治8年(1875)  何度か改築・解体移築あり
設 計: 設計は内匠寮
構 造: 木造平屋建て
住 所: 千葉県市川市国府台 6-1-14 化学療法研究所付属病院内
交 通: 北総鉄道「矢切駅」~徒歩約3分または、JR市川駅・松戸駅・京成国府台駅~バス停「矢切駅」下車
見 学: 通常非公開
恩賜館
 この建物は、英照皇太后(明治天皇の嫡母)のために造営された青山御所の『御中殿』の一部であったもので、明治26年に麹町一番町(現:千鳥ヶ淵戦没者墓苑地)の内大臣官舎の和館として移築後、昭和11年に解体保管されていました。 昭和13年にその部材が化学療法研究所創設にあたり下賜され、昭和14年(1939/10/7)竣工、「恩賜館」と名付けられました。 さらに結核治療のための附属病院も開設され、その際にも下賜金を賜っています。 移築時には玄関新設、入側や10帖間・6帖間を改築し、便所の位置を変更して、流し台を新設。 平成元年に屋根の瓦葺きを銅板葺に改修し、畳替えを実施。 新病棟建設のため平成19年に現在地へ曳家されており、今年2016年10月以降には補修工事が実施される予定との事です。
恩賜館・玄関ホール
玄関ホール:研究所へ移築した際に新設
恩賜館・照明
照明:研究所へ移築した際に新設(左:玄関ホール、右:玄関外)
恩賜館・次の間
15帖の次の間
恩賜館・15帖間
15帖の大広間:大正時代に床の間脇の出入口の襖を違い棚に改築
恩賜館・15帖間天井
大広間の格天井
恩賜館・釘隠し
釘隠し(御中殿の物ではないとの事)
恩賜館・襖金具
襖の金具
恩賜館・中
大広間から玄関方向を見る
恩賜館・12帖間
次の間 横の12帖間:研究所へ移築した際、10帖間+押入れ→12帖間に改築
恩賜館・6帖間
大広間 横の6帖間:研究所へ移築した際に板の間に改装(御中殿時代は8帖間)
恩賜館・流し台
6帖間の奥にある流し台:研究所へ移築した際に新設
恩賜館・入側
入側:研究所へ移築した際に畳敷きを板敷きに変更、外側の板敷きの広縁を削除。(電灯も新設?)
恩賜館・便所1
便所:研究所へ移築した際に位置を変更(小便器の由緒は不明)
恩賜館・便所2
大便器:研究所へ移築した際に設置された高島製陶の物
恩賜館・手洗い所
手洗器(タン壺?):名古屋製陶所か?
化研病院
化学療法研究所附属病院:現在は呼吸器・消化器分野を主体に様々な診療科やリハビリセンターを設置。
現代的な、気胸・頭痛・ピロリ菌・胸やけなどの専門外来もあります。 ※詳しくはコチラ⇒【化研病院


 明治6年(1873/5/5)皇居・西ノ丸御殿が延焼すると、明治宮殿が完成するまで赤坂離宮が仮皇居となります。 赤坂離宮の地は紀州藩江戸屋敷跡を徳川家が献上した場所で、追加で献上された隣地に英照皇太后(明治天皇の嫡母)が移徙され、明治7年(1874/1/28)『青山御所』と定められました。 青山御所にあった御中殿は明治16年の大規模な改築を経て、明治25年に建替えのため解体保管されました。 明治30年(1897.1.11)英照皇太后が崩御されると、翌年に青山御所→『青山離宮』と改称され、東宮御所造営のため仮御所が設置されます。 一方の赤坂離宮については、明治20年に東宮御所日本館(花御殿)の平面計画が行われ、明治31年の現況配置図には既に完成した花御殿や別殿が載っています。
 明治38年の時点では、南半苑が青山離宮、北半苑が赤坂離宮で、中央には池と僊錦閣・寒香亭・洗心亭・衆芳亭・御茶屋・馬見所・養蚕場・茶畑・菊畑・蔬菜畑などがあったようです。 青山離宮には、東宮殿下(後の大正天皇)御座所・妃殿下御座所・御中殿(2代目)・表謁見所・御学問所・能舞台・地震殿などがありました。  赤坂離宮については記載がないですが、その頃は東宮御所(現・迎賓館)が建設中であり、解体された花御殿や別殿の一部が他へ移築されています。(花御殿→田母沢御用邸、別殿→明治記念館) 
 明治天皇が崩御された後、青山離宮は照憲皇太后(大正天皇の嫡母)の御在所となって、大正2年に再び『青山御所』となりました。
広大な青山御所の中でも皇太后の御座所は木造2階建の建物で、2階15帖を居間、1階4室を拝謁の間・読書室・化粧室・食事室としていたようです。 明治天皇崩御の後、営繕は程々にせよとの照憲皇太后のお言葉で、御座所の畳替え・壁の塗り替えだけに留め、大正2年7月に沼津の御用邸から青山御所へ移徙されました。大正3年(1914.4.9)沼津御用邸で静養中の皇太后が重体になり、4月10日に馬車で御用邸を出て、御召列車を使って新橋駅経由で、11日未明に青山御所へ戻り崩御されました。 青山御所は昭和15年『青山御殿』と改称。 昭和20年(1945/5/25)東京大空襲で焼失しています。
 昭和11年に赤坂離宮内に建設された東宮仮御所(一部2階建て1936.12.17竣工、設計.権藤要吉)は昭和18年まで明仁親王(今上天皇)の御在所でしたが同じく焼失。 しかし明治42年(1909)に完成した東宮御所は戦災を免れ、迎賓館として健在です。
また、赤坂離宮の花御殿にあった別殿(会食所など)は、現在は明治記念館に移築されています。
 明治25年に解体保管されていた御中殿(初代)は、明治26年に麹町一番町(現:千鳥ヶ淵戦没者墓苑地)内大臣官舎の和館一部として移築復元(1893.4.17竣工)。 木造2階建ての洋館と渡り廊下でつながる平屋建てでした。 これらの建物は御用済みの各地の建物を転用したもので、建設の際には洋館:高島嘉兵衛門、和館:大倉喜八郎が施工を請負いました。 敷地内に土蔵・職員官舎・厩舎などがあるこの官舎は、4棟ある番町官舎の内、明治43年から『番町一号官舎』と呼ばれています。 この屋敷には内大臣・徳大寺實則(明治天皇の元・侍従長)が大正元年まで居住。
その後、宮内大臣官舎となり、和館は昭和11年に解体され保存、その部材が昭和13年に千葉の化学療法研究所へと下賜。
 昭和20年3月の東京大空襲で現地に残っていた建物は焼失しましたが、残された恩賜館に番町一号官舎(御中殿)の片影を見る事ができます。

