2016.
09.18
Sun
建築年:昭和4年(1929)竣工
設計者:司法省営繕課・蒲原重雄
構 造:RC造3階建て+監視塔
住 所:東京都葛飾区小菅1-35-1
交 通:東武線「小菅」駅~徒歩約5分、東京メトロ「綾瀬」駅~徒歩約15分
TEL: 03-3690-6681 
  ※開催についてはコチラ⇒【2016矯正展
小菅刑務所1
 年に1回、東京拘置所(法務省所管)の敷地を一般向けに解放し「矯正展」が開催されます。
ここには造形的に素晴らしい建物が現存しており、賑やかな行事を尻目に鑑賞してきました。
小菅刑務所2
 この建物はかつての小菅刑務所の一部で、現在は使用されていません。
明治21年頃に煉瓦造で建設された小菅刑務所が関東大震災で崩壊した後、総工費1,411,000円をかけてこの建物が昭和4年10月に落成します。
10年以上の長期囚1200人の収容施設として設計されており、この管理棟を中心として南北に対称形で3階建ての舎房が配置され、水洗トイレなども設置。 その他にも優良舎や木工場、各種の小工場がありました。 そして、囚人と接する教務室・医務室などは構内、一般事務室は区域外に設置し、作業を円滑に進めました。 東京拘置所と小菅刑務所が同居となった時には、中塀を境に未決・既決に分け、木造で増築したり、工場を舎房に改造しています。
小菅刑務所4
 この地は伊奈家の下屋敷でしたが、将軍家の鷹狩りの休息所、家重(9代)の養育所として「小菅御殿」と呼ばれ、その絵図には濠が描かれ、将軍は川づたいに舟で訪れていました。 御殿は元文6年(1741)全焼し再建しています。
その後は代官役所→小菅県庁となり、その跡地に小菅煉瓦製造所が建設され、その煉瓦は銀座・丸の内の煉瓦街などに使用されます。 さらに獄舎を建て、M11小菅監獄(警視局)→M12東京集治監(内務省)→M36小菅監獄(司法省)→T11小菅刑務所となっていました。
 一方で東京拘置所の歴史は…市谷刑務所が巣鴨へ移転→S15東京拘置所と改称→空襲で焼け出された司法省に建物を渡して中野の豊多摩刑務所へ移転(囚人は府中へ)→S21にGEQ接収で小菅刑務所へ移転→S33東京拘置所が巣鴨(池袋)へ移転→S46東京拘置所が再び小菅に戻り、小菅刑務所は無くなります。 再び小菅に戻った理由は、池袋を再開発するための東京拘置所の移転先として、青梅や那須が候補地に上がり、住民の反対にあった事が原因のようです。
ちなみに、解体された東京の刑務所の設計者は、巣鴨監獄:妻木頼黄と山下啓次郎、豊多摩監獄(中野):後藤慶二、府中刑務所:浜野三郎、巣鴨プリズン(池袋):成尾清となっています。 解体された巣鴨監獄の表門(煉瓦造2F)の扉は、現在も府中刑務所に保存されています。
小菅刑務所・監視塔2
監視塔は見る角度により様々な形に変化する
小菅刑務所・監視塔1
監視塔の地中深くに有馬四郎助が定礎箱を埋めたという
小菅刑務所・車寄せ
中2階にある正面玄関の車寄せ。 館内の奥に進むと講堂があり、エレベーターもあった。
小菅刑務所・格子
当時の窓はスチールサッシ
小菅刑務所6
南区画への出入口:ここから入所したのだろうか
小菅刑務所・中庭2
北区画の内部
小菅刑務所・開かずの門1
明治時代の東京集治監の門扉を記念に残した「開かずの門」
小菅刑務所・開かずの門2
「開かずの門」表側
小菅刑務所・中庭3
北区画の無線部
小菅刑務所・中庭通路1
北区画の通路から外を見る
小菅刑務所・中庭通路2
通路にある階段と出入口
小菅煉瓦
桜マーク入りの小菅煉瓦製造所のレンガが庭に飾られていた
小菅刑務所・食堂1
窓から覗いたところ、食堂らしき部屋が
小菅刑務所・厨房
タイルの水槽
東京拘置所
高層マンションの様な現在の東京拘置所
小菅刑務所3
 小菅刑務所設計者・蒲原重雄は明治31年に生まれ、帝国大学卒業後は司法省営繕係に勤務し、刑務所建設に携わるようになります。 昭和2年の文献には、所在地が小菅刑務所官舎となっている事から、現場に常駐していたと思われます。 そして小菅刑務所が昭和4年10月竣工。 その完成前に法政大学・松室致学長の依頼を受け、北軽井沢の山荘の設計をする事になり、11様式100種のプランを構想していたようです。 昭和2年の夏に地縄を張り、翌年夏に第1期が完成。 現在「大学村」と呼ばれている地に一部が現存しています。
その後の蒲原は病気を患ったため北軽井沢で静養に入り、昭和7年10月に結核により逝去。 それでも最後の年に、平塚の住宅8軒を設計していたようです。
小菅刑務所5
【参考文献】
「小菅の歴史」五藤喜一郎 著 1973
刑政52-2「小菅刑務所見学記」本橋逹 著 1939
刑政65-10「行刑建築小史」楠冨士太郎 著 1954
東商264「東京拘置所跡地の再開発」桑原大行 著 1969
「風雪五十年」東京拘置所開設五十周年記念誌編集委員会 1987
「建築年鑑. 昭和2年度版」建築世界社
「北軽井沢大学村」山川真吉 著1938
論文「史料としての竣工年代と設計者記名方式 : 小菅刑務所と蒲原重雄」近江栄 著 1971

