2017.
06.27
Tue
建築年:昭和11年(1936)
構 造:鉄筋コンクリート造2階建、一部地下あり
設計施工:設計は三苫繁實(長野県営繕課)、施工は岡谷組
所在地:長野県岡谷市幸町8-1(岡谷市役所前)
アクセス:JR岡谷駅~徒歩約20分

旧岡谷市役所
 2016/7/2に市制施行80周年の記念事業として旧岡谷市役所庁舎が1日だけ公開されました。
通常は一般公開されておらず、現在は(公財)おかや文化振興事業団の事務所となっています。
旧岡谷市役所2
 昭和11年に平野村が岡谷市になる事となり、製糸家・尾澤福太郎が私財を投じて市庁舎を建設して市に寄付。
昭和10年6月着工、昭和11年3月に竣工、落成式が5/23に行われています。
そして昭和62年まで市役所、平成27年まで消防庁舎(岡谷消防署)として使用されました。
旧岡谷市役所・玄関タイル
玄関タイル
旧岡谷市役所・1F
左:公衆溜り                右:カウンターは増設されている
旧岡谷市役所・事務室
事務室裏手
旧岡谷市役所・便所/電話室
左:便所                    右:電話室
旧岡谷市役所・1F村長室
1F村長室(畳敷きに改修)
旧岡谷市役所・1F食堂
1F食堂
旧岡谷市役所・1F宿直室
1F宿直室
旧岡谷市役所・1F宿直室床の間
1F宿直室:立派な床の間付き
旧岡谷市役所・階段①
階段➀
旧岡谷市役所・平面図1F
1F平面図 (パンフレットより)
旧岡谷市役所・平面図2F
2F平面図 (パンフレットより)
旧岡谷市役所・2F議場
2F議場
旧岡谷市役所・古写真
議場の古写真  ※展示パネルより
旧岡谷市役所・2F議場の枠
左:議壇はなくなっている              右:丸窓
旧岡谷市役所・映写室
左:映写室                    右:屋根は鉄骨組
旧岡谷市役所・2F議場控室
左:議場控室(どの部屋も天井が高い)扉の奥は議場であったが部屋に改造している
右:腰壁の板   
旧岡谷市役所・2F貴賓室
2F貴賓室
旧岡谷市役所・2F議員室①
2F議員室①
旧岡谷市役所・2F議員室②
2F議員室②:床の間があるが畳敷きではなかった
旧岡谷市役所・2F委員室①
2F委員室①:こちらも畳敷きではなかった
旧岡谷市役所・階段②
階段➁
旧岡谷市役所・左玄関
左玄関の扉とホール
旧岡谷市役所・外壁
スクラッチタイルとボイラー用の煙突
タイルは信州・高遠町の丸千組(高遠焼)の物だという
旧岡谷市役所・外壁2


 尾澤福太郎は万延元年(1860)岡谷村で金左衛門の長男として生まれ、家業の尾澤組(カクキ)を経営。 大正12年に㈱尾澤組となった会社が、さらに片倉製糸紡績会社と合併して常務取締役に就任しました。
尾澤家は金蔵の代に坐繰製糸を成し、金左衛門が明治9年に坐繰を廃して工場を建設。 生糸の統一を計るため片倉と林で開明社を創業し、共同揚返所を設けます。 社長は片倉や林と一年交代制で務め、諏訪薪炭㈱設立、郵便局設置・中央線の開通を薦めました。
 品性高尚な母に育てられたという若い頃の福太郎については、「其豊頬愉顔なる福象は眉の間に、温良謹厚にして至誠至孝なる天然の美質は妙に其慈惰を表し、真を写して人を動かしむ。恰も鼠を捕る猫は爪を隠すと、翁に代わりて掌司す。」と表現され、弟の琢郎や亮一と共に事業を継承していたようです。(※1)
尾澤福太郎の銅像クリーニング
尾澤福太郎の銅像(岡谷出身の彫刻家・武井直也作)が武蔵野美術大学によってクリーニングされていた
マル千小口店
岡谷駅へ向かう途中にある立派な蔵を持つ店 
かつてマル千小口(岡谷市幸町6-27)という店であったようで、窯業/金属業となっている。
スクラッチタイルは使われていないが、これも丸千組と何か関係があるのだろうか?

