2015.
11.01
Sun
住 所 : 東京都 三鷹市 大沢3-10-2
交 通 : JR三鷹駅・武蔵境駅~バス~国際基督教大学行き終点

       ※詳しくはコチラ⇒【国際基督教大学
ICU泰山荘・門
 ICUの泰山荘には、寺社仏閣の古材を使った『草の舎』を組み込む『高風居(こうふうきょ)』があり、学園祭や東京文化財ウィークで一般公開されます。(殆どは外観のみ見学) 現在は撮影禁止になっており、今回の写真は以前撮影したものを掲載しています。


 日産コンツェルンの重鎮・山田敬亮(※1)が昭和9年(1934)この土地を購入。 別邸「泰山荘」として昭和11年頃(1936)に母屋などが、昭和14年(1939)には茶室が完成しています。
 その後、この土地は昭和15年(1940)に山田家から中島飛行機㈱へ売却され、中島飛行機三鷹研究所となり、泰山荘は中島知久平が自宅として使用。 終戦後、創立まもない国際基督教大学が昭和25年(1950)に一部の土地を購入し、語学研究所(1952.4.29献学式)を開設。 泰山荘は一時 校宅として使用され、現在は賓客の接待や学生達の茶道稽古に利用されています。
この様な貴重な建物を保存できたのも、民芸研究家であったICU初代学長・湯浅八郎の努力によるものでしょう。
ICU泰山荘・門2
表門(昭和11年頃): 江戸城幸橋御門の櫓土壇から発掘された古材が横木と梁に使われており、火災と思われる炭化した形跡が残る。
「泰山荘」の扁額は、昭和41年に焼失した母屋の物。京都建仁寺・竹田頴川の落款がある。
ICU泰山荘・車庫
車庫(昭和11年頃): 木造
ICU泰山荘・書院
 書院も昭和11年頃に建てられたもので、昭和41年に焼失した母屋(日野にあった江戸時代の農家を移築)と渡り廊下で繋がっていたため、一部被災し修復している。
ICU泰山荘・書院玄関
書院の玄関
ICU泰山荘・待合1
待合(江戸末期)
東京大崎の備前岡山藩の下屋敷(現・池田山公園)にあった池亭を移築したものと伝わる
ICU泰山荘・待合2
待合: 学園祭では茶席として使用するが、お茶券の数に限りがある
ICU泰山荘・高風居1
待合: 室内
ICU泰山荘・草の舎1
高風居に組み込まれた『草の舎』
 草の舎は一畳敷きの小間で、松浦武四郎(※1)により明治19年(1886)寺社仏閣の古材を用い、神田五軒町の松浦邸内に建てられた。(棟梁・藤田政吉) その後、徳川頼倫(※2)の所有となり、大正14年(1925)代々木上原の『清和園』に草の舎を移し、さらに古材で茶室と水屋を増築して『高風居』と名付けた。
 山田敬亮(※3)の所有となってから、昭和11年に三鷹の別邸「泰山荘」敷地内に移築されたが、水甕の蓋に「草舎」と書かれた(細井広沢 書)扁額は不良に燃やされる。 その後、草の舎を明治村へ売却する話も出たという。
ICU泰山荘・高風居3
高風居の茶室
ICU泰山荘・高風居2
高風居の欄間
ICU泰山荘・高風居4
高風居の水屋 
 「泰山荘之記」の配置図には、高風居の近くにわさび田が描かれていて、ハケの水を利用し栽培していたようだ。
その昔この辺りは米があまり採れない土地で、農家は小麦や蕎麦を栽培して水車で粉を引き、深大寺参道でうどんや蕎麦の店を出すようなった。 


