2017.
01.22
Sun
建築年:昭和14年頃に竣工
構 造:鉄筋コンクリート造2階建て
所在地:東京都東大和市桜が丘二丁目、都立東大和南公園内
公 開:毎月第2日曜日、13時~16時、無料 (※1階のみ)
交 通:西武鉄道・多摩モノレール「玉川上水」駅~徒歩約5分、都立東大和南公園内

                 ※詳しくはコチラ⇒【旧日立航空機㈱変電所
旧日立航空機㈱変電所
 子供達が遊ぶのどかな東大和南公園の一角に、廃墟のような建物が残っています。
これは変電所の跡で、この一帯が日立航空機㈱立川工場の敷地であり、昭和20年の空襲の際、多くの従業員がこの工場で亡くなりました。
特に2月17日は78名もの死没者が出ており、その年の初め頃から空襲が激しくなっていた事がわかります。
普段は立ち入り禁止となっていますが、毎月1回この建物1階が公開されています。
旧日立航空機㈱変電所3
モダニズム的な建築
旧日立航空機㈱変電所・入口
 この変電所は小松ゼノア㈱が平成5年(1993)まで使用していた建物で、昭和53年に都有地となり、後に都立東大和南公園の一部となりました。
その後、東大和市が東京都より分割購入し、戦争遺跡として平成7年(1995)土台・柱の補強、屋根の修復、爆撃痕の接着補強工事を実施。
旧日立航空機㈱変電所・内部2
1階内部の壁は補修されている
旧日立航空機㈱変電所・内部4
左:正面出入口           右:小部屋の壁は当時のまま
旧日立航空機㈱変電所・内部3
コンクリートの壁に残る、弾が貫通した痕 
旧日立航空機㈱変電所・階段

旧日立航空機㈱変電所・内部1
終戦の日(8月15日)多くの人が訪れ、ビデオを見ていた
旧日立航空機㈱変電所・配置図
日立航空機㈱立川工場の配置図 (※展示パネルより)
旧日立航空機㈱変電所・被弾跡
日立航空機㈱立川工場の被弾跡 (※展示パネルより)
旧日立航空機㈱変電所・古写真2
空襲後の写真 (※展示パネルより)
旧日立航空機㈱変電所・空襲被害
左:日立航空機㈱立川工場での死没者
右:多摩地域の昭和19年~20年の空襲  (※展示パネルより)
旧日立航空機㈱変電所・銃痕


 日立航空機は昭和14年(1939.2)東京瓦斯電気工業㈱より経営権の譲渡を受け、同年5月に独立した会社で、5つの工場(千葉・立川・大森・羽田・川崎鋳造所)があり、大森と立川工場は主に発動機(エンジン)の製造を行い、羽田工場で部品を製造し、千葉工場で零式練習用戦闘機A6M5-K等を完成させていたとの事。
 戦況が厳しくなると、材料品質の低下、熟練工不足により製造も困難になります。 工場には空襲用の塹壕や防空壕が掘られ、建物は迷彩色に塗られました。 さらに昭和19年(1944.12)から、生産品・設備などの疎開計画が実施され、地下や学校に疎開施設が設置されます。
立川の疎開工場は八洲に設置される事になりますが、まだ疎開が完了していない昭和20年(1945)空襲に遭い、操業不能となりました。
立川工場及び社宅において、昭和20年の空襲3回での犠牲者は、従業員と家族、勤労学徒など計111名が亡くなっています。
その犠牲者の内訳は2月17日78名(内、学徒9名)、4月19日5名(内、学徒1名)、4月24日28名(内、学徒5名)となっています。
(※上記の数字は展示パネルから。アメリカ合衆国戦略爆撃調査団の資料では2/17・4/24の2回空襲とあり、犠牲者数の記載なし)
かつての多摩地域は軍需工場が多く、昭和19年~20年(1944.11.24~1945.8.15)まで30日以上の空襲を受けており、多くの犠牲者が出ました。 この変電所の弾痕が、戦争を経験していない人々に悲惨な記録を伝えています。
旧日立航空機㈱変電所2
【日立航空機】
 明治43年(1910)東京瓦斯工業㈱が設立、大正2年に東京瓦斯電気工業㈱と改称。 大正7年(1918)初の国産自動車の生産を開始。
しかし、経営破たんして解体され、自動車部が独立・合併・改称を繰り返し、現在の日野自動車・いすゞ自動車となっています。
解体された他の部門は、一部が日立製作所に吸収合併され、昭和14年(1939)日立航空機㈱として独立。(他にも日立工作機・日立兵器が独立)
 戦後、日立航空機㈱の技術は、日興工業㈱→㈱日興製作所を経て、新)東京瓦斯電気工業へと継承されますが、その後は合併を繰り返し、富士自動車㈱→ゼノア㈱→小松ゼノア㈱となって、この変電所を最後まで使用。
チェーンソーなどを製造する農林・造園機器メーカーである小松ゼノア㈱は川越に拠点を移し、現在はスウェーデンのハスクバーナの傘下に入り、社名がハスクバーナ・ゼノア㈱となっています。
戦後、中島飛行機の技術を受け継いだ富士産業がラビットスクーターを製造したように、日立航空機の技術は富士自動車のフジキャビンに受け継がれました。 現在、2つの会社は無くなってしまいましたが、丸みを帯びた愛らしいフォルムの車両が、新たなファンを獲得しています。

