2014.
04.13
Sun
所在地 :青森県 弘前市 御幸町8-10
建築年 :明治40年(1907)11月、 現在は修復中
構 造 :木造平屋  (国の重要文化財)
設計施工:設計は陸軍臨時建築部、 施工は堀江佐吉・彦三郎
見 学 :平成31年末まで保存修復工事のため閉館
交 通 :JR弘前駅~徒歩20分
TEL :0172-33-0588    ※詳しくはコチラ【弘前厚生学院

旧弘前偕行社
 鷹狩場であったこの地に、9代 弘前藩主・津軽寧親により、文化12年(1815)別邸と大石武学流の庭園が造られました。
明治4年に弘前城に軍が配備され、のちに陸軍第八師団へと発展。 この場所に偕行社が建設され、その翌年の明治41年(1908)、嘉仁親王(のちの大正天皇)がこの建物に1泊した際に『遑止園』と命名され、記念植樹もなされました。 また、大正4年(1915)行幸の際にも行在所となっております。
 終戦により偕行社が解散したため、昭和20年(1945)から弘前女子厚生学院が使用。 昭和24年に敷地と建物が大蔵省より払い下げられ、昭和55年(1980)まで校舎・保育舎として利用されました。
その後、『弘前女子厚生学院記念館』として保存される事になり、㈱堀江組が修復工事を請け負い、外壁の塗り替え・瓦の葺き替え・縁側屋根トップライト・室内の漆喰壁や腰板の修復が施されました。
旧弘前偕行社・南面
 弘前女子厚生学院の創設者は、鳴海康仲(鳴海病院長)です。
鳴海氏は、弘前市長らと共に女子医学専門学校の設立を申請しましたが、青森県に医専を誘致する話に発展し、昭和19年に青森市に医専が設置された為、この偕行社を弘前女子厚生学院として使用。
後に青森医専は弘前へ移転となり、現在の弘前大学医学部へと受け継がれています。
参考:「青森医専誕生と鳴海康仲先生 著:中路重之」 弘前大学医学部ウォーカー62号
※詳しくはコチラ⇒【弘前大学
旧弘前偕行社・玄関上1
第8師団の「八」をもじった蜂の飾りが、ペディメントの中にさり気なく見える
旧弘前偕行社・車寄せと換気口
左:玄関ポーチの車寄せ
右:星は陸軍のマーク。戦勝記念で建設された旧弘前市立図書館にも似たような床下換気口の金物がある。 どちらも堀江佐吉が施工。 ※詳しくはコチラ⇒【旧弘前市立図書館
旧弘前偕行社・講堂
講堂は引き戸によって、2つの部屋に仕切られる
修復前は弘前女子厚生学院の行事や体育に使用されていた
※文化財建造物保存技術協会の修復工事調査により、間仕切りは後設であることが判明
旧弘前偕行社・講堂暖炉
講堂の暖炉と装飾タイル:暖炉は2つあるが冬場は相当寒かったであろう
手あぶり(立ち姿で使う小型火鉢)が館内に数か所あったと思われる
旧弘前偕行社・廊下とホール敷居
左: 玄関側の廊下。 ずらりと並ぶコート掛け。左側の収納は雪靴用か?
右: 講堂内部の引き戸の敷居レール。 この-ネジは当時の物かは不明
   +ネジは後から開発された物であり、古い建物や機械に-ネジが使われている場合は、ネジもむやみに交換しない方が良い。
旧弘前偕行社・舞台裏
講堂の舞台裏:収納は後から設置された物で、その裏に舞台への扉がある
旧弘前偕行社・撞球室
撞球(ビリヤード)室:当時の将校には上流階級の者がおり、社交場となった
旧弘前偕行社・司令官室
司令官室と天井の中心飾り
室内に飾られた写真は、弘前女子厚生学院の創設者:鳴海康仲
旧弘前偕行社・棟札
 棟札には、陸軍 臨時建築部の設計者の名が
主任技手:櫛部宇一、 顧問技手:松村角太郎・寺田辰三、 工事請負人:堀江佐吉  
明治40年6月起工,11月竣工と記載されているが、竣工時に堀江佐吉はすでに亡くなっており、長男の彦三郎が跡を継いで完成に至ったと思われる
旧弘前偕行社・応接室
応接室
旧弘前偕行社・灰皿と椅子
陸軍時代の灰皿と椅子
旧弘前偕行社・軒裏
昭和後期に修復された外壁も、この様にペンキの剥離が激しく、このたび保存修復工事が実施される事になった
旧弘前偕行社・窓枠
 窓の装飾は当初はウグイス色の漆喰であった。古写真もそれらしき色に写っている。
白いペンキを塗ったのはGHQか?
旧第8師団長官舎
第8師団長官舎:大正6年(1917)堀江佐吉の長男・彦三郎の設計により建設
終戦後にGHQに接収された後、昭和26年(1951)払い下げられ、弘前市長公舎となった。 昭和34年に和館部分を解体して現在の位置に曳家され、近年に修復工事が実施された。
通常非公開だが、年に数回 特別公開も行われている(住所:弘前市白銀町1) ※新潟に現存する第13師団長官舎についてはコチラ⇒【旧師団長官舎

