2014.
06.15
Sun
 【日本基督教団 弘前教会】
建築年: 明治39年(1906)12月に完成、明治40年8/26に献堂式
構 造: 木造、一部2階建て塔屋付き
設計施工: 設計・監理は桜庭駒五郎、 施工は斎藤伊三郎
見 学: 教育会館入口から入館、 9:00~16:00 (募金箱に献金を)
       ※礼拝・集会時(日曜と水曜のAM)、冠婚葬祭、職員不在時は見学不可
住 所: 青森県 弘前市 元寺町48番地
交 通: 弘前城の近くにあり、バスや貸自転車もお勧め
T E L: 0172-32-3971
    ※詳しくはコチラ【日本基督教団 弘前教会
日本基督教団弘前教会
 3代目になるこの教会堂は、斜陽館(旧津島家住宅)も手掛けた棟梁・斎藤伊三郎によるもの。 伊三郎は堀江佐吉の四男で、斎藤家の養子となりました。 設計者はこの教会の委員であった桜庭駒五郎です。 耐久性・抗菌性に優れた、青森産の総ヒバ造りとなっております。
 資料〔※1〕によると、明治10年頃に土手町に平屋の講義所が開かれ、明治13年に献堂式を。 さらに明治30年(1897)に礼拝堂が建設されたのですが、明治37年に隣の写真館から出火。 礼拝堂と牧師館も類焼し、坂本町の弘前女学校を仮礼拝所としました。
 そして保険金に加え、伝道会社や有志からの寄付、アレキサンダー師も資金を集めて隣地を買い足し、まずは明治37年に牧師館を建設。(1904/9/1~12/13. 工費1,000円)
役員会(1905/12/12)のメモ〔※2〕によると、「形状は桜庭氏に託し、更に訂正する事。工事請負は桜庭氏を監督とし、工事着手より竣工まで依頼する事。」となっているそうです。
 そして桜庭駒五郎が委託人に選ばれ(1906/1/7)、斎藤伊三郎と契約。 礼拝堂は明治39年5月に着工、5/28定礎、12月に竣工。 礼拝堂建築請負費:4,500円、外部・両袖・正面変更:447円11銭、外部・両袖・正面屋根:159円4銭、礼拝堂屋根変更:345円78銭とあり、設計変更があった事が分かります。
 また、設計費227円79銭、青焼き代60円、保険料42円、絵葉書代、その他に下駄箱4つ、ストーブ2基、さらにガスランプ3基の購入がありましたが、明治44年には電燈料を支払っています。〔※1〕
日本基督教団弘前教会・マーク
このマークは、ユリでもアイリスでもないような・・・
日本基督教団弘前教会・堂内
祭壇:中央の椅子は「キリストの座」、左側が牧師席、右側が司式者の席。
日本基督教団弘前教会・堂内後ろ
礼拝堂後方は、襖戸(2階は畳敷)の和洋折衷となっている。
「弘前礼拝堂」の札は、本多庸一の書によるもので、焼失した2代目礼拝堂から拾い出された。

 教会の設計者である桜庭駒五郎は、明治4年(1871)8/12弘前で鋳物職人の3男として生まれ、桜庭家の養子となり、明治23年に弘前教会で受洗したと伝わります。
 明治30年頃から関西で土木工事に従事し、明治36年に美恵子と結婚しますが、難産で妻と長女が亡くなります。(その後つる子と再婚) 明治45年~大正初期まで秋田木材の弘前販売所に勤務。 大正2年1月~9月まで(埋葬後の工事か?)伏見桃山御陵を、大正4年1月から東御陵、2つの墳丘墓の礫石葺きを担当。 その際は職人に、白筒袖に足袋は毎日履き替えさせ、汗を垂らさないよう気を使ったそうです。
東御陵竣工後には御神酒器一式と三方2個を授与され、三方1個は東奥義塾再興の奉読用に、御神酒器一式は西津軽郡岩崎小学校(現:深浦町立いわさき小学校)へ寄贈したとの事。
 その当時の青森では、大正2年(1913)の大飢饉に加え、疫病で亡くなる者が増えました。 弘前教会は「青森救済会」を設置し、白銀町堀端の民家で「健康園」が開設され、駒五郎も私財を投じて孤児55名を収容しますが、4か月程で閉鎖。
 一方、働く母親のためのサムエル託児園(鷹匠町道場を利用)は県と市の助成を受け存続する事になりました。 駒五郎は一時帰省し、健康園の孤児:安部銀蔵(のちに牧師)と、中村いつ子(のちに教師)を引き取って育てました。
 そして、東御陵完成後の大正4(1915)秋に弘前に戻り、停車場通りに「円満商会」を開業。 青山学院神学部寄宿舎・秋田楢山教会・津山基督教会図書館・岡山香登教会・藤崎教会などの設計を行いました。 弘前女学院宣教師館も、駒五郎の作品と云われています。 ※詳しくはコチラ⇒【弘前学院外人宣教師館
 昭和30年(1955)8月に教会修養会の準備中に他界。 万蔵寺に葬られたそうです。


 初代牧師の本多庸一は、弘前藩士の長男『徳蔵』として嘉永元年12/13(1849.1.7)弘前在府町に生まれ、藩校「稽古館」で学びます。 奥羽列藩同盟を結んだ弘前藩の裏切りを知り、菊池九郎らと共に庄内藩に加わり秋田戦争に参戦。 庄内藩降伏後も脱藩の罪は問われず、『庸一』と改名して弘前藩に戻りました。 明治2年には松浦氏の子女・みよ(みよ子)を娶り、3男2女を儲けています。
 明治3年(1870)藩命により横浜へ赴き、ブラウンやバラから英語を学び、明治5年(1872)設立した日本基督公会(横浜公会)で本多は受洗しました。 帰郷してから東奥義塾の塾長となり、英語教師として外国人宣教師を招聘。
明治8年(1875)3代目英語教師のジョン・イングと共に『弘前公会』を設立し、本多は初代日本人牧師となりました。 その後、弘前公会はメソジスト派(プロテスタント)に転向。
 そして本多は、東京英和学校教師となった後、明治21年(1888)長嶺サダ(貞/てい)と再婚。 先妻の子に加え4男2女を授かりました。
その後、次男は法学士となり、長女・真理子は宮之原信次郎(牧師)の許へ嫁ぎましたが、長男・次女・三男・四女・七男は早世しています。
 東京英和学校長となった後、明治27年(1894)『青山学院』と改称して学院長に。 明治20年代から美似教会(メソジスト監督教会)代表として、メソジスト3派の会合にて合同を主張し、明治40年(1907)『日本メソヂスト教会』誕生と共に、学院長を退任して初代監督に就任。 会合先の長崎で、明治45年3月26日に他界しました。
 その後の日本メソジスト教会は、昭和16年(1941)プロテスタント33余派が集約(11部編成)した日本基督教団に加入し、弘前教会もその一つとなっています。

【参考文献】 
※1 「日本メソジスト弘前教会五十年記念史」1925 高木武夫
※2 「基督教棟梁桜庭駒五郎の軌跡」1985 間山洋八
   「本多庸一先生遺稿」1918 日本基督教興文協会発行
   
【2013年7月 訪問】

スポンサーサイト

comment 0 trackback 0
トラックバックURL
http://mosu3.blog.fc2.com/tb.php/98-692a2737
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top