【2015年10月 訪問】


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2016.
09.05
Mon
設計者:不明
建築年:不明
構 造:RC造2階建て
住 所:東京都千代田区永田町2-16-1
交 通:地下鉄「溜池山王・国会議事堂前・永田町」駅~徒歩約8分
見 学:年に数回、公開あり   ※詳しくはコチラ⇒【日比谷高校資料館
TEL:03-3581-0808
 
日比谷高校資料館
 村井銀行を調べた際、日比谷高校に村井邸の建物一部が「日比谷高校創立百周年記念資料館」として現存している事を知り、立ち寄ったところ公開日の張り紙を発見。 その公開日に再び訪問すると館内を見学することができました。
 この高校は明治11年に東京府第一中学として創立し、東京府尋常中学校・東京都立第一高等学校と時代により名称と校地を変えており、かつて日比谷(現・検察庁の地)に校舎があった事から、昭和25年に東京都立日比谷高等学校と改称しています。 歴史ある学校の卒業生には政治・経済界の重鎮や学者の他、谷崎潤一郎や横山大観・濱田庄司、建築界では桜井小太郎・前川國男・芦原義信・伊東豊雄らが卒業しています。
日比谷高校資料館2
左:坂の上に建つ旧村井邸倉庫        右:倉庫入口の通路
『遅刻坂(地獄坂)』と生徒に呼ばれた新坂。 校地内は高低差があり資料館(倉庫)脇にある通用門は高台で、正門側は低地になっている。 この付近は星陵(星ヶ丘)と呼ばれ、かつては近衛文麿・來栖三郎大使などの屋敷や、魯山人の星ケ岡茶寮、長谷川一夫の賀寿老といった料亭があった。
日比谷高校資料館4
左:倉庫の窓              右: 隅石
日比谷高校資料館5
日比谷高校資料館(村井邸倉庫)2階の様子 ※改装済み
写っている模型は旧講堂
日比谷高校・講堂
旧講堂の古写真(展示パネルより)
岡田信一郎設計による講堂は平成6年に解体された
日比谷高校・旧校舎
倉庫と旧校舎の古写真(展示パネルより)
日比谷高校の旧校舎(岡田信一郎設計)は昭和4年10月に落成し、昭和53年に解体
日比谷高校・遺物
左:旧講堂の照明(逆さまになっている)   右:旧校舎のポーチ上に設置されていた校章
日比谷高校資料館・換気口
天井換気口
日比谷高校資料館・資料
上:村井邸 山王荘の配置図(左上が倉庫、その下に和館、右手に洋館)茶室は和館の左下に付属
 和館大広間の濡れ縁には五条大橋の橋脚であったという手水鉢や、茶室付近の小路の側溝には山崎街道の物が敷かれていたとういうが、何処へいってしまったのだろうか。
下:旧校舎の完成予想図
府立一中模型
昭和4年に生徒が作成した日比谷時代の校舎の模型
 関東大震災で日比谷の校舎は火災を免れたが、警視庁本部・避難民収容所となり10月初旬まで休校。 日比谷校地は無償で東京府に譲渡されていたが政府買い上げとなり、青山射的場跡を代替地として提案された。 学校側は伝統を重んじ外堀内に限るという条件で代替地を探し、永田町の土地を東京府が買い取り日比谷校地は売却。 昭和4年5月に新校舎が竣工すると、実験道具・標本など壊れやすい物を生徒が抱えて徒歩で引越した。 永田町新校舎は東京府立高校(7年制)が仮校舎として既に使用しており、昭和7年に高校が移転するまでは教室が足りなかったという。
日比谷校舎・間取図
日比谷校舎の間取図(展示パネルより)
御召緒太
明治天皇の御召緒太(おめぶと)も展示されている。 大嘗祭のための草履で、東相遠氏(1889卒業)が創立50周年に家宝を寄贈
模擬銃
軍事教練用のベルダンⅡ型小銃(ロシア製1882年)と木製模擬銃2丁:2012年に倉庫(現・資料館)から発見。
 昭和11年の卒業生の話では、4年生で執銃の本格的授業が行われ、体操場の地下銃器庫には銃剣一式が全員分あったという。この様に全国の公立学校で軍事教育を行い、二十歳になると徴兵検査が行われていた。
日比谷高校正門
村井邸の正門が現存している
村井邸・正門2
左:門柱の装飾         右:正門脇の通用門
日比谷高校・正門脇
正門脇の広場
昭和7年(1932.11.17)正門脇で狭突射撃場の開場式が行われたというが、この場所だろうか?
村井邸・塀
村井邸の塀の一部

