2014.
08.03
Sun
建築年 : 本館は昭和6年(1931)12月に竣工、新館は昭和37年11月
構 造 : RC造、 地上6階+地下1階+塔屋
設計施工: 設計は渡辺節(渡辺建築事務所)、 施工は清水組(清水建設)
住 所 : 大阪市 中央区 備後町2-5-8
交 通 : 地下鉄「本町」駅 or 「堺筋本町」駅~徒歩5分
見 学 : 有料・予約制、 第4土曜日 11:00~(食事付)、14:30~(見学のみ)
T E L : 06-6231-4881(日・祝・第3土曜日・年末年始休み)

      ※詳しくはコチラ⇒【日本綿業倶楽部
綿業会館
 こちらは企業系の建物を数多く手掛けた渡辺節の作品で、日本綿業倶楽部会員用施設です。
東洋紡績の専務であった岡常夫(1927.1.22没)の遺言として100万円、業界からの寄付50万円を合わせて会館を建設する事になり、渡辺節が設計しました。(村野藤吾も主任として図面作成) 昭和6年(1931.12.31)竣工し、翌年(1932.1.1)に開館。
 戦時中の昭和17年(1942)には、岡常夫の銅像や鉄柵・シャンデリア等の金属を供出し、さらに昭和20年7月から陸軍第4師団司令部に接収された為、事務所は寺田ビルに移転します。 昭和20年(1945)大阪大空襲の時には、綿業会館は網入ガラスの耐火窓を採用していたためか、被災は僅か1ヶ所で、ガラス1枚とカーテン1枚のみ。
 終戦後は昭和27年まで進駐軍に接収され、各部屋が間仕切られて浴槽などが設置されていましたが、同年10月2日から綿業会館として再開することができました。 その後、岡常夫の銅像(建畠大夢 作)は型が残っていたため再製できましたが、シャンデリアはミラノ・スカル座ロビーの照明をモデルに新規で作製。
そして渡辺建築事務所の設計により、昭和37年11月に新館(増築部)が完成しました。
綿業会館・旧館ロビー
 本館 玄関ホール
トラバーチンを大量に使用したのは、この建物が初めてだと渡辺節が語った1階ロビー。
石屋の見積もりは法外な値段であった為、渡辺節がイタリア領事館に交渉し、トラバーチンを直送してもらったという。
綿業会館・本館ロビー消火栓&ポスト
本館 玄関ホールにある郵便ポストと消火栓
綿業会館・本館サロン
本館1F: サロン
綿業会館・本館会員食堂
本館1F: 会員食堂。 この日は貸し切りのパーティーに利用されていた。
綿業会館・本館会員食堂天井
本館1F: 会員食堂の天井
綿業会館・本館会員食堂壁
本館1F: 会員食堂の壁は、石材風に仕上げたもの。
綿業会館・本館談話室
本館3F談話室
綿業会館・本館談話室2
本館3F談話室
綿業会館・本館談話室タイル
本館3F談話室: 渡辺節自ら、色合いの異なるタイルの配置を決めた。
綿業会館・本館談話室空調
本館3F談話室の空調吹き出し口:当初の冷房は井戸水による冷風装置だったという。 
その後、日本初のスターテバント型ロータリー圧縮機を採用した。
綿業会館・本館談話室4
本館3F談話室: 時計              本館3F談話室: 照明
綿業会館・本館談話室3
本館3F談話室の中にある階段
綿業会館・本館特別室
本館3F特別室
綿業会館・本館特別室天井
本館3F特別室の天井
綿業会館・本館会議室
本館3F会議室: この部屋は「鏡の間」とも呼ばれている。
綿業会館・本館会議室天井
本館3F会議室の天井
綿業会館・本館会議室天井2
本館3F会議室の天井
綿業会館・本館会議室その他
本館3F会議室:ドア             ブラケット照明と換気ガラリ?
綿業会館・本館会議室扉上
本館3F会議室:ドア枠も時計も石材を使用
綿業会館・地下階段
地下の階段
綿業会館・地下階段&休憩所
地下の階段の仕上げ                  地下の休憩所
綿業会館・地下バー
地下のBAR
綿業会館・地下食堂
地下の食堂
綿業会館・正面
手前にチラリと見える街灯は、三休橋筋に復元されたガス灯。

 渡辺節は明治17年(1884.11.3)長男として東京に生まれ、その年が天長節であった事から「節」と名付けられました。 そして子供の頃から絵を描くのが得意だったといいます。
父・祺十郎の赴任先(陸軍第八師団)で弘前にある青森県第一中学校(現・弘前高校)を明治34年に卒業し、仙台の第二高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科(1908年)卒業。 韓国政府度支部建築所を離職後(1912)、鉄道院西部鉄道管理局に入省し、旧京都駅などを手掛けました。
 大正3年に山田さだ(弟は愛知大学長・山田文雄)と結婚し、暮らした自邸は神戸・住吉村にあり、谷川焼の屋根瓦で葺いた和風建築で、晩年から趣味の菊鉢を育てたといいます。
 大正5年(1916)に独立した後の作品は、東リ伊丹工場旧事務所(1920)・旧大阪商船神戸支店(1922商船三井ビルディング)・岸和田市立自泉会館(1932)・乾邸(1937)など。
 最初の事務所は玉江橋の浪華倉庫2Fで、事務所に渡辺節が来ると所員達は相当緊張したようです。 村野藤吾によると、渡辺節は寸法の達人・図面を見る名人であり、入社3年目まではストレスで体重が減り、いつ出ようかと毎日考えていたが、一旦芽が出ると信用して仕事を任せてくれるようになったとの事。 仕事で感心したのは、工期を早くするから金を出せと施主に伝え、図面から工法まで、あらゆる時間短縮を試みた事で、例えば枠を先に付けて塗り壁で仕上げるのではなく、定規縁を先に打って壁を塗り、枠を後付けにする等々…。
 また渡辺節は、日本の建築界に新しい製品を導入してきました。 大阪商船神戸支店新築(1922)の際には米国へと視察に出掛け、大量のテラコッタ・プラスター・タイルを購入。 構造設計は内藤多仲に依頼して耐震化し、強制式温水暖房を採用しました。
さらに、テラコッタやプラスターはメーカーに持込み、大阪陶業㈱が製品化に成功。 大阪ビルヂング(1924)に採用したといいいます。 
 所員には厳しかった渡辺節ですが、晩年には菊を愛で、孫をたいそう可愛がる洒落たおじいちゃんであったようです。  昭和42年1月21日 他界。

 【参考文献】  「建築家 渡辺節」 1969 大阪府建築士会渡辺節追悼誌刊行実行委員会

【2013年10月 訪問】

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