2017.
02.19
Sun
取手の長禅寺三世堂に続いて、会津の珍しい御堂を紹介します。
御三階
御三階(ごさんがい) 
建築年:江戸後期、 何度か移築・改修有り
所在地:福島県会津若松市七日町4‐20
公 開:通常非公開
交 通:会津鉄道・七日町駅 or 七日町駅前バス停、下車すぐ
御三階・東面
江戸時代に鶴ヶ城本丸に建造された櫓で、明治3年に阿弥陀寺に移築し本堂として使用された。
道路沿いにあったが、昭和49年に本堂新築のため現在地に移築している。
御三階・裏と西
左:裏側              右:西側
御三階・唐破風
向拝には本丸御殿の唐破風が付けられている
御三階・1階
平成27年(2015/4/2~6/30)1階のみ公開された時の様子 ※入場不可
九代 会津藩主・松平容保の肖像画:秩父宮勢津子妃殿下は容保の孫(松平節子)
御三階・解説板1
鶴ヶ城本丸の配置図   〔展示パネルより〕
御三階・解説板3
平面図    〔展示パネルより〕
御三階・解説板2
断面図    〔展示パネルより〕
2階~3階の間に這いつくばるほど天井の低い部屋が存在し、3階は梯子階段がないと上がれない。
阿弥陀寺
阿弥陀寺:慶長8年(1603)良然により開山。 戊辰戦争の遺骸1300余りが埋葬されている。


円通三匝堂(さざえ堂)
建築年:江戸後期、 何度か修復有り
所在地:福島県会津若松市一箕町八幡弁天下1404
公 開:8:15~日没、無休、有料
交 通:会津若松駅~まちなか周遊バス~「飯盛山下」下車、徒歩5分
TEL:0242-22-3163   ※詳しくはコチラ⇒【会津さざえ堂
さざえ堂
 会津の観光名所である『さざえ堂』の正式名は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」という観音堂で、寛政8年(1796)飯盛山の正宗寺境内に建立したと伝わる。
さざえ堂2
 さざえ堂形式の堂宇は幾つかあるが、この円通三匝堂はスロープと六角形の平面から、よりサザエに近い形状をしている。
昭和28年(1953)補強材・金具締め等により傾斜修正された。
さざえ堂・向拝
向拝の屋根
さざえ堂・内部1
入口:さざえ堂を建立した正宗寺・郁堂和尚の像が祀られる
かつて西国三十三観音像が安置され、二重螺旋スロープによって上り下りの順路が交わる事なくお参りできたが、明治の神仏分離令によって正宗寺は廃寺され、三十三観音像は取り外された。
さざえ堂・内部2
左:上り               右:疲れた人は下りへ抜ける事ができる
さざえ堂・心柱
塔の中心は柱6本で支えている
さざえ堂・内部3
頂上は太鼓橋の様
さざえ堂・宝珠
石の宝珠:平成6年(1994.2.22)突風で剥がれた展望休憩所のトタン屋根が飛来し、宝珠石250kgが落下、大屋根に穴が開いた。
当初の屋根はコケラ葺きであったが、昭和7年その上に重ねて銅板が葺かれ、昭和47年から3年かけて屋根の大修理(垂木・野地板・銅板)、平成6年に宝珠石落下の補修工事が実施されている。

