2015.
04.27
Mon
建築年 :昭和40年(1965)
平面計画など : 松山 政雄
見 学 : しょうざん庭園(北庭)は通年公開 (※庭園内の建物は非公開)
      9:00~17:00  年中無休 500円
所在地 : 京都市 北区 衣笠鏡石町47
交 通 : 市バス「北木ノ畑町」バス停~徒歩3分~裏門から入場
T E L : 075-491-5101
  ※詳しくはコチラ⇒【しょうざんリゾート京都
峰玉亭・玄関
 しょうざん庭園にある峰玉亭(ほうぎょくてい)が、2014年に「第39回 京の夏の旅」で特別公開されました。 着物メーカー『しょうざん』の接待・貴賓客のための建物です。
 この地は『しょうざん』の創業者・松山政雄が、着物の展示場を兼ねた観光施設としてOPEN。 約3年の歳月をかけた峰玉亭の完成(1965)を見ずに、松山政雄は亡くなっています。
 現在は高級プールやボーリング場、結婚式場が併設され、『しょうざんリゾート京都』と呼ばれています。 この『しょうざん』の名は松山を音読みしたもので、『羊』のマークは、開発したウール着物から由来します。
 バス+徒歩で来た場合は、裏門から駐車場を抜け、ボーリング場の横の総合案内場でリーフレットをもらった方が良いでしょう。さらに宴会場の廊下を通り抜け、ホテルの庭園の様に整備された山道を歩いていくと、北庭に辿り着きます。
 峰玉亭は通常非公開ですが、毎年6月頃に催される『華しょうぶの会』で、過去には聞香席や茶席として開かれたようです。 詳しくはHPでご確認を。
峰玉亭・玄関の間
玄関の間 
峰玉亭・玄関内装飾
前衛的な数寄屋建築。 松山政雄のデザインかは不明。 
峰玉亭・玄関内
上: 玄関の天井      下: 玄関の床タイルは織部焼
峰玉亭・栖鳳の間2
竹内栖鳳の掛け軸があるので、栖鳳の間と呼ぶらしい。
峰玉亭・栖鳳の間1
栖鳳の間
峰玉亭・栖鳳の間・床脇
左: 栖鳳の間の床脇の明り取り            右: 南天の床柱
峰玉亭・廊下
広縁にある鶏の襖絵は、伊藤若冲と云われる
峰玉亭・照明
広縁の照明
峰玉亭・吉井勇の間
吉井勇の間: 床の間に歌人・吉井勇の歌が掛かる
峰玉亭・丸山応挙の間
次の間にも丸山応挙の襖絵が。
峰玉亭・座敷1
栖鳳の間と同じ南天の材を使用した床柱。  富岡鉄斎の絵があるので「鉄斎の間」か?
峰玉亭・座敷天井
鉄斎の間の天井
峰玉亭・廊下1
広縁の床板は栃。 奥様と2人で並んで歩けるよう設計変更したという。 若い頃「フンドシ一本と女房だけは残してくれ」と言った松山政雄は、最後まで奥様を大事にしたようだ。
峰玉亭・内便所
左: 男子便所                     右: 女子便所
峰玉亭
正門から見た峰玉亭。 正面の壁は外便所であり、内部も贅沢な造りとなっている。
峰玉亭・犬走り
犬走には萩焼きのタイル
正門・腰掛
上: かつての正門          下: 正門脇の腰掛待合


 創業者の松山政雄は、西陣の撚糸屋の三男として誕生。 8歳の時に父を亡くし、丁稚小僧となって25歳まで西陣で働きます。 戦地から復員すると、闇屋で1億円ほど稼ぎ、その資金で鷹ヶ峯の3万坪の土地を購入し、残りは紙糸の衣料を作る研究費に充てます。
 しかし、戦後の物資統制が解除されて紙糸の用途は無くなり、さらに1300万円の負債を抱え、「フンドシ一本と女房だけは残してくれ」と、裸一貫から再スタート。 開発したウール着物に、松山を音読みして「しょうざん」織と名付けた商品で、年商10億円以上を稼ぐまでになります。
 そして鷹ヶ峯の土地に、風情ある宿泊所や着物の展示場を設置。 織物工場で試作品を織る様子を見せるという‘動の観光施設’を計画しました。 
松山政雄は完成を見る事なく、昭和40年(1965)に他界しましたが、 その遺志は受け継がれ、結婚式場・ボーリング場も完成し、「しょうざんリゾート」として市民にも利用されています。
                         ※その他の建物はコチラ⇒【 しょうざん庭園②
【参考文献】
オール生活⑯4 「『心』数学の新商道成功法」 松山政雄 著 1961/04 実業之日本社
オール生活⑲9 「自然密着からのアイデア湧出経営戦法」 松山政雄 著 1964/09 実業之日本社

