2016.
02.08
Mon
住 所 : 栃木県足利市助戸仲町453
交 通 : JR両毛線 足利駅~徒歩16分位
TEL : 0284-44-0791
      ※詳しくはコチラ⇒【助戸公民館
木村絹織工場
 かつて、足利でも有数の輸出用絹織物を製造した工場で、一部の工場と事務所を残して移築保存され、助戸公民館が新築されました。
さらに木村家住宅が平成6年に足利市に寄贈され、現在、主屋と事務所は一般公開して、工場は公民館ホールとして改装し利用されています。
木村織物工場事務所
木村絹織工場の事務所棟:明治44年竣工と云われ、木骨石造2階建て、石綿スレート葺き。 旧工場(明治25年上棟)は木造平屋建て桟瓦葺き。
昭和60~62年に建物一部が復原され、足利織物記念館として平日9:00~16:00公開(雨天時は閉館。土休日は職員がいる場合に見学可。要問合せ)
料金は無料。
木村絹織工場事務所・室内
左: 事務所1階                 右: 2階の旧社長室
木村絹織工場・看板
左: 大正15年(1926.10)蚕糸織物協進会が足利で開催され、閑院宮親王が行啓の際にこちらに立ち寄り、使用された椅子。
右: 工場の看板。 戦時中は軍需工場となっていた。
木村絹織工場・天井飾り
天井飾りは復原
木村浅七邸・古写真
明治17~25年頃の木村浅七邸の写真 (展示パネルより)
茅葺きの建物は現存していない。 主屋も平屋で門からの距離が遠く、現在の建物と違う。
木村浅七邸
木村家の主屋(明治24年) ※平日9:00~16:00公開(貸室として使用の場合は見学不可)
昭和30年(1955)に土間を無くし、台所・勝手口・使用人室を設けて洋風に改装。
木村浅七邸・応接室
応接室: 両脇にある竹は型枠にはめて四角く成長させたもので、床の間の落とし掛けに使われる場合が多い。
木村浅七邸・大広間
大広間
木村浅七邸・西蔵
西蔵(明治元年)
木村浅七邸・座敷
座敷: 寝室か? 障子の奥に西蔵がある。
木村浅七邸・居間
居間
木村浅七邸・台所
昭和30年に土間を改装した台所
木村浅七邸・洗面所
左: 洗面所                 右: 台所/食堂境の食器棚
木村浅七像
左: 初代・浅七の銅像          右: 西蔵の錠金物(安子島侑美?の作)
木村浅七邸・蔵
東南の蔵(明治26年)
木村浅七邸・蔵前
東南の蔵前
木村浅七邸・蔵内部1
東南の蔵前内部
木村浅七邸・蔵内部2
東南の蔵内部

 江戸中期に京都西陣の絹織物技術が桐生に伝わったとされ、足利でも絹織物の他、大衆向けの綿織物や絹綿交織物を生産するようになり、天保3年頃に織物市場が開設されます。 天保の改革で贅沢品禁止となると綿織物を生産していた足利が有利になり、安政の開港で綿糸が輸入された時には安価で良質な絹綿交織物を開発しました。
 明治7年には絹綿交織物1位という産地に成長しますが、次第に粗悪品も増え、松方デフレで織物業は打撃を受けました。 これを契機に輸出向け絹ハンカチ製造に転換し、明治27年頃には海気(甲斐絹)の注文が殺到。 再び機屋が続出して粗悪品乱造となり、戦後恐慌と重なり織物業は縮小していきます。
大正末~昭和初期は絹織物や銘仙へ転換するも、殆どの工場は国家総動員法で軍事産業への転換または廃業へと追い込まれました。


 初代・木村浅七は、上州山田郡須永村(現:桐生市川内町)生糸商・星野家の三男として生まれ、織物業の木村家の養子となり家督を継ぎます。
しかし、南部縮の需要が減り、撚糸業へ転身。 第1回内国勧業博覧会(1877)に出品された木製模造ジャガード織機を木村半兵衛(勇三)らと共同購入し研究。 明治15年(1882)に足利工商会が発足すると、足利で輸出向け羽二重ハンカチの製織が始まり、木村浅七も織物業を再開。 海気・スパンクレープ等の絹織物を製造し、足利輸出組合設立(1891)メンバーの一員となっています。
 木村浅七は、明治20年代には海外との直取引も行っており、その際の手紙には税・保険・運賃は顧客負担とし、荷為替信用状と電信暗合で受注。 絹のハンカチ・肩掛けの受注数は、白無地5ダース以上、柄物10ダースから、日数は縞海気・白羽二重が7週間、柄物は10週間~3ヵ月となっています。 見本帳を送ったり、シカゴ万博に出品する旨の手紙を出して豪州・独逸・印度の商会との取引も実現しますが、船便の手紙が届かなかったり、絹価格の高騰に間に合わず、次第に海外の代理店(堀越商会など)を通すようになっていきます。
 明治27年には足利の純絹織物11工場の内、生産反数2位・産出高1位に。 明治34年に工場を増築し、フランス製の整経機など導入。 明治41年には米ゼネラル社の電動機(5馬力)を採用、国産のジャガード織機や整経機、自工場製自動式平織用織機を導入。 大正6年頃には、スイス製ルーチー式力織機41台・手織機31台・整経機5台・糸繰機7台・管巻機4台・職工103人となりました。
その他にも足利模範撚糸合資会社の初代社長や、足利銀行・渡良瀬水力電気・足利瓦斯㈱の役員としても活躍しています。
 小泉家から婿入りした国三郎は部長となり輸出部門を担当しますが、2代目・浅七を受け継いだのは初代の孫・保之助で、明治24年に生まれ、小学校に入学すると初代の養子となりました。 保之助は東京高等商業学校を卒業して家業を手伝い、大正3年に五代目・正田文右衛門の四女すま(美智子様と玄孫同士)と結婚。 初代が大正5年(1916)に亡くなると浅七を襲名します。 東京・桐生・横浜・神戸に支店を構え事業を拡大しますが、終戦近い昭和19年に織物業を廃業します。
 しかし、地代や貸金でも利益があり、足利銀行・両毛整機㈱・明治紡績㈱の役員の他、県議会副議長・衆議院議員も務め、戦後は足利市長として20年以上も在籍。 緑町配水場増設工事が竣工した際に、浅七の書による金石文が設置されました。 昭和57年(1982)に他界。

【参考文献】
専修商学論集59「明治期足利産地における輸出絹織物経営-足利町木村浅七家を中心に」1995 川村晃正 著
「絹織物直輸出をめざして : 明治二十年代木村浅七の海外通信文」2006 下村欣司・小口悦子 著
「戦時下の政局を繞る人々 : 昭和政治家評論」1938 角屋謹一 著

【2014年11月 訪問】

スポンサーサイト

comment 0 trackback 0
トラックバックURL
http://mosu3.blog.fc2.com/tb.php/140-41f32e1d
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top