2016.
11.20
Sun
大津祭り・町屋
 ここのところ京都の宿は満室状態。 そこで予約の取れたホテルへ向かうためJR大津駅に降り立つと、駅前のテントで半被を着た人達がビラ配りをしていて、訊くと今夜は宵宮(夜祭り)との事。 よくある町の祭りかな…と思いつつ、地図をもらって訪ねてみる事にしました。
 大通りから脇道へ入ると提灯を下げた町屋が連なり、玄関が開け放たれた家には人形が飾られています。 それは明日の本祭りで曳山に乗せるカラクリ人形との事で、動きはしないものの間近で見る事ができました。
「人形好き」である私。 恥ずかしながらカラクリの山車が13基もある祭りが大津にあったとは知りませんでした。(すみません) 
大津祭り・狸山1
西行桜狸山(通称:狸山)鍛冶屋町
左から、都人・西行法師・狸・桜の精(仙人)。 狸は当日、屋根の上に載せられ、天気を守るため曳山の先頭を巡行。
大津祭り・狸山2
左:とても可愛らしい桜の精(仙人):西行法師との問答で登場する様子をカラクリで表現(前へ進み出て回ってしゃがむ)
右:桜の精が乗る西行桜狸山(狸山)
大津祭り・湯立山
湯立山(通称:おちゃんぽ山)玉屋町 
左から、飛矢(巫女)・市(巫女)・祢宜(神職)
まずは祢宜がお祓いをし、市が釜の湯の前で笹を振り、飛矢が首を左右に振りながら鉦を打つという動作で湯立神事を表す。
大津祭り・布袋練物
新町の布袋
人が被って練り歩いたという唯一残る練物。 現在は町内に飾るだけで実際に被る事はない。
かつては17ヶ町の練物があったと云われ、この布袋様が復活すると祭りが盛り上がるのでは。
大津祭り・源氏山
源氏山(通称:紫式部山)中京町
石山寺の紫式部の前に、牛車・舟などが次々と現れる仕組み。
大津・宵祭り
上:2階から狸山に乗り移る子供達     下:源氏山(通称・紫式部山)中京町


 翌日の予定を変更して、曳山を見るため天孫神社(四ノ宮神社)へと向かい、鳥居の下で待っていると、ロープが張られて囲われの身に。
そこは曳山が神社へ向けてカラクリ人形の奉納舞いをする場所で、曳山が回転して危険なので、子供やお年寄りは避けた方が無難でしょう。
 また、真下にいると人形の動きは殆ど見えず、少し離れた場所が良いかもしれません。 他にもカラクリ人形を動かす場所が何カ所もあり、目印の御幣が付けられた所で曳山の所望を見る事ができます。
天孫神社・神輿1
天孫神社の神輿:43年ぶりに蔵から出された『大宮』。 担ぎ手がいなくなり、蔵に収められていたという。
訪問時(2015/10/10)は境内の舞殿に展示されていたが、2016年には安全を期して台車に載せて巡行したそう。
天孫神社・神輿2
神輿の前の垂れ幕?の中にも神様がいらっしゃりそうだが…
大津祭り01
左:南保町の猩々山             右:湊町の石橋山
これらの曳山は江戸時代に製作した物が多く、補修を重ねて現代まで使用しており、祭りの翌日には解体して来年まで保管される。
大津祭り02
左:白玉町の西宮蛭子山(恵美須山)   右:中堀町の孔明祈水山(孔明山)
大津祭り5
神功皇后山:猟師町
皇后が弓で字を書く所作をすると、岩に文字が出現する。
大津祭り1
月宮殿山(通称:鶴亀山)上京町
謡曲「鶴亀(月宮殿)」に因んだもので、皇帝の前で男児と女児が鶴亀の舞を踊る。
大津祭り・桃山
左:本祭りで曳山から撒かれるチマキ。 食用ではなく、玄関先や軒下などに吊るしておくと厄除けになる。 地元向けに撒かれるので拾うのは中々難しい。
右:西王母山(桃山)丸屋町。 桃が二つに割れて、中から出て来た童子がしゃがむカラクリ。
大津祭り・信号
曳山が全て去った後、作業服を着たお兄さんが可動式の信号をロープで引いて元に戻した。


 毎年、体育の日の前日が本祭り。 13基もある立派な山車祭りですが、今年の2016年3月に重要無形民俗文化財になったばかり。 京都でも知らない人がいる事から、”知る人ぞ知る 祭り” であったのかもしれません。   ※詳しくはコチラ⇒【大津祭り曳山連盟

