2015.
08.02
Sun
                ※他の建物や人物ついては、右上のブログ内検索でお探し下さい
建築年 :大正7年竣工
住 所 :鎌倉市 長谷
構 造 :木 造
見 学 :通常非公開 
T E L :03‐3584-7301(神霊教本部)
    ※詳しくはコチラ⇒【神霊教
山本条太郎別邸
 激動の時代をしたたかに生きた山本条太郎。 その山本家の別邸が鎌倉に現存しています。
山本条太郎の死後、昭和31年に九鬼家(健一郎)が買収し、益田鈍翁が名付けたと云われる茶室『無畏庵』を増築。 「料亭等に利用するのでなく、建物の文化的価値を理解し現状維持・保存」という条件付きで、昭和56年から神霊教の所有となり、『鎌倉錬成場 霊源閣』と名付けられ、集会や茶会などに利用されています。 その神霊教は、昭和22年(1947)兵庫県西宮で開教した神道系の宗教で、教祖・大塚寛一は、大阪で電気事業を興し、数多くの特許を取得した人物との事。
山本条太郎別邸・アプローチ
 この別邸で平成26年(2014.11.15 鎌倉別荘地時代研究会 主催)紅葉宴が開催され、坂麗水氏の薩摩琵琶の演奏や、倉田生子氏の花結びの展示が行われました。
鎌倉大仏からほど近い場所にあり、表門を入って森の様な敷地の中の坂道を上がっていくと、庭門の前で係りの方が受付をされていました。
一番早くに到着したものの建物にまだ入れないので、廻りを散策する事に。 玄関までのアプローチは苔むし、緑の絨毯の様になっていました。
山本条太郎別邸2
 玄関の横を通り抜けると大広間に面する庭に辿り着き、鎌倉の景色を眺望できます。 さらに奥へと進んで行くと手水鉢があり、すぐ脇に崖があるので恐る恐る進みました。
主屋につながった茶室の近くに腰掛待合があり、その裏手は広い道となっていて、管理人室らしき建物があります。 
 かつて、内田信也ら茶会に招かれた政友会の仲間達が朝9時半頃に到着し、止木がないので進んでゆくと、山本氏が寝間着でウガイをしているところへ踏み込んでしまったというエピソード(※1)があり、自分も同じ行動をしていた事を後で知りました。 開演時間が迫り慌てて戻ると、既に建物内に人々が入場していました。
山本条太郎別邸・戸袋
大広間の雨戸の戸袋は、表面の網代張りが剥がれ下地が見えている
ちなみに秋田木材は、桜庭駒五郎が教会を手掛ける前に務めていた会社
山本条太郎別邸・茶室①外
茶室①(6帖)の外観
山本条太郎別邸・庭石
上: 寺社仏閣の礎石を利用した踏み石。 三井家本邸(江戸東京たてもの園に移築)にも同じ様な礎石がある。
下: 蹲踞(つくばい)
山本条太郎別邸・茶室②外
茶室『無畏庵』:屋根に檜皮葺の様な厚みがある 
山本条太郎別邸・腰掛待合1
腰掛待合
山本条太郎別邸・腰掛待合2
腰掛待合の裏に便所が付属しているらしい
山本条太郎別邸・茶室棟玄関
茶室棟の玄関 
山本条太郎別邸・内玄関
凝った造りの裏玄関: 帽子・コート掛け金具が打たれ、主人も普段は使ったと思われる
台所にも近いこの辺りで、内田信也らはうがいをする山本に遭遇したか?
山本条太郎別邸・図面
平面図
山本条太郎別邸・玄関2
いよいよ表玄関に入る
山本条太郎別邸・玄関ホール
玄関ホール
山本条太郎別邸・玄関ホール地袋
玄関ホールの地袋の仕上げは竹製
山本条太郎別邸・階段窓
玄関ホールから広間・居間へ向かう階段にある窓は、居間の明り取り窓
山本条太郎別邸・居間1
居間
山本条太郎別邸・居間2
居間の床の間はシンプル
山本条太郎別邸・居間横8帖間1
居間の向かいにある8帖間は、押入れがあるので寝室か?
山本条太郎別邸・使用人室
厨房横にある使用人室は8帖もあり、秘書などが使ったのかもしれない
山本条太郎別邸・使用人室呼び鈴
使用人室?の呼び鈴
山本条太郎別邸・大広間床の間
大広間の床の間
山本条太郎別邸・次の間
次の間
山本条太郎別邸・次の間照明
当時の鉄製の照明が残っており、鈴虫の飾りが付く 
山本条太郎別邸・茶室①
左: 茶室①(6帖)床の間         右: 廊下にある水屋 
山本条太郎別邸・8帖間
茶室棟の8帖間
山本条太郎別邸・4帖半
4畳半の部屋
山本条太郎別邸・茶室②
左: 無畏庵の床の間(手前座に洞庫の引戸がある)     右: 躙り口 
山本条太郎別邸・茶室②水屋
無畏庵(茶室②)の水屋
山本条太郎別邸・茶室②裏
左: 無畏庵(茶室②)水屋        右: 廊下にある洞庫