【2014年9月 訪問】


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2015.
04.12
Sun
建築年 : 昭和2年(1927)竣工
構 造 : 鉄筋コンクリート造3階建て
設計施工 : 唐木屋工務店
所在地 : 京都市 中京区 東洞院三条上ル
交 通 : 地下鉄 烏丸線・東西線「烏丸御池」駅~徒歩 約3分
TEL : 075-221-0016
                 ※詳しくはコチラ⇒【㈱平楽寺書店
平楽寺書店
 中京郵便局の近くにある3階建ての洒落た建物。 こちらは仏教を学ぶ人にはとっては有名な書店であり、仏教関連の書籍を数多く出版しています。 訪れた日は土曜でお店は閉まっておりましたが、ご主人が掃除をしていらしたので店の中を拝見できるか尋ねたところ、裏口から店内へと入る事ができました。
平楽寺書店2

平楽寺書店10
店の裏手には蔵が数棟ある。 RC造の店舗と共に、火災や盗難から書籍を厳重に守っている。
平楽寺書店9
左:土蔵                   右:この蔵の方が年代が新しいようだ
平楽寺書店11
店と主屋の境にあるドアにシャッターが組み込まれ、防火体制が万全
平楽寺書店3
店内
平楽寺書店4
店内
平楽寺書店5
店内から見た出入口方向
平楽寺書店・ポスト
左:郵便ポスト               右:シャッタースイッチは当初の物か?
平楽寺書店7
カウンター外側
平楽寺書店6
左:カウンター内部                 右:書棚
平楽寺書店8
梁の装飾
東方年表
 奥様がいらしたので『東方年表』を購入。 出版社で直に購入できて良い記念になった。
2650年間の中国・朝鮮・日本の国王・年号が解る。 ㈱平楽寺書店HPで購入するか、お近くの書店で取り寄せる事も可能かと思われる。
平楽寺書店1
         

 平楽寺書店は、版元・村上勘兵衛の流れを汲む出版社です。 丹波の武士・村上浄徳(初代・村上勘兵衛)が慶長年間に書籍商を創業したのが始まりと云われています。 当主は代々 村上勘兵衛を名乗り、出版人として活躍。 数多くの仏教書を出版しました。
 明治に入ると、「上下京区分町名録(1876)」、「京都府布令全書(1879)」、「京都府管内地図(1882)」、「京都名所案内(1893)」等、一般向けの書物も出版。
 さらに御用御書物所として官版も扱い、「太政御職明鑑(官許1868)」、「市中制法 明治二年(京都府 編纂)」の他に、私製で残る「御親征行幸中行在所日誌・第1-7号」という興味深いものがあります。 これには、「五箇条の御誓文」を発した慶応4年(1868)、天皇が3/21に京都御所を出発し、4月に戻るまでの親征の様子が書かれています。
 大正2年(1912)になると、11代目・村上勘兵衛が、事業を井上治作へ譲渡。 「平楽寺書店」と社名を変え、今日に至っています。 「太政御職明鑑」や「御親征行幸中行在所日誌」の出版元が、村上勘兵衛と井上治兵衛(店は堀川通り二条下ル)との連名となっていることから、井上家も代々、出版人として活躍していたようです。

 この建物を手掛けた唐木屋工務店の情報は少ないのですが、他の作品としては昭和8年竣工の宮本家住宅(京都市北区紫野北舟岡町※非公開)があります。  また、昭和6年頃に完成した生糸商の邸宅(京都市北区小山)も唐木屋工務店の作と云われており、こちらは貸別荘 『咲耶楼』 として宿泊も可能のようです。