【2015年5月 訪問】


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2017.
02.05
Sun
建築年:何度か再建・修復あり
構 造:木造3階建て
所在地:茨城県取手市取手2-9-1
公 開:毎年4月18日(11月にも建物内部を数日公開)
交 通:取手駅東口から徒歩5分
   ※詳しくはコチラ⇒【取手市HP
長禅寺三世堂
 取手に珍しい観音堂があり、毎年4月18日に本尊が御開帳されます。
この寺は臨済宗・大鹿山長禅寺と号し、観音堂に過去現在未来の仏像を三壇に安置した事から三世堂と称しますが、百体の観音像がある事から百観音堂とも呼ばれ、3階建でも上り下りの人が交らず参拝できる構造となっています。
慶安2年(1649)~江戸末期まで歴代の将軍より朱印状を受け、地元の人々にも馴染みの寺。 大正時代の文献によると、弘法大師の月命日21日、旧暦1/7及び7/16に鐳鉢灸行事(頭痛に効能有るが現在は行われていない)、相馬霊場八十八ヶ所巡りとして参拝者が訪れていたようです。
長禅寺三世堂・1階内陣
1階の内陣奥には守り本尊・十一面観音菩薩像(お姿を拝見できるのは4/18のみ)
手前の象の上には甘茶を満たした灌仏桶。 この日は境内で参拝者に甘茶が振舞われた。
長禅寺三世堂・1階回廊
1階の階段
長禅寺・2階回廊1
百観音(宝暦年間に奉納された鋳造仏像が多い):棚の上に賽銭が置いてあるが、下に賽銭受口がある
長禅寺三世堂・2階内陣
2階の内陣
長禅寺三世堂・2-3階段
2階の階段➀:仕切り板で参拝者を階段へと誘導している(階段➁もある)
長禅寺三世堂・2階回廊3
2階の階段➁
長禅寺三世堂・組物
2階回廊の天井廻り
長禅寺三世堂・3階内陣前
3階
長禅寺三世堂・窓
3階の丸窓: 窓枠は4つの木材を接合している
長禅寺三世堂・3階内陣
3階の内陣
長禅寺三世堂・欄干


 十一面観音菩薩像は、別の地にあった白山権現社に祀られていましたが、いつしか寺と共にこの地に移されたようです。
住職が口伝を基に享和元年(1801)3月付で書面にし、役人宛に提出したという「長禅寺地方用録」によると…観音堂は織部時平が文暦元年(1234)五間四面の堂宇を建立し、本尊・十一面観音を安置。 さらに、過去現在未来の三千仏を三壇に安置して三世堂と号し、その後の兵乱火災のため本尊を取り出し保管。 正徳・享保の頃より西国秩父坂東の百観音を奉造し、宝暦12年(1762)に堂宇も完成。3重に仏壇を構え、本尊百観音を安置。 寛政2年(1790)秋の大風で堂宇と百観音が大きな被害を受けたが、堂宇の部材を使って再建…となっています。 
伝承では宝暦12年(1762)完成、山川某申(山川村の大工?)とあり、白嗣殿と書かれた木札は宝暦13年(1763)となっており、堂宇と仏壇の完成年は違うのかもしれません。
 また、享和元年(1801)の棟札には棟梁 谷沢治部右衛門とあり、3階高欄の擬宝珠に寛政12年(1800)の刻銘がありますが、堂宇・仏壇が完成した竣工日は分かりません。 この様に竣工日については記録がない寺社も多く、屋根裏にある上棟時の棟札や新築奉納物、文献などで完成時期を判断するしかありません。
 その後も修理は行われており、寺の解説板によると…明治の修理(1900~1902)で銅板屋根の一部葺き替え(瓦棒葺き→平葺き)、3階廻り縁甲板の張り替え等を実施。 昭和の大修理(1971~1974)で、基壇石の積み直し、礎石の不同沈下修正、1階床を土間コンに変更、厨子や棚の修理、障子→硝子戸へ変更、壁の塗り替え、3階天井張り替え、小屋組と野地板の補修、屋根の葺き替え等…となっています。(2~3階床板はリノリウム貼に変更となっているが、現状は床板のまま)
長禅寺・山門1
長禅寺の山門(鐘樓)
長禅寺・山門2
【参考文献】
「常総鉄道名勝案内」1913 常総鉄道株式会社 
「取手市史 社寺編」1988 取手市史編さん委員会

【2016年4月 訪問】


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2017.
01.22
Sun
建築年:昭和14年頃に竣工
構 造:鉄筋コンクリート造2階建て
所在地:東京都東大和市桜が丘二丁目、都立東大和南公園内
公 開:毎月第2日曜日、13時~16時、無料 (※1階のみ)
交 通:西武鉄道・多摩モノレール「玉川上水」駅~徒歩約5分、都立東大和南公園内

