2013.
05.13
Mon
所在地: 京都府 京都市 上京区 寺町通 丸太町上ル松蔭町
建築年: 明治11年(1887)、平成4年(1992)復元
構 造 : 木造2階建て 
見 学 : 祝日を除く火・木・土曜日、 10時~16時(外観のみ)  ※内部は特別公開日のみ
料 金 : 無料
T E L : 075-251-3042
交 通 : 地下鉄・丸太町駅~13分、京阪・神宮丸太町駅~10分

新島襄旧邸
 大河ドラマで有名になった、八重と新島襄の住まいが修復(1990~1992)され、一般公開されています。 八重が昭和7年(1932)6月14日、86歳でなくなった場所でもあります。
建物はボストンの友人J・M・シアーズの援助により明治11年に建設。 設計者は不明ですが、新島襄の好みが取り入れられた洋風建築となっています。
 訪れた頃はNHK大河ドラマの影響で見学者も多く2階は非公開でしたが、職員の方によると、いずれブームが去り見学者が少なくなれば以前と同じように2階も公開できるのでは…との事。    ※詳しくはコチラ→【新島旧邸
新島邸・通用口
 この地は宝永5年(1708)より京都御大工頭・中井家の拝領地でした。
中井家は敷地の一部を、明治8年9月30日に高松家に売却。 高松保実子爵は北半分を別邸とし、残りを新島襄に貸しました。
同志社英学校が今出川へ移転してから、新島襄はこの地を買取り、既存の建物を撤去。
明治11年初頭に着工、9月7日から新居にて生活を開始しています。


 スペンサー銃を抱えて鶴ヶ城に立籠り、京都では紅工場の補助金を上げるよう京都府に直談判したほど男勝りの八重の生涯は、大河ドラマでご存じでしょう。
八重の夫となった新島襄は、天保14年1月14日(1843.2.12)上州安中藩士の長男として江戸で生まれ、『七五三太(しめた)』と名付けられました。 軍艦操練所で洋学を学び、慶應元年(1865)にアメリカへ密航。 船長に『JOE(ジョー)』と呼ばれた事が、後に改名するきっかけとなります。 フィリップス・アカデミー卒業後は、アーモスト大学で化学を学び、日本人初の学士を取得。 その後、アメリカで岩倉使節団の木戸孝允と出会い、通訳としてヨーロッパへ同行しています。
洗礼を受けてクリスチャンとなっていた新島は、さらにアメリカの神学校で宣教師の資格を得て、明治7年(1874)日本に帰国。 翌年、故郷に安中教会を設立し、京都では子爵(公家)高松家別邸一部を借り受け、11月29日に同志社英学校を開校しました。
 そして、明治9年(1876)1月3日に八重と結婚。 借家(岩崎元勇邸=新烏丸頭町40番地)にて西洋風の新婚生活を送りました。
 さらに、山本覚馬より譲り受けた薩摩藩邸跡地(現・今出川キャンパス)に校舎が完成し、同志社英学校は移転。 同年10月24日に、新島八重と宣教師A.J.スタークウェザーは、京都御苑内のデイヴィス邸(公家・柳原前光邸)で寄宿制の女子塾を始めます。
明治10年(1877)同志社分校女紅場を開設、同志社女学校(現・同志社女子大学)に改称。 翌年に今出川校地へ移転します。
明治11年9月に、この新島邸新居が完成。 明治20年(1887)11月に京都看病婦学校(同志社病院)設立。
明治23年(1890)1月23日、療養中の大磯の百足屋旅館にて八重が見守る中、新島襄は同志社への遺言を残し、息を引き取りました。
新島邸・応接間
訪問時は、居間にあった机や椅子類は江戸東京博物館の企画展に貸し出され、レプリカ家具が展示されていた。
新島邸 食堂・応接間
左:居間から見た食堂      右:1階の暖炉で温められた空気が、2階の吹出口から出たという。
新島邸・飾り棚
新島襄の石コレクションが収まった戸棚と、八重が愛用したオルガン。
新島邸・書斎
明治40年(1907)八重はこの住まいを同志社に譲り、新島襄が亡くなった当時のままの書斎が開放され、学生はその本を読む事が出来たという。
新島邸・茶室
八重は、京都紅工場(京都府立鴨沂高校)の同僚・猶鹿子(裏千家13代家元の母)から茶道を学んでいた。 茶名『新島宗竹』
大正元年(1912)頃、居間の中に4帖半茶室「寂中庵」を設置して茶を楽しんだ。 右の写真にある扁額は、裏千家13代家元・圓能斎によるもの。
新島邸 便所・風呂
復元された便所と風呂。 腰掛け便器は大正時代の様子だという。
新島襄碑
大磯の百足屋旅館跡地に建てられた『新島襄 終焉の地』碑。 命日に訪れる方も多いという。
大磯駅から徒歩5分程の所にあり、道路に挟まれた三角地の隅にある。 徳富蘇峰の書による石碑は、生まれ故郷の碓氷産。


 江戸中期~明治初頭まで、この地一帯を所有していた中井家は、大工頭・中井大和守として、徳川家に仕え、初代・中井正清(1565-1619)は、江戸城(1607)・駿府城(1608)・名古屋城(1612)天守閣や、増上寺(1611)・日光東照宮(1617)の造営を取りまとめました。
 その後も中井家は、江戸城本丸御殿(1622)・大阪城再建(1624)・清水寺本堂(1631)・知恩院御影堂(1639)・東寺五重塔(1644)などを手掛けていましたが、修理の仕事が増え、新築も入札制となったため設計費が捻出できずに破綻。 元禄6年(1693)から設計業務の費用が認められ、京都御所再建(1709)にあたり、この地一帯が拝領されたようです。

 明治に入ってこの地を購入した高松家は、藤原北家閑院流であり、武者小路実陰や高松公祐(きんさち)など歌人の血を受け継ぐ公家のひとつ。 高松保実(やすざね)は、公祐の末子として文化14年12月1日(1817)に生まれ、兄・高松季実(すえざね)の養子として高松家を継ぎます。
さらに高松保実は弟・公雄(1830-1859)を養子として迎え、高松家を継がせましたが、公雄は安政6年9月16日に若くして亡くなりました。
高松保実には実子もいましたが、1人は出家し、もう1人の子・高松実村(さねむら1842-1907)は、慶応4年(1868)甲府城攻略のため高松隊(俄官軍)を結成して、偽勅使と呼ばれ謹慎処分になりました。 のちに処分を解かれ、若松県や内務省に勤務するようになり、父・高松保実が明治11年(1878/9/24)に死去した後、明治17年に高松実村が子爵となりました。
新島襄と歳も近いことから、山本覚馬らの紹介により、高松実村と縁が出来たのではないかと推測されます。
 明治以降は高松家の本邸が東京に移ったようで、高松保実と高松実村は谷中霊園に眠っています。

【2013年3月 訪問】

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