2017.
04.16
Sun
建築年:昭和3年(1928)竣工
設計施工:設計は藤井厚二、施工は酒徳金之助
所在地:京都府乙訓郡大山崎町
交 通:JR山崎駅 or、阪急大山崎駅~徒歩約10分(上り坂)
見 学:水・金・日曜日の時間限定で予約受付(人数制限あり)
  ※詳しくはコチラ⇒【聴竹居
聴竹居
 大山崎の高台に佇むこの建物は、住宅の改善に取り組んだ藤井厚二の5軒目の自邸です。
それまで平屋と2階建てに住んだ結果、藤井は平屋が最適と判断し、それに適する敷地として現在地を選びました。
実は伊東恒治(大阪船場の青山ビル設計者)も大山崎に住んでいました。 昭和3年の文献(※1)には、伊東恒治は京都帝国大学営繕課嘱託、住所は乙訓郡大山崎山崎駅上と記載されおり、その頃の藤井は京都帝国大学の教授。 近所としての親交もあったのでしょうか。
聴竹居・玄関
聴竹居・玄関 (細かい工夫がなされているので現地で確認してほしい)
外壁はクリーム色の漆喰、腰積みはRC造に靑龍石粒の洗い出し仕上げ。
当初の屋根は野地板(軒・ケラバ等を除く)を二重にした銅板葺きで、屋根裏の通風口の上だけ瓦葺き。 屋根は現在、着色鉄板葺きとなっている。
聴竹居・勝手口
勝手口と風呂釜
小さな戸を開ければ風呂の湯加減をチェックできる。 洗濯に使う残り湯も運べて便利。
聴竹居・ゴミ箱
台所前にある生ゴミのダストシュートBOXは、洗い水も少々流すため下水管を設置。 床下通気口もかなり大きい。
聴竹居・閑室
本屋の隣にある閑室(かんしつ:昭和3年) ※非公開 
書斎・接客用で、建物の角に2枚の玄関戸を設置した珍しい設計。 
藤井によると『閑室』とは、茶道の古い伝統にこだわらず和敬静寂を楽しみ、閉寂を旨とする室の意味との事。
聴竹居・下閑室
敷地内にある下閑室(茶室):昭和5年頃 ※非公開 
茶席・接客用として利用。 1畳台目中板敷きの茶室・座敷・板の間・立ち流しの水屋・便所などがある。
当初は腰掛待合(写真に写るベンチ)の前に小さな滝と浅い池があり、小川となって下の家に流れていたという。
座敷の床の間は少々変わっており、細長い地袋付きの棚に陶磁器や生花などを配列し、地袋の襖を開いて膝を入れて座り、間近に鑑賞できるよう工夫されている。 
聴竹居・彫刻
左:聴竹居の霊獣石像              右:伝道院の霊獣石像
竹中工務店が施工した伝道院(1912.伊東忠太設計)と同じ彫刻が庭の片隅にあるが、その由来は不明。

【藤井厚二の自邸】
1軒目…大正6年(1917)神戸市葺合区熊内で、2階建ての典型的な間取りで母と暮らす。
2軒目…大正9年(1920)大山崎町竜光の平屋建て。 その頃に高台の土地を取得し、後に防火水槽を兼ねた25mプールやテニスコート(戦時中に芋畑に変更)も完成。
3軒目…大正11年(1922)大山崎町の2階建て。 譲渡後、昭和36年の第二室戸台風で鉄板屋根が飛ばされ仮屋根で凌いでいたが、昭和30年代に解体。
4軒目…大正13年(1924)大山崎町の平屋建てで、屋根はセメント瓦葺き。 家族は住まなかったというが、解体部材は保管されているらしい。
5軒目…昭和3年(1928)平屋建ての聴竹居。 その他に閑室・下閑室・大工小屋・陶芸窯などがあった。

 藤井厚二は明治21年(1888)広島県福山の富豪で、造り酒屋「くろがねや」藤井家の次男として生まれ、大正2年(1913)東京帝国大学工科大学を卒業後、竹中工務店に入社。
大正7年(1918)千家尊福男爵の娘・壽子と結婚。 翌年に退社して欧米視察へ出掛け、帰国後に東京帝大の講師となり、大正15年(1926)教授になります。
竹中工務店時代には朝日新聞大阪本社(1916)・村山社長宅和館(1918)等を担当。 独立後は大覚寺心経殿(1925)・八木邸(1930)等の設計を手掛け、住宅研究に勤しみ、昭和13年(1938)他界。 自らデザインした墓(二尊院墓地)に葬られました。
大覚寺・心経殿
藤井厚二が設計した大覚寺心経殿:大正14年(1925)RC造
殿内には薬師如来立像と、天皇が書かれた般若心経の写経が納められており、60年に一度開封されるとの事。
次回は2018.10.1~開封で、嵯峨天皇が写経した年から1200年目に当たる。 
(建物内部や仏像が公開されるかは不明)  ※詳しくはこちら⇒【大覚寺