                 ※詳しくはコチラ⇒【旧日立航空機㈱変電所
旧日立航空機㈱変電所
 子供達が遊ぶのどかな東大和南公園の一角に、廃墟のような建物が残っています。
これは変電所の跡で、この一帯が日立航空機㈱立川工場の敷地であり、昭和20年の空襲の際、多くの従業員がこの工場で亡くなりました。
特に2月17日は78名もの死没者が出ており、その年の初め頃から空襲が激しくなっていた事がわかります。
普段は立ち入り禁止となっていますが、毎月1回この建物1階が公開されています。
旧日立航空機㈱変電所3
モダニズム的な建築
旧日立航空機㈱変電所・入口
 この変電所は小松ゼノア㈱が平成5年(1993)まで使用していた建物で、昭和53年に都有地となり、後に都立東大和南公園の一部となりました。
その後、東大和市が東京都より分割購入し、戦争遺跡として平成7年(1995)土台・柱の補強、屋根の修復、爆撃痕の接着補強工事を実施。
旧日立航空機㈱変電所・内部2
1階内部の壁は補修されている
旧日立航空機㈱変電所・内部4
左:正面出入口           右:小部屋の壁は当時のまま
旧日立航空機㈱変電所・内部3
コンクリートの壁に残る、弾が貫通した痕 
旧日立航空機㈱変電所・階段

旧日立航空機㈱変電所・内部1
終戦の日(8月15日)多くの人が訪れ、ビデオを見ていた
旧日立航空機㈱変電所・配置図
日立航空機㈱立川工場の配置図 (※展示パネルより)
旧日立航空機㈱変電所・被弾跡
日立航空機㈱立川工場の被弾跡 (※展示パネルより)
旧日立航空機㈱変電所・古写真2
空襲後の写真 (※展示パネルより)
旧日立航空機㈱変電所・空襲被害
左:日立航空機㈱立川工場での死没者
右:多摩地域の昭和19年~20年の空襲  (※展示パネルより)
旧日立航空機㈱変電所・銃痕


 日立航空機は昭和14年(1939.2)東京瓦斯電気工業㈱より経営権の譲渡を受け、同年5月に独立した会社で、5つの工場(千葉・立川・大森・羽田・川崎鋳造所)があり、大森と立川工場は主に発動機(エンジン)の製造を行い、羽田工場で部品を製造し、千葉工場で零式練習用戦闘機A6M5-K等を完成させていたとの事。
 戦況が厳しくなると、材料品質の低下、熟練工不足により製造も困難になります。 工場には空襲用の塹壕や防空壕が掘られ、建物は迷彩色に塗られました。 さらに昭和19年(1944.12)から、生産品・設備などの疎開計画が実施され、地下や学校に疎開施設が設置されます。
立川の疎開工場は八洲に設置される事になりますが、まだ疎開が完了していない昭和20年(1945)空襲に遭い、操業不能となりました。
立川工場及び社宅において、昭和20年の空襲3回での犠牲者は、従業員と家族、勤労学徒など計111名が亡くなっています。
その犠牲者の内訳は2月17日78名(内、学徒9名)、4月19日5名(内、学徒1名)、4月24日28名(内、学徒5名)となっています。
(※上記の数字は展示パネルから。アメリカ合衆国戦略爆撃調査団の資料では2/17・4/24の2回空襲とあり、犠牲者数の記載なし)
かつての多摩地域は軍需工場が多く、昭和19年~20年(1944.11.24~1945.8.15)まで30日以上の空襲を受けており、多くの犠牲者が出ました。 この変電所の弾痕が、戦争を経験していない人々に悲惨な記録を伝えています。
旧日立航空機㈱変電所2
【日立航空機】
 明治43年(1910)東京瓦斯工業㈱が設立、大正2年に東京瓦斯電気工業㈱と改称。 大正7年(1918)初の国産自動車の生産を開始。
しかし、経営破たんして解体され、自動車部が独立・合併・改称を繰り返し、現在の日野自動車・いすゞ自動車となっています。
解体された他の部門は、一部が日立製作所に吸収合併され、昭和14年(1939)日立航空機㈱として独立。(他にも日立工作機・日立兵器が独立)
 戦後、日立航空機㈱の技術は、日興工業㈱→㈱日興製作所を経て、新)東京瓦斯電気工業へと継承されますが、その後は合併を繰り返し、富士自動車㈱→ゼノア㈱→小松ゼノア㈱となって、この変電所を最後まで使用。
チェーンソーなどを製造する農林・造園機器メーカーである小松ゼノア㈱は川越に拠点を移し、現在はスウェーデンのハスクバーナの傘下に入り、社名がハスクバーナ・ゼノア㈱となっています。
戦後、中島飛行機の技術を受け継いだ富士産業がラビットスクーターを製造したように、日立航空機の技術は富士自動車のフジキャビンに受け継がれました。 現在、2つの会社は無くなってしまいましたが、丸みを帯びた愛らしいフォルムの車両が、新たなファンを獲得しています。

