2014.
07.05
Sat
建築年: 明治34年(1901) 増築・改修あり ※2017年秋頃まで移築復原工事中
構 造: 木造2階建て、一部鉄骨柱
住 所: 東京都文京区目白台2-8-1
交 通: 東京メトロ有楽町線「護国寺」~徒歩10分 or、JR目白駅~徒歩15分
TEL: 03-5981-3376 (成瀬記念館)

成瀬仁蔵邸
 日本女子大学では、創立者・成瀬仁蔵の生誕記念日6/23、成瀬仁蔵の旧宅が公開されるとの事で行って参りました。(2014年6月)
目白キャンパス護国寺門入ってすぐの右手の道を入ると、樹木の生い茂る角地に日本家屋が建っています。 開校した明治34年(1901)教員住宅として建設されたもので、当初は道路際に同じ様な建物が3棟ありました。
 1階は茶の間・台所・浴室の他、和室が3部屋と便所3ヶ所が設置され、数人の教師が共同生活できる間取りになっていますが、実際には成瀬校長が1人で暮らし、家事は女中がしていたようです。 その後は4・5代目校長や英文学科の外国人教授などが住んでいたとの事。
 成瀬校長の生前、2階に書庫を増築するという大幅な改築がなされましたが、死後に和書500冊・洋書1900冊は成瀬文庫に移されたため、荷重と経年劣化による損壊は免れたようです。

 この度、環状第4号線(目白台区間=工期未定)開通工事により立ち退きとなる為、成瀬記念館の横に移築復原されるといいます。
以前は1階を使用していたため非公開だったそうですが、解体に伴い使用者が引き払ったため今回は公開する事ができたとの事。
今後の状況によっては解体時期・公開日時も変更する可能性がありますので、HP等でご確認ください。
※既に解体されており、2017年秋頃まで移築復原工事中で、公開時期などは未定との事
建物以外の見学は、成瀬記念館(TEL:03-5981-3376)へ
開館日時: 火曜日~土曜日(祝日除く) 10:00~16:30(土曜は12:00まで)
※詳しくはコチラ⇒【成瀬記念館
成瀬仁蔵邸・玄関
玄関                          照明は年代不明
成瀬仁蔵邸・1階8帖間
1階8帖間
成瀬仁蔵邸・1階6帖間
1階6帖間
成瀬仁蔵邸・台所
台所                       網戸が付いた戸棚がある
成瀬仁蔵邸・台所天井
台所の天井
成瀬仁蔵邸・改良型竈
煉瓦に漆喰を塗った改良据え置き型カマドは、七輪と竈の中間の様な物
成瀬仁蔵邸・浴室
浴室のシャワーと洗面器は後付け         天井と壁境には換気口
成瀬仁蔵邸・階段
左:階段                 右:大学の評議員であった大隈重信の為に設置したという手摺
成瀬仁蔵邸・2階書斎
2階西南側の書斎:当初は和室8帖であったが、板張りにして書庫を増築
成瀬仁蔵邸・家具2
当時の家具
一部の家具や、明治末期の西川オルガン(Nishikawa&Sonz ・横浜)は記念館に展示
そのオルガンは十字屋楽器(銀座3丁目2)で購入したようで、プレートが貼られている
成瀬仁蔵邸・家具1
それぞれの案件用の机があった
左側の本棚はオックスフォード英語辞書専用で、辞書が読めるよう天板に傾斜とキャスターが付いた特注家具
成瀬仁蔵邸・2階書庫
書斎奥にある増築された書庫は天窓があり、相当な明るさ
成瀬仁蔵邸・2階寝室
2階北東側の7.5帖の和室はそのまま寝室とし、奥に板の間を増築
成瀬仁蔵がこのベッドで息を引き取った
成瀬仁蔵邸・2階寝室奥
寝室奥の増築された板の間は、かなり歪みが出ている
手前の家具の様な物は、蓋を開けると人研ぎの流し台になっている
成瀬仁蔵邸・2階寝室2
更に寝室の北側に大きな洋風書斎を増築
成瀬仁蔵邸・2階洋風書斎
増築された洋風書斎
成瀬仁蔵邸・2階洋風書斎窓
洋風書斎の窓                    鎧戸もそのまま
成瀬仁蔵邸・2階洋風書斎天井
洋風書斎の天井
成瀬仁蔵邸・家具4
大学にあったという家具で、左端の机は学生用か? 天板が開いて文具が収納できる
成瀬仁蔵邸・エピソード
左:書斎広縁にある書見台。 ここに本を置いて立ち読みし、歩きながら瞑想したという。
右:各部屋にあるベルは校舎か学生寮に繋がっていたと云われ、あるとき生徒がスイッチを押してしまい、成瀬がサーベルを持って寮に駆け付けた事があったという。