【2014年9月訪問】


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2015.
04.11
Sat
建築年 : 南棟は明治21年(1888)、北棟は明治27年(1894)、 改修有り
構 造 : 木造2階建て 
見 学 : 9:30~17:00(入館は16:30まで)大人300円
      休館は水曜日(祝日は開館、振替休日なし)、年末年始
所在地 :  京都市 中京区 木屋町 二条南
交 通 : 地下鉄東西線・市バス「京都市役所前」~徒歩 約3分
TEL : 075-255-0980
    ※詳しくはコチラ⇒【島津製作所 創業記念資料館
島津製作所 旧本店
 分析・医療用など精密機器のトップメーカー、島津製作所。 その創業地がある京都木屋町に、初代・島津源蔵が残した建物が『島津製作所 創業記念資料館』として公開されています。
(創業当時の建物は現存せず)
 また、昭和2年(1927-1986)に竣工した河原町二条の社屋(RC造4F)も改修され、現在「フォーチュンガーデン京都」という、レストラン・結婚式場となっています。
島津製作所旧本店・玄関
左: 北棟の玄関                    右: 基礎に島津のマークが入る
島津製作所旧本店・ステンドグラス1
北棟 ステンドグラス外部
島津製作所旧本店・ステンドグラス2
北棟 ステンドグラス内部
旧島津製作所旧本店・座敷
北棟にある座敷。 建設された明治27年は、初代・島津源蔵が亡くなった年でもある。
島津製作所旧本店・解説板
木屋町本店 増築の変移 (展示パネルより)
島津製作所旧本店・古写真2
木屋町本店 内部の様子 (展示パネルより)
島津製作所旧本店・レントゲン1
当時のレントゲン装置
島津製作所・レントゲン2
当時のレントゲン装置
島津製作所・レントゲン3
当時のレントゲン装置
島津製作所旧本店・展示室1
展示室の様子
島津製作所・蚕雌雄鑑別器
「蚕の雌雄鑑別器」は、どの様に使用したのだろう?
島津製作所・植物模型
 標本部が制作した植物模型は芸術品のよう。 
初代・源蔵の孫達が東京美術学校を出ているのも頷ける。
島津製作所・人体模型
左: 人体模型                    右: 島津マネキン
島津マネキン
島津マネキンの制作風景 (展示パネルより)
島津製作所旧本店・展示室3
北棟2階 展示室の様子。  体験コーナーもある。
島津家・北白川別荘
昭和28年撮影の島津家の北白川別邸。 跡地は日本バプテスト病院になっている。
(展示パネルより)                          設計:上野 伊三郎
高瀬川一之舟入
 島津製作所 木屋町本店の近くにある、高瀬川一之舟入。
京都市内に唯一残る、船荷の積み下ろし場で、高瀬川は水深の浅い運河であり、底が平らな高瀬舟から川の名が付けられた。 伏見・大阪方面から物資を運び入れ、この界隈には材木問屋が立ち並んだ事から『木屋町』になったという。


 初代・島津源蔵は、仏具職人の次男として京都で生まれました。 舎密局で西洋の技術を垣間見た源蔵は、木屋町(現在地)に明治8年(1875)島津製作所を創業し、理化学機器の製造を始めます。
 そして、京都府学務課(八等属)原田千之介の依頼を受け、軽気球の製作を開始。
明治10年(1877/12/6)京都仙洞御所にて日本初の軽気球有人飛行に成功しています。
 明治27年(1894)島津源蔵が急逝し、長男の梅治郎が2代目・源蔵を襲名。
大正6年に㈱島津製作所となり、大正8年から本店を河原町工場(1903竣工)へ移し、昭和2年に新社屋が完成しました。
 医療機器としては、明治42年(1909)国産初のX線装置を製品化。 この建物は「島津レントゲン技術講習所」となり、X線技師の養成所(現・京都医療科学大学)となります。
 蓄電池は明治30年(1897)に完成し、明治41年(1908)島津源蔵のイニシャル『GS』を商標としたバッテリーで知名度が上がり、大正6年(1917)蓄電池部門が日本電池㈱として独立しています。
 また島津製作所は、人体模型の分野でも草分け的存在です。
明治24年頃から標本類の製作を開始。 明治28年(1895)に標本部を新設し、植物や人体の教育用模型を製作しました。
 さらに大正14年(1925)に新設された『島津マネキン』で、日本初の国産マネキンを生産します。 東京美術学校出身の2代目源蔵の長男・良蔵がマネキン部門を担当。 戦時中、操業が難しくなった標本部は昭和19年に廃部しますが、マネキンは終戦後まで細々と生産を続けていたようです。 標本部の技術は、昭和23年設立の京都科学標本㈱に継承され、代表取締役社長に島津良蔵が就任。 現在その技術は、医療介護トレーニングモデルへと受け継がれています。
 一方のマネキンは、島津マネキンで働いていた向井良吉が復員し、昭和21年(1946)七彩工芸を創業。 取締役に島津良蔵を迎え、島津邸跡地(中京区東洞院御池)に社屋を設置。
昭和37年に島津良蔵は㈱七彩工芸の会長に就任しています。
 ちなみに、初代 源蔵の次男・源吉は東京を拠点に、三男・常三郎が京都にと、長男(2代目・源蔵)をサポートしていました。
島津源吉(初代 源蔵の次男)の長男・一郎は若い頃は画家であり、そのアトリエは東京に現存しています。 ※詳しくはコチラ⇒【旧 島津一郎アトリエ