【参考文献】
「恩賜館 建物について」浅羽英男・石垣裕子 著 
「皇室建築:内匠寮の人と作品」鈴木博之 監修 2005 建築画報社
「照憲皇太后史」上田景二 編 1914
「東京案内・上」東京市 1907 
「赤坂仮皇居・青山御所配置平面図2」 内匠寮
「赤坂離宮・花御殿御殿平面図」 1898 内匠寮

【2016年7月 訪問】



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2016.
07.10
Sun
東伏見宮邸
建築年:大正3年(1914) 
所在地:神奈川県 三浦郡 葉山町 堀内1968   
構 造:木造2階建て
見 学:非公開  
交 通:JR逗子駅~「向原」バス停~徒歩2分

東伏見宮葉山別邸・2F階段
階段2階:踊り場の窓の下には脚立が入っている
東伏見宮葉山別邸・2F和室1
2階和室の前室
東伏見宮葉山別邸・和室2
2階和室・大広間
東伏見宮葉山別邸・和室照明
2階大広間の照明
東伏見宮葉山別邸・和室照明2
2階和室の照明:菊の紋様が意匠に取り入られている
東伏見宮葉山別邸・2F洋室
2階南西の洋室
東伏見宮葉山別邸・寝室照明
2階西の洋室と照明
東伏見宮葉山別邸・クローゼット
奥行きのあるクローゼット家具:東伏見宮家の物かは不明だが扉は巨木の1枚板
(左:階段ホール、右:2階南西洋室)
東伏見宮葉山別邸・2F
左:2階西の洋室の暖炉          右:塔屋への螺旋階段
東伏見宮葉山別邸・2F廊下2
2階南西廊下(サンルーム)
東伏見宮葉山別邸・2F廊下1
2階北西廊下(サンルーム)
東伏見宮葉山別邸・螺旋階段2
塔屋への螺旋階段
東伏見宮葉山別邸・塔屋
塔屋内部
東伏見宮葉山別邸3


 ここ逗子は、東伏見宮依仁親王にとって療養の地であったようです。 この建物が出来る前の明治43年にも逗子で療養していた記録があります。
大正2年12月に風邪をこじらせ肺炎となり、熱海で1か月半ほど療養し全快すると、大正3年3月3日に船に乗って逗子(葉山)別邸に入っている事から、その頃にはこの建物も完成していたのでしょうか。 3月17日には帰京し、3月23日に軍令部へ出勤。 その後、3月26日に沼津で静養中の照憲皇太后へ御参伺するなど慌ただしい日々を送ったようです。
 大正11年5月10日、再び葉山別邸で療養に入り、6月25日に重体となって同日14時にご容態を公表。 26日20時頃に危篤に陥り、23時頃には絶望の状態。 27日20時頃に周子妃と共に自動車に乗り、近隣住民に見送られながらこの別邸を出ます。 赤坂.葵町の本邸にて23時25分薨去。 7月3日5時30分から柩前祭が行われ、7時に陸海軍.儀仗隊の行列に伴われて豊島岡墓地へ向かい、7月4日8時に斂葬、7月5日に權舍祭、同日10時に墓所祭が行われました。 周子妃は五十日祭に至るまで、雨が降っても毎日墓参していたとの事です。

【参考文献】
「依仁親王」1927 東伏見宮家


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