【参考文献】
諏訪総合設計㈱HP「正博の建建諤々」(2003耐震診断)
(※1)「日本製糸業の大勢 : 成功経歴」岩崎徂堂 編 1906 博学館

【2016年7月 訪問】


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2017.
06.13
Tue
建築年:昭和7年(1932)
構 造:1階はRC造、2階は木造
所在地:東京都日野市日野本町7-12 仲田公園内
交 通:多摩モノレール甲州街道駅~徒歩約12分 or、JR日野駅~徒歩15分
公 開:年1回位(日野市が所有、日野市産業まつり等で公開)
日野桑園第一蚕室・南面
 こちらは桑や蚕の品種改良・生育研究などをしていた国立の蚕業試験場分室の建物でした。
現在は日野市所有で通常非公開ですが、仲田の森遺産発見プロジェクト等により、調査や見学会(不定期)が実施されてきました。
現在は年1回程度、11月に行われる日野市産業まつりで1階のみ公開されています。
日野桑園第一蚕室・北面
北面は窓が大きく、庇が長い
日野桑園第一蚕室・軒天
軒天に残る屋根裏換気口?
日野桑園第一蚕室
玄関
日野桑園第一蚕室・事務室
事務室
日野桑園第一蚕室・廊下
蚕室の両側にある廊下
日野桑園第一蚕室・蚕室
蚕室
日野桑園第一蚕室・炉
蚕室を暖める炉は埋薪法(薪の上に籾殻)を採用。 後に電熱線→室内ヒーター(夏は水冷)→温風機に変更
日野桑園第一蚕室・ラジエーター
ラジエーター式ヒーター(夏は水冷)
日野桑園第一蚕室・天井
蚕室天井:開口部は換気と物の出し入れ用
2階は一時、上簇(回転まぶし)の時に使用したが、それ以降は物置だった
日野桑園第一蚕室・作業室
作業室(2F大広間の物置は非公開)
日野桑園第一蚕室・作業室2
作業室:左手に火起場と桑貯蔵室、右手は蚕室
日野桑園第一蚕室・火起場
火起場にあるボイラーで湯を沸かし、蚕室のヒーターに使用
日野桑園第一蚕室・配置図
展示されていた配置図:第6蚕室(通称・かっぱハウス)は2011年に解体
日野桑園第一蚕室・図面
当初の配置図と第一蚕室1F平面図 ※展示パネルより
1Fは事務室・蚕室・作業室・桑貯蔵室・火起場(ボイラー室)
2Fは倉庫、東西方向はバルコニーになっていた(現在、西側に屋根がかかる)
日野桑園第一蚕室・庁舎跡
庁舎(竣工1936頃)の基礎跡
仲田公園・湧き水
西門付近にある湧き水:現在はポンプUPしているようで水の勢いが良い。 飲用水ではないが地元の方がペットボトルで水を汲んでいた。
精進場
近くにある精進場跡:用水の合流地点はかつて池の様になっており、参拝者が霊山へ登る前に体を清めた場所だという
日野本陣
日野宿本陣:かつて八王子千人同心が暮らしていた日野には、春日隊・新選組に関する資料館が点在する