【参考文献】
㈱島津製作所 HP
㈱七彩 HP

【2014年9月訪問】


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2013.
05.13
Mon
所在地: 京都府 京都市 上京区 寺町通 丸太町上ル松蔭町
建築年: 明治11年(1887)、平成4年(1992)復元
構 造 : 木造2階建て 
見 学 : 祝日を除く火・木・土曜日、 10時~16時(外観のみ)  ※内部は特別公開日のみ
料 金 : 無料
T E L : 075-251-3042
交 通 : 地下鉄・丸太町駅~13分、京阪・神宮丸太町駅~10分

新島襄旧邸
 大河ドラマで有名になった、八重と新島襄の住まいが修復(1990~1992)され、一般公開されています。 八重が昭和7年(1932)6月14日、86歳でなくなった場所でもあります。
建物はボストンの友人J・M・シアーズの援助により明治11年に建設。 設計者は不明ですが、新島襄の好みが取り入れられた洋風建築となっています。
 訪れた頃はNHK大河ドラマの影響で見学者も多く2階は非公開でしたが、職員の方によると、いずれブームが去り見学者が少なくなれば以前と同じように2階も公開できるのでは…との事。    ※詳しくはコチラ→【新島旧邸
新島邸・通用口
 この地は宝永5年(1708)より京都御大工頭・中井家の拝領地でした。
中井家は敷地の一部を、明治8年9月30日に高松家に売却。 高松保実子爵は北半分を別邸とし、残りを新島襄に貸しました。
同志社英学校が今出川へ移転してから、新島襄はこの地を買取り、既存の建物を撤去。
明治11年初頭に着工、9月7日から新居にて生活を開始しています。