【2015年10月 訪問】


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2016.
11.06
Sun
建築年:昭和58年(1983)竣工
設計施工:デザイン・設計監理は村野藤吾、 図面作成・施工は㈱谷村建設
構 造:RC造
開 館:9:00~16:30(16:00受付終了)、有料
休館日:12月~3月中旬の火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
所在地:新潟県糸魚川市京ケ峰2-1-13
交 通:JR糸魚川駅~徒歩約25分 or 市街地巡回線バス「京ケ峰二丁目(谷村美術館)」下車
TEL:025-552-9277
    ※詳しくはコチラ⇒【谷村美術館
谷村美術館
 晩年の村野藤吾が現場に何度も訪れ、設計監理した建物が糸魚川にあります。
澤田政廣の作品を所有していた㈱谷村建設の社長・谷村繫雄が美術館を建設するにあたり、澤田の強い希望で村野藤吾に設計を依頼。
丁度その時期は新高輪プリンスホテルの新築工事(1979.6~1982.4)をしていた頃で、1年近く設計完了の返事がなく、何度か催促して村野の機嫌を損ねた事もあったそうです。
そして5種類の模型が届いたうち、現在の形に決定。 ただちに㈱谷村建設の技師2名が図面を作成。 昭和57年(1982.9)から着工し、村野藤吾は完成するまで現場に7回ほど訪れ、冬の寒い時期に冷えきったコンクリートの中に入り、休憩もせず3~4時間立ったまま技師に指示していたとの事。 美術館が完成するまで、澤田政廣にも建物を見せませんでした。 彫刻家の澤田もこの建物を気に入ったようで、村野の死後完成した熱海の美術館は谷村美術館のイメージを反映させたもので、市の職員が設計しています⇒【澤田政廣記念美術館
谷村美術館・手水鉢
手水鉢
谷村美術館6
無造作に置かれた石も村野が指示
谷村美術館4
人の横顔にも見える、鼻の下に明り取りの窓
谷村美術館2
明り取りの窓
外壁は打ち放しコンクリートの上にスタッコ吹付け
谷村美術館3
隙間の位置を変える事で室内に入る光量も変わる
谷村美術館・回廊1
回廊
谷村美術館・回廊2
回廊と出入口
玉翠園
玉翠園
 作庭は中根庭園研究所が手掛けており、所長の中根金作は楽水苑(城南宮神苑)・日本万国博覧会・足立美術館・米ボストン美術館などの日本庭園を作庭し、後に大阪芸術大学長に就任した。
休憩所で玉翠園を眺めながら一休みしていると、奥に資料室がある事に気付く。
谷村美術館・模型
何と、資料室(和室)には本物の模型が!
谷村美術館・スタディ模型A
スタディ模型A(石膏)
谷村美術館・スタディ模型B
スタディ模型B(石膏):ゴミの様な塊にも意図があるらしい
谷村美術館・スタディ模型C
スタディ模型C(石膏):大部分に村野の手が入っている
谷村美術館・模型DE
上:実施模型D(油粘土に彩色)、 下:完成模型(ブロンズ)
 三浦栄次郎(三浦模型)は、初期の村野作品の模型を数多く担当しており、この谷村美術館も担当。 村野のラフスケッチを基に、三浦が油粘土で模型を作成し、村野の手により直される。 施主の要望があれば石膏で型抜きもしたという。
谷村美術館・展示室模型
展示室模型(石膏+発泡スチロール):縮小した仏像を入れて光の当たり具合を確認
谷村美術館・図面
㈱谷村建設が作成した図面に、村野藤吾が手書きで修正
谷村美術館1
 村野藤吾によると、シルクロードに立つイメージは後から付いたもので、澤田の作品を何とかして自分なりに生かしてあげたいというのが大体の動機であり、形は最初から無かったとの事。
初めからお金の事は考えず、60坪位のつもりが模型を何度も直すうちに現在の広さになったという。 模型を修正した跡が下の方にあるが、工事が完了した後に「これじゃいかんな」と思って壊したそうだ。
 村野はかつてヘンリー・ムーアのアトリエを訪れており、小さな作品も購入している。 ヘンリー・ムーアは夜中に模型をこしらえ、大きな庭に1年ほど石膏を置き、それを毎日見てこれはいいと思ったら作品にするという。 村野の作品作りもその影響を受けており、谷村美術館の原型モデルも一夏かかったという。

翡翠園
翡翠園(糸魚川市蓮台寺2-11-1)谷村美術館との共通入園券有り、12月~3月中旬まで休園
昭和53年(1978)開園。 谷村美術館から1㎞程の距離で、坂道を上がった所にある。 
70tあるコバルト翡翠原石は姫川の上流で発見したもの。 大型重機を使い、許可を取って河原を均して運び出したという。
翡翠園・休憩室
翡翠園の休憩室:ステンドグラスのデザインも澤田政廣が手掛けたようで、熱海の澤田政廣記念美術館にも似たデザインがある。
翡翠園・仏像
ここにも澤田政廣の作品が置かれている。
谷村美術館(玉翠園・翡翠園)の施主・谷村繫雄は元 製材屋で、澤田政廣も若い頃に製材屋をしていた共通点がある。

 施主の谷村繫雄は、大正5年に地元の糸魚川で生まれ、昭和13年 に谷村製材所を設立し、製材・土木建築業を営むうちに、昭和20年代末から地元で採れる翡翠に目を付けます。 甲府から職人を呼び寄せアクセサリーに加工、地元のスーパーで販売したところ大当たりし、国税局の捜索を受けるほど儲かります。
 その後、翡翠は昭和31年に天然記念物に指定されて採掘ができなくなりますが、高度成長期に入り㈱谷村建設として事業が成長。 それらの資金で澤田政廣の作品を所有し、翡翠園・玉翠園・天寿園や谷村美術館を建設、北京市へ日本庭園「翠石園」を寄贈しました。
 現在の会社は、土木建築・港湾・河川工事の他、平成 6年 に谷村環境緑花研究所を設立し、国産原種ユリの大量増殖に取り組んでいます。
バイオ技術で栽培したササユリの種が国際宇宙ステーション日本実験棟「きぼう」で8カ月半滞在し、平成21年に地球に帰還。 研究所へ戻った種の一部が発芽に成功し、平成26年に2つの球根が花を咲かせました。 ※詳しくはコチラ⇒【ササユリ

【参考文献】
「村野先生と私」村野森建築事務所, 1986
「ひろば249」近畿建築士会協議会1985.1
新潟日報1979.4.28「ヒスイ物語7-谷村繫雄」

【2015年9月 訪問】


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