【参考文献】
「太平洋戦争中の日立航空機株式会社」1990 日立鵬友会
「東大和市新学校給食センター建設に係る概況調査の結果について(平成25年)」東大和市

【2015年8月 訪問】


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2017.
01.08
Sun
建築年:昭和9年(1934)竣工、改修は何度かあり
設計施工:設計は岡田建築事務所、  施工は清水組など
構 造:RC造+木造など、3階建て+地階
開 館:9時~22時(受付は19時30分迄)
所在地:滋賀県大津市柳が崎5-35
交 通:JR「大津京駅」 or、 京阪「近江神宮前駅」~徒歩約15分
TEL:077-511-4187
    ※詳しくはコチラ⇒【びわ湖大津館
旧琵琶湖ホテル5
 かつて、皇室や各国の要人が宿泊した琵琶湖の高級ホテル。 平成10年(1998)浜大津への移転に伴って建物の保存運動が高まり、大津市が耐震改修保存工事を行い、平成14年(2002)から『びわ湖大津館』として開館しました。
旧琵琶湖ホテル・正面玄関
正面玄関
 本館の実施設計を担当した岡田捷五郎は、明治27年(1894.11.24)東京生まれ、大正9(1920)東京美術学校卒業。
滝川工務店に入社しますが、大正9年12月から一年ほど徴兵された後、兄・岡田信一郎の設計事務所に入所。
昭和2年(1927)から東京美術学校建築科講師となり、昭和18年(1943)教授となりました。 
昭和7年(1932)兄の信一郎が亡くなると岡田建築事務所を引き継ぎ、この琵琶湖ホテルの設計を担当しています。
琵琶湖ホテル新館(1953,木造)設計者の小河吉之助もかつて所員(1937独立)であり、この本館の設計業務にも関わっていたようです。
旧琵琶湖ホテル・唐破風
玄関の唐破風と大屋根の小屋組は木造
旧琵琶湖ホテル・鬼瓦
かつての鬼瓦
旧琵琶湖ホテル・1Fホール
1階ホール
琵琶湖ホテル・階段手摺
地下への階段手摺
旧琵琶湖ホテル・キーBOX
フロントのキーボックス
旧琵琶湖ホテル・両替所
両替所跡
旧琵琶湖ホテル・大食堂
大食堂『桃山の間』  ※使用中でなければフロントに言うと見学可能 
 オーケストラボックスを設け、ダンスホールとして利用できるようになっているが、実際に使用されたかは不明。
図面を見る限り、右手の空調ガラリがオーケストラボックスの出入口であったと思われる。
旧琵琶湖ホテル・貴賓室
3F貴賓室は現在は特別展示室になっている
旧琵琶湖ホテル・トイレ
かつての客室はトイレに改装
旧琵琶湖ホテル・屋上庭園
バルコニー(屋上庭園)
木造の欄干は塗装色も復元しているが、床のクリンカータイルは現存していない。
旧琵琶湖ホテル2


