2015.
07.20
Mon
              ※他の建物や人物ついては、右上のブログ内検索でお探し下さい
建築年 : 不明。 昭和37年に改修
住  所 : 神奈川県 鎌倉市 長谷一丁目3番6号
構 造 : 木造平屋建て
設 計: 不明。 改修設計は吉田五十八
見 学 : 春と秋に一般公開 (団体は期間外の受付有り・有料)
交 通 : 江ノ島電鉄線由比ヶ浜駅~徒歩約7分 or 「長谷東町」バス停~ 徒歩2分
T E L : 0467-25-2030(鎌倉生涯学習センター)
 ※詳しくはコチラ⇒【吉屋信子記念館
吉屋信子邸
 吉田五十八が改修した建物が、幼い頃から各地を転々とした吉屋信子の、最後の住まいとなりました。
本人の遺志により、昭和49年1月に土地建物・備品・蔵書が鎌倉市に寄贈され、同年5月から吉屋信子記念館となっています。
吉屋信子邸2
 最初に建てた東京下落合の家は、大正15年に完成した洋風住宅で、門馬千代との二人暮らし。 さらに昭和10年、吉田五十八に設計を依頼し、牛込区砂土原町の新邸が完成しています。
この砂土原町の邸宅については、丹羽文雄の「新居」の中に、昭和11年5月に訪問した際の様子が書かれています。
 屋敷町にある吉屋邸は、門から玄関まで7~8間、竹が良い具合に植わるアプローチがあり、一枚硝子戸のある玄関で出迎えた秘書・門馬千代の事を「色の白い、肥った気さくな感じの中年の婦人」と著者は表現しています。
午後再び訪問し、やっと吉屋邸に上がった著者は、「廊下がいやに暗かった」と感じていますが、これは吉田五十八があえて意図した事でしょう。
ここからはそのままの文章でお伝えします。→ 「十二畳はたっぷりある見事な、派手な感じをぐっと押へた近代風と時代風の交錯したセットみたいな応接間であった。 天井も一枚に平面に葺いてあるのでなく、中央で洒落た変化を見せている。 ふんだんに敷きつめた絨毯、上品な黄色壁、一間半の本床~(略)一方の半間の床には吊り床があって、尺大の人形が飾ってゐた~(略)扉には角角に金具で装飾がうつゝけられてゐ、窓は武者窓のやうに格子が六角?で横に渡してあった。」
また、吉屋信子はこの家の事を「フランスから帰って来た當時、あちらの洋館を眞似て建ててみたんだけど、気持ちがしっくりしないのよ。今度これを建ててみて、はじめて自分の家といふ感じがしてよ。」と語っています。(※1)
 さらに信子は、昭和14年に鎌倉に別荘を持ち、昭和19年から疎開していましたが、昭和20年の東京大空襲で砂土原町の本邸が焼失。
昭和25年12月に東京(千代田区二番町)に戻りますが、昭和37年4月に再び鎌倉に住まいを移します。 それがこの邸宅であり、終の棲家となりました。 既存の建物を10m山側へ移築し、吉田五十八が改修設計したものです。
吉屋信子邸・外部
左: 寝室前にある金物。 軒スダレの様な物を掛けたのか?
右: 玄関ポーチの照明
吉屋信子邸・裏
左: 建物裏側。 書斎前に藤棚がある。     右: 勝手口側
吉屋信子邸・勝手口
左: 勝手口                     右: 扉の覗き窓
ガムテープは厳禁! セロテープでも長年経つと粘着剤が取れず、養生テープも日焼け跡が残る。 防虫・殺虫スプレーも変色する恐れがあるので、無塗装の柱など直接かからないように。
吉屋信子邸・玄関内
左: 玄関ホール             右: 玄関の床は仙台石の四半敷き
吉屋信子邸・玄関天井
玄関の天井材(オリジナル?)は、挽いたままの杉板に杢目が透けるよう塗装。 敷目に白い棒を挟む。
吉屋信子邸・応接間
応接間の天井は、唐紙の網代張りに銀色の底目地。
ソファーは吉田五十八のデザインと云われているが、コンセントが隠れているので配置が違うのかもしれない。
吉屋信子邸・応接間1
応接間の出入口付近にある飾り棚(展示ケースの裏にダイニングがある)
吉屋信子邸・照明
照明
吉屋信子邸・食堂
ダイニング:パネルの後ろに食器の受け渡しが出来る開口部がある。
吉屋信子邸・和室
和室: 応接間よりも床を上げ、ソファとの目線を合わせている。 床柱はない。
吉屋信子邸・和室欄間
和室の天井は、クロスの目透かし張りに、吹寄せの竿縁。 鴨居の束は金具。
吉屋信子邸・書斎1
書斎: 雨戸・網戸・硝子戸・雪見障子を戸袋に全て収納できる
吉屋信子邸・書斎2
書斎の造り付け収納扉はクロスで統一。 着物は吉屋信子の遺品。
吉屋信子邸・寝室1
寝室: 造り付けの化粧机は、猪俣邸(1967)でも採用   (非公開区域)
吉屋信子邸・寝室2
寝室                    (非公開区域)
吉屋信子邸・寝室BOX
ホテルの寝室の様にベッドの間に棚を設け、明かりが灯る。 (非公開区域)
吉屋信子邸・庭2
左: 庭にある築山         右: 岩のサークルは火口か? 富士講?
吉屋信子邸・庭1
左: 庭の茂みに隠れていた鬼?の灯篭     右: 亭は吉田五十八のデザインではない
吉屋信子邸・門