 東京の高円寺にあった農林省『蚕業試験場』が、昭和3年頃(1928)この地に研究部門の分室と第一桑園を設置。 敷地内には調査室や寄宿舎があり、近隣には第二桑園(石田)・第三桑園(谷戸上)がある広大な試験場でした。
日野地域は地下水が高く、高温多湿・干ばつ・9月に長雨と、桑の育成にはやや不利でしたが、土壌改良と消毒効果で徐々に好転します。
 高円寺の本場『蚕業試験場』は、明治 44 年(1911)農商務省『原蚕種製造所』として設立。 大正3年(1914)農林省『蚕業試験場』になり、昭和12年『蚕糸試験場』と改称。 昭和 55年に筑波へ移転するのにともない、この日野桑園も閉鎖されました。 そして、高円寺の跡地は蚕糸の森公園となり、日野の跡地は仲田公園・仲田小学校・ふれあいホール・スポーツ公園となりました。
 かつての蚕業研究は盛んで、国立・県立・私立による蚕糸試験場と飼育所が全国各地にありました。 しかし、昭和32年からの『なべ底不況』で市場価格が暴落し、政府が生糸買い上げを行った結果、在庫を抱えて桑園の減反へと政策が変更されます。
これにより昭和33年(1958.10.1)国立の蚕糸試験場は大幅な組織改革が行われました。
◇4支場は改称(福島→東北、松本→中部、綾部→関西、熊本→九州)
◇明石支場は廃止
◇その他の支場と飼育所も廃止だが、全部又は一部の施設を利用(新庄支場→新庄原蚕種製造所、前橋支場→養蚕部、武豊支場→本場附属武豊試験地、宮崎支場→宮崎原蚕種製造所、四国飼育所→関西支場四国試験地、山川飼育所→九州支場山川試験地、小淵沢飼育所→小淵沢原蚕種製造所)
◇岡谷製糸試験所は整備強化を図る(元は日本蚕糸統制㈱の検査所であり、解散したため昭和22年に農林省へ移管)
 その後も業務変更/廃止/改称/移管が実施されるなか、日野桑園は蚕糸試験場の分室として残っていましたが、昭和 55年に本場が筑波へ移転するのにともない日野桑園も閉鎖されました。
ちなみに現在、日野桑園第一蚕室以外に公開されている国立蚕糸試験場の建物は、「前橋市蚕糸記念館」として敷島公園バラ園内に移築復元された前橋支場本館(明治44年竣工)と、「原蚕の杜」の中に現存する新庄支場の建造物一群(昭和9~12年竣工)となっています。
※岡谷製糸試験所の跡地は岡谷蚕糸博物館となり、工場では実際に稼動している製糸機械などを見学できます。
桑

【参考文献】
蚕糸研究68「蚕糸試験場日野桑園における飼育成績17年間の推移」原田忠次 著 1968 農林水産省蚕糸試験場
「農林水産省における蚕糸試験研究の歴史-Ⅷ.蚕糸試験場(昭和12年)」北村實彬・野崎稔 著 2004 農業生物資源研究所 
「旧蚕糸試験場日野桑園第一蚕室(桑ハウス)保存活用に向けた復原調査報告書-改訂版-」2015 仲田の森遺産発見プロジェクト

【2015年11月 訪問】


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2017.
05.29
Mon
建築年:明治中期、何度か改修有り
所在地:千葉県市川市国府台2丁目
交 通:JR市川/松戸駅前~和洋女子大学前バス停~徒歩約3分
公 開:年1回位(千葉県が所有し、赤レンガをいかす会が主催)
  ※詳しくはこちら⇒【赤レンガをいかす会
国府台旧陸軍武器庫1
 千葉県市川市にも赤煉瓦の建物が残っています。
近年まで旧陸軍の施設を千葉県血清製造所が使用し、各種ワクチンを研究・製造、人々の健康を守りました。
国府台旧陸軍武器庫・外壁
左:床下通気口                右:窓と庇
国府台旧陸軍武器庫・平面図
現況図(展示パネルより)
国府台旧陸軍武器庫・1F1
1F :研究所が昭和29年に冷蔵室に改装し、その後も壁天井など改修されている
国府台旧陸軍武器庫・扉1
冷蔵室の扉
国府台旧陸軍武器庫・冷蔵室扉
冷蔵庫の扉は木製だが古さは感じない
国府台旧陸軍武器庫・1F2
1F冷暗室(改装済み)
国府台旧陸軍武器庫・1F扉2
1F冷暗室の木製扉(こちらは古そう)
国府台旧陸軍武器庫・1F4
左:1階冷暗室の出入口          右:階段
国府台旧陸軍武器庫・階段
階段
国府台旧陸軍武器庫・2F
2階
国府台旧陸軍武器庫・窓1

国府台旧陸軍武器庫・窓2
窓枠
国府台旧陸軍武器庫・窓3
窓枠
国府台旧陸軍武器庫・天井
天井
国府台旧陸軍武器庫・天井2
天井の仕切り壁が紙貼り?
国府台旧陸軍武器庫・金具
壁に残る掛け釘
国府台旧陸軍武器庫・掛け杭
用途不明のフック
国府台・貯水槽
里見公園分園に残る貯水槽:かつて高台のため井戸を掘るのが大変だと云われていたので、ポンプで水を引いたのだろうか?


