2013.
08.24
Sat
所在地: 新潟県 上越市 大町2丁目3-30
建築年: 明治43年(1910) 平成5年に移築完成
構 造: 木造2階建て、地下室は復元せず
設 計: 陸軍経理部技手の加藤栄太郎、    施 工: 能町の高鳥組
見 学: 9:00~16:30 無料、     休館日: 祝日を除く月曜日、休日の翌日、年末年始
TEL: 025-526-5111(上越市文化振興課)
交 通: えちごトキめき鉄道・高田駅~車5分        ※詳しくはコチラを参照⇒【旧師団長官舎
旧師団長官舎
 この建物は、平成3年まで上越市南城町3丁目(高田高校西隣)にあった旧陸軍第13師団長官舎で、明治43年(1910)7月中旬に着工、8/14柱立、9/12上棟、11/2竣工、工事費13,300円で建設されました。
しかし、小諸から搬入する資材が水害に遭い、職人を増員して1ヶ月遅れで竣工したようです。
この建物を計画した長岡外史中将は建築道楽で知られ、設計から庭木の植え付けに至るまで現場の立会いを行ったと云われています。
施工をした高鳥組の高鳥順作は、衆議院議員のほか、中央電気取締役・能生銀行頭取となった実業家で、孫の高鳥修は自民党議員として総務庁長官・経済企画庁長官になりました。
 大正14年(1925.4.3)に第13師団が廃止となり、第2師団管理下のもと歩兵第15旅団司令部等が設置され、建物は旅団長官舎となります。
敗戦後の昭和20年(1945)9月~昭和26年まで進駐軍が接収した後は、平成3年(1991)まで陸上自衛隊高田駐屯地の宿舎になり、最後まで軍人に愛された建物であったようです。
 平成3年12月25日から解体調査が始まり、平成4年3月31日から約1年の歳月を掛けて移築・復元が完成しました。
移築・復元に関しては、内装は明治時代の様子に戻し、照明や家具・カーテン等は資料をもとに再現。 調査から外壁は柿渋塗りと判明しましたが初回のペンキ色にし、フランス積み煉瓦の基礎⇒コンクリート布基礎へと変更されています。 
 ※「復原」ではなく、一般的な「復元」という言葉を使用しています。
旧師団長官舎・東側
建物東側:左手の凸部は半温室、1階角に書斎があり、右手の凸部は便所
ホール
左: 1階ホール
当初は階段横に呼鈴があり、1鈴は長官の来客、2鈴は夫人の来客、3鈴は食事の合図
右: 2階廊下は和室
男子応接間
1階 男子応接間:家具や照明などは資料を元に復元されているが、メタル(金属)天井は竣工当初の物
男子応接間天井飾り
金属製の天井飾り    左: 男子応接室    右: 1階ホール
書斎
1階 書斎:腰壁には当時最先端スタイル、化粧羽目板張りが採用された
1階サンルーム窓
1階 半温室(サンルーム)
4箇所ある窓はそれぞれが3枚開きとなっており、中央の窓は回転式になっている
雪国でありながら、ここで長岡外史中将が趣味の盆栽を育てたという
婦人応接間
1階 婦人応接間から食堂を望む (家具や照明なども資料を元に再現)
竣工当初は、桃色の本緞子製カーテン(当時で200円)、紫檀色の家具で統一されていた
食堂
 当初の床材は、アメリカから輸入した米松を使用。 食堂の腰壁も化粧羽目板張りとし、食事中の会話が響くようになっている。 この様に明治に入ると西洋風に会話を楽しみながら食事するようになった。
厨房側の扉は腰壁の高さに合わせて165cmと低く、その脇には配膳用の小扉も設置。 この部屋は長岡の希望で12人が会食出来るよう造られ、「一打式(1ダース)食堂」と呼ばれた。
婦人室・食堂 天井飾り
左: 婦人応接間の天井飾り(復元) 竣工当初の物は左官が20日間かけて施工したという
右: 食堂の天井飾り(復元)
台所
厨房:設備などは現在の物を使用
2階座敷A
2階は和室の私的空間であり、引き違い窓に障子がはまる(手摺は移築後に設置)
2階次の間
歴代の師団長家族が暮らしたが、洋館に不慣れな夫人は普段は2階に居たようである
2階子供室
子供室も立派だが、アイドルのポスターを貼るのは今も昔も変わらない