 吉屋信子は、明治29年1月12日に新潟県警務課長であった吉屋雄一の長女として生まれ、新潟や栃木の郡長となった父と共に住まいを転々とします。 栃木高等女学校(現:栃木女子高校)在学中に「少女界」の懸賞に応募し、「鳴らずの太鼓」が1等を受賞。 卒業後は日光小学校代用教員として働くも、すぐに退職。
大正4年9月に帝大生の三兄・忠明を頼って上京し、その翌年から少女画報で「花物語」の連載が始まります。 兄が卒業すると、キリスト系の寄宿舎から玉成保母養成所に通いますが、大正8年5月に兄・忠明を再び頼って北海道の利別太(現・池田町)に移り、そこで「地の果てまで」を執筆(7月脱稿)。 7/31に父が亡くなった後、母や弟と宇都宮で暮らしながら大阪朝日新聞の懸賞に応募した「地の果てまで」が連載決定となります。
大正9年秋に家族と共に上京し、長兄宅に住んでおりましたが、大正10年4月に東京に戻った三兄・忠明の元に再び身を寄せます。 大正13年からは母親との二人暮らしで不入斗(現・大森北5丁目)いわゆる馬込文士村に住み、宇野千代、村岡花子、佐多稲子らと交流しました。
 吉屋信子の主な作品は「花物語」「鬼火」「安宅家の人々」「徳川の夫人たち」等。 第4回女流文学者賞・第15回菊池賞を受賞しています。
その中でも鎌倉を舞台とした作品は、「茶盌」と「媼の幻想」があり、その「媼の幻想」には、疎開先の話として母親と同居人らが出てきます。
 その同居人・門馬千代は、大正12年に主婦之友記者の山高しげりの紹介で信子と出会い、女学校の数学教師を辞めて秘書兼家事手伝いに、後に養子となりました。 昭和5年の雑誌の座談会に、千代お手製の服を着た吉屋信子と門馬千代子(当時は2文字の名前に子を付けて通称とした女性が多かった)が参加しており、「襟の所が気に入らない」という信子に対し、千代は「顔の大きな人には襟のつまった形は似合わない」と返答。 本音を言い合える関係であった事がわかります。(※2)
 吉屋信子は千代と姪に見守られながら、昭和48年7月11日に他界し、鎌倉大仏がある高徳院墓地に眠っています。

【参考文献】
「鬼火・底のぬけた柄杓」 吉屋信子 2003 講談社
鎌倉文学館 「吉屋信子展」 図録 1989
※1 「新居」 丹羽文雄 著 1936 信正社
※2 婦人之友24-5 「如何に洋服を着るべきか」 1930/05 婦人之友社

【2014年 10月訪問】


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