 明治8年、かつての国府台城跡地に大学を設置する事になり、政府は近隣一帯の土地を購入しますが、交通不便・高台のため井戸を掘るのが大変という理由で計画が頓挫。
代わりに陸軍の下士官を養成する教導団学校が、馬場先門外から移転する事になりました。 明治19年に完成した施設には、フランスの病院を視察して建設した病棟と看護術の学舎も併設されます。
その後、教導団学校は明治32年に廃止されて陸軍の施設に。 国府台衛生病院は国府台陸軍病院と改称され、戦後は国立 国府台病院となりました。
 この赤煉瓦の建物がある場所は陸軍時代、独立工兵第25連隊(工兵隊)の本拠地となり、石油を掘るため国内各地に隊員が派遣され、測量や撮影などを行ったとの事で、一部の将校も石油を掘る技術を学びに来るほど専門的な部隊であったようです。
 この地は終戦後に千葉県血清製造所が土地建物を使用しましたが、実はこの血清製造所の設立も陸軍に関係があります。
昭和19年から東京の陸軍軍医学校が各地(京都・金沢・新潟・山形・千葉)に疎開し、千葉では中山競馬場に中山出張所を開設。 免疫馬を使ったワクチンの製造を再開します。
 終戦後の昭和20年11月に国立病院へ移管されると、衛生資材は全国の研究所へ無償譲渡。 同年12月からGHQが施設を接収しますが、昭和21年2月に返還されています。
昭和21年4月から千葉県血清製造所として開設し、9月から国府台へ移転開始。 寒天・肉エキス・免疫馬を1ヶ月以上かけてトラックで運び、国府台の旧陸軍施設を厩舎と宿舎に使用。 12/24に開所式が行われました。
その当時、敷地内には木造と煉瓦造の旧陸軍施設が数棟あり、主な建物の用途(旧陸軍工兵隊→千葉県血清製造所)は…
・材料工場(木造平屋)→免疫馬の厩舎・トラックの車庫
・発動機実習棟(木造平屋)→医務室・宿舎・採血所・破傷風室など
・火力式発動機棟(煉瓦平屋)→ワクチン培養室・作業室
・写真室・充電実習棟(煉瓦2F)→事務室・所長室・研究室・講堂
◎武器庫(煉瓦2F)→昭和29年に破傷風室に改造し1F冷蔵庫・2F書類庫
・精密機械工場(木造平屋)→分注・包装室
 千葉県血清製造所は建物を増改築しながら各種ワクチンの研究・製造を行い、昭和24年に千葉県血清研究所に改称。 国へ何度も提出していた土地建物払い下げ申請が昭和38年に一括許可され、昭和41年に製造棟、昭和42年に事務・研究棟を新築。※どちらもRC造5F+B2F建て
殆どの建物は解体され建て替えられましたが、唯一この赤煉瓦(武器庫)の建物だけが残りました。
 千葉県血清研究所は、とても有能な天然痘ワクチン「LC16m8」を開発しますが、天然痘自体が撲滅されワクチンも世に出回わらず、平成14年(2002)血清研究所が閉鎖。 同年10月に千葉県衛生研究所が業務を引き継ぎますが、この地はそれ以降ほとんど使用されていません。
しかし、この建物の保存を願う『赤レンガをいかす会』主催により年1回、赤煉瓦の建物が公開されており、年々 見学者が増加しているようです。
国府台旧陸軍武器庫2
【参考文献】
「市川市史. 第3巻 (近代)」市川市史編纂委員会 1975 市川市  
「市川市国府台における砲兵隊・工兵隊の記録」武井順一著 1997
「千葉血清五十年史」千葉県血清研究所 1997