 竣工当初は、深さ6尺・広さ2坪の地下室が有り、従卒室前の廊下の床板を外して入り、ビールや野菜果物の保管場所として使用したという。
また、浴室には2つの長州風呂(五右衛門風呂)があり、掛け湯と分けて使用した。

参考文献:高田日報(明治43年11月)


 陸軍第13師団は、明治38年(1905)日露戦争のために編成され、樺太を占領した事によりポーツマス条約が結ばれたという精鋭の部隊です。
そして明治41年(1908.11.6)将校280人・下士兵卒3328人が高田城址に入城し、市民は旗を振って出迎えたといいます。
兵士には日曜日になると17:30まで外出許可が出たため、高田の町には飲食店や娯楽施設が溢れ、映画館も誕生。 ※詳しくはコチラ⇒【高田世界館】 町で寛ぐ為の日曜下宿もあったといいます。
さらに軍の要請を受け、明治43年10月7日より「二・七の市」が開催され、新鮮な野菜が売られるようになりました。(現在でも2か7の付く日に市が立ち、市民に親しまれています)
 明治42年(1909)3月、在郷軍人会が第13師団の記念として、高田城址に2200本の桜を植樹。
一部の桜が騎兵隊の馬に食べられたものの大正3年頃から桜が見頃となり、大正6年(1917)第13師団は市民に向けて桜の見学を許可しました。 今では「高田の夜桜」として観光名所となっています。
 このように市民と共に高田に溶け込んでいた第13師団は、大正9年(1920)シベリア出兵となり、大正14年(1925)には軍縮により師団が廃止。
昭和12年(1937)日中戦争で第13師団が復活しますが、太平洋戦争で徐々に縮小していったようです。


 「プロペラ髭」の長岡外史(がいし)は、安政5年(1858)周防国都濃郡(現・山口県下松市)大庄屋の家に生まれ、徳山藩士の長岡南陽の養子となりました。
明治18年(1885)陸軍大学校卒業後は陸軍に入隊して昇進を重ね、東欧視察を経験。 帰国後は少将となり、歩兵第9旅団長となっっています。
当時の部下であった二宮忠八の飛行器研究を許可しなかった為、ライト兄弟に先を越され、長岡は後年になってから二宮に謝罪して飛行活動を推進したといわれています。
 日露戦争では、参謀次長として樺太の占領を主張した長岡は、明治42年(1909)中将に昇進して第13師団長に任命されます。
明治44年(1911)日本軍視察のためにハンガリー帝国からレルヒ少佐が着任し、同年1月12日から2ヶ月間、金谷山でスキー講習が実施されました。 これが日本のスキー発祥の地と云われる所以であり、地元の田中鉄工所がスキー板500本を納品しています。 明治45年1月21日には、日本初のスキー競技大会を開催。 その後、レルヒ少佐は旭川へ転任となり、大正2年に帰国しました。
 このように長岡師団長の時代(大正2年まで就任)は外国からの視察を受け入れ、蒋介石も一時期、砲兵隊将校として着任していたようです。
ちなみに娘の磯子は、三越常務・帝国生命保険(現・朝日生命)社長となった朝吹常吉の夫人となっています。
 長岡外史は、陸軍退役後は国民飛行会会長・衆議院議員となり、昭和8年(1933)永眠しました。

【2013年8月 訪問】

 国内で現存する陸軍・師団長官舎は、第2(仙台)、第8(弘前)、第9(金沢)、第10(姫路)、第15(豊橋)と、高田の第13師団となっています。
※第8師団長官舎についてはコチラ⇒【旧弘前偕行社

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