2014.
03.27
Thu
所在地: 東京都新宿区中井2-19-6
建築年: 昭和6年(1931)
構 造: 木造、一部2階建て   (国登録有形文化財)
設 計: 図面には記載はないが吉武東里と云われる
交 通: 西武新宿線・中井駅 or 都営大江戸線・落合南長崎駅~徒歩10分
見 学: 個人宅のため、非公開。

島津一郎
 2012年10月28日(日)東京文化財ウィークにより、1日だけ特別公開された、旧島津一郎アトリエへ訪問しました。
 島津一郎は、島津源吉の長男として生まれ、東京美術学校を卒業。 画家を志しますが、家業を継ぐため断念。 島津製作所に入社し、のちに専務となっています。
 島津製作所は初代・島津源蔵が急遽した後、長男の梅次郎が2代目・島津源蔵を襲名。 次男・源吉は東京を拠点に、三男・常三郎が京都にと、兄(2代目・源蔵)をサポートしていたようです。
 2代目・島津源蔵の長男、島津良蔵(1901-1970)も、東京美術学校で芸術を学んでいます。 その後、大正14年(1925)島津製作所に入社しますが、芸術を諦めずに島津マネキンでビジネスとして成功しています。 つまり、一郎と良蔵は従兄弟であり、先輩後輩でもあったのです。
理化学機器の実業家として活躍した島津兄弟の息子達が、共に芸術家を志していたとは不思議なものです。 ※京都木屋町の島津製作所についてはコチラ⇒【島津製作所 旧本店
 下落合には島津家の所有地(1万坪)があり、島津源吉は、大熊喜邦と吉武東里に本邸の設計を依頼し、大正11年に洋館が完成します。
さらに、画家・刑部人と結婚した娘・鈴子のために、吉武東里に設計を依頼し、昭和6年にアトリエが完成。  翌年、画家であった長男・一郎のためにもアトリエを建てますが、戦時中に島津家は京都へ移転し、敷地は分割され建物も売却されてしまいます。
その後、建物を購入した所有者が代替わりし、刑部人のアトリエは平成18年に取り壊され、処分されてしまいました。
 しかし、島津一郎のアトリエだけは所有者が変わっても大事に維持され、大幅な改修もなく良い状態で残っています。 現在の所有者は、出来れば通年公開したいと話しており、いずれ一般公開される日が来るかもしれません。
近くにあった金山平三アトリエは、残念ながら解体されてしまいましたが、この様な所有者がいる事が救いとなります。
都会の中心にありながら、落合の文化として後世に残っていく事は奇跡かもしれません。
※落合周辺や島津家についてはコチラが参考になります⇒【落合道人
島津一郎-玄関
左:玄関表。ドアノブが新しい物に交換されている。  右:玄関内側。
島津一郎-トイレ
左:玄関ホールにある洋服掛けコーナーは、当初は電話BOXであった。
右:手洗所と奥にはトイレ。
島津一郎-応接室
応接室の板壁は、手斧(ちょうな)仕上げとなっている。
島津一郎-ドア
応接室の扉も、玄関扉と同様に重厚な蝶番が取り付けられている。
島津一郎-ベランダ
 ベランダは現在フローリングとなっているが、当初は石貼りの外部空間であった。
左:応接室の扉は外開き  右:アトリエ側はガラス戸と雨戸の二重仕様
島津一郎アトリエ
 アトリエの南面。先程のベランダがあり、庭を見渡せるようになっている。
2階に小さな部屋が付いており、南の採光はカーテンによって遮断することも可能。
島津一郎アトリエ1
アトリエ北面に大きな窓を設け、曇りガラスで光を拡散し、モデルに強い影が出ないよう工夫。
島津一郎-書斎
アトリエの隣にある書斎。
左:2階の小部屋への階段。   右:戸棚の脇の扉は、浴室へと続いていた。
島津一郎-照明
【照明】  左上:玄関ホール  右上:手洗所  左下:トイレ 右下:アトリエ 
島津一郎-庭
庭は、後の所有者によって改修され、小さな小川が流れている。
現在の所有者は山野草の鉢植えを育てる風流人で、この庭も一見自然に見えながら、手入れが行き届いている。
島津一郎-彫刻室
隣にある離れの彫刻室も当時の建物。
島津一郎アトリエ・2階
2012年の見学会では公開されなかった2階。
2014年に再訪した時に、ご主人の許可を得て2階を拝見。

 この住宅を設計したと云われる吉武東里(よしたけとうり)は、明治19年(1886)12月6日に大分県国東の庄屋の家に生まれます。
そして、京都高等工藝学校(現・京都工芸繊維大学)図案科で武田五一に学び、明治40年(1907)卒業。 宮内省内匠寮の技師となります。
 その後、大正7年(1918)国会議事堂建設のコンペにグループ作品として応募し、1等と3等を受賞。 吉武東里は大蔵省臨時議院建築局技師となり、国会議事堂の意匠設計に携わります。
それは、様々な方面からの命令や要望により、当初の基本設計とは違っていく、やり切れなさがあった事でしょう。
 しかし、国会議事堂は大正9年(1920)着工したものの、関東大震災が発生しストップ。 関東が壊滅状態になってしまいましたが、日本の未来を議論する国会議事堂は、まさしく東京復興のシンボルでもありました。 工事が再開し、吉武東里の手を離れましたが、大蔵省の技師として横浜税関本関(1934)も担当したと云われています。
 実は大蔵省技師の他に、吉武東里は個人の活動として複数の住宅も手がけていました。
まずは、大正10年(1921)に上落合に自邸を建て、住居兼仕事場としています。 そして、下落合周辺の刑部人や島津一郎のアトリエ、故郷の大分県国東市国見町にある重光家住宅(1932)の設計も手掛けました。
 昭和11年(1936)に国会議事堂が竣工し、残務処理をした吉武東里は、翌年に大蔵省を退任。 息子(故)吉武泰水氏によると、その日は短髪にし髭を剃って帰宅したといいます。
 その後、再び大蔵省建築部の大熊喜邦より、万国博覧会場の設計を依頼されますが、戦争により万博が中止に。 戦争により仕事も激減、終戦間近の昭和20年(1945)4月30日に亡くなりました。

【2012年10月,2014年3月 訪問】
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