【2015年11月 訪問】


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2017.
05.14
Sun
建築年:昭和8年(1933)、何度か改修有り
設計施工:不明
所在地:神奈川県藤沢市鵠沼橘1-14-7
交 通:JR藤沢駅~徒歩約8分
見 学:市民専用のため通常非公開。 イベント時のみ公開
  ※所有はこちら⇒【藤沢市
旧後藤医院
 この建物は2008年から藤沢市が借り受け、「鵠沼橘市民の家」としてOPEN。 2013年に所有者から藤沢市へ寄付されました。
後藤医院鵠沼分院は、東京の後藤医院の長男・秀兵が昭和8年(1933)開業。 その後、高齢になったため閉院し、昭和46年(1971)院長が他界した後は親族が別荘として使用していました。
旧後藤医院・玄関
玄関
旧後藤医院・待合室2
玄関内部
旧後藤医院・待合室1
待合室
旧後藤医院・排気口
待合室にある天井排気口(右:戸を開ける紐)
旧後藤医院・薬局
受付・薬局の内部
旧後藤医院・検査所
待合室の奥にある検査所
左:棚の上にはガス栓         右:謎の小部屋(パイプはスチーム暖房の配管)
旧後藤医院・旧診察室
診察室は和室に改装
旧後藤医院・応接室
応接間
旧後藤医院・居間
居間も改装済み
旧後藤医院・廊下1
十字路になった廊下は天井が高く、交差点にも天井排気口がある
右:居間後方の廊下 (この建物は外部との出入口が計4ケ所)
旧後藤医院・平面図
旧平面図を元に描いたと思われる図面(地内排水管改良工事 H11)
旧後藤医院・トイレ
もう一方の十字路の奥にあるトイレは様式に変更済み
旧後藤医院・台所建具
台所:勝手口扉の窓は開くことができる
旧後藤医院・窓
窓は二重になっており窓の上下に通気口
旧後藤医院・掃き出し窓
窓下の通気口を兼ねた掃き出し口(ほうきの掃除用)の戸は上開き・横開きがある
旧後藤医院・窓1
外部は上げ下げ窓で内部は引違窓になっており、2枚のガラス窓の間には通気口とロールカーテン
旧後藤医院・痰壺
左:当初からの物と思われる水洗式痰壺で縁から水が流れる     右:東洋陶器(現:TOTO)のマーク
かつては所かまわず痰を吐く人が多く、公共空間に痰壺が設置される事が多かった。
旧後藤医院・設備
左:ラジエーター式スチーム暖房  
右:廊下の床板一部は点検用に外せるようになっている。 排水溝? それとも床下換気用の導気溝?
旧後藤医院2

 院長・後藤秀兵は、解説板によると明治21年(1888.3.18) 後藤瞭平の長男として生まれ、東京帝国大学医学部卒業後、実家の医院で経験を積み、昭和8年(1933)藤沢で開業、昭和30年代後半から閉院、昭和46年(1971.9.23)他界となっています。 
 東京の後藤医院長で父親の後藤瞭平は明治元年(1868)群馬県高山村で生まれ、慈恵医学校卒業後に、母校の附属病院及び日本郵船の船医として勤務(※1)、明治35年4月に小石川区駕籠町113番地にて『後藤医院』を開業していますが、昭和20年3月に戦争で建物が焼失しています。
 さらに調べてみると同一人物かは不明ですが、後藤秀兵(群馬出身)なる人物がいて、東京帝国大学医学部を大正10年に卒業(※2)しており、衛生室の研究員をしていたようです。 その頃に住宅について衛生面から幾つか雑誌に記事を書いています。
 三越の記事(※3)を要約すると… 実験上、空中の細菌濃度は床面付近が一番であるから、床面に座る・眠る、汗などで汚れた畳に両手をついて礼をする事は、病原菌の体内侵入にしばしば好機会を与える事になる。 日本住宅の欠点としては、不完全採光・室内温度調節困難・湿気対策の不備・換気不足・天井裏の清掃不能・太陽輻射熱に対する無抵抗・不便な雨戸・家屋内の音波及などである。 改善策としては伸縮着脱可能な庇や、熱伝導率の低い天井床材、熱容量の小さい壁で造作し、外気導入口・高い窓や二重窓・ドイツ式暖炉などを設け、床下の空気を上昇管によって屋外に排出する…と提唱しています。
この記事を書いた後藤秀兵は、後藤医院鵠沼分院の医院長であると確定できませんが、この建物には大きな天井排気口が数か所、二重窓やスチーム暖房など、この提唱に通じる特徴を備えています。
 同じ時代に京都帝大教授で建築家・藤井厚二も住宅改善に取り組み、自邸を5軒建て検証していました。 最後の自邸である聴竹居にも外気導入口・天井排気口が設けられ、通気を重視しています。 これらの造作は夏の暑さを凌ぐ効果がありますが、後藤医院鵠沼分院では結核などの感染予防を兼ねた物なのかもしれません。