【参考文献】
「床の間」藤井厚二 著 1934 田中平安堂
「聴竹居 実測図集」竹中工務店設計部 2001 彰国社
「聴竹居 藤井厚二の木造モダニズム建築」松隈章 著 2015 平凡社
※1)「昭和3年 建築年鑑」1928 建築世界社

【2015年月 訪問】


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2017.
04.02
Sun
建築年:明治18年(1885)竣工、昭和46年(1971)曳家・復原
設 計:牛田方造(土木課掛)
所在地:福島県南会津郡南会津町田島字丸山甲4681-1
交 通:会津鉄道・会津田島駅~徒歩約10分
開 館:9時~16時、有料
休 館:火曜日(祝日の場合は翌日休)、年末年始
TEL:0241-62-3848
    ※詳しくはコチラ⇒【旧南会津郡役所
旧南会津郡役所1
 会津の擬洋風建築で知られる建物。 時代により用途・名称も変わり、南会津郡役所→福島県の支所→現在地に曳家されて奥会津地方歴史民俗資料館→平成6年度に資料館が移転し、現在は『旧南会津郡役所』となっています。
 明治12年(1879)郡区町村編制法により会津が南北に分断されて南会津郡が誕生。 それまで田島陣屋(1790年竣工,現:南会津町役場の地)を役所としていましたが老朽化のため新築する事になり、建設費のうち福島県からは3千円、残りは地元が負担する事になったために戸長が寄付金を集め、お金のない住民も工事を手伝う等して建設されました。
設計・目論見書は土木課掛の牛田方造で、本館の施工は古川源治と貝瀬鉄吉が請負いました。 明治18年(1885)5/15着工、8/15竣工、8/23落成、9/5開庁。 設計案では望楼付きの3階建であったようですが、設計変更して現在の姿になっています。 竣工時の屋根はトタン葺きでコールタールが塗られていました。
 さらに大正3年(1914)改修工事が実施され、外壁に下見板が貼られています。 そして田島合同庁舎新築のため昭和46年(1971)現在地に曳家され、復原工事が実施されました。
旧南会津郡役所・玄関
玄関
旧南会津郡役所・会議室
2階 会議室
旧南会津郡役所・ベランダ
2階ベランダ 窓と柱
秋田に旧 日新館(宣教師館)というよく似た建物がある
旧南会津郡役所・階段1
階段
旧南会津郡役所・階段2
急勾配の階段は当時としては当たり前
旧南会津郡役所・事務室
1階 事務室
旧南会津郡役所・郡長室
1階 郡長室
旧南会津郡役所・回廊1
回廊
旧南会津郡役所・回廊2
回廊:洋と和の雰囲気が混在する
旧南会津郡役所・中庭
中庭
旧南会津郡役所・出入口中
左:人民出入口              右:官史出入口
表玄関は郡長や貴賓客(議員も?)出入口で、この他に事務室・人民控室にも出入口がある
旧南会津郡役所・出入口外
左:人民出入口(手前は人民控室の出入口)    右:官史出入口
旧南会津郡役所・古写真2
移築前の写真  ※展示パネルより
旧南会津郡役所・古写真1
※展示パネルより
旧南会津郡役所・古写真3
左:竣工当時の間取り
右:昭和46年(1971)曳家の写真  ※展示パネルより
旧南会津郡役所・曳家
昭和46年(1971)曳家の写真  ※展示パネルより
旧南会津郡役所2
現在の様子
六地蔵尊
隣りにある六地蔵尊:6名の南山義民を供養するため、南山義民地蔵尊建立会により平成7年に再建された。
 幕府が享保7年(1722)百姓一揆の首謀者とする6名をさらし首にした。 その顛末を分かりやすく解説した絵本があり、館内にも展示されている。
当時この地は南山という地域で幕府直轄地(御領・幕領)であり、田島陣屋で受理されなかった年貢軽減や廻米・米納の強制中止を求める直訴状を以て、百姓の代表者が江戸へ提出。 幕府は6名を一揆の首謀者として打ち首に処し、領地を会津藩への預け支配に切り替える事で百姓の願いを一部受け入れたという。
そして文久3年(1863)会津藩へ京都守護職の手当てとして南山5万5千石が与えられた。

【参考文献】
「福島史学研究17号」1970-11 福島県史学会

【2015年5月 訪問】



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