 山本条太郎は、慶応3年(1867)に福井藩士・山本条悦の長男として誕生。 母みつは渡辺謙三(吉田茂の養父)の姉であり、条太郎の他、長女とみ・次女さくを儲けています。 松平家の家臣として明治5年に上京した一家は、明治8年にみつが亡くなると、翌年には後妻てるを迎え入れます。
 条太郎は、共立学校(現・開成中学)を卒業すると三井物産横浜支店の丁稚小僧となり、1年程で東京本店に異動し米係りになります。
しかし、穀物相場に手を出した事がばれ、船の事務員に左遷され、英国人・中国人の船員の中、ただ一人の日本人として乗船。 条太郎の英語力では通じなかったものの、英国人船長に付いて英会話を習得します。
 下船後は上海支店に勤務し、支店長代理になると日清戦争の間際まで上海に留まり、軍用品の売買や偵察を行います。 後に、上海紡績会社の支配人、明治30年(1897)本店の綿花部長や関連会社の重役に、明治33年には本部参事長となって改革を試みますが、再び上海へと異動となります。 その上海では、商務印書館と日本の金港堂の合併に関わる等、抜かりはありません。
明治41年(1908)に本店に戻ると、翌年に常務取締役に就任。 戦艦輸入に関する贈賄『シーメンス事件』に連座し、大正3年(1914)に辞職。  
その後は、衆議院議員・政友会幹事長の他、北陸電化㈱の設立や鉱山経営、朝鮮紡績㈱・日本水力㈱・山下汽船㈱等の共同設立、森永製菓と乳業の取締役、東京地下鉄道の設立委員の他、昭和2年(1927)には満鉄社長に就任しています。 また、孫文ひきいる革命軍に、300万円程の個人的支援を行っていたようです。(※2)
 私生活では、明治31年(1898)金港堂の原亮三郎の3女・操子と結婚。 長男・武太郎が生まれています。 そして、明治41年に家督を弟・章雄に譲り、自ら分家。(※3) 
釣りや狩猟、茶道や将棋などの趣味を持ち、日焼けした肌に鋭い眼光の山本条太郎は、昭和11年(1936/3/25)他界しました。
 ちなみに、赤坂の本邸(新坂町42)は洋館で、鉄門から玄関まで200m程あったそうで、星 亨の屋敷を買い取ったものと文献に書かれています。(※4) その他にも、軽井沢に1軒・鎌倉に2軒の別荘を所有していたとの事で、その内の1軒が今回の建物になります。
 なお、保管していた土岐二三の茶室の解体部材は、松永安左エ門が死後に譲り受け、昭和13年頃に所沢の柳瀬荘に復元。 条太郎の字から『久木庵』(きゅうぼくあん)と名付けられ、現在は東京国立博物館の所有となり、毎週木曜日に外部のみ公開されています。

【参考文献】
・ 「山本条太郎伝記」 山本条太郎伝記編纂会 1942
・ 印刷雑誌24-1 「商務印書館の創業時代」 印刷学会 1941-1
・ 「岡村政子伝:明治石版画界の異彩」 山室次郎著 1962 尚美印刷工芸社
(※1) 「風雪五十年」 内田信也著 1951  実業之日本社
(※2) 「その頃を語る」 東京朝日新聞社発行所 1928
(※3) 「第三回調査全国五拾万円以上資産家」 時事新報社 1916
(※4) 「時事評論5-1」 時事評論社 1910.01 

【2014年11月 訪問】

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| 2016.06.13 19:07 | 編集
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