【参考文献】
(※1)「日本医籍録. 昭和17年版」 医事時論社
(※2)「東京帝国大学一覧. 大正10年~11年」 東京帝国大学
(※3)三越23-4「衞生と日本家屋」後藤秀兵 著 1933 三越

【2015年11月 訪問】


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2017.
04.30
Sun
建築年:昭和3年(1928)竣工
設計施工:設計は藤井厚二、施工は酒徳金之助
所在地:京都府乙訓郡大山崎町
交 通:JR山崎駅 or、阪急大山崎駅~徒歩約10分(上り坂)
見 学:水・金・日曜日の時間限定で予約受付(人数制限あり)
 ※詳しくはコチラ⇒【聴竹居
聴竹居・サンルーム
藤井厚二の自邸・聴竹居では、藤井夫妻+子供3人+女中1人(計6人)が暮らしました。
細かいところまで工夫された空間と、当時の最先端である住宅設備を見てみましょう。
聴竹居・居間
居間:天井は杉柾板+鳥の子紙貼 
聴竹居・客間
客間:床面を広く、床の間を深く見せるため、落し掛けの位置より床の間の奥行を狭くしている。
部屋の片隅に蓄音機も設置
聴竹居・読書室
読書室:藤井と娘2人の机があるが、藤井は閑室にいる事が多かった
聴竹居・食堂
食堂:自邸2~3軒目の食卓は畳坐+椅子の併用、それ以降は椅子+ベンチに変わっている
聴竹居・流し
台所の流しと生ゴミのダストシュート  ※外部の様子はコチラを参照⇒【聴竹居①
聴竹居・冷蔵庫
電気冷蔵庫(右の写真はスイッチ)
上部に載っているモーターは、スイスのエッシャー・ヴィス社(Escher Wyss & Co.)製で、戦艦のタービンも作っていたメーカー
聴竹居・分電盤
分電盤:全室に電灯とコンセント、浴室にはシャワー用貯湯式電気湯沸し器を設置
ところが戦時中は電気もそれほど使えず、座敷3帖の上り框に襖を入れて火鉢を使っていたとの事
聴竹居・浴室
左:浴室           右:シャワーは貯湯式電気湯沸し器
聴竹居・便器
高島製陶の便器:大正4年(1915)9月に瀬戸で高島製陶が設立され、衛生陶器などを製造。
千葉の化研病院恩賜館にも同じメーカーの便器が現存している。
高島製陶にて徴用された人の話(※1)によると、戦時中に高島製陶は軍需工場となり、B5の紙より少し大きめの薄い磁器板を生産。
それは隔膜という物で、ロケット部品に関係があったという。
聴竹居・換気
上:居間座敷下の導気口         下:サンルームの天井排気口
木陰のある箇所に外気取入口を設け、導気口を通して室内に涼風を取り入れていた。
台所や廊下などにも天井排気口がある。


 現在、藤井厚二の設計の住宅で見学可能なのは、聴竹居(この建物)・後山山荘(鞆の浦・旧くろがねや別荘)・八木邸(寝屋川)となっており、藤井厚二の住宅志向を感じる事ができます。

【参考文献】
「床の間」藤井厚二 著 1934 田中平安堂
「聴竹居 実測図集」竹中工務店設計部 2001 彰国社
「聴竹居に住む : モダニストの夢」 高橋功 著 2004 産経新聞ニュースサービス
「聴竹居 : 藤井厚二の木造モダニズム建築」松隈章 著 2015 平凡社
※1)瀬戸地下軍需工場・戦時下の証言「海綿鉄について」加藤琢也 → 瀬戸地下軍需工場跡を保存する会HP

【2015年月10月 訪問】


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