【施主たち】
(※1)松浦武四郎(本名:松浦弘=ひろむ): 草の舎の施主
 伊勢国で松井時春の四男として文化15年(1818年)に生まれ『竹四郎』と命名。
平松楽斎の私塾で学んだ後、天保4年(1833)に家出し、江戸から連れ戻されたものの全国を放浪するようになりました。 病にかかった後、長崎の禅林寺で修業し『文桂』と改め、平戸の宝曲寺・千光寺で住職となっています。
 再び探検心が目覚め、朝鮮や蝦夷地への渡航の失敗を経て、弘化元年(1844)僧念を断り、翌年に商人に扮して蝦夷地に潜入し、蝦夷日誌や蝦夷大概之図を作成。 その後は幕府公認で蝦夷地の調査を行いました。 その功績が認められ明治元年(1868)に箱館府の徴士、翌年から開拓判官に就任。
 しかし、アイヌの改善を目指した松浦は、地元の商人や役人らの抵抗にあい明治3年(1870)辞職に追い込まれます。 引退後は号を『馬角齋(ばかくさい)』とし、風刺文「賀真宗僧某新婚」を書いたり、古美術品や古銭を収集。
『滑稽記事論説戯範』という本の中に、「馬角齋とは愚蒙の謂ひなり、齋は安在なり、余の至る所の處に在り、而して馬には角なし角ある者は鹿なり、鹿と指て之を馬と謂ふは蒙の甚だしきなり~」という馬角齋の記事が取り上げられています。
 そして寺社仏閣の古材を集めて、自宅(借地:神田区外神田五軒町15)に1帖の書斎『草の舎(くさのや)』を増築します。
70歳でも大台ヶ原や富士山へ登山できるほど体力があった松浦は、明治21年(1888.2.10)脳溢血で他界。 お墓が東京の染井霊園にあり、故郷の松坂市に『松浦武四郎記念館』が建てられています。

(※2)徳川頼倫 : 高風居の施主
 紀州徳川家15代当主で侯爵であり、日本図書館協会総裁でもありました。 古美術を愛好し、書も得意であったようです。
松浦武四郎の草の舎を買取り、麻布区飯倉町6-14(現・麻布小学校付近)の本邸に保管しますが、主屋(洋館1908年)等が関東大震災で被災。
代々幡町代々木上原1177(現・渋谷区上原)鈴木善助の大山園跡を取得して『清和園』とし、そこに草の舎を移し、さらに神社仏閣、戦艦三笠(畳寄・廊下境の敷居と透戸、炉縁のチーク材)や徳川幕府戦艦蟠龍丸(床脇天井板)等の古材で茶室と水屋を増築して『高風居(こうふうきょ)』と名付ける事にしました。 しかし大正14年(1925)徳川頼倫は亡くなり、久子夫人が清和園を完成させています。
 ちなみに関東大震災で被災した、徳川家の麻布本邸にあった南葵文庫の蔵書は、東京帝国大学へ寄贈されました。 そして文庫の建物一部は熱海に移築され、現在はヴィラ・デル・ソルのレストランとして使用されています。 また、同じ敷地にあった南葵楽堂のパイプオルガンは上野の旧東京音楽学校奏楽堂に保存されています。(1928寄贈)

(※3)山田敬亮 : 泰山荘の施主
 明治14年(1881)山口県一寒村で生まれ、親戚の山田家の養子となります。 明治37年に早大法科卒業後、北濱銀行堀留支店に入社。 鮎川義介と出会い、会計係長として戸畑工場新設に関わり、戸畑鋳物㈱(日立金属の前身)常務となっています。 また、共保生命や日本産業(日産自動車を設立)の専務に就任。 茶名は山田橘庵。 昭和9年に高風居を買取り、三鷹の泰山荘へ移築。

【参考文献】
「拾遺松浦武四郎」吉田武三 著 1964 松浦武四郎伝刊行会
「木片勧進」松浦武四郎 著 1887
「滑稽記事論説戯範」痩々亭骨皮道人 著 1890
「図書館物語」竹林熊彦 著 1958 東亜印刷出版部
「新東亜建設を誘導する人々」1939 日本教育資料刊行会
「泰山荘之記」高木文(紀州家)著 1936

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