~村井吉兵衛邸~
 東京に進出した2代目・村井吉兵衛は、ひとまず後藤象二郎の旧邸に住んでいましたが、明治35年7月に樺山愛輔の所有地(永田町1-17)を購入して11月に転居。 明治38年に村井銀行の業務が開始すると、同年12月に永田町2丁目の土地を取得します。 近くに山王日枝神社がある事から通称『山王台』とも呼ばれたこの土地には、かつては岸和田藩の上屋敷があり、東京府中学(1871廃校)→東京鎮台屯所→高崎正風邸→有馬頼萬邸となっていました。 山王荘の計画が開始されて、明治45年には洋館の建設着工。この洋館(1913竣工、設計:吉武長一、木造2階+地階)は、明治44年に三島通庸の息子・彌吉と結婚した一人娘・久子の新居(麹町区三番町)が全焼したために建設したものです。
 孫も生まれて幸せな村井家でしたが、大正5年1月に妻・宇野子が死去。 翌年1月に女官『山茶花の局』と呼ばれた日野西薫子を後妻に迎えますが、大正9年3月に娘の久子を亡くしてしまいます。(彌吉は同年11月に離縁)
 大正15年1月に吉兵衛が急遽すると、義弟の貞之助が事業を継承しますが、昭和2年の金融恐慌で村井銀行が破綻。 土地は日比谷の代替地を探していた東京府が購入し、府立一中の校地となる事で決定。 山王荘の和館(木造2階建1919竣工、設計顧問:武田五一・岡田信一郎、総棟梁:小林富蔵)は㈱冬青社が購入しますが、延暦寺の迎賓館としての話が持ち上がり、大倉喜八郎の斡旋で延暦寺へ譲渡。 解体部材は汐留駅から貨物列車に載せられ、坂本駅から人力で山の上に運び、昭和3年(1928.11.9)竣工。山王荘の一部が延暦寺大書院として現存しています。
 茶室一部は赤坂の大倉喜八郎邸を経て、根津嘉一郎邸へ移築され、現在は根津美術館の庭園(弘仁亭・閑中庵)にあります。
洋館は私設美術館となっていましたが、関東大震災後に帝都復興院の臨時事務所となり、大正14年に日仏会館へ無償で3年定期借家していました。 府立一中の校地とするため昭和3年3月に立ち退きとなり、日仏会館は臨時移転。 その後に取得した駿河台の敷地の大きさに合わせて、保管してあった解体部材を利用して昭和4年4月に洋館を再建。 その建物は昭和33年に建て替えのため解体されました。 ※その古写真は日仏会館HPに掲載→【日仏会館】  そして倉庫(美術品収納庫)は現地に残され、美術品の一部は村井家の菩提寺・鶴見総持寺へ寄進されています。
 村井家の家督を継いでいた孫の弘忠は、府立一中の生徒として校舎の移転にも立ち会いました。 母・祖父母を亡くし、生まれ育った家が無くなっていく… その心情については計り知れないものがあります。
日比谷高校資料館3
【参考文献】
たばこ史研究124号「村井吉兵衛と日比谷高校」中村由紀子 著 2013
「東京つれづれ画帖」1981 小針美男 著 創林社
「八十年の回想」1958 如蘭会
「山王荘図集」高梨由太郎 編 1927 洪洋社
「武田博士作品集」1933 武田博士還暦記念事業会
「建築工芸業誌.第2期(2)」1914 建築工芸協会

【2015年10月 訪問】


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