2013.
09.09
Mon
所在地 : 新潟県 上越市 中央3丁目7-31
建築年 : 明治後期、  大正7年頃に移築・増築
構  造 : 土蔵造り+煉瓦造
設計施工 : 不 明
見  学 : 三八朝市開催日の土日祝日(4月末~11月始め)9時~13時のみ公開   無料
交  通 : えちごトキめき鉄道・直江津駅~徒歩約15分
駐車場 : 海沿いにある船見公園駐車場(無料)
T E L : 025-526-6903(上越市文化振興課)  ※詳しくはコチラ⇒【上越市
直江津銀行
 この建物は直江津銀行として建設され、倉庫業『高橋回漕店』の事務所として利用されました。
直江津銀行は、明治28年9月に『直江津積塵(せきじん)銀行』として、笠原恵・弟の片田初造ら発起人により資本金10万円で発足。
明治32年頃に普通銀行となり『直江津銀行』へと改称しますが、明治末期には全国的な不況で経営が悪化し、大正2年に取付け騒ぎへと発展。 大正4年(1915)6月14日に解散となりました。
 この建物は、直江津234番地(現・直江津郵便局の隣り)に建てられたもので、資料では明治25~27年とありますが、本店は明治39年(1906)頃の大火で焼失したとの記録もあるそうで、実際の建築年は不明となっております。
そして、銀行が解散した後の建物と備品は、倉庫業を営む高橋達太に買収され、大正7年頃に現在地に曳き家され、隣に2階建ての事務所も新設しています。
当初の外壁は漆喰仕上げでしたが、近年になってタイルやサイディングが貼られました。
 この会社は昭和17年(1942)に閉店し、合資会社高達回漕店となっていましたが、平成13年(2001)に清算し、業務は高達倉庫(有)と直江津海陸運送㈱に引き継がれたようです。
そして建物は、平成21年に所有者から上越市へと寄贈され、一般公開となりました。
直江津銀行・ライオン像
高橋達太の依頼により三越本店のライオン像を真似て、柏崎に住む彫刻家・小川由廣が2千円で制作
直江津銀行・扉
左: 表口は鉄扉で防火と防犯を兼ねる
右: 裏口は土蔵造りの扉
直江津銀行・室内2
館内の様子
直江津銀行・室内
奥には電話BOX 
床に斜めに残る形跡はカウンターの跡で、ストーブの横にカウンターの天板が
直江津銀行・扇風機
天井にはドイツ製の扇風機
直江津銀行・金庫
直江津銀行の金庫:扉を開けるとさらに鉄扉があり、その扉を開けると桐箪笥がある
直江津銀行・看板
金庫の横に大理石の直江津銀行の看板が 
直江津銀行・時計
高橋回漕店のTマークの付いた時計
高達回漕店・マーク
Tマークの付いた洋服掛けと鬼瓦
高達回漕店2
左: 高橋回漕店が増築した煉瓦造の建物
右: 室内に残る金具。窓の防火シャッターのハンドルと思われる
   海沿いのため、塩害でシャッターは錆びてしまったのだろう
※防火シャッターについてはコチラを参照⇒【旧横浜正金銀行本店
高達回漕店
室内には、当時のロールカーテンが残る


 直江津銀行を創設した笠原恵は、中頚城郡田村新田(現・大潟区)の大庄屋の養子となり、慶應義塾で福沢諭吉に学んでおり、帰郷後の笠原に宛てた福沢諭吉の明治11年の手紙が新潟県立文書館に所蔵されています。
その後、笠原は再び上京したようで、明治13年(1880)福沢門下生の朝吹英二・西脇悌二郎らとともに貿易商会の元締役に就任。 同年、横浜に早矢仕有的と共同経営で丸善内外介商店を創業し、生糸と茶を外国に輸出しました。
翌年に横浜丸善為換店が設立され、笠原は幹事取締役に就任します。
 しかし、丸善為換店は明治16年(1883)に丸家銀行と合併したあと経営破綻。 笠原は生糸と茶を外国に輸出する「笠原組」として独立し、その後は衆議院議員となりました。

 高橋回漕店の高橋達太は、慶応3年(1867)に中島村(現・板倉区)で生まれ、村の総代として諸事に携わり、橋を私費で建設したと云われています。
 明治32年(1899)高橋回漕店を創業。 保倉川沿岸に倉庫を構え、鉄道の引込み線路を設置し、石炭の荷揚げと貯蔵を担っていました。 大正12年(1923)県会議員に当選したあと、私費で直江津農商学校にグラウンドを建設。
昭和9年(1934)4月27日に永眠しました。


 直江津は上杉謙信の春日山城にほど近く、越後国府『直江の津』と呼ばれ、港町として発展。
漁港としての機能の他、特産品の米や青苧の出荷、近隣で採れた塩・銑鉄類を入荷したようです。 今でも近郊の浜辺では、磁石を近づけると多くの砂鉄が取れます。
上杉謙信の政庁御館があったため、『府中/府内』とも呼ばれていましたが、福島城・高田城の完成と共に、いつしか『今町(いままち)』と呼ばれるようになりました。
近くを流れる荒川(現・関川)には、「安寿と厨子王」に出てくる応化の橋があり、上杉家が通行税を徴収していましたが、松平家はこの橋を壊し、高田城下へ通行させるために稲田橋を建設しました。
 昔の町内は火災が多く、寺社は土蔵造りとし、裕福な商人の家では蔵座敷が造られていましたが、庶民の家は丸石を乗せた木羽板葺き屋根のため、さらに海風も重なって、あっという間に燃え広がってしまったようです。
そのため、明治40年(1907)警察署長が「屋上制限令」を発布し、瓦かトタン屋根に強制的に改修させました。 その甲斐あって、延焼は極端に少なくなったといいます。
この地は、明治11年(1878)『直江津』と正式名称が決まり、町の統合で『直江津町』⇒『直江津市』に。 現在は『上越市』になっています。
 明治19年(1886)になると国鉄・信越本線が開通して直江津駅が開業。 上野~長野への大量輸送も可能となり、さらに北陸本線の始発駅として富山・金沢へ開通。
工業都市へと発展しましたが、政庁が新潟市へ移り、上越という名の付いた新幹線が何故か通らなかった為に、知名度が低くなったようです。
さらに、北陸新幹線が開通してJRも廃線(私鉄へ移行)となって心配ですが、今後は歴史と文化財を活かし、高田と共に観光地として発展されるよう陰ながら応援しております。

 旧直江津銀行の建物は、「三八の市」に合わせて公開(土日祝日のみ)されるため、7時~12時頃まで朝市で地元の野菜や特産品が購入できます。
また「ライオン像の建物をまちづくりに活かす会」による直江津ツアー(予約制)も開催され、近くには上越市立水族博物館もあります。

参考:直江津港・湊町の歴史(新潟県)
   直江津の土蔵造建物、旧直江津銀行とライオン像について(上越市)
   石炭王・高橋達太の誕生(高達倉庫文書)
   丸善100年史「貿易商会の設立」より

【2013年8月 訪問】

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