 成瀬仁蔵は、吉敷毛利家の右筆を務めた下級武士の長男として、安政5年(1858)6/23生まれましたが、7歳で母を亡くしています。
さらに16歳で父と弟を亡くし、明治8年(1875)山口県教員養成所(山口県師範学校)に入学しました。 その当時は姉も嫁いでいたため、尋常中学校時代から寮か下宿で生活をしていたと思われます。
 明治10年(1877)先輩・澤山保羅(浪花教会牧師)に出会って感銘を受けた成瀬は、大阪の浪花教会にて受洗。 明治11年に澤山保羅が創立した梅花女学校ただ1人の教師となり、翌年に浪花教会の信徒であった服部マスエと結婚。
成瀬は明治16年から大和郡山教会に派遣され、翌年に牧師試験合格。 明治19年(1886)設立された新潟第一基督教会(現・日本基督教団 新潟教会)牧師に就任しましたが、明治20年(1887)に開校した新潟女学校の校長となって牧師を辞任。 さらに男子校の北越学館創設にも関わりました。
 明治24年(1891)からアンドーヴァー神学校へ留学。 そしてクラーク大学へ転学し、明治27年に帰国した後は梅花女学校校長に就任。
廣岡浅子らの協力により、明治34年(1901)日本女子大学を開校し、初代校長となりました。
 日本女子大学開校時の教員は約50名、フレンチのシェフ・画家・礼法の家元の他、留学経験のある体育教師を採用し、バスケや野球・自転車など女子スポーツ普及のきっかけになりました。
肝臓癌の告知を受けた成瀬校長は、大正8年(1919)1月29日に特別講演会を開催。 同年3月4日60歳で永眠し、雑司ヶ谷霊園に埋葬されました。
成瀬仁蔵邸・家具3
肝臓癌だった成瀬校長は、大正8年(1919.1.29)担架を兼ねたこの椅子に乗せて講堂まで運ばれ、1時間20分もの講演を行った。


 開校に多大な貢献をした廣岡浅子は、三井小石川家6代目当主・三井高益の四女です。
娘婿の廣岡恵三は一柳子爵の息子で、その妹の満喜子はW.M.ヴォーリズの妻ですので、ヴォーリズとは親戚になります。
 ※詳しくはコチラ⇒【旧 清友園, 旧 ヴォーリズ邸
 廣岡浅子は資金提供の他、三井小石川家に懸けあった事で明治33年(1900)現在の土地が寄贈され、校舎を建設する事が出来ました。 その後も三井小石川家は日本女子大学の支援を行っています。
 浅子は嘉永2年(1849)京都油小路出水で生まれ、学問に興味を持っていましたが、女には不要との事で読書も禁止されました。 17歳で加島屋の廣岡家に嫁ぎますが、茶の湯・謡曲に勤しむ夫を見た浅子は独学で簿記を習得。 積極的に加島銀行や鉱山経営に参加しました。
明治37年に夫が亡くなった後は娘婿に家業を譲り、日本女子大学や愛国婦人会の活動を開始。 さらに大阪教会の宮川牧師からキリスト教を学び、受洗しています。

 三井財閥の一族である三井小石川家は京都に本拠があり、当主は代々「三井三郎助」を襲名しました。 明治に入ると東京に本邸を移したようで、明治43年発行〔※3〕の本によると、小石川区水道町安藤坂にあった三井三郎助邸は、高低差を利用した和洋折衷の庭に洋館・和館・温室などがあり、噴水がある芝庭には大籠を設え、孔雀を飼っていたと書かれています。

【参考文献】
※1 「写真で見る成瀬仁蔵その生涯」 2010 日本女子大学成瀬記念館 
※2 「一週一信」 1918 廣岡浅子(婦人週報社)
※3 「名園五十種」 1910 近藤正一(博文館発行)

【2014年6月 訪問】


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