 スペンサー銃を抱えて鶴ヶ城に立籠り、京都では紅工場の補助金を上げるよう京都府に直談判したほど男勝りの八重の生涯は、大河ドラマでご存じでしょう。
八重の夫となった新島襄は、天保14年1月14日(1843.2.12)上州安中藩士の長男として江戸で生まれ、『七五三太(しめた)』と名付けられました。 軍艦操練所で洋学を学び、慶應元年(1865)にアメリカへ密航。 船長に『JOE(ジョー)』と呼ばれた事が、後に改名するきっかけとなります。 フィリップス・アカデミー卒業後は、アーモスト大学で化学を学び、日本人初の学士を取得。 その後、アメリカで岩倉使節団の木戸孝允と出会い、通訳としてヨーロッパへ同行しています。
洗礼を受けてクリスチャンとなっていた新島は、さらにアメリカの神学校で宣教師の資格を得て、明治7年(1874)日本に帰国。 翌年、故郷に安中教会を設立し、京都では子爵(公家)高松家別邸一部を借り受け、11月29日に同志社英学校を開校しました。
 そして、明治9年(1876)1月3日に八重と結婚。 借家(岩崎元勇邸=新烏丸頭町40番地)にて西洋風の新婚生活を送りました。
 さらに、山本覚馬より譲り受けた薩摩藩邸跡地(現・今出川キャンパス)に校舎が完成し、同志社英学校は移転。 同年10月24日に、新島八重と宣教師A.J.スタークウェザーは、京都御苑内のデイヴィス邸(公家・柳原前光邸)で寄宿制の女子塾を始めます。
明治10年(1877)同志社分校女紅場を開設、同志社女学校(現・同志社女子大学)に改称。 翌年に今出川校地へ移転します。
明治11年9月に、この新島邸新居が完成。 明治20年(1887)11月に京都看病婦学校(同志社病院)設立。
明治23年(1890)1月23日、療養中の大磯の百足屋旅館にて八重が見守る中、新島襄は同志社への遺言を残し、息を引き取りました。
新島邸・応接間
訪問時は、居間にあった机や椅子類は江戸東京博物館の企画展に貸し出され、レプリカ家具が展示されていた。
新島邸 食堂・応接間
左:居間から見た食堂      右:1階の暖炉で温められた空気が、2階の吹出口から出たという。
新島邸・飾り棚
新島襄の石コレクションが収まった戸棚と、八重が愛用したオルガン。
新島邸・書斎
明治40年(1907)八重はこの住まいを同志社に譲り、新島襄が亡くなった当時のままの書斎が開放され、学生はその本を読む事が出来たという。
新島邸・茶室
八重は、京都紅工場(京都府立鴨沂高校)の同僚・猶鹿子(裏千家13代家元の母)から茶道を学んでいた。 茶名『新島宗竹』
大正元年(1912)頃、居間の中に4帖半茶室「寂中庵」を設置して茶を楽しんだ。 右の写真にある扁額は、裏千家13代家元・圓能斎によるもの。
新島邸 便所・風呂
復元された便所と風呂。 腰掛け便器は大正時代の様子だという。
新島襄碑
大磯の百足屋旅館跡地に建てられた『新島襄 終焉の地』碑。 命日に訪れる方も多いという。
大磯駅から徒歩5分程の所にあり、道路に挟まれた三角地の隅にある。 徳富蘇峰の書による石碑は、生まれ故郷の碓氷産。


 江戸中期~明治初頭まで、この地一帯を所有していた中井家は、大工頭・中井大和守として、徳川家に仕え、初代・中井正清(1565-1619)は、江戸城(1607)・駿府城(1608)・名古屋城(1612)天守閣や、増上寺(1611)・日光東照宮(1617)の造営を取りまとめました。
 その後も中井家は、江戸城本丸御殿(1622)・大阪城再建(1624)・清水寺本堂(1631)・知恩院御影堂(1639)・東寺五重塔(1644)などを手掛けていましたが、修理の仕事が増え、新築も入札制となったため設計費が捻出できずに破綻。 元禄6年(1693)から設計業務の費用が認められ、京都御所再建(1709)にあたり、この地一帯が拝領されたようです。

 明治に入ってこの地を購入した高松家は、藤原北家閑院流であり、武者小路実陰や高松公祐(きんさち)など歌人の血を受け継ぐ公家のひとつ。 高松保実(やすざね)は、公祐の末子として文化14年12月1日(1817)に生まれ、兄・高松季実(すえざね)の養子として高松家を継ぎます。
さらに高松保実は弟・公雄(1830-1859)を養子として迎え、高松家を継がせましたが、公雄は安政6年9月16日に若くして亡くなりました。
高松保実には実子もいましたが、1人は出家し、もう1人の子・高松実村(さねむら1842-1907)は、慶応4年(1868)甲府城攻略のため高松隊(俄官軍)を結成して、偽勅使と呼ばれ謹慎処分になりました。 のちに処分を解かれ、若松県や内務省に勤務するようになり、父・高松保実が明治11年(1878/9/24)に死去した後、明治17年に高松実村が子爵となりました。
新島襄と歳も近いことから、山本覚馬らの紹介により、高松実村と縁が出来たのではないかと推測されます。
 明治以降は高松家の本邸が東京に移ったようで、高松保実と高松実村は谷中霊園に眠っています。

【2013年3月 訪問】


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2013.
04.21
Sun
所在地:京都府 京都市 左京区 吉田上大路町34
建築年:江戸中期~昭和 その後も改修有り
構 造:木造 (一部、国の登録有形文化財)
見 学:予約制 10時(団体)、11時(個人)、14時(個人)、16時(他の時間が満員の時)
休 館:月曜・年末年始・整備・貸切時  
料 金:庭園書院=600円、庭園書院+好刻庵外観=800円、
    庭園書院+好刻庵入室=1000円(多人数・悪天候時は入室不可)
TEL:075-761-8776 重森三玲庭園美術館
交 通:市バス「京大正門前」~徒歩5分