【参考文献】
「太平洋戦争中の日立航空機株式会社」1990 日立鵬友会
「東大和市新学校給食センター建設に係る概況調査の結果について(平成25年)」東大和市

【2015年8月 訪問】


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2017.
01.08
Sun
建築年:昭和9年(1934)竣工、改修は何度かあり
設計施工:設計は岡田建築事務所、  施工は清水組など
構 造:RC造+木造など、3階建て+地階
開 館:9時~22時(受付は19時30分迄)
所在地:滋賀県大津市柳が崎5-35
交 通:JR「大津京駅」 or、 京阪「近江神宮前駅」~徒歩約15分
TEL:077-511-4187
    ※詳しくはコチラ⇒【びわ湖大津館
旧琵琶湖ホテル5
 かつて、皇室や各国の要人が宿泊した琵琶湖の高級ホテル。 平成10年(1998)浜大津への移転に伴って建物の保存運動が高まり、大津市が耐震改修保存工事を行い、平成14年(2002)から『びわ湖大津館』として開館しました。
旧琵琶湖ホテル・正面玄関
正面玄関
 本館の実施設計を担当した岡田捷五郎は、明治27年(1894.11.24)東京生まれ、大正9(1920)東京美術学校卒業。
滝川工務店に入社しますが、大正9年12月から一年ほど徴兵された後、兄・岡田信一郎の設計事務所に入所。
昭和2年(1927)から東京美術学校建築科講師となり、昭和18年(1943)教授となりました。 
昭和7年(1932)兄の信一郎が亡くなると岡田建築事務所を引き継ぎ、この琵琶湖ホテルの設計を担当しています。
琵琶湖ホテル新館(1953,木造)設計者の小河吉之助もかつて所員(1937独立)であり、この本館の設計業務にも関わっていたようです。
旧琵琶湖ホテル・唐破風
玄関の唐破風と大屋根の小屋組は木造
旧琵琶湖ホテル・鬼瓦
かつての鬼瓦
旧琵琶湖ホテル・1Fホール
1階ホール
琵琶湖ホテル・階段手摺
地下への階段手摺
旧琵琶湖ホテル・キーBOX
フロントのキーボックス
旧琵琶湖ホテル・両替所
両替所跡
旧琵琶湖ホテル・大食堂
大食堂『桃山の間』  ※使用中でなければフロントに言うと見学可能 
 オーケストラボックスを設け、ダンスホールとして利用できるようになっているが、実際に使用されたかは不明。
図面を見る限り、右手の空調ガラリがオーケストラボックスの出入口であったと思われる。
旧琵琶湖ホテル・貴賓室
3F貴賓室は現在は特別展示室になっている
旧琵琶湖ホテル・トイレ
かつての客室はトイレに改装
旧琵琶湖ホテル・屋上庭園
バルコニー(屋上庭園)
木造の欄干は塗装色も復元しているが、床のクリンカータイルは現存していない。
旧琵琶湖ホテル2


