2014.
04.17
Thu
建築年:昭和55年(1980) 
所在地:東京都渋谷区松濤2-14-14  TEL:03-3465-9421 
構 造:鉄筋コンクリート造 地上2階・地下2階建て
設 計:白井晟一研究所
見 学:10:00~18:00(金曜日19:00まで) 閉館30分前までに入館する事 
休 館:展示替え・年末年始・企画展による
料 金:企画展により変更
交 通:渋谷駅~徒歩15分 or 京王井の頭線・神泉駅~徒歩5分 >】

    ※詳しくはコチラ⇒【渋谷区立松濤美術館
松濤美術館
 渋谷駅から東急本店方向へ向かい、その裏手にある街が『松濤』です。
この地域は渋谷の高級住宅街で、若者で溢れた駅前とは違い、閑静な地域となっています。
しかし、最近になって表通りが拡張され、この地域も変わりつつあるようです。
 その表通りから少し入った所にある、『渋谷区立松濤美術館』は、企画展の内容も良い美術館です。
建物の良さと企画展に関しては、「東京の美術館TOP5」に入るのではないかと、個人的に思っております。
松濤美術館・玄関
 建物の正面は、まるで要塞の入口の様に、重厚な造りとなっています。
玄関を入っても天井は低く、決して広いとは言えない空間です。
 しかし、その天井は光天井となっており、奥のガラス戸から僅かな自然光が差し込んできます。
建物の中心は池となり、空まで吹き抜けています。 そして楕円型の陳列室やホールなどが配置され、池の上には橋が架かり、異空間を体感出来るでしょう。
 まずは荷物をコインロッカーに預け、身軽になって見学開始。 地階へ下ったら、中心にある池を覗いてみましょう。高さが変わる度に光の差し込む量が変わり、それぞれのフロアーの印象が違います。
 そして陳列室へ1歩入ると空間は広がってゆるいカーブを描き、吹抜けとなった展示室で、作品をゆったりと鑑賞できます。
 また、2階の陳列室にはソファがあり、座っての鑑賞も可能。 最後に橋を渡れば、内と外の繋がりを実感できます。
松濤美術館・掲示板
表にある掲示場。 ガラス廻りの雨仕舞いのデザインが絶妙。
花崗岩(紅雲石、韓国産)を外壁に使用している。
松濤美術館・井戸
掲示場の後ろには井戸の様なものが。 覗いてみると地下の明り取りとなっていた。
松濤美術館・水飲み場
右手には搬入用の駐車スペースと、水飲み場が。
松濤美術館・天井
受付前の光天井は、薄く切った瑪瑙(=オニックス)をガラスで覆ったもの。
松濤美術館・階段
 この美術館を建設するにあたり、住民の為の美術教育施設も兼ねた600坪、建物の高さは10mまで、敷地は狭く、隣家のプライバシーも守らなくてはいけないという、厳しい条件がありました。
 昭和53年(1978)4月に、渋谷区は白井晟一に依頼し、12月から着工。1年半の工期をかけて竣工し、昭和56年(1981)美術館がオープンしました。
 設計者の白井 晟一は、明治38年(1905)に銅板屋・白井七蔵の長男として京都に生まれ、12歳で父が亡くなり、義兄であり画家の近藤浩一路に引き取られ、成長します。
 昭和3年(1928)京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)を卒業後、ドイツへ留学。
ベルリン大学で哲学を専攻、のちにハイデルベルグ大学(美学専攻)を卒業します。
 昭和8年(1933)帰国し、義兄・近藤浩一路の家や歓帰荘を設計。晩年には松濤美術館の他、親和銀行 本支店・静岡市立 芹沢銈介美術館などを設計。 群馬の松井田町役場と善照寺本堂が高村光太郎賞に、その後は建築学会賞も受賞しています。  昭和58年(1983)に他界。
松濤美術館-中庭1
 こちらの美術館は、展示室を除いた空間は写真撮影可能(三脚・モデル撮影禁止)ですが、 念のためスタッフに「写真を撮らせて下さい。」と声をかけておきましょう。
                  ※詳しくはコチラ→【渋谷区立松濤美術館
松濤美術館-中庭2
 ここ松涛は、江戸時代は紀州徳川家の下屋敷や畑があった場所で『中渋谷村』と呼ばれ、明治になると下屋敷が鍋島直大侯爵(佐賀藩11代当主)の所有となりました。
 その鍋島直大(なおひろ)は、明治4年(1871)~明治11年(1878)までイギリス留学し、帰国後も外務省に勤務、明治13年(1880)からイタリアへ特命全権公使として2年間派遣されました。
 帰国後は、元老院議官・宮中顧問官・貴族院議員に就任。明治44年(1911)神職の養成・皇典講究所(現・國學院大學)の4代目所長となり、大正10年(1921)に亡くなっています。
 妻の鍋島榮子は、権大納言・広橋家の5女として生まれ、明治14年(1881)に、直大とローマで結婚。帰国後は鹿鳴館の華となり、日本赤十字社 篤志婦人会などの会長や役員を務めました。
四男三女をもうけ、次女・伊都子が梨本宮家に嫁いでいます。
 本邸は永田町にあったため、この地は茶園『松濤園』となり、日本茶を生産していました。
『松濤』とは、茶釜の湯が沸騰する音から由来するようです。
 しかし、輸送網が発達し、静岡茶が東京に出廻るようになり廃園。 明治37年(1904)に『鍋島農場』となっていましたが、大正時代に入ると敷地の一部が住宅地として分譲されました。
 永田町の本邸は、関東大震災により被害を受け、後に和館だけが啓明学園に移築され、現在も北泉寮として生徒に利用されています。
 そして鍋島農場は、大正13年(1924)湧水池の周辺が公園として開放されましたが、維持が出来なくなった鍋島家は東京市に寄贈し、昭和7年(1932)『鍋島松濤公園』として開園。
 その後、公園は渋谷区に移管され、現在に至っています。

【記:2013年1月, 修正:2014年4月】

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