2015.
09.27
Sun
建築年 : 明治22年頃(1889)、1964年に曳家、何度か改修有り、1997年に修復完了
構 造 : 木造2階建て
住 所 : 東京都 港区 白金台1-2-37
設計施工: 不 明
見 学 : 学園祭などで一般公開
交 通 : 都営三田線・東京メトロ南北線白金高輪駅or白金台駅~徒歩7分、都営浅草線高輪台駅~徒歩7分、JR品川駅~徒歩17分
      ※詳しくはコチラ⇒【明治学院大学
インブリー館
 明治学院の教員用住宅で、インブリーが永年住んだ事から「インブリー館」と呼ばれ、現在は会議室などに利用されています。
この学院は、築地大学校(旧:ヘボン塾)と横浜の先志学校を合併して出来た東京一致英和学校に、さらに東京一致神学校と予備校も合併して明治19年(1886)に「明治学院」となった経緯があり、長老教会・改革教会協同となった事から、当時1~5号館まであった宣教師館には同じキリスト教徒でも宗派により、奇数番号に長老派・偶数番号に改革派と分かれて住んでいたようです。
そして構内の東南隅(正門北側)にあった5号館には、明治30年頃から長老派のインブリーが家族と共に入居していました。
インブリー館・1F階段
1階の階段:階段下部の昇り口の位置が変更され、上部はホールと階段を壁で仕切っていたが、創建時の様子に復原されたので新材が多い。
インブリー館・1Fホール
階段から見た1階ホール
インブリー館・1F
1階 西南の部屋:間仕切りの奥は床が1段上がっている
インブリー館・1階暖炉
1階 西南の部屋(暖炉)
インブリー館・ガス灯跡
室内にガス灯の器具跡が7か所あるが、竣工当初はランプを使用していたと云われる
インブリー館・2Fホール
2階の階段ホール
インブリー館・2F西の部屋
2階 西の部屋
1階は白い漆喰壁に木部をワニス塗り、2階は卵色の漆喰に木部はペンキ塗り(一部、灰色の漆喰壁)
天井は紙張りで、解体の際に大工の名や施工図が描かれたワラ半紙(稲藁を原料とした洋紙)の下地張りが発見された
インブリー館・2F西の部屋床
2階 西の部屋(暖炉横の床) 床の張り方は各部屋によって違う
インブリー館・2F西の続き部屋
左:2階 西の続き部屋            右:階段ホールから見た部屋
インブリー館・2F北東の部屋1
2階 北東の部屋
インブリー館・2F北東の部屋2
2階 北東の部屋(ベランダとクローゼットの扉)
インブリー館・2F北東部屋暖炉
2階 北東の部屋(左:暖炉、 右:床)


 5号館は大正3年(1914)サンダム館の火災で屋根の一部が類焼。 その後、日本人の役宅となり、戦後は医務室や図書館などに利用されていましたが、昭和39年(1964)国道の拡幅工事に伴い現在地に曳家した際に基礎の高さを低くしたようです。
そして平成7年から修復工事が始まり、平成9年に完了。 その調査で外壁の色が濃茶色→肌色→薄い水色と塗り替えられた事が判明しましたが、1923年当時の写真を元に、下見板を肌色・柱を濃茶色に復原。 さらに、玄関ポーチ部分・基礎の高さ・煙突・東側バルコニー・鎧戸・3FフラワーBOXや室内階段が復原されています。
また、当初の屋根は和瓦でしたが、昭和38年(1963.9.4)付属屋からの火災で一部類焼したため銅板葺きに変更しており、今回も銅板葺きで修復されました。
構造は和洋折衷の木造で、小屋組みと床組みは和風、壁面はアメリカのバルーン・フレーム工法を取り入れ、外壁の下地板を斜め貼りとしたうえで、さらに壁の内側に平筋交を入れ、間仕切りにも筋交いを入れるなど大工が改良を加えたようですが、筋交いの接合は簡易なものでした。 
インブリー館2
 ウィリアム・インブリーは1845年にアメリカのニュージャージー州で生まれ、プリンストン大学とプリンストン神学校を卒業。 1875年に長老教会伝道局(Presbyterian Mission)から宣教師として派遣されます。 明治10年(1877)アメリカ・オランダ・スコットランドの長老教会・改革教会協同の、東京一致神学校が築地に設立されると、その教授に就任。 翌年にTokyo Union Churchの牧師、明治12年に築地大学校教授となった後に帰国。 再来日(1885)し、明治20年に明治学院の神学部教授に就任。
 明治23年(1890.5.17)第一高等中学校(現:東京大学)との野球試合中に、2時間ほど遅れて来たインブリーが垣根を越えて最短ルートのグラウンドの隅を歩いたところ、応援席(0-6で負けていた)の一高の学生と揉め事となり、石を投げられ鋭利な物で頬を切られるという『インブリー事件』が発生。
宣教が出来なくなると考えたインブリーは謝罪を受け入れ、国際問題に発展させなかったのですが、頬の傷跡は一生消えませんでした。
当時はキリスト教普及・政府の欧米化主義に批判が出てきた時代で、弘前でも明治18年・22年と東奥義塾の校舎が立て続けに焼失するという物騒な時代になっていたようです。 ⇒【旧東奥義塾外人教師館
 インブリーは明治26年(1893/4/29)に辞任し帰国しますが、再び来日して明治30年(1897/6/14)神学部教授となり、5号館に住み始めます。
大正8年(1919)に名誉教授となってから3年後(1922/12/3)にアメリカへ帰国、1928年8月4日に他界しています。

【参考文献】
明治学院大学 HP
「明治学院旧宣教師館(インブリー館)建物調査報告書」1995 明治学院文化財等保存修理委員会
「明治学院旧宣教師館(インブリー館)建物調査報告書 補遺」1996 明治学院文化財等保存修理委員会
「明治学院旧宣教師館(インブリー館)保存修理工事報告書」1998 文化財建造物保存技術協会
「明治学院インブリー館--住宅から会議室・同窓会事務室など幅広い用途へ」1998 内田忠男
紀要第42号「インブリー事件」2009.12 明治学院大学キリスト教研究所

【2014年11月 訪問】

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