 偕行社とは、陸軍の将校や高等官の親睦団体で明治10年(1877)に始まり、平成13年から陸上自衛隊の元幹部の入会も認められています。
陸軍駐屯地の近くには、将校用の集会場(偕行社)が設けられ、宴会や会議、皇室の行在所としても利用されました。
 明治41年時点の偕行社は、〔東京〕飯田橋・駒沢・袋村・上目黒・中野、〔千葉〕佐倉・習志野・市川、〔北海道〕札幌・旭川・函館、〔青森〕青森・弘前、〔福井〕鯖江・敦賀、〔京都〕伏見・福地山・舞鶴、〔香川〕丸亀・善通寺、〔福岡〕福岡・小倉・久留米、〔長崎〕鶏知・對馬・大村・佐世保・竹久保、〔新潟〕新発田・村松、〔静岡〕静岡・浜松、〔広島〕忠海・広島、〔山口〕下関・山口と、1県に数か所ある場合も。〔※2〕
 その他の県では、秋田、仙台、山形、金沢、高崎、豊橋、横須賀、名古屋、岐阜、大阪、和歌山深山、姫路、鳥取、高知、兵庫由良、松山、熊本、鹿児島、大津、島根濱田、岡山、樺太、羅北、羅中、羅南、基隆、澎湖島、旅順、遼陽と、規模の大小はあったようですが各地に点在していました。
 その偕行社で国内に現存するものは、旭川(1902-中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館)・金沢(1898-石川県庁石引分室)・香川善通寺(1896-偕行社カフェ)・京都伏見(1908-聖母女学院本館)・岡山(岡山総合グラウンドクラブハウス)となっています。
第15師団偕行社(豊橋1909-2013 愛知大学)は平成25年に解体されてしまいましたが、他の集会所(1908)や司令部などの建物は現存しているようです。
※第15師団偕行社の参考文献:「偕行社の建造物文化財調査・泉田英雄」愛知大学レポジトリ 

 さらに明治41年の資料〔※1〕によると、臨時建築部として東京本部と、仙台・名古屋・京都・広島・小倉に支部、各県に出張所が設けられ、陸軍施設の工事を担当していた事も分かりました。
その当時に陸軍師団司令部があった地域は、近衛(皇居)・第1(東京赤坂)・第2(仙台)・第3(名古屋)・第4(大阪)・第5(広島)・第6(熊本)・第7(北海道鷹栖)・第8(弘前)・第9(金沢)・第10(姫路)・第11(香川善通寺)・第12(小倉)・第13(新潟高田)・第14(宇都宮)・第15(豊橋)・第16(京都伏見)・第17(岡山)・第18(久留米)・樺太・清国・韓国となっております。

 弘前の陸軍第8師団は、印刷局発行の「職員録 明治41年」〔※2〕によると、師団長・参謀部・副官部・法官部があります。
昭和15年〔※3〕では、歩兵4・16旅団司令部、騎馬3旅団司令部、歩兵5・17・31・32部隊、騎馬8・23・24連隊、野砲8連隊、工8連隊、輜重8連隊となっています。
そして昭和19年(1944)第8師団は、フィリピンのレイテ島・ルソン島に派遣され、ほぼ全滅してしまったとの事。

 戦勝で活気あふれ、破滅の道へと進んだ日本軍ですが、残った一部の軍施設は現在 平和的に利用され、その地域の人々に愛される建物になっています。
歴史から目をそらさず、過ちを繰り返さないためにも、戦争の記録として紹介しました。

旧弘前偕行社・ドーマ

※旧弘前偕行社は平成31年末まで保存修復工事が実施され、現在は見学はできません。

【参考文献】 
※1 「陸軍軍隊官衙學校所在地一覧」(明治41年8月調) 川流堂
※2 「職員録 明治41年」 印刷局
※3 「各師団各部隊入営鉄道運賃粁程早見表・金子英三 編」(昭和15年)十勝財務協会

【2013年7月 訪問】


スポンサーサイト

comment 0 trackback 0
トラックバックURL
http://mosu3.blog.fc2.com/tb.php/90-307b14e8
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top