 多数の観光客が琵琶湖を訪れると予想し、昭和3年に国際ホテル計画が発表され、滋賀県が建設地を柳ヶ崎に定めて大津市に買収業務を委託、新会社設立も計画されます。 しかし地価高騰の為、滋賀県は面積を縮小して土地を買収し、大津市の所有地(無償貸与)と合わせて建設地としました。
さらに別館(ダンスホール)の建設が中止され、大蔵省の低金利融資も減額されてしまいます。 これにより県は電気・暖房・衛生設備費用も捻出できず、それらの工事費用とエレベーター・造園工事は会社負担となりました。 
名称は『仮称)国際観光ホテル』→昭和8年12月『琵琶湖ホテル』となり、昭和9年に会社が設立されると、取締役会長に藤井善助(藤井彦四郎の兄)が就任。
昭和9年に建物が竣工(10/25)、県との賃貸契約(10/26)、宿屋営業許可(10/27)、開業竣工式(10/27)と慌ただしくOPENしました。 
開業時の間取りは…1F:読書室・ラウンジ・宴会場(食堂)・酒場・理髪室・美容室など、 2F:客室・小宴会場、 3F:客室
その他に館内には、売店・ビリヤード場・卓球場・囲碁将棋室、外部にテニスコート、庭園には夏季限定で食堂を設置。
開業当時の定食は、朝1円50銭,昼2円,夜2円50銭、アフタヌーンティーセット75銭、という価格で提供されました。
 昭和10年に起きた水害と天候不順でしばらく営業不振に陥りましたが、その後は軍需景気で利用者が増大。
しかし戦況が厳しくなると景気も悪化し、金属類回収令でエレベーター接収、労務調整令でホテルスタッフは女性に交代しています。
 終戦を迎えると、建物は国と県が借り上げて進駐軍に提供。 昭和20年(1945/9/30)から琵琶湖ホテルは進駐軍専用宿舎となり、重役と経理は外へ出され、進駐軍が管理しました。
物資調達・改修工事も日本の終戦処理費で賄われ、水道殺菌設備や網戸の設置、キッチンや食品庫をタイル貼に改修。
さらにホテルの地下にバールーム・理髪室などが開店し、ベビーゴルフ場・25mプールも順次完成しました。
食材は主に缶詰で、肉は京都の公認肉屋から、野菜は肥しを使わない専用農園(タキイ種苗経営)から仕入れていたとの事。
 昭和27年(1952)接収が解除されると、半額の請負金で7月から米軍と直接契約。 建物は既に県より無償譲渡されており、改修品を買い取り、新館(木造2F+BF,小河吉之助建築事務所)が翌年(1953/10/29)に竣工。 昭和32年に米軍との契約が解除されると、12月1日から一般向けの営業を再開します。
御大典のため建設された京都の都ホテル第4・5号館と、什器備品の譲渡を受けて移築し、昭和35年(1960/8/1)木造+鉄骨造2階建て、2棟の旅館『びわこ』がOPEN。
さらに翌年には大浴場と客室を有する建物(RC造5F+BF)が竣工し、新館は移築して座敷に改修して『西別館』になります。
そして昭和44年にはRC造の東側を増築(RC造5F+BF)。 ※のちに本館以外は全て解体。
昭和天皇の行啓先と決まると、昭和48年~49年まで本館全室のバスルームと什器備品の交換、キッチン改良、電気設備工事が行われました。
 皇太子(今上天皇)も何度か宿泊された琵琶湖の高級ホテルでしたが、平成10年(1998/8/24)琵琶湖ホテルの浜大津への移転に伴い閉館。
翌年に滋賀県と大津市が買い上げ、大津市が耐震改修保存工事を行い、平成14年(2002/4/27)『びわ湖大津館』が開館しました。

【参考文献】
「琵琶湖ホテル五十年のあゆみ」琵琶湖ホテル 1984
琵琶湖ホテルのリーフレット(開業当時)
「大津市指定有形文化財旧琵琶湖ホテル本館修理工事報告書」大津市・大津市教育委員会 2002

