2014.
06.03
Tue
建築年 :明治39年(1906)、 昭和55年(1980)移築復原
構 造 :木造2階建て
所在地 :青森県 弘前市 稔町13-1
見 学 :9:00~16:00(土曜日~12:00まで) 無料
休館日 :日・月・祝日、6/25、8/13、年末年始、その他
交 通 :弘南鉄道大鰐線「弘前学院大学前」~徒歩4分
TEL :0172-38-6111
    ※詳しくはコチラ⇒【弘前学院大学
弘前学院外人宣教師館
 弘前学院は聖愛中学校・聖愛高校・弘前学院大学・大学院を持つキリスト系の私立学校です。 『弘前学院資料館』として公開されている建物は、かつては外人教師の住まいでした。
以前は中瓦ヶ町にあったもので、明治39年(1906)竣工・登記、昭和53年(1978)国の重要文化財に指定され、21ヶ月(1978.7.1~1980.3.31)の工期を掛けて現在地に移築復原。 修復の際に2階根太から明治39年の京都日出新聞が見つかり、建築年が確定しました。
設計はクリスチャンであった桜庭駒五郎と云われています。 ※桜庭駒五郎についてはコチラ⇒ 【日本基督教団 弘前教会
弘前学院外人教師館2
当初の屋根材は手割板柾葺きで、後に鉄板を葺き重ねた。
弘前学院外人教師館・1F応接室
1階応接室:ベンチの下は引戸の収納
弘前学院外人教師館・1F窓上蛇腹
1階応接室:蛇腹引きの納まりはアカンサスの漆喰彫刻で飾る
弘前学院外人教師館・廊下
階段と2階サンルーム
弘前学院外人教師館・2F談話室
2階談話室の蛇腹引きはシンプル
弘前学院外人教師館・2F寝室
2階寝室と暖炉


 この学校は、本多庸一東奥義塾長・青山学院長)が創設した弘前教会内に『来徳女学校』として明治19年に開校し、後に本多の妻となった長嶺サダ(貞・てい)も弘前遺愛女学校時代に教師として在籍していました。
 長嶺サダは文久2年(1862)盛岡藩士の長嶺忠司の次女として生まれ、東京女子師範学校卒業後に受洗。
その後、教員として東京の桜井女学校・岩手県師範学校女子部・函館遺愛女学校を経て弘前に赴任。
妻を亡くした本多庸一と結婚して4男2女を儲け、日本キリスト教婦人矯風会の幹部や、機関誌「婦人新報」編集発行人としても活躍しました。
昭和6年3月18日に他界し、多磨霊園にある本田家の墓に眠っています。

【弘前学院の変移】
明治19年(1886) 弘前教会内にカロライン・ライト夫人(駐独・アメリカ公使夫人)の寄付により
          『来徳(ライト)女学校』を開設。 翌年『弘前遺愛女学校』とする。
明治22年(1889) 元大工町に『弘前女学校』が設立される
明治34年(1901) 坂本町(中瓦ヶ町含む)に校舎を新築し移転(←昭和4年に建替え)
明治39年(1906) 中瓦ヶ町に外人教師館を新築
昭和21年(1946) 中等学校令(勅令-第36号)『弘前聖愛高等女学校』に改称
昭和22年(1947) 戦後の学制改革により『聖愛中学校』に改称
昭和23年(1948) 『聖愛高等学校』 開校   
昭和25年(1950) 『弘前学院短期大学』 開学
昭和45年(1970) 弘前学院短大が西弘前キャンパス(稔町)に移転
昭和46年(1971) 『弘前学院大学』 開学
昭和49年(1974) 聖愛高等学校が原ヶ平へ移転
昭和55年(1980) 聖愛中学校 閉校
           外人教師館が現在地に移築復原され『弘前学院資料館』となる
平成11年(2000) 弘前学院大学が共学になる。 翌年に聖愛高校も共学に。
平成15年(2003) 大学院 開学
平成18年(2006) 聖愛中学校が再び開校
                  ※詳しくはコチラ⇒【弘前学院聖愛高等学校】 【弘前学院大学

〔参考文献〕
「弘前学院外人宣教師館のしおり」 弘前学院
「弘前と遺愛女学校の音楽教育」 安田寛・北原かな子 1998 弘前大学レポジトリ
「本多庸一先生遺稿」 1918 日本基督教興文協会発行

※その他に弘前に残る外国人教師館は ⇒ 【東奥義塾】 【旧制弘前高校

【2013年7月 訪問】

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