重森邸・庭1
 京都大学吉田キャンパスに程近い住宅街の中に、重森三玲の旧宅があります。
この建物は、享保期(1716-1735)の主屋と、書院(寛政元年1789)から成る、吉田神社 吉田家の家老であった鈴鹿家の屋敷を、昭和18年(1943)重森三玲が譲り受けたものです。
 さらに、昭和28年に茶席「無字庵」、昭和44年に茶室「好刻庵」を重森三玲が設計。
この重森邸には、彫刻家イサム・ノグチ等、数多くの文化人が訪れています。
 現在は『重森三玲庭園美術館』として、好刻庵・書院・庭園が、予約制で公開されております。
※詳しくはコチラ→【重森三玲庭園美術館
重森三玲邸・坪庭
坪庭
重森邸・座敷
書院の間。 この部屋に上がり、庭を眺めながら重森氏(子孫)の解説を聞く。
掛け軸「林泉」は三玲の書。
重森邸・照明
照明はイサム・ノグチのデザイン。
床の間近くの天井は、格式の高い格天井となっている。庭側(下座)は竿縁天井。
重森邸・茶室外観
茶室「好刻庵」は、見学の度に雨戸を開閉し、気を使っている。
重森三玲邸・茶室
「好刻庵」は、建具・照明・釘隠しに到るまで、全てが重森三玲によるデザイン。
特別料金で、実際に室内に上がる事が出来る。
天井の竿縁が床刺しになっているのは、何か意図しての事か?
重森邸・蹲
蹲(つくばい)は灯篭を転用し、傘を反対に向けて手水鉢にしている。
重森三玲邸・中庭
 日本庭園に革命を起こした重森三玲は、斬新な作庭で知られていますが、「日本庭園史図鑑」26巻(有光社)や「日本庭園史大系」(社会思想社)等の著者でもあり、古来の日本庭園の研究を元に、そのデザインは哲学と日本文化の融合から生まれたと言えるでしょう。
 ちなみに『三玲』という名は、ジャン・フランソワ・ミレーに影響を受けて改名されたものです。
 重森三玲は、明治29年(1896)『重森計夫』として岡山県上房郡吉川村(現・加賀郡吉備中央町)で生まれました。 幼い頃から茶道を習い、大正2年(1913)生家の茶室・天籟庵を設計。 開設まもない日本美術学校で日本画を学んだ後、東洋大学で哲学を専攻しています。
 その後、茶の湯・茶庭・生け花など、日本文化を学ぶための学校を創設しますが、関東大震災で夢は絶たれ帰郷します。 大正14年(1925)東京からの客人を招く為に改修した天籟庵の庭が、初めての作庭と云われております。
 その後、昭和8年(1933)から京都に移り、勅使河原蒼風らと前衛的な生け花の創作を開始。
庭園研究をまとめた「日本庭園史図鑑」26巻(有光社)が発刊され、庭園史家としても有名になります。
昭和14年(1939)永代供養を条件に、無償で京都 東福寺[八相の庭]を手掛け、その斬新さが話題となり、その後も数多くの庭園を手掛けました。
 京都 光明院[波心庭(1939)]、大阪 岸和田城[八陣の庭(1953)]、長野 北野美術館(1965)、京都 松尾大社[松風苑(1975)]等、一般公開されております。
 また、重森三玲が生まれた岡山県加賀郡吉備中央町舎には、京都友琳会館の庭が移築され、重森三玲記念館には資料展示の他、三玲設計の茶室・天籟庵(1913)と生家の庭も移築されています。
(無料。 月~金:9~16時、日曜・祝日:10~15時。 土曜日・年末年始は閉館)
※詳しくはコチラ→【重森三玲記念館
重森三玲邸・玄関
 京都の重森三玲邸の一部は、現在は近江商人(五個荘)の血を受け継ぐ塚本氏の所有となり、主屋を改装して、ツカキグループが結婚式場『招喜庵』として管理・運営しているようです。
 なお、庭園見学の基本として、ヒールのある靴を履かない、肌の露出を避ける、苔や植栽を踏まない等、訪問者として心掛けましょう。

【2013年3月 訪問】


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