 多数の観光客が琵琶湖を訪れると予想し、昭和3年に国際ホテル計画が発表され、滋賀県が建設地を柳ヶ崎に定めて大津市に買収業務を委託、新会社設立も計画されます。 しかし地価高騰の為、滋賀県は面積を縮小して土地を買収し、大津市の所有地(無償貸与)と合わせて建設地としました。
さらに別館(ダンスホール)の建設が中止され、大蔵省の低金利融資も減額されてしまいます。 これにより県は電気・暖房・衛生設備費用も捻出できず、それらの工事費用とエレベーター・造園工事は会社負担となりました。 
名称は『仮称)国際観光ホテル』→昭和8年12月『琵琶湖ホテル』となり、昭和9年に会社が設立されると、取締役会長に藤井善助(藤井彦四郎の兄)が就任。
昭和9年に建物が竣工(10/25)、県との賃貸契約(10/26)、宿屋営業許可(10/27)、開業竣工式(10/27)と慌ただしくOPENしました。 
開業時の間取りは…1F:読書室・ラウンジ・宴会場(食堂)・酒場・理髪室・美容室など、 2F:客室・小宴会場、 3F:客室
その他に館内には、売店・ビリヤード場・卓球場・囲碁将棋室、外部にテニスコート、庭園には夏季限定で食堂を設置。
開業当時の定食は、朝1円50銭,昼2円,夜2円50銭、アフタヌーンティーセット75銭、という価格で提供されました。
 昭和10年に起きた水害と天候不順でしばらく営業不振に陥りましたが、その後は軍需景気で利用者が増大。
しかし戦況が厳しくなると景気も悪化し、金属類回収令でエレベーター接収、労務調整令でホテルスタッフは女性に交代しています。
 終戦を迎えると、建物は国と県が借り上げて進駐軍に提供。 昭和20年(1945/9/30)から琵琶湖ホテルは進駐軍専用宿舎となり、重役と経理は外へ出され、進駐軍が管理しました。
物資調達・改修工事も日本の終戦処理費で賄われ、水道殺菌設備や網戸の設置、キッチンや食品庫をタイル貼に改修。
さらにホテルの地下にバールーム・理髪室などが開店し、ベビーゴルフ場・25mプールも順次完成しました。
食材は主に缶詰で、肉は京都の公認肉屋から、野菜は肥しを使わない専用農園(タキイ種苗経営)から仕入れていたとの事。
 昭和27年(1952)接収が解除されると、半額の請負金で7月から米軍と直接契約。 建物は既に県より無償譲渡されており、改修品を買い取り、新館(木造2F+BF,小河吉之助建築事務所)が翌年(1953/10/29)に竣工。 昭和32年に米軍との契約が解除されると、12月1日から一般向けの営業を再開します。
御大典のため建設された京都の都ホテル第4・5号館と、什器備品の譲渡を受けて移築し、昭和35年(1960/8/1)木造+鉄骨造2階建て、2棟の旅館『びわこ』がOPEN。
さらに翌年には大浴場と客室を有する建物(RC造5F+BF)が竣工し、新館は移築して座敷に改修して『西別館』になります。
そして昭和44年にはRC造の東側を増築(RC造5F+BF)。 ※のちに本館以外は全て解体。
昭和天皇の行啓先と決まると、昭和48年~49年まで本館全室のバスルームと什器備品の交換、キッチン改良、電気設備工事が行われました。
 皇太子(今上天皇)も何度か宿泊された琵琶湖の高級ホテルでしたが、平成10年(1998/8/24)琵琶湖ホテルの浜大津への移転に伴い閉館。
翌年に滋賀県と大津市が買い上げ、大津市が耐震改修保存工事を行い、平成14年(2002/4/27)『びわ湖大津館』が開館しました。

【参考文献】
「琵琶湖ホテル五十年のあゆみ」琵琶湖ホテル 1984
琵琶湖ホテルのリーフレット(開業当時)
「大津市指定有形文化財旧琵琶湖ホテル本館修理工事報告書」大津市・大津市教育委員会 2002

【2015年10月 訪問】


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