【2015年10月 訪問】


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2016.
12.24
Sat
建築年:昭和3年(1928)竣工
設計施工:設計はヴォーリズ建築事務所、 施工は石倉工務店
構 造:木造2階建て+塔屋
所在地:滋賀県大津市末広町6-6
交 通: JR大津駅~徒歩約3分、or 京阪電鉄 上栄町駅~徒歩約7分
TEL:077-522-3634
    ※詳しくはコチラ⇒【大津教会
大津教会
大津祭りの喧騒を忘れさせるほど静かな教会。
訪ねてみると奥様がいらっしゃり、建物内を案内して下さいました。
大津教会・玄関
この建物は昭和3年(1928)大津同胞教会の『大津同胞会館』として竣工。
昭和21年(1946)2つの教会が合併し『日本基督教団 大津教会』会堂となりました。
大津教会・玄関装飾
表玄関の装飾
大津教会2
昭和32~33年に会堂内部の改築、外装・屋根の修復を実施。
昭和35年には幼稚園の改築も行われ、それ以降もサッシ・設備などの改修が施されている。
大津教会・玄関ホール
玄関ホール
大津教会・礼拝室
礼拝堂
大津教会・礼拝室2
礼拝堂後方
大津教会・ベンチ
修理して大事に使われているベンチ
大津教会・天井扇
古そうな天井扇
大津教会・1階回廊
左:幼稚園との境
右:礼拝堂裏の通路…現在は壁になっているが、当初は礼拝堂と幼稚園は戸で仕切られ、全て取り払うと幼稚園ホールと一体となり広い舞台になったという、まるで劇場の様な造り。 多目的に使えるよう、当初は『大津同胞会館』と名付けられた。
大津教会・旧外壁
上:下から見上げた内玄関のアーチ(穴は照明の跡)
下:内玄関に残る当初の外壁仕上げ
大津教会・2階回廊1
2階回廊
大津教会・2階回廊2
2階回廊
大津教会・塔屋


 同胞教会は、アメリカで発祥したプロテスタントの教会で、明治28年に日本へ伝来し、明治38年(1905)大津同胞教会が組織されました。
当初は借家を会堂とし、初代牧師はシカゴ大学神学部を卒業して膳所教会を創設した矢部喜好が兼牧。 
さらに大津同胞教会は、大正7年(1918)愛光幼稚園を創設し、大正11年(1922)には夜間学校も開設されました。
 愛光幼稚園(大津愛光学園)の初代園長・ベネ・ニップは日本同胞教会を総括していたエドガー・ニップの夫人で、5つの幼稚園(膳所教会聖愛幼稚園・草津教会信愛幼稚園・馬場同胞幼稚園・瀬田同胞教会昭愛幼稚園)の園長を兼任し、資金・物資支援を母国へ向けて募っていました。
 ところが戦争になると、近隣に住んでいたニップ夫妻は自由な外出も許されず、昭和16年に帰国。 この建物の窓に投石、保育室に人糞といった嫌がらせが続きます。 しかし地元の主婦にとって幼稚園は必須だったようで、休園していたのは僅かな期間でした。
 同じく、アメリカ発祥のプロテスタントの日本組合教会は、明治19年 (1886) 新島襄らを中心とする会衆派が集結した教会で、明治23年(1890)大津に設立された日本組合大津基督教会では、昭和3年と7年にヴォ―リズが特別伝道応援牧師として活動しています。
また、崇貞学園(北京)・桜美林学園(東京)を創設した清水安三が17歳の時(1908年)に受洗。 後に伝道師となって中国に渡り、戦争になると北京を守るため日中両軍の司令官に直談判しました。
 この日本組合大津基督教会(白玉町,1919.9.24献堂式)は昭和15年から伝道所へ格下げとなり、昭和17年~21年まで県の土建統制事務所に貸与された後、しばらくして解体されたようです。 
 昭和16年(1941)プロテスタントの教会が集結して日本基督教団が設立されると、2つの教会はそれぞれ『大津南教会(同胞教会)』、『大津教会(組合教会)』と改称していましたが、両教会は昭和21年(1946.7.18)一旦解散して合併し『日本基督教団 大津教会』となりました。

【参考文献】
「日本基督教団大津教会史」日本基督教団大津教会 1969 
「清水安三と北京崇貞学園」李紅衛 著 2009 不二